Blue Noteで、ピンク マルティーニのショーを観たときのことだ(その記事はコチラ)
夫の父は旅行中で留守で、夫と私とシュートメ3人は6人がけのテーブルにいた。
食事も終わり、開演まで間近というときになって、お店の人が「合席でもいいか」と聞き、
中年の中国系アメリカ人男性がひとり、あいた椅子に座った。
メニューを見、飲み物を注文すると、
「ぼくの名前はアル、はじめまして」
と言って、その人はさわやかに手を差し出した。
カリフォルニアから来て、ハワイには24年住んでいるという。
自己紹介しあって、そして会話が弾むというのでもなく、けれどぎこちない空気でもなく、
いつでも話しかけられる気安さが、そこに生まれる。
アメリカでは、あまり合席になるという場面はないが、それでもたまにそうなったとき
笑顔で一言二言かわし、適度な距離をおきつつなごやかさも忘れないアメリカ人の国民性に感動すらする。
そして私はいつも日本の蕎麦屋を思い出すのだ。
その蕎麦屋は美味しい蕎麦を出すのだが、いつ行っても混んでいる。
狭い店でもあり、昼時に行くと、ほぼ合席になる。
なるべく時間をずらして行くようにしていても、それでも合席になることがある。
あれはまだ最初の結婚時代の話。
4人がけのテーブルに先に座っていた私達に軽く会釈をして、似たような年齢の夫婦が座った。
二人はひそひそとメニューを相談し、注文をした。
蕎麦屋の小さいテーブルは、あまりに彼らとの距離が近すぎる。
聴きたくなくてもひそひそ声まで聞こえてしまう。
「ほら おかあさんの、あれ、どうする」
「べつに今日でなくても、さ」
「でもすぐ□△の学校が休みになるから」
12月でもあり、クリスマスか誕生日のプレゼント、もしくはお歳暮か。
私達夫婦はもとよりそれほど会話があったわけでもなく、いじる携帯電話なども持ってなく
正面を向けばその夫婦、目をそらせば隣のテーブル。
飲みたくもないお茶を何度もすすりながら、蕎麦が早く運ばれてこないかと思う。
向こうも私達に目を合わせないようにしているのがわかる。
向かいの夫婦をじろじろ見ることもできず、七味の容器の蓋を取っては閉め、割り箸を二人分揃えてみたり
テーブルの隅の汚れをこすってみたり、間がもたないことこの上ない。
ダンナはサラリーマン、妻は専業主婦だがマンションのローンがあるのでパートに出ようと思っている、
子供は中学生ぐらいのが二人、親は電車で移動できる範囲内に住んでいる・・・
妄想が広がったところに、ようやく蕎麦が運ばれてきた。
私達のあとにすぐ、彼らの蕎麦もやってきた。
すると店員は、薬味のネギがこんもりと入ったカゴを1つだけ、テーブルの真ん中に置いた。
さあ、誰が先にネギを取る。
4人の遠慮がちな視線がネギに集まり、しかし誰もネギを取らない。
意を決して私がネギを割り箸の反対側を使って取り、前夫にすすめ、カゴを向こう側にそっと押しやった。
夫婦はちょっと会釈して、仲むつまじくネギを取り合う。
4人が、蕎麦をたぐる音にも神経を使いつつ無言で蕎麦をすする。
とにかく早く食べ終えて、ここを出たい一心。
蕎麦を詰め込み、代金を払い、逃げるように外に出てどっと疲れて息をつく。
これだから合席は好きじゃない。
相手がいても、いないかのごとくふるまっているのに、
心では思い切り相手を意識しまくっている、その気詰まりさ。
見知らぬ人と会話が弾むタチでもなし。
一度、「お買い物ですか」と声をかけてみたことがあった。(即座に後悔した)
相手はちょっととまどってから、「ええ」と言い、それっきり。
繁華街で、買い物した袋を抱えて、「お買い物ですか」もなにもあったもんじゃないと自分にツッコミ。
合席は困ると言える雰囲気でもなし。
だいたい、そういう店に二人で行くと、最初から4人がけのテーブルに横並びに座らされる。
しかし私は思うのだけれど、カップルが向かいあったほうが、まだ居心地はマシなのだ。
アメリカで合席になったとき、何か言おうか逡巡している少しの間に、相手がアメリカ人だと大抵先を越される。
合席ばかりじゃない。
公衆の中で偶然目があっただけでも、多くの人がにっこりと笑う。
人口過密な日本の、満員電車で、屋根がひしめきあった家同士で、高層マンションで、
私達は他人に干渉しない、という日本人なりの礼儀をすっかり身につけてしまった。
あるときは、それは心地よいものであることは確かだけれども、
「アロハ!」
と声をかけても無視してゆく日本の人たちを見ると、照れなのだとわかっていてもなんだか寂しいもんだなあと思うのである。
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夫の父は旅行中で留守で、夫と私とシュートメ3人は6人がけのテーブルにいた。
食事も終わり、開演まで間近というときになって、お店の人が「合席でもいいか」と聞き、
中年の中国系アメリカ人男性がひとり、あいた椅子に座った。
メニューを見、飲み物を注文すると、
「ぼくの名前はアル、はじめまして」
と言って、その人はさわやかに手を差し出した。
カリフォルニアから来て、ハワイには24年住んでいるという。
自己紹介しあって、そして会話が弾むというのでもなく、けれどぎこちない空気でもなく、
いつでも話しかけられる気安さが、そこに生まれる。
アメリカでは、あまり合席になるという場面はないが、それでもたまにそうなったとき
笑顔で一言二言かわし、適度な距離をおきつつなごやかさも忘れないアメリカ人の国民性に感動すらする。
そして私はいつも日本の蕎麦屋を思い出すのだ。
その蕎麦屋は美味しい蕎麦を出すのだが、いつ行っても混んでいる。
狭い店でもあり、昼時に行くと、ほぼ合席になる。
なるべく時間をずらして行くようにしていても、それでも合席になることがある。
あれはまだ最初の結婚時代の話。
4人がけのテーブルに先に座っていた私達に軽く会釈をして、似たような年齢の夫婦が座った。
二人はひそひそとメニューを相談し、注文をした。
蕎麦屋の小さいテーブルは、あまりに彼らとの距離が近すぎる。
聴きたくなくてもひそひそ声まで聞こえてしまう。
「ほら おかあさんの、あれ、どうする」
「べつに今日でなくても、さ」
「でもすぐ□△の学校が休みになるから」
12月でもあり、クリスマスか誕生日のプレゼント、もしくはお歳暮か。
私達夫婦はもとよりそれほど会話があったわけでもなく、いじる携帯電話なども持ってなく
正面を向けばその夫婦、目をそらせば隣のテーブル。
飲みたくもないお茶を何度もすすりながら、蕎麦が早く運ばれてこないかと思う。
向こうも私達に目を合わせないようにしているのがわかる。
向かいの夫婦をじろじろ見ることもできず、七味の容器の蓋を取っては閉め、割り箸を二人分揃えてみたり
テーブルの隅の汚れをこすってみたり、間がもたないことこの上ない。
ダンナはサラリーマン、妻は専業主婦だがマンションのローンがあるのでパートに出ようと思っている、
子供は中学生ぐらいのが二人、親は電車で移動できる範囲内に住んでいる・・・
妄想が広がったところに、ようやく蕎麦が運ばれてきた。
私達のあとにすぐ、彼らの蕎麦もやってきた。
すると店員は、薬味のネギがこんもりと入ったカゴを1つだけ、テーブルの真ん中に置いた。
さあ、誰が先にネギを取る。
4人の遠慮がちな視線がネギに集まり、しかし誰もネギを取らない。
意を決して私がネギを割り箸の反対側を使って取り、前夫にすすめ、カゴを向こう側にそっと押しやった。
夫婦はちょっと会釈して、仲むつまじくネギを取り合う。
4人が、蕎麦をたぐる音にも神経を使いつつ無言で蕎麦をすする。
とにかく早く食べ終えて、ここを出たい一心。
蕎麦を詰め込み、代金を払い、逃げるように外に出てどっと疲れて息をつく。
これだから合席は好きじゃない。
相手がいても、いないかのごとくふるまっているのに、
心では思い切り相手を意識しまくっている、その気詰まりさ。
見知らぬ人と会話が弾むタチでもなし。
一度、「お買い物ですか」と声をかけてみたことがあった。(即座に後悔した)
相手はちょっととまどってから、「ええ」と言い、それっきり。
繁華街で、買い物した袋を抱えて、「お買い物ですか」もなにもあったもんじゃないと自分にツッコミ。
合席は困ると言える雰囲気でもなし。
だいたい、そういう店に二人で行くと、最初から4人がけのテーブルに横並びに座らされる。
しかし私は思うのだけれど、カップルが向かいあったほうが、まだ居心地はマシなのだ。
アメリカで合席になったとき、何か言おうか逡巡している少しの間に、相手がアメリカ人だと大抵先を越される。
合席ばかりじゃない。
公衆の中で偶然目があっただけでも、多くの人がにっこりと笑う。
人口過密な日本の、満員電車で、屋根がひしめきあった家同士で、高層マンションで、
私達は他人に干渉しない、という日本人なりの礼儀をすっかり身につけてしまった。
あるときは、それは心地よいものであることは確かだけれども、
「アロハ!」
と声をかけても無視してゆく日本の人たちを見ると、照れなのだとわかっていてもなんだか寂しいもんだなあと思うのである。
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