2016年9月21日に皇太子夫妻が、東京都杉並区の特別養護老人ホーム第三南陽園を訪れた、という記事が新聞に載った。
天皇、皇后が長年続けてきた「敬老の日」にちなむ訪問だという。それを今年は皇太子夫妻が初めて引き継いだのだそうだ。
疑問に思う事を書いてみたい。
まず、天皇家の公的行為として訪問する事が、「慈悲(同情)の押し売り」である事に気付くべきである。また、「慈悲(同情)」行為自体が本来は「差別行為」と等しいものである事に気付くべきである。「慈悲(同情)」は「愛情」ではない。だから、天皇家の「慈悲(同情)」行為を誰もが有難く受け入れるとは限らない。しかし、天皇家は国民の誰もが受け入れるものと思い込んでいるようであるが、天皇家はそれがいかに「傲慢」な態度であるかに気付くべきである。こういう態度を「押し売り」というのであるが、人間はこれほど不愉快で拒否したい行為はないという事に気付くべきである。人と人との間の愛情は、共に喜怒哀楽を生きる中で互いに理解し合う事によって育まれるものである。
天皇家は、このような「慈悲(同情)の押し売り」訪問をする事よりも、高齢社会の日本で、さまざまな生活状態にある高齢者自身はもちろんの事、それを支え介護する家族の苦悩や困難、また施設などの介護士の苦悩や困難など社会保障制度について、考え問題を解消するために尽力する事こそ必要な事なのではないか。自らは何の不自由もない安心できる生活(安全地帯)に身を置き、自身の思惑で各地を訪問する、それも多額の税金を費やして行っている、これほどおかしな事はないだろう。思惑に適わない事はしないという事を見ても、ご都合主義としかいえない。天皇家にとって、芸能界の芸能人の発想と同様で、自己アピールという点で意味があるだけで、国民にとって全く無意味で迷惑、有害でさえあるこのような訪問はやめるべきである。
次に、昨年まで、つまり、天皇が80歳を超えてまで、訪問を続けていたという事についてであるが、これはおかしな事ではないだろうか。なぜなら、天皇自身がすでに「敬老の日」に祝される立場になっているにもかかわらず、なぜ訪問を続けてきたのかという事である。我々庶民の感覚ではありえない事である。そこには天皇家の計算された思惑を感じざるを得ない。
また、今年は、皇太子夫妻が引き継いで訪問したという事であるが、他人の親や祖父母を、それも見ず知らずの人々であるにもかかわらず訪問するのではなく、自分の親、つまり年老いた天皇皇后と共に時間を過ごす事が自然であろう。これも計算された思惑があり、芸能人感覚のパフォーマンスと言わざるを得ない。
天皇家の公的行為には、天皇家にとっては意味があるが、国民にとっては無意味なものが多く、税金が無駄遣いされている。
天皇の「生前譲位の言葉」の中にある、「我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごしてきました」とか、「事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」とか、「国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました」とか、「どのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう」という言葉が、その行動を見ていれば見ているほど、国民にとってはいかに内実の伴わない口先だけの、美辞麗句であり、いかに天皇家の保身を第一に考えている事か、と感じるのは私だけであろうか。