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情報の統制と一元化を目論む籾井氏、敗戦までの日本放送協会への回帰めざす

2024-09-10 21:15:50 | メディア

 熊本地震で、関連する原発に関する報道について、4月20日開催の「災害対策本部会議」での籾井勝人NHK会長の指示内容が問題となっている。それは、

○「住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えてほしい」

○「当局の発表の公式見解を伝えるべきだ。いろいろある専門家の見解を伝えても、いたずらに不安をかき立てる」

また、「被災地で自衛隊が活動するようになって物資が届くようになった事なども報じるように」と発言。その際の「公式発表」とは「気象庁原子力規制委員会九州電力が出しているもの」とした。

また、26日の衆院総務委員会の民進党奥野総一郎氏の質問に答えて、

○「事実に基づいて、モニタリングポストの数値などを、我々がいろんなコメントを加味せずに伝えていく」

○「指示」については、「原子力規制委員会が安全である、あるいは続けていいという事であれば、それをそのまま伝えていくという事。決して、大本営発表みたいな事ではない」と説明した。

 このような籾井氏の姿勢に対して、専門家の間から批判がなされている。例えば、「住民に安心感を与えるためとしているが、それは視聴者を馬鹿にしており、視聴者は政府や企業などが公式に与える情報だけでなく、様々な情報を得て正確な判断をする材料としたいと考えている」とか、「政府などの公式見解が出るまではNHKは報道しないという事で、編集権の放棄で、報道機関としての自殺行為ではないか」とか、「ジャーナリズムの役割を理解していない、公式発表を伝える事がメディアの役割だとすれば、広報だと思っているに等しい」などである。

 籾井氏に対するこれらの批判はまったくその通りであると思う。しかし、籾井氏にとって、今回の指示発言や姿勢への批判は痛くも痒くもないのである。私たちはもう一歩先にある籾井氏の目論見を見通しておかなければならない。それは、籾井氏の最終目的が、敗戦までの政府の広報機関であった「日本放送協会」への回帰であり、国民へ伝え知らせる「情報の統制と一元化」を図ろうとしているという事である。彼は今回も意図的に指示を出しているのであり、単に能力や資格がないというレベルの問題ではなく、「確信犯」なのだという事を我々はくれぐれも理解しておかねばならないのである。そしてさらに、そのような人物をどのようにして失脚させるかを早急に考えなければならない事を明確に示されたという事なのである。

 NHKによる「情報の統制と一元化」を実現するためには、民放メディアへの統制も必要であるが、それを進めているのが「高市早苗総務大臣」なのである。民放メディアに対し、「放送法第4条」の「政治的中立・公平」を安倍政権に都合よく解釈し圧力をかける事によって日本人の精神性に働きかけ「自主規制」させる手法を取って進めているが、籾井氏と連携してそれぞれの役割を遂行し、NHKによる「情報の統制と一元化」を達成しようとしているのである。国民にとって非常に深刻な事態となっているのである。

 神聖天皇主権大日本帝国政府下における臣民(国民)の自由と権利を奪う手法には4つあった。それは、①弾圧立法、②教育、③暴力、④言論の自由の抑圧と情報の一元化、である。安倍自公政権はそれらを現在着々進めそして加速させている。

(2016年5月2日投稿)

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司馬遼太郎「坂の上の雲」の目的は歴史事実の書換、NHKテレビ放映は国民への刷り込み

2024-07-27 23:57:12 | メディア

※司馬遼太郎記念財団が2023年1月11日、生誕100年を迎えて、好きな作品のアンケート結果を発表した。トップ3は『坂の上の雲』『竜馬がゆく』『燃えよ剣』であったという。しかし、『坂の上の雲』の内容は歴史事実を伝えたものではないし、歪曲したものでもある事を承知しておくべきであり、正確な歴史を知ろうとする人は研究書によるべきである。

 『坂の上の雲』については歴史の事実を歪めた問題作として批判本がたくさん出版された。さらに、そのように批判されたものでありながら、1996年司馬氏の死後、NHKテレビが、「韓国併合」100年前後の2009年から2011年までの3年間も、放映し続けた過去があり、それに対する批判も起こった。にもかかわらず、2020年7月22日朝日新聞「時代の栞」が取り上げていた。見出しを「小説の枠を超え歴史観に影響」「明治期の軍人と政治家のリアリズム」などとして。記事内容は総花的で色々網羅し支離滅裂的で、朝日新聞として『坂の上の雲』の内容がかつてどのような問題点を指摘され批判が起きたのかを具体的に示そうとしたものではなく、また、かつての批判の重視すべき点を、読者に具体的に分かりやすく伝えようとする使命感や責任感を感じさせるものではなかった。「物語」として創作する司馬氏の力量が優れていると讃えるものであったり、彼の歴史認識やこの作品への「批判」をかわす事を意図しているためなのか、司馬氏本人のものの見方考え方や言葉に基づかず無視して、手前勝手な主観的なピントの外れた決めつけ思い込みによる「作品」への称賛の批評などであった。これでは読者(主権者国民)は歴史認識を培う上でこの記事から得るものは乏しく、結局「ただのゴミ」記事でしかない。

 司馬氏は「日露戦争は日本の祖国防衛戦争であり、であればこそ民族をあげて戦い抜きつつある」と書き、「あとがき」には「この作品は、小説であるかどうか、実に疑わしい。事実100%だ」と書いている。しかし実態は、歴史の事実を書き換えたり書かなかったりして捏造したものを歴史事実であると強弁したのである。そしてまたその事については晩年、たとえば「自分の韓国の描き方にははっきり問題があった」とする文章を残している。またそれに関連して司馬氏は、「自分の『坂の上の雲』は映像化しないように」と強い遺言を残していたのであるが、NHKは放映したのである。これは偏向した政治的意図をもって行ったものと言って良い。

 さて、この作品は日露戦争をモチーフにしたもの(司馬本人は歴史事実と言っているが、捏造し美化したものである)でありながら、歴史上の大事件には触れていない(事実の隠蔽)。また、触れても書き換えている。それをいくつか紹介しよう。

 まず、「日露戦争は日本の祖国防衛戦争であり、であればこそ民族をあげて戦い抜きつつある」と書くが、明治天皇詔勅で「韓国自存のための戦争だ(韓国目的のための戦争)」としており事実と異なり、司馬氏は捏造美化している。

 神聖天皇主権大日本帝国政府が欧米列強から不平等条約を押し付けられた事は書いてあるが、帝国日本による朝鮮植民地化(韓国併合)の第1歩である江華島事件を軍事的圧力を背景に計画的に起こし日朝修好条規を押し付けた事については書いていないしNHKテレビ放映でも触れていない。

 日清戦争は、日本軍が朝鮮王宮景福宮を占領する事から始まるが、作品では王宮占領2日後の話だけを書いている。旅順市民虐殺について「作品」は「旅順は二度(日清・日露)にわたって日本人の血を大量に吸った」「日本は日露戦争を通じ、前代未聞なほどに戦時国際法の忠実な遵法者として終始した」「日本兵は私有物を盗まなかった」「日本人が日清戦争や北清事変を戦った時、軍隊につきものの略奪事件は一件も起こさなかったという事が、世界中の驚きを誘った」と書いている。現実には1万人以上の市民を殺害し、欧米から批判を浴びたが作品はその事実を隠蔽した。

 三国干渉後、朝鮮政府(閔妃政権)はロシアに接近ため、それを恐れた神聖天皇主権大日本帝国政府は閔妃(高宗の王妃)虐殺事件を起こした。これは川上操六(陸軍参謀次長)が陸奥宗光や伊藤博文の了解を得て、三浦梧楼朝鮮公使に命じたもので、公使館守備隊を連れて景福宮に乗り込み実行した事件であった。ニューヨーク・ヘラルド紙などが批判報道したが、日本の裁判所は無罪とした。この事も「作品」では書いていない。NHKテレビ放映ではテロップで1行だけ流した。しかし、閔妃ではない写真を使用していた。また、NHK出版『坂の上の雲』ガイド本では、日本人の犯行であったにもかかわらず、韓国関係者の犯行であると解説し罪を頬かむりしている。

 日露戦争における日本海海戦については、「日本人が勝った。それをアジア人が喜ぶべきなのに喜ばなかった」と書いている。

 ポーツマス講和条約の第1条こそ、日露戦争の最重要の目的であったが、その第1条には「ロシアは韓国に対する日本の指導・保護・監理を承認する」とある事からも、司馬氏のいう「祖国防衛戦争」ではない事は明らかであるが、「作品」はそれを読者や視聴者に欺瞞隠蔽している。

 また、日露開戦直後に大韓帝国(1897年国号を改めた)政府は局外中立声明を出したが、神聖天皇主権大日本帝国はそれを無視し、1904年2月「日韓議定書」を強要締結させ、「大日本帝国軍による領土使用」を承認させた。1904年8月には第1次日韓協約「財政・外交については、日本及び日本人の推薦する外国人を顧問として迎える事、また外交については日本政府と協議すべき事」を強要締結させた。また、1905年11月には第2次日韓協約で「韓国の対外関係は日本の外務省が処理(外交権の剥奪)、統監府(初代統監・伊藤博文)を設置」を強要締結させたが、「作品」は一切書いていない。

※韓国併合への経緯については別稿カテゴリー「朝鮮問題」を参照してください。

(2020年8月3日投稿)

 

 

 

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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は死直前、大日本帝国の将来について悲観

2024-06-22 23:48:58 | メディア

ラフカディオ・ハーンは大日本帝国の国籍を取得するため日本人名を「小泉八雲」とした。彼は1904年4月に出版した『怪談』で日本国民に知られた人物であるが、彼の死の直前の大日本帝国の将来についての、今日の国民にほとんど知られていない「言葉」を紹介したい。

○1850年6月、ギリシャで生まれた。父はアイルランド人、母はギリシャ人。

○少年時代には不幸が相次いだ。両親の離婚、事故による左眼失明(16歳)、父の旅先での死、経済上の理由での退学。

○ロンドンに出て造船所で働き、華々しい産業革命の陰で陽の当たらない生活を送る人々の中で成長。

○1869年、ロンドン又はフランスのル・アーブルから移民船「セラ号」に乗って、無一文でアメリカへ渡り、移民列車で、多くのアイルランド人が住んでいたオハイオ州のシンシナティへ行く。19歳。そこで、給仕、廃品回収業、行商、電報配達員、ビルのガラス磨きなどの職を転々とした。

○産業革命後の資本主義経済に抑圧された立場から、資本主義の暗黒面への批判や文明化への疑問を持つようになる。

○1877年、ニューオリンズへ移り(27歳~37歳までの10年間)、文才を認められ新聞記者(1878~1881年)となる。『デイリー・シティ・アイテム』新聞社で准編集者となった。挿絵を入れた、アメリカで最初の新聞風刺漫画も書いた。仏文学の翻訳もし、ゾラ(仏の自然主義作家、94~99年ドレフュス事件)やモーパッサンの作品を通じ、益々文明社会への批判を強めた。『タイムズ・デモクラット』紙の文芸部長となり、評論と翻訳を中心とする文学的な記者として活躍。

○同時に素朴な民族や国へのあこがれを抱く。ニューオリンズで開かれた博覧会(1884~85年)で日本館の出品物に触れ、日本へ強い関心を寄せた。ニューオリンズと松江市とは友好都市提携している。

○1890年(40歳)、来日(米新聞記者として日本を紹介するため)。

○島根県松江の中学校の英語教師となる。

○1891年、松江の「小泉セツ」と結婚。セツは没落武家の娘でハーンのところへ奉公に来た。父母の反対で入籍せず。

○1892年、熊本へ、その後神戸、東京へ。東京帝大や早稲田専門学校(1902)にも出講。神戸ではジャーナリストとなり、英字新聞「神戸クロニクル」を発行し、大日本帝国政府に警鐘。1894年12月(日清戦争開始後)の論説では日本軍の戦闘について、「女性や子どもに対する不必要な残虐行為である。大日本帝国政府の報復行為は言い訳できない」と論じた。熊本では第五高等中学校で英文学を教授。熊本市内の「富岡写真館」で夫婦の写真を撮影。東京帝大時代に『怪談』出版(1904年4月)。

○1896年、子どもも生まれ、大日本帝国の国籍取得。長男一雄誕生。ラフカディオの「カディオ」からとった。小泉家に婿入り。大日本帝国の国籍取得のため日本人名を「小泉八雲」とした。「八雲」は古事記からとった。

○1904年、日露戦争(04年2月開戦)中に54歳で急死。

 死の直前の論文『産業の危機』で大日本帝国の将来を悲観した。

 「この調子では大日本帝国はもはや、果てしない戦争に突入していって、最後には破滅するのではないか……」と。

○彼は、出雲大社よりも、松江藩主の守り神であった「城山稲荷神社」(1638年、松平直政が火難除けとして城内に建設)の「石きつね」を好んだ。

(2024年6月22日投稿)

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5・15事件裁判における弁護士の言葉と軍部のファシズム化推進

2024-06-08 15:09:36 | メディア

 5・15事件(1932年)に関する記事が解禁されたのは1933年5月17日であった。事件の裁判が開かれ、その陳述の内容や様子を新聞が大々的に報じた。報じられた記事からは当時の臣民(天皇の家来の意。現国民)が置かれた生活状況社会状況認識状況がうかがわれる。今日、自公政権の専横の下に生活する国民にとって、日本を人権が尊重される民主的で生活しやすい国にするために参考になる部分があるので紹介したい。

1933年8月5日『大阪時事新報』では、

政党財閥特権階級軍閥等が悪いということも国民周知の事実だと考えて居った、……選挙はすべて買収選挙である、五当三落という言葉がある、五万円あれば当選三万円では落選の意味である。又三番ともいう。一番は鞄二番は地盤三番は看板の意である。……六十四議会(1932.12.26~33.3.25)における労働組合法案の運命を引例し資本家の圧迫により法案が骨抜きにされたこと……など暴露し、更に政友会の三井民政党の三菱等の腐敗政党地方自治破壊内閣更迭毎に繰返される地方長官更迭等幾多の事例を挙げて政党の罪悪を数え疑獄事件の続発をなげき/西園寺は維新の元勲であるが政民両党の二大政党の間にあってキャスチングボートを握り政党財閥の原因をなしているもの」

 1933年8月23日『神戸又新日報』では、

「山田弁護士 我国は由来国危殆に瀕する際は或は中大兄皇子現れ、或は楠木氏の忠節あり之れは国体の然らしめる所且つ又世界に冠絶する所以にして被告等の行為は又この一であると断じ……国家官吏を政党の奴僕となしている現状を縦横無尽にこきおろし政党政治否認論に及ぶ、更に進んではかかる政党の腐敗、堕落の根本多数党による政権の把握に原因し多数党となるための金員のかき集め、ひいて財閥との結託こそ政党政治腐敗の根本原因であると喝破……。山田弁護士は赤穂浪士の例を引き本件の行為と義挙について縷々陳述、更に犬養首相の壮烈なる最後ならびに首相を倒した被告などが敵を激賞せる心情を言々火の如き熱弁を以て述べ山岸中尉の法廷において口吟んだ句(来ん春を待たで散りにし人柱 今日は何処で国をみまもる)を涙にむせびながら読み上げれば満廷にはすすり泣きの声さえ洩れ、西村裁判長双頬にあふれる涙も僅にこらえる、更に進んで坂本龍馬の最後を説き、烈々火を吐き流汗淋漓ぬぐおうともせず被告のため論じ……被告の行為は一命を投出してなしたるものでかくの如きはまねてなし得る行為ではない、形式論を斥け進んで天誅論に入り刑は天刑をもって貴しとなし天刑とは輿論であるとて澎湃たる全国的減刑運動に言及し、正午再び休憩に入る」

海軍側の判決は1933年11月9日に出された。それについて11月10日『時事新報』では、

「被告人等は我国現下の情勢を目し国民精神頽廃し建国の本義日に疎んぜられ所謂支配階級たる政党財閥特権階級腐敗堕落して国家観念に乏しく相結託して私利私欲に走り……農村の疲弊思想の悪化を招く等事態憂慮に堪えざるものある……帝国は千九百三十六年の交に於て未曾有の難局に逢着すべく……合法的手段を以てしては到底焦眉の急に応ずるの遑なきものと認め遂に一切を超越して直接行動に訴うる已むなきを決意し自ら国家革新の為の捨石となりて先ず此等支配階級に一撃を加え其の反省を促すと共に一般国民を覚醒奮起せしめ以て国家革新の機運を醸成せんことを期するに至れり」

(判決)

陸軍側被告への判決(1933年9月19日)

 最も重罪で禁固4年

海軍側被告への判決(1933年11月9日)

 死刑求刑の三上卓ら3名を懲役15年、13年とするなど、異例の軽い判決

民間側被告への判決(1934年2月3日)

 ほぼ求刑通りで愛郷塾主宰橘孝三郎が無期懲役など

軍人側には執行猶予あるのに民間人側には一人もおらず民間側に重かった。また、軍人側民間側とも  に大量の減刑嘆願署名が提出された。

※5・15事件で殺害された犬養毅内閣の後継内閣選びは、陸軍が政党内閣の継続を嫌ったため難航。元老西園寺公望は、退役海軍大将・元朝鮮総督の斎藤実を推薦し、最初の挙国一致内閣が成立。1924年成立の護憲三派内閣以来8年続いた政党内閣は倒され、軍部はファシズム化推進した。2・26事件を経て盧溝橋事件をきっかけに神聖天皇主権大日本帝国政府中国に対し全面戦争へ突入し、その泥沼化から脱するために、さらには米国を主敵とした太平洋戦争をも招いた。政党内閣は敗戦後の1946年まで復活する事はなかった。

(2024年6月8日投稿)

 

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白虹事件は神聖天皇主権大日本帝国政府が新聞の政府批判に牙を剥いた言論弾圧事件

2024-05-02 11:32:21 | メディア

 1918年秋に起きた「白虹事件」は、同年8月3日に発生し9月にかけて全国的な広まりを見せた米騒動の中で新聞寺内正毅内閣(政党政治家を締め出し、軍と官僚のみで1916年に組閣)の失政を厳しく批判する姿勢を強めた事に対し、神聖天皇主権大日本帝国政府が徹底的な弾圧を行うために引き起こした謀略事件であった。

 事の起こりは、1918年8月26日付の「大阪朝日」が夕刊の記事文中に「大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。「白虹日を貫けり」と昔の人が呟いた不吉な兆しが……人々の頭に電の様に閃く」などの文章があった事による。この文章は、前日25日に開催された、名古屋以西の新聞・通信社86社の代表が寺内内閣弾劾決議のために集まった関西新聞社記者大会の様子を伝える記事の一部であった。

 「白虹日を貫けり」という言葉は、中国の故事では「兵乱や国家滅亡の予兆」を意味する言葉とされていたが、新聞への徹底的な弾圧の機会を狙っていた帝国政府はこの文章を、「記事は天皇制国家への敵意を含み、その掲出は皇室の尊厳を冒瀆、政体を改変、朝憲を紊乱しようとする行為に当たる」とこじつけ、新聞紙法第41条違反などとして「大阪朝日」を発売禁止処分とし、発行人・記事執筆者を起訴(禁固)し、大阪検事局も動かして新聞を取り潰すための発行禁止を目論み提訴した。

 帝国政府の姿勢に勢いづいた右翼、「国体変更の意思」「不敬」を理由に、村山龍平社長を襲撃する事件を起こした。

 存亡の危機に立たされた「大阪朝日」は同年10月15日には、村山社長が退陣し、鳥居素川編集局長、長谷川如是閑社会部長、大山郁夫、丸山幹治ら幹部記者が退社、河上肇など社友の京大教授グループも退社した。

 さらに同年12月1日には紙面に、「皇室を尊崇して国民忠愛精神を鼓励し……不偏不党公平穏健の八字をもって信条と為す(国体や政府を批判しない)」とする社告を載せるまでに至った。

 結果的に、発行禁止処分を免れたが、「大阪朝日」はその主体性を放擲してでも会社の存続を第一とする経営の道を選ぶ事となったのである

 しかし、新聞(報道機関)が、このような事態を招く事になった背景には、それまでの新聞(報道機関)の対応・姿勢に原因があったのである。それは1910年の「大逆事件」に対しての対応・姿勢にあった。

 新聞(報道機関)は、大逆事件に対して、それが思想・表現の自由への弾圧であると理解できず、自分たちには関係のない特別な犯罪事件として対応したため、天皇制政府への警戒心と批判力を欠いていたのである。そのため「白虹事件」という形で自らも天皇制政府によって弾圧を受ける事態を招いたのである。

 現代の新聞(報道機関)の昨今の皇室報道は、この過去を教訓としているとは思えない。それだけでなく、理念や信条も大切にせず、再び自ら進んで、神聖天皇主権大日本帝国への回帰をめざす安倍自公政権に、責任の自覚もなく(自覚した上であれば相当な悪人であるが)迎合しているだけのようである。

 しかし、国民は未だに「皇室」が大好きだなあ。「皇室」の存在が日本の民主主義(人権尊重意識)の発展を阻害する「重石」となっているのであるが、その事を理解できずに。この国民の意識が変わらない限り、皇室に対する新聞(報道機関)の対応・姿勢も変わる事はないであろう。そして、国民の「皇室」大好き意識を利用する安倍自公政権の皇室を利用する対応姿勢も変わらないのである。

(2019年11月11日投稿)

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