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つれづれなるままに心痛むあれこれ

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テレビ放送開始は日米両国政府の軍事的政治的目的が密接に関係していた。

2025-03-25 12:26:47 | メディア

 敗戦後の日本でテレビ放送は、何時開始されたのだろう?またその放送開始には、どのような目的があったのだろう?そこにはある目的があった事を、NHKをはじめ他のメディアは国民に報じていないが、「隠しておきたいのであろう」ある目的が存在した事を紹介したい。

 テレビ放送を日本で初めて開始したのはNHKテレビ(日本放送協会)で、1953年2月1日であった。そして、同年8月28日には初の民放テレビとして「日本テレビ」が放送を開始した。その誕生普及には実は、日本政府(と米国政府)軍事的政治的目的が密接に関係していたのである。

 きっかけとなったのは、米国の国営ラジオ対外放送「ボイス・オブ・アメリカ」を作ったカール・ムント上院議員が、「共産主義」に対抗するための米国の宣伝機関として1951年6月、テレビ版「ビジョン・オブ・アメリカ」を世界中に作るべきであり、ドイツと日本に先ず作るべきであると提唱した事であった。1950年6月から朝鮮戦争(~53年7月)が始まっており、古島一雄馬場恒吾「読売新聞」社長らは共産主義革命が起こる事を心配していたので、日本に共産主義に対抗するテレビ局を作る事に賛成した。しかし、米国政府が作るのではなく、日本人自身が作るべきであると考えた。これに正力松太郎賛成した。

 1951年9月、「日本テレビ放送網」株式会社の構想を発表した。「」という文字を付けているのが「みそ」であった。各地の山頂に中継所を設置し、日本全国をマイクロ・ネットワークで結ぶ計画であった。米国政府国防省も支援し、資金援助のために米国輸出入銀行に「かかるネットワークは、望ましいものであると同時に必要とされるものであり、軍事的能力を増進し、日本を外部からの侵略から防衛せんとする日米相互の努力に相当の助力になります」という推薦状を書いた。マイクロ・ネットワークは、レーダー基地としても、軍事情報網としても転用できるものだったのである。そのため、日本テレビは、「」という文字を付けたのであった。

 しかし、日本政府は、マイクロ・ネットワークを、一民間企業が独占する事は不都合であったので許可をせず、「電電公社」に建設させた。1952年通産省テレビ技術電子兵器生産の基礎になるとみなし国産化体制をとり、53年にはテレビ研究補助金を出すとともに、54年には受像機ブラウン管輸入を全面禁止した。その間、53年2月1日にはNHKテレビが、同年8月28日には日本テレビが放送を開始した。

 1959年4月10日明仁皇太子正田美智子さんとの結婚式が実施されたが、NHKテレビ民放テレビも、式後の皇居から東宮御所までの8.9kmのパレードを中継した。民放は、この結婚式に間に合わせるために、同年4月早々開局したばかりの8社を含めた30社が、「ラジオ東京テレビ」と「日本テレビ」の2系列に分かれ、それぞれ系列会社の機材や人員を動員した。これが後に「民放」にニュースや番組のネットワークができるきっかけとなった。

(2025年3月25日投稿)

 

 

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大正天皇死去と戦前「社団法人日本放送協会」のラジオ放送

2025-03-22 20:33:26 | メディア

 大正天皇(明治天皇の第3皇子、生母は柳原愛子。明治天皇の皇后は一条美子)死去(墓所は東京都八王子市長房町)したのは1926年12月25日である。同年8月には社団法人「日本放送協会」が設立されていた。その際の「ラジオ放送」はいかなる様相であったのか。朝日新聞などメディアは、伝えていないので以下に紹介しよう。

 当時、テレビ放送(1953年2月放送開始)はなく、週刊誌も、『週刊朝日』と『サンデー毎日』の2誌しかなかった。ラジオも「社団法人日本放送協会」(現NHK)1社しかなく、それも東京、名古屋、大阪の3局で放送しているだけであった。全世帯数の3%ほどの普及率であった。

 大正天皇が重体になった12月15日から、ラジオは放送時間を延長して、宮内省発表の病状を伝え、死去の事も、東京放送局は午前2時54分に、名古屋と大阪の放送局は3時に臨時ニュースで放送したが、その後はその年末まで、「時報」「ニュース」「天気予報」だけで、その他の番組はいっさい中止した。大晦日に、清水澄法学博士の講演「践祚の話」「と、「大喪の心得に就いて」を放送したのが、唯一の例外であった。

 つまりラジオは、「特別編成」の番組を放送し続けるのではなく、「何も放送しない」という形で、「哀悼の意」を表したという事である。

 ちなみに、「社団法人日本放送協会」は、東京、名古屋、大阪の3局を結ぶ中継回線を、昭和天皇即位」の儀式「大礼」を実施する1928年11月5日に完成し、6日から27日までの22日間にわたり、「大礼奉祝」番組を全国的に中継放送した。

※「社団法人日本放送協会」による、「学校放送」の開始は十五年戦争の開始と同じくし、「海外放送」は日中戦争開始と同じくし、7方向16言語で世界的に稀な大規模放送実施の開始は太平洋戦争開始と同じくする。

※「社団法人日本放送協会」は「ラジオ放送」について、「ラジオこそは国策の徹底、世論の指導、国民の戦意昂揚、それに海外への情報宣伝につとめ、大いにその力を発揮した」と。

※「社団法人日本放送協会」は「学校放送(国民学校放送)」(『放送の五十年』は、「学校放送」について全く触れていない)では、「皇基二千五百九十八年の新春を迎え、恭しく聖寿の無窮と皇室の弥栄とを寿ぎ奉り、併せて出征皇軍将士の御健闘を謝し、銃後教育家諸彦の御健勝を祝す。思うに昨夏(1937年7月)北支(中華民国北京盧溝橋)に端を発した支那事変(日中全面戦争)は、忠勇なる皇軍将士の果敢なる行動により偉大なる戦果を収め、昨冬(1937年12月)遂に敵の首都南京を陥れるに至った事は偏に上御一人の御稜威の致す処であるが、又皇軍将士一死報国の大精神と、銃後国民の熱烈なる愛国心による処大で誠に感激に堪えない情である。然るに頑冥なる(蒋介石)国民政府並びに支那(中華民国)軍閥は今に反省の色なく暴慢にも長期抵抗を揚言しているのである」と伝えている。

※「社団法人日本放送協会」の「海外放送」は、徹底して尊大な態度と挑発的揶揄嘲笑の内容あった。「米国民は今こそユダヤに尻押せられて、自分一個の野望を充たさんとしつつあるルーズヴェルト政権を葬るべきである。而して蘭印、豪州、新西蘭(ニュージーランド)、印度の各国民は、ルーズヴェルトやチャーチル、或は蒋介石等の没落者の巧言に乗ぜられて無益の犠牲を払うのを止めるべきである。そして日本と協力して、東亜永遠の平和を建設しようではないか。そこには洋々たる楽土があり、第二の香港、第二のマニラ、第二のシンガポールの如き惨事は再びあり得ないであろう」と伝えている。

※「海外放送」の「インド」向けでは、「日本道義の国であり、すべて人道主義者である日本人でも、ついにをとって起たねばならぬ現実を訴える」と伝えている。

戦後の日本放送協会(NHK)は、神聖天皇主権大日本帝国政府の侵略戦争遂行意志の洗脳御用機関としての役割を果たした事により国内外に対し取り返しのつかない多大な「戦争犯罪行為」を導いた事について自己批判し公的な謝罪表明をしていない。その事が、戦後今日まで再び同じ道を歩むのではないかというおそれを感じさせてきた。

(2025年3月22日投稿)

 

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ラジオ(体操)放送開始の目的とその中止と再開の正しい認識を

2025-03-21 21:52:05 | メディア

 2023年6月10日付朝日新聞be記事が「ラジオ体操」の歴史を掲載した。しかし、今日の主権者国民が最も知っておかねばならない事を書いていないので、それからは偏向した知識教訓しか学べないのでメディアの責務として是非書いて欲しかった事を以下に少し紹介したい。

 ラジオ体操は、1920年代に逓信省職員が米国で体験し、日本での実施を提唱した事から始まり、同省簡易保険局が作った。その目的は、神聖天皇主権大日本帝国政府が、1928年11月10日に実施予定の昭和天皇の大礼(即位儀式)を記念するためであった。 

 日本初のラジオ放送は、新聞社、通信社、無線機器メーカーなどの出資による、それぞれ独立した3つの社団法人、つまり東京放送局(1925年3月)、大阪放送局(3月)、名古屋放送局(7月)が開始した。その後、神聖天皇主権大日本帝国政府は「放送は国家的事業」と考え始め、3局を合併して1つの組織にまとめるとともに、全国各地に支部を設けていき、1926年8月には社団法人日本放送協会を創設した。新役員の多くは逓信省出身者により占めた。そして、1928年11月10日実施予定の昭和天皇の大礼(即位儀式)を目標に、3局を結ぶ中継回線建設を計画し、11月5日に完成させた。つまり、神聖天皇主権大日本帝国政府は、全国ラジオ放送体制を、天皇制との関係で整備したのである。そしてそれを用いて昭和天皇の大礼奉祝番組を11月6日から27日までの22日間にわたり全国中継でラジオ放送したのである。

 そして、ラジオ体操の放送についてであるが、大日本帝国政府逓信省が日本放送協会に持ち込み、政府がその「大礼」を記念する事を目的として1928年11月1日東京放送局から開始させ、時を開けず全国放送とさせ、早朝に集団で実施させるようにした。目的は、音楽と号令による学童の集団行動や集団統一の馴致であった敗戦の翌1946年4月には再開したが、連合国軍総司令部(GHQ)が翌47年9月1日からの放送中止を命じた。しかし、朝鮮戦争開始後約1年の1951年5月に実施を許可した。これはGHQによる警察予備隊創設をはじめとする、民主化・非軍事化から再軍備へという占領政策の大転換(逆コース)と大きく関係していたのである。主権者国民は、このような歴史をしっかりと認識した上で、ラジオ体操を、又今日ではテレビ体操をも健康維持のために生かす事は良い事である。

(2023年6月10日投稿)

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天声人語「ラジオ体操の開始」:「昭和天皇即位」を印象づけ以後国民が政府の報道に注目する習慣付けが目的

2025-03-21 21:49:20 | メディア

 2017年7発21日の「天声人語」に「ラジオ体操」の歴史が書かれていた。記者が把握している歴史知識についても披瀝していた。それは、

「ラジオ体操の歴史は古い。昭和天皇の即位の大礼に合わせて1928年に始まり、戦時中は『国民精神総動員』の号令下、国威を高める場ともされた。戦後の占領当局は『300万人を一斉に動かす軍国日本の活動だ』と廃止を迫る」

という内容である。

 この内容は、確かに事実を伝えていると言えるが、しかし、それは事実の一面であり、それ以上に重要な、今を生きる国民が学ぶべき歴史事実を伝えていない。歴史が、今を生きるための教訓を学ぶためのものであるとするならば、この記事では充分でない事は明らかであり、故意にそのような書き方をしているように考えたくなる。

 さて、大日本帝国政府が「ラジオ体操」の放送を実施した最も大きな意図は何だったのだろうか。

 それは、政府が、昭和天皇の即位の大礼の日を目標に日本の全国放送体制を完成させ、昭和天皇の時代を強く印象づける事を第1の目的とするとともに、その後の国民の社会生活において、政府がラジオという新たな情報伝達手段によって自己の方針を国民に伝達する手法を開始するに当たって、国民に「ラジオ体操」への参加をきっかけとして、「ラジオを聴く」という習慣を、違和感をもたずスムースに身に付けさせる事を目的として実施するようにしたという事である。

 ところで、大日本帝国最初のラジオ放送は、新聞社、通信社、無線機器メーカーなどが出資した、独立した3つの社団法人(東京放送局、名古屋放送局、大阪放送局)によって開始された。東京は1925年3月、大阪は同年6月、名古屋は同年7月であった。

 しかし、政府は「放送は国家的事業」であると考え始めて、3局をまとめるとともに、全国各地に支部を設置していき、1926年8月には、「社団法人 日本放送協会」を開設した。役員の多くは逓信省出身者によって占められた。

 「ラジオ体操」は「昭和天皇の即位の大礼」を記念して逓信省簡易保険局が作り、それを放送協会に持ち込み、28年11月1日から東京だけで放送を始めた。

 それと並行して政府は、昭和天皇即位の大礼(1928年11月10日)を目標に、上記3局を結ぶ中継回線を建設する事にし、11月5日に完成させた。そして、翌日の6日から27日までの22日間にわたって「即位大礼の奉祝番組」を全国に中継放送し、昭和天皇即位の印象を国民に強く焼き付けたのである。日本のラジオの全国放送体制は天皇制と政府が意図的に密接に結びつけて完成させたものであり、そのラジオ放送を利用して昭和天皇の誕生を国民に強く印象づけたのである。

 そして、「ラジオ体操」の放送については、1929年からは全国放送とし、集団で早朝に実施するようにし、「挙国一致」の精神と体力を培い高めるものと位置づけられて敗戦まで続けられたのである。その間の日本放送協会のラジオ放送は、大日本帝国政府が国民に聴く事を許可した唯一の、ラジオ放送であった。また、それは日本の侵略戦争に関する情報を伝え、国民に聴く事を許した唯一のラジオ放送であった。

 その事を分析していた敗戦後のGHQは、日本に再び軍国主義が復活する事のないように「廃止」させたのである。

 日本放送協会は戦後、一般的に名称を「NHK」としてきたが、そのNHKが、現在、テレビ番組を放送と同時にそのままインターネットで流す「同時配信」の準備を進めている。NHKと総務省は「東京五輪に間に合うように」という理由で、2018年に放送法を改正し、19年には同時配信を実現しようとしてきた。

 しかし、その理由は建前であり、本音は、かつての昭和天皇の即位時と同様に、「新天皇の即位の礼」など天皇関係の儀式に間に合わせるためなのである。そして、民放との二元体制を崩し、表現の自由や言論の多様性をなくす事を目指しているとも考えられる。それは、憲法で国民に保障する権利を軽視否定する事を目指す事でもある。自民党の改憲草案に書いてある事を実現するために。

(2017年8月4日投稿)

 

 

 

 

 

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満州事変、5・15事件、2・26事件に見られる朝日新聞の論調

2025-02-20 10:44:12 | メディア

 1931(昭和6)年9月18日に満州事変は起こった。その概要は、

関東軍が満州(現中国東北部)奉天(現瀋陽)の柳条湖南満州鉄道(日本の半官半民の国策会社)線路を爆破、それを「中国軍」の仕業とし(謀略)、「自衛」と称して軍事行動を開始。立憲民政党第2次若槻礼次郎内閣(1931年4月~31年12月)は不拡大方針を表明したが、閣内不一致で総辞職。関東軍は不拡大方針を無視し、32年1月までに満州全域を占領、3月には満州国を建国した。立憲政友会犬養毅首相(1931年12月~32年5月)は満州国の建国と承認に反対したが5.15事件で暗殺され、海軍大将斎藤実内閣(1932年5月~34年7月)が32年9月満州国を承認(日満議定書)した。

 満州事変直前の論調はどのようなものであったか。朝日新聞は「大阪朝日新聞」と「東京朝日新聞」に分れており、特に「大阪朝日」は軍備縮小や軍部批判の論調が強かった。同年4月19日の社説「内閣の決心を示せ 軍備整理の実現につき」では「軍部の一手に軍制改革の大事業を任せて置く事はわが国策のうえに多大の不安が伴生するおそれがある。この上は内閣の方針として軍備整理及びこれに伴う経費節減額を決定し内閣において断然これが実行の決心を示すべきである」と軍縮断行を強く要求

同年8月8日の社説では「軍部が政治や外交に嘴を容れ、これを動かさんとするは、まるで征夷大将軍の勢力を今日において得んとするものではないか。危険これより甚だしきはない。国民はどうしてこれを黙視できようぞ」と主張。

同年9月17日の社説では「故に吾人は若槻首相に望む。昨今満蒙問題の論議、漸く激化せる折柄、軍部の興奮を善導して意外の脱線行為をなからしめ、これを支柱として対支外交に清鮮味を加えてその基礎の上に国際正義に基づく近代的外交の殿堂を築き上げんことを。これが何人かの手に成し遂げられなければ、徒に退嬰の結果による衰退か、または猪突主義による転落か、日本の運命は二者その一つを出でないであろうことを確信する」と中国と外交による解決を要望

そして、1931年9月18日、満州事変起こる。

同年9月20日の社説「日支兵の衝突 事態極めて重大」では、「中国軍の仕業」と断定し、「わが守備隊が直ちにこれが排撃手段に出たことは当然の緊急処置といわねばならぬ」と自衛のための武力行使は当然と主張。

同年10月1日の社説「満蒙の独立 成功せば極東平和の新保障」では「満州に独立国の生まれ出ることについては歓迎こそすれ反対すべき理由はないと信ずるものである」と中国からの満州独立を喜んで認めた

 事変を境に論調が変わった。その原因は何か。後藤孝夫著『辛亥革命から満州事変へ 大阪朝日新聞と近代中国』によると、直接の原因は軍部と密接な関係にあった右翼の内田良平からの圧力だという。それ以前から社長や役員に対する襲撃事件や社屋への乱入事件など、右翼がテロの標的としていた。また、在郷軍人軍部右翼などが、朝日新聞に対する不買運動を展開した。このような嫌がらせ妨害を受けてきた上での内田の圧力によるものといわれる。

大阪朝日新聞は、同年10月12日には重役会議を開き、軍部批判を中止し軍部を支持する事、東京朝日にも同調させる事を決定(満州事変に対する社論を統一)したといわれる。

朝日新聞は満州事変後、事変の報道を強化して読者を煽り、喜び夢中になるような紙面作りをした。そのため発売部数は拡大し、利益も増大した。報道の特徴はどのようであったか。①軍の発表を受け、事態の変化を追認、②衝撃的な話や写真を好んで掲載、③勧善懲悪型で日本軍を善、中国軍を悪とする、④戦場を誇張銃後の美談を報道

政府や軍部などの言論統制だけでなく、自ら進んで戦争を肯定し、敵国への憎悪をかきたて国民を戦争へ駆り立てた。満州事変に関する講演会や映画上映も頻繁に実施した。

1931年10月16日には社告「満州に駐屯の我が軍将士を慰問、本社より壱万円、慰問袋二万個を調製して贈る」を載せ、朝日新聞が費用を負担して満州の前線将兵に日用品など様々な品物を詰めた慰問袋を送り直接軍を支援した。同時に読者に対して「慰問金募集」も呼びかけ、巨額の慰問金を集めた。

 1932年の5・15事件に対する大阪朝日新聞の論調はどうか。東京朝日新聞や読売新聞など他紙が事件参加者に同情的で、政治の無策を批判したのに反して、同年5月16日の大阪朝日新聞社説「帝都大不穏事件 憂うべき現下の世相」では「陸海軍の軍服を着したるものの暴行(警視庁発表)なりというに至りては、言語道断、その乱暴狂態は、わが固有の道徳律に照らしても、立憲治下における極重悪行為と断じなければならぬ」「今回の団体的暴挙は、例えその動機に如何様のもの含まるるも国憲擁護の上からその行為はこれを厳罰に処し、またと再びかくのごとき事の繰り返さざるよう国民一般に戒慎しなければならぬ」と主張。

同5月17日の社説でも「テロ」や「ファシズム」を排撃した。しかし、5・15事件に関連した大阪朝日新聞の軍部批判はこの2回で終わる。

1936年の2・26事件に対する論調はどうか。この事件では東京朝日新聞の社屋なども襲撃されたが、同年2月29日の東京朝日新聞社説「一億臣民一致の義務」では「二十六日早暁、帝都に起こりし大不祥事は、国の内外の驚きであり、今更いう言葉を知らぬのであるが、これを機会に国体を一層安泰にし、政治の刷新にまい進することが、国民全体の負担する第一の義務であると信ずるのである」と主張。同年3月1日の東京朝日新聞社説では、軍部首脳の責任を追及するのでなく、反乱を鎮圧した軍当局に「敬意を表する」というものであった。

朝日新聞は、2・26事件を期して、政府や軍部に対する姿勢を転換し、同調・迎合し、日本の侵略を全面的に支持し、読者や国民に対し戦争への協力を訴え戦意高揚を図る論調を強める。

このような動向は、他紙も大同小異であった。読売新聞社の正力松太郎氏は、満州事変に際して、「戦争は新聞の販売上絶好の機会」と語り、夕刊発行に成功したという。

今日、マス・メディアに携わる者は、この歴史から何を教訓として学んでいるであろうか。

(2015年12月20日投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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