林銑十郎内閣時1937年4月30日に第20回衆議院総選挙が実施された。次回第21回は通常どおりでは1941年4月30日の予定であった。しかし、1940年7月22日に成立した第2次近衛文麿内閣(~1941年7月16日)は、日中戦争(1937年7月7日~1945年9月2日)下である事を理由にして「議員任期を1年延長」し、任期満了は1942年4月29日とした。そして、その間、第2次近衛内閣は「大政翼賛会」(1940年10月12日)を成立させ、陸軍大臣と内務大臣を兼任した東条英機内閣(1941年10月18日~1944年7月18日)が1942年2月18日に「翼賛(政府推薦)選挙貫徹基本要綱」を閣議で決定し、同年4月30日に「翼賛選挙」(第21回総選挙)を実施した。投票率は全国平均83.2%(前回73.2%)であった。
神聖天皇主権大日本帝国東条内閣のこの総選挙における目的は、「大東亜戦争完遂」のため政府・軍部に全面的に協力する翼賛議会を確立し、議会勢力を再編成して「政治力の結集」を図る事であった。新聞の見出しは、「国民の熱意・翼賛一票に顕現、全国の投票頗る好調、征戦完遂へ一致邁進」と煽った。
政府は部落会・町内会・隣組(隣保班)を動員し官民一体の一大啓発運動を展開し、最適候補者推薦(候補者推薦組織として翼賛政治体制協議会結成。推薦候補へは選挙資金を臨時軍事費から流用)の機運を盛り上げた。政府がその基本方針を決め、運動全般を指導し、地方官庁は基本方針に応じて地方での運動を指導した。大政翼賛会や翼賛壮年団や在郷軍人会がそれに協力して運動を展開した。
地方の翼賛壮年団は1942年1月には「大日本翼賛壮年団」として全国組織化した。彼らは、非政府推薦候補者に、「親英米的」「自由主義者」「非国民」「反軍思想」などとレッテルを貼って攻撃した。鳩山一郎や尾崎行雄や片山哲や中野正剛は「翼賛(政府推薦)選挙」を批判したため選挙妨害を受けた。また、内務省は、斎藤隆夫の8万数千枚に及ぶ選挙運動用の印刷物すべてを差し押さえた。警察は、非政府推薦候補者の選挙事務長や運動員を経済事犯として検挙し、選挙関係の書類や資金を押収した。またその選挙事務所を訪れた者を直ちに留置した。
「翼賛選挙」では「選挙」は、国民にとって、政治に参加する権利の行使ではなく、政府の政治に翼賛する義務とされた。ゆえに「棄権」行為は義務を怠る行為として厳しく非難された。東京府当局は、「棄権」する者はその理由を隣組長に報告するようにという通達を出した。
選挙結果は、当選者総計は466人、推薦者381人(81.8%)、非推薦85人(18.2%)であった。1942年5月20日、政府は翼賛政治会を発足させた。帝国議会衆議院は予算審議権も立法権も実質的に大幅に制限された。
清沢洌の『暗黒日記』(1943年7月22日)は「議会とは現地派遣軍に感謝決議を行うところである」と皮肉と憤りを記している。
追記:「衆議院議員の任期延長に関する法律」は1941(昭和16)年2月24日公布、即日施行された。現任衆議院議員に限り1年間延長する事や、現任衆議院議員の在任期間中は現職議員数が定数の3分の2未満にならない限り補欠選挙や再選挙を行わない事を規定。翼賛選挙(第21回総選挙)での議員改選により、この法律が対象とする議員がいなくなり実効性は喪失したが、1954(昭和29)年5月1日公布、即日施行の「自治庁関係法令の整理に関する法律」により廃止された。
(2022年12月16日投稿)