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天皇家に「~さま」付けするメディアは差別(人権侵害)意識を生む温床

2021-10-26 10:21:35 | 皇室

 最近、天皇家の家族の公的行為に関する記事がメディアに頻繁に出てきている。たとえば、

2016年9月17日には、秋篠宮家の長女「眞子さま」について、パラグアイでの「日本人移住80周年記念式典」に出席するための訪問を終えて帰国した、とか、

2016年9月26日には、秋篠宮家の次女「佳子さま」について、25日に鳥取県倉吉市で開催された「第3回全国高校生手話パフォーマンス甲子園」に出席した、などが最も新しいものである。

さて、そこで、これまでも非常に問題視していた事がある。それは、メディアが「さま」付けして「呼び」「書く」事についてである。また、それが国民に及ぼしている影響についてである。

率直に言えば、この行為は、人権尊重や民主主義の精神とは正反対の行為であり、それらの発展を阻害する行為であるだけでなく、差別意識を生む温床ともなっていると考えるべきだと思う。だから、結論としてはやめるべきであると考える。

「天皇制」というものは、今日非科学的であるとされている「古事記」の神話に基づいて、天皇家が「神の裔」であり「天皇家の人間はその生まれによって尊い」という事を認める事を国民に強制する制度、システムとして機能しており、それを天皇家と腐れ縁の関係にある安倍政権が権力の補完勢力として利用しているというのが現状である。もちろん、天皇家にとっても都合が良い面があり、その点で利害の一致があるのである。そして、安倍政権に翼賛的であるメディアが、「~その生まれによって尊い」とする事に対し批判することなく(意図的であると考えてよい)、国民に対して、「さま」付けの「呼び」「書き」をする事によって、国民に天皇制肯定支持の意識を浸透させる「洗脳」の役割を担っているのである。

「さま」付するメディアやそれを無批判に受け入れている国民は、誰か他者が差別(人権侵害)を受けているという時に、果たしてそれに対して批判し抵抗するだろうかと考えると、とてもそうは思えない。つまり、傍観者の立場を決め込むであろうという事である。という事は彼らは差別(人権侵害)に加担する側(差別者の側)に立つという事であり、「さま」付けする彼らの世界は「差別意識を生む温床」となっているという事なのである。

結論として、「さま」付けをやめさせようという事である。そして、人権尊重と民主主義に反し、差別(人権侵害)の温床の元凶である「天皇制」を廃止しようという事である。「天皇制」が思考停止を生み、混乱停滞を生み、また時代逆行を生み、人権意識の発展を阻害している。「天皇制」廃止によってこそ日本社会の発展は保障される。

※名言紹介

「『天皇』を理由なく尊敬できる人間こそが、他者を理由なく差別できる人間なのだ

(2016年10月3日投稿)

 

 

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湊川神社と楠木正成の世界への回帰を狙う安倍自公政権。皇居外苑には巨大な大楠公銅像が。

2021-10-16 14:35:40 | 宗教

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、西洋諸国におけるキリスト教を模倣して、帝国日本臣民の精神的宗教的支柱とするため、天皇教(国家神道)を整備した。国家神道とは、民族宗教であった神社神道皇室神道と結びつけ、皇室神道により再編し統一したものである。

 伊勢神宮を始めあらゆる神社を国家神道に適するように人為的に改変するとともに、国家神道の思想にもとづく、それまで存在しなかった様々な種類の神社を新しく創建した。その中の一種類に、南北朝時代の南朝方の「忠臣」を祀る神社があった。その一つが楠木正成を祀る「湊川神社」であった。

 楠木正成をなぜ護国神として湊川神社に祀っているのかという事に関しては、神聖天皇主権大日本帝国下の小学校教育における「修身」教科書において、「忠孝」などのテーマで、それは今日の「教育」というものでなく、子どもたちを「教化」(洗脳)していた教材の内容をみれば明らかであるので以下に紹介(『尋常小学修身書 巻六』)する。

「北条氏が滅びて、後醍醐天皇は京都におかえりになりましたが、間もなく足利尊氏が反きました。楠木正成は諸将と共に尊氏を討って九州に追払いましたが、その後、尊氏が九州から大軍を引きつれて京都に攻上って来るとの知らせがあったので、勅を奉じて、尊氏を防ぐために兵庫に赴きました。正成はこれを最後の戦と覚悟して、途中桜井の駅でその子正行に向い、「父が討死した後は、お前は父の志をついで、きっと君に忠義を尽し奉れ。それが第一の孝行である。」とねんごろに言聞かせて、河内へ返しました。この時正行は十一歳でした。正成はそれから兵庫に行って遂に湊川で討死しました。家に帰っていた正行は、父が討死したと聞いて、悲しさの余り、そっと一間に入って自殺しようとしました。我が子の様子に気をつけていたは、この有様を見て走り寄り、正行の腕をしっかとおさえて、「父上がお前をお返しになったのは、父上に代って朝敵を滅し大御心を安め奉らせる為ではありませんか。その御遺言を母にも話して聞かせたのに、お前はもうそれを忘れましたか。そのようなことで、どうして父上の志をついで、忠義を尽すことが出来ますか。」と涙を流して戒めました。正行は大そう母の言葉に感じ、それから後は、父の遺言と母の教訓とを堅く守って、一日も忠義の心を失わず、遊戯にも賊を討つまねをしていました。正行は大きくなって、後村上天皇にお仕え申し、たびたび賊軍を破りました。そこで尊氏は正行をおそれ、大軍をつかわして正行を攻めさせました。正行は勝負を一戦で決しようと思い、弟正時をはじめ一族をひきつれて、吉野の皇居に赴き、天皇に拝謁して最後のお暇乞いを申し上げました。天皇は正行を近く召され、親子二代の忠義をおほめになり、汝を頼みに思うぞとの御言葉さえ賜りました。正行はそれから四条畷に向い、僅かの兵で賊の大軍を引受て花々しく戦いましたが、此の日朝からのはげしい戦に、味方は大方討死し、正行兄弟も矢きずを多く受けたので、とうとう兄弟さしちがえて死にました。 格言 忠臣孝子の門に出づ。」

 帝国政府が南朝関係の神社を相次いで創建した理由は、天皇への忠誠心を国民の間に定着させるうえで、南朝忠臣の生き様をアピールする事こそ、きわめて有効であるとみたのであった。そして、その中で宗教施設として古く装い、最も早く創建したのが湊川神社であった。しかし実際は、明治天皇が1868年4月に創建命令を出し1872年5月に完成したのである。創建費用は、明治天皇から金3千両、政府高官、藩知事、民間人などから金品や土地の献納が行われた。

 創建目的については太政官達にも、「大政更新之折柄、表忠之盛典行わせられ、天下之忠臣孝子を勧奨遊ばされ候に付いては、楠贈盛正三位中将正成精忠節義その功烈万世に輝き、真に千歳之一人、臣子之亀鑑に候故、今般神号を追諡し社壇造営遊ばされたく思食に候……」としている。

 また、湊川神社は「臣下」を祭神としたため、従来の官社のいずれにも列格しにくかったため、初めて別格官幣社という新しい社格を作り与えている。

 最後に、神聖天皇主権大日本帝国政府は、神社創建に関しては、古色を装ったが、それだけでなく史実をも捏造し、書き変えていた。それは、上記に紹介した楠木正成・正行親子の「桜井の別れ」が作り話であるにもかかわらず、大阪府島本町を国の史跡に指定した事である。帝国政府では、歴史教育の目的は、科学的な史実を教える事ではなく、国民に道徳を教化(洗脳)する事にあったからである。神聖天皇主権大日本帝国政府にとって歴史とは、支配の正当性を認めさせるためのものであり、そのためには都合の良い解釈をしたり、捏造する事は当たり前の事としていた。神聖天皇主権大日本帝国政府は科学的思考や判断をなおざりにする歴史修正主義者たちが構成する政府だったのである。

(2020年4月17日投稿)

 

 

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『ベルツの日記(1904年11月12、16日)』:桂太郎内閣小村寿太郎外相の日露戦争の目的

2021-10-13 18:33:05 | 朝鮮問題

 日露戦争は、遼東半島旅順港外において、神聖天皇主権大日本帝国桂太郎政府海軍がロシア艦隊に対する奇襲攻撃を実施した事により始まったのであるが、その外相・小村寿太郎はその目的をどのように公表していたのかを『ベルツの日記(1904年11月12、16日。1905年1月10日)』より以下に紹介しよう。

小村外相は、最近、有力な代議士連との懇談会で、日本は韓国の不可侵と独立のため戦っていると言明した。「独立」とはよく言った。」(11月12日)

「日本は不可解な失策をやった。真実、東アジアの民族の盟主たるの地位を目指していたのであれば、まず温情により清・韓両国を自己の味方につけ、その信頼を固めなければならなかった。支配するのではなく、「指導」すべきだった。」(11月16日)

「日本は韓国で、意のままに行動している。先般、同国の警察を、あっさりと接収した。全く無力であるとの理由で。事実、そのとおりではあるが、この新しい措置が韓国の独立の法外な侵害であるという事実もまた、同様に否定できない。もはやこの独立も、名ばかりのものになってしまった。」(1905年1月10日)

※補足:小村寿太郎外相の議会政治についての認識(1905年2月16日の日記)

議会政治については、小村男爵はすこぶる遠慮のない意見を述べた。いわく『議会は単に、一種の監査、監視を行うため存在するにすぎない。政党による議会中心の政府の如きは、現実にあり得ない。日本では、そこまで行く必要がないのだ。実際の指導は、つねに少数者の手にあらねばならぬ。幸い日本では、天皇が、必要に応じて議会を解散する権限をもっておられる。この点を自分は、大隈がイギリスの議会の状態を日本に移し入れようとしたとき、彼に再三指摘したのである。日・英両国の憲法はてんで根本から違っている』……」

(2021年10月12日投稿)

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『ベルツの日記(1905年8月27日)』:ルーズヴェルト米大統領の日露戦争の講和条約に対する姿勢

2021-10-12 12:35:59 | 米国の世界戦略

 日露戦争(1904年2月~1905年8月)においても、米国狡猾世界戦略がうかがわれる事を、『ベルツの日記(1905年8月27日)』より以下に紹介しよう。

ルーズヴェルト講和条約のため、全力を尽くしている。一般にアメリカの世論は急変して、ロシア側に有利となったらしい。別に不思議な事はない。清国(現中国)商人の大々的な対米ボイコットによりアメリカは、日本の勝利がいかに好ましからざる影響を伴うものであるかを教えられ、また適当な時機に日本(神聖天皇主権大日本帝国政府)を抑えつけないと、この影響がさらに程度を増大するかも判らない事を知ったからである。」(1905年8月27日)

(2021年10月12日投稿)

 

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『ベルツの日記(1904年10月9日)』:大隈重信・憲政本党総裁は韓国併合をどう考えていたか?

2021-10-11 20:09:27 | 朝鮮問題

 日露戦争(1904年2月~05年8月)下、韓国併合について、当時、憲政本党(1898年11月~1910年3月)総裁であった大隈重信がどのように考えていたのかという点について、『ベルツの日記(1904年10月9日)』興味深い内容を伝えているので以下に紹介しよう。

 「進歩党(憲政本党)総裁大隈伯は、銀行業者の集会で、一場の演説を試みた。伯は日本の戦費(日露戦争)を、十二億ないし十三億円と見積もっている。従来は、約六億円と称せられていたにすぎない。ところが今では、来年度のみで、その程度の戦費を要し、うち四億円は公債、二億円は租税により、それぞれ賄うというのだ。だが、どういう風にして? 議会で第二の勢力を有し、最も活動的な党派である進歩党(憲政本党)は、仮面を脱ぎ捨てた。政府の韓国における政策を、あまりにも軟弱だと称するのだ。そして、直ちに行政、財政、司法ならびに対外代表権を、日本自身の手に収めるよう要求している。換言すれば、韓国をさっさと併合せよというのだ。日ごろ、「われわれは、韓国の独立のために戦うのだ」と立派な口をきいていたではないか。」

(2021年10月11日投稿)

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