つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

侵略戦争に協力し煽った西田幾多郎を顕彰する石川県建設かほく市管理運営の記念哲学館

2025-01-11 10:53:48 | アジア・太平洋戦争

 2020年12月15日付朝日新聞が「西田哲学 スポーツで探る」という見出しの記事を掲載した。「生誕150年を迎えた」として西田幾多郎(1870~1945)を「称賛」「顕彰」し「肯定」している事をうかがわせる表現を使って。また、西田のプロフィール内容も極めて一面的で偏向しており、西田についての知識を持たない人を欺き好印象を与えるようにしている。朝日新聞はなぜ今何を目的に「西田哲学」を好意的に取り上げるのか注意が必要である。

 西田幾多郎の生誕地石川県かほく市(旧宇ノ気町)は、西田の業績を後世に長く顕彰する事を目的として、すでに1968年には宇ノ気町立西田記念館を建設していた。その後2002年6月8日には、石川県が、かほく市に管理運営を委ねた、「石川県西田幾多郎記念哲学館」(安藤忠雄の設計)を開設している。かほく市も石川県もともども西田を「顕彰」する「立場」に立っているといえる。

 哲学館HP「概要」には「西田哲学」を、「日本の哲学の歴史の出発点であり一頂点でもある……すでに古典の位置を獲得……国内外での関心の高さや研究文献の数が、その事を物語っている」「生きる事を凝視し続けた哲学」と高く称賛している。また、かほく市教育委員会が出す冊子は「西田先生」としており、市議会でも呼び捨てにしていない状況が存在する。

 しかし、西田はの関係する「国策研究会」での演説を『世界秩序の原理』(1943年)にまとめたが、それには「皇室は過去未来を包む絶対現在として、皇室が我々の世界の始であり終である。皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し来った所に、万世一系の我国体の精華があるのである。我国の皇室は単に一つの民族的国家の中心というだけでない。我国の皇道には、八紘為宇の世界形成の原理が含まれて居るのである。」「神皇正統記が大日本者神国なり、異朝には其たぐいなしという我国の国体には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室万世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云う事は、単に直線的という事ではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云う事でなければならない」「日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云う事にあるのである。八紘為宇の世界的世界形成の原理は内に於て君臣一体、万民翼賛の原理である。」「英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に傚うに至るであろう。」と述べているように、万世一系の天皇を頂く神国日本が、世界の覇者になると予言していたのである。

 また、1940年には講演録『日本文化の問題』では、日中戦争を肯定し、「従来、東亜民族は、ヨーロッパ民族の帝国主義の為に、圧迫せられていた、植民地視されていた、各自の世界史的使命を奪われていた。……今日の東亜戦争は後世の世界史に於いて一つの方向を決定するものであろう」と述べていた。

 また、西田は禅体験による「純粋経験」を哲学の出発点としたが、それは、主観と客観の分離の否定、知情意の区別の統合、個と全体の統一であり、滅私奉公、さらに国民が国家(政府)=天皇のために殉死する事を正当化するものであった。西田の国家観は、天皇を父()とする疑似家族国家であり皇道であり、共産主義のみならず、民主主義自由主義を否定した。

 西田の教え子三木清は1933年、近衛文麿のブレーン「昭和研究会」に参画し、中心メンバーとなっていた。39年には彼の著『新日本の思想原理』で「東亜共同体論を構想し、西田哲学を具体化した。これが近衛首相の「東亜新秩序」声明となり、「大東亜共栄圏」や「大東亜戦争」の元となったのである。

 西田の理解者であり、ともに京都学派をリードした田辺元は、1940年に『歴史的現実』を出版し、「抑々天民・君民一体という言葉が表して居る様に、個人は国家の統一の中で自発的な生命を発揮する様に不可分に組織され生かされて居る、国家の統制と個人の自発性とが直接に統合統一されて居る、之が我が国家の誇るべき特色であり、そういう国家の理念を御体現あらせられるのが天皇であると御解釈申し上げてよろしいのではないかと存じます。」「死が問題となるのは死に於いて生きつつあると共に、生に於いて死に関係しているからである。……我々が死に対して自由になる即ち永遠に触れる事によって生死を超越するというのはどういう事かというと、それは自己が自ら進んで人間は死に於いて生きるのであるという事を真実として体認し、自らの意思を以て死に於ける生を遂行する事に他ならない。」という論理、つまり「生きる事は死ぬ事だ」「悠久の大義に準じた者は永遠に生きる」という論理を説き、強要される戦死自発的な戦死へと歪曲させた。

 西田の直系の弟子の高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高らは1941年に座談会を行い、戦争を正当化した(『世界史的立場と日本』)。42年には『近代の超克』を発表した。敗戦後4名は公職追放となった。

 最後に、近年注意しなければならない動きは、「自由と民主主義が不幸を生む。平等主義や格差是正などは欺瞞である」(『反・幸福論』)などと主張している佐伯啓思が、西田哲学に傾倒し、日本や特攻を賛美している(『西田幾多郎 無私の思想と日本人』)事である。

(2020年12月18日投稿)

 

 

 

 

 

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パラオ諸島ぺリリュー島(旧南洋群島)と沖縄県民

2025-01-06 12:44:24 | アジア・太平洋戦争

 2023年6月6日付朝日新聞が『激戦地 パラオはいま』で「ぺリリュー島」に関する記事を掲載した。今日、「ぺリリュー島」は「パラオ共和国(パラオ諸島)」(首都は2006年10月、コロールから、最大の島バベルダオブ島の東岸にあるマルキョクへ移転)のほぼ南端に位置する小島で、アジア太平洋戦争下で神聖天皇主権大日本帝国政府軍と米合衆国政府軍の激戦地となったところである。

 神聖天皇主権大日本帝国第2次大隈重信政府は、1914年8月23日、第1次世界大戦に参戦(ドイツに宣戦布告)。第一次世界大戦が始まると、元老井上薫大隈重信首相に「今回欧州の大戦争は、大日本帝国の国運を発展させる大正新時代の『天佑』なので、大日本帝国は直ちに挙国一致の団結により、この天の助けを利用しなくてはならない」と伝えた。つまり、井上は国内で湧き上がっていた「廃減税等の党論」(第一次護憲運動〈1912年12月~13年2月〉以来の憲政擁護会は営業税・織物消費税・通行税を3大悪税として全廃を要求し、各政党も各種の廃減税法案を議会に提出していた)などの政治的危機を回避し、英仏露3国との友好関係を改善し、東洋に対する「大日本帝国の利権」を確立し、これを背景に辛亥革命後の中国政府を懐柔する、まさに国内外の課題(日本帝国主義の内外政における行き詰まり)を一気に解決する千載一遇のチャンスだと主張した。又、加藤高明外相は参戦理由を「日本は今日、日英同盟条約の義務に依って参戦せねばならぬ立場にない。……ただ一つは英国からの依頼に基づく同盟の情誼と、一つは大日本帝国がこの機会にドイツの根拠地を東洋から一掃して、国際上に一段と地位を高める利益と、この二点から参戦」(真の理由は後半)すると主張していた。  

※「第一次護憲運動」とは:藩閥勢力の巨頭内大臣桂太郎の組閣に際し、政党(立憲政友会・立憲国民党)・新聞記者らの提唱で大会開催し、藩閥官僚政治打破と政党政治確立を目指した。1913年2月10日数万の民衆が政府系新聞社・警察・交番を襲撃し、翌日内閣総辞職に至らせた(大正政変)。

 1914年10月、海軍はドイツ領となっていた赤道以北のマリアナ諸島、カロリン諸島(含パラオ諸島)、マーシャル諸島を占領。11月、陸軍青島を占領、さらに中国が指定した中立地帯を無視して超え、青島から済南間の膠済鉄道とその沿線の鉱山などドイツ利権を手に入れた。英国の日本艦隊地中海派遣の要請は拒否してきたが、寺内正毅内閣は、パリ講和会議(1919年1月~6月)で山東省のドイツ権益継承と赤道以北のドイツ領南洋諸島を大日本帝国領とする英国の支持を得て1917年2月、ドイツ潜水艦から連合国の商船を守る理由で地中海へ海軍を派遣(装甲巡洋艦1、駆逐艦12)した。1919年原敬内閣は上記の赤道以北の諸島を「南洋群島」(現ミクロネシア)と命名し、1920年にはヴェルサイユ条約に基づき国際連盟より大日本帝国政府の委任統治領(通貨:円、公用語:日本語、宗教:国家神道など)として認められ、アジア太平洋戦争敗北まで約30年間統治した。

 南洋群島とは、マリアナ諸島、カロリン諸島(含パラオ諸島)、マーシャル諸島からなっていた。16世紀にスペイン人が渡来し、マリアナ諸島を領有。1885年、カロリン諸島(含パラオ諸島)をスペイン領と宣言。マーシャル諸島ドイツが領有。米西戦争の翌1899年、スペインはカロリン諸島(含パラオ諸島)マリアナ諸島ドイツに売却した。1900年時点で上記3諸島はすべてドイツが領有する状態となっていた。ただし、グアム島は1898年に米国がスペインから購入し米国植民地に。その後、第一次世界大戦を経て大日本帝国政府がドイツ領南洋諸島を領有したのである。統治のために1922年に南洋庁(行政官庁)を設置し、パラオ諸島のコロール島に本庁(首都)を設置し、サイパン、ヤップ、パラオ、トラック、ポーンペイ、ヤルートに6支庁を置き、小学校や産業試験場なども併設した。

 パラオ諸島を含む南洋群島には、砂糖やカツオ節生産のため、元の住民より多い8万人以上が日本から移住したが、6割以上が沖縄県からであった。移民の大きな理由は、本土の類似県より高い植民地的な国税納付額、貧しさ、県庁の奨励などであった。第一次世界大戦後の不況期(1920年の「戦後恐慌」には黒糖価格が暴落し、さとうきび栽培のモノカルチュアー経済が大打撃を受け、1927年金融恐慌、1930年昭和恐慌が追い打ちをかけた。)には沖縄県では、毒性のある「ソテツ」まで食べて飢えをしのぎ(ソテツ地獄)、海外からの送金が沖縄県を支えた。同時に、男性の多くの理由は徴兵忌避であった。当時、政府は海外在住者の徴兵を猶予した。実際は現地でも軍の動員はあったが。1936年の陸軍統計年報では、「外国在留」が理由の徴兵延期者は5万3819人であったが、沖縄県は9912人と全国最多であった。アジア太平洋戦争では沖縄関係移住者約5万人のうち1万人以上が亡くなった。ぺリリュー島(屋久島とほぼ同じ面積)では、1944年9月15日から約2カ月間、米軍と激戦を繰り広げ、この戦闘を中心に南洋群島全体で日本軍1万6千人余が戦死した。

 戦後の南洋群島はどのような歴史を歩んだのか。

〇1947年4月2日、国際連合ミクロネシア(南洋群島)を6地区(マリアナ・ヤップ・チューク・ポンペ    イ・パラオ・マーシャル)に分割、米国政府の信託統治領とした。その後核実験に使用、54年ビキニ被爆事件起こる。

〇1965年、ミクロネシア議会が発足。

〇1978年、パラオは住民投票の結果、ミクロネシア地域の統一国家からの離脱決定。

〇1981年、パラオ自治政府発足、核貯蔵や持ち込みを全面禁止した非核条項を含む憲法公布。

〇1982年、米国政府自由連合盟約協定期間50年、国防・安全保障権を米国政府に委ねる代わりに経済援助を得る、また外交権・立法権は保障される)を締結。しかし、盟約は米国政府の核搭載艦船の寄港が可能で、憲法の非核条項と矛盾した。自由連合盟約は住民投票(75%以上の賛成が必要)で7回否決された。

〇1992年、住民投票で憲法改正案(憲法条項の修正は過半数の賛成で可能)が承認された。

〇1993年、住民投票で自由連合盟約が68%の支持で承認され、非核憲法が凍結され、米国政府との自由連合へ移行。

〇1994年10月、パラオ共和国独立達成、12月に国連加盟

〇1999年、台湾と外交関係樹立、米国政府と締結した自由連合盟約に基づき、国防・安全保障の権限を米国政府に委ねている。軍隊はないが、パラオ共和国国民は米国政府軍人に多数採用され、、イラク戦争にも参加した。

〇2006年10月、首都機能をコロールからマルキョクへ移転。

〇2008年11月、大統領選挙で、元台湾大使ジョンソン・トリビオン氏が当選。

(2023年6月9日投稿)

 

 

 

 

  

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対英米開戦の詔勅と第1次近衛声明「国民政府を対手とせず」の御前会議と蒋介石「日本民衆に告ぐる書」

2024-12-15 16:55:54 | アジア・太平洋戦争

 1941年12月8日の昭和天皇の「対英米開戦の詔勅」では蒋介石の中華民国政府を以下のように見なしていた。

「中華民国は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう4年以上経過している。幸いに国民政府は汪兆銘の南京政府(1940年3月成立、日本政府の傀儡政権)に新たに変わった。帝国はこの政府と善隣の誼を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権(1937年11月~)は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府といまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。米英国は残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名に隠れて東洋を征服する非道な野望を逞しくしている。」

 さて、日中戦争を開始した1937年7月7日の翌年1月11日の御前会議では「支那事変処理根本方針」を決定した。これが1月16日の第1次近衛声明「国民政府(蒋介石)を相手とせず」である

 この決定はどのようにしてなされたのか、その時天皇はどのような態度をとったのだろうか。石射猪太郎「外交官の一生」によると以下のようであった。

「場所は宮中の広間……一同玉座の両側のテーブルに威儀をただす。玉座は臣席より2、3間ほど離れて、六曲の金屏風を後に、テーブルを前にしつらわれている。定刻、一同最敬礼裡に陸軍装にて出御着座、近衛首相が司会係、広田外相から議案を御説明申し上げた。……原案賛成の平凡な意見が、修辞美わしくもっともらしく述べられたに過ぎない。それで原案可決となり、陛下は終始御言葉なく、全員の最敬礼を背にして入御、会議は2時間とはかからなかった。国家の最高意思を決定する御前会議とは、いつもこんなものか、実にぎこちない形式的なものであった」以上

 「開戦の詔勅」では、「東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は……私が常に心がけている事である」としているが、上記の御前会議の様子からは天皇は中国への武力行使(侵略戦争)を当然の事と考えていたと思われる。

 また、近衛博文首相の「声明」発表後小川平吉との会話を紹介しよう。

近衛「彼らを対手とせずと宣言したものの、蒋介石が和平を言ってきたらどうしたものか」

小川「そんな事は何でもない

近衛「そうだな、その時にはまた方針を変えればいい

小川「そうだ、そうだ」

というものであるが、ここに近衛の人格のすべてが表れているといえる。

 ところで蒋介石は日本に対してどのような分析をしていたのだろう。その事がわかる史料がある。それは蒋介石が日中戦争開始2周年にあたる1939年7月7日発表したメッセージ『日本民衆に告げる書』である。以下がその内容である。

「日本軍閥の思想的重大な錯誤は近隣の東亜諸民族を蔑視する事である。日本は明治維新後、国運が進歩したために、幾千年来の歴史を忘れ、妄りに自ら尊大となり、立ち遅れた隣国を蔑視した事である。かかる思想が軍閥に唱導され奨励されたため、人心を麻酔して、ついに武力万能と侵略主義万能の思想を鋳成したのである。実を言えば、これは諸君の最大の不幸である。

 日本、中国並びにその他の東亜諸民族は近代西洋科学文明から見れば、いずれも同じく立ち遅れた国家である。だが日本の明治維新が半世紀を先んじ得たばかりに軍閥は、意気沖天の面持ちで、自分こそはアジア唯一の優等民族だと思い込み、その他をみな劣等民族だと見なしているが、これこそまことに「器小さければ満ち易し」であり、毫も大国民の襟度がない事である。中国革命と明治維新とは、東亜民族にとっては二大事件である。だが日本軍閥はひたすらうぬぼれるばかりで、中国を抹殺し、中国を朝鮮と同様に併呑しうるとみなしている。……世の中の事は、おのれ独りの都合だけで計れるものではない。日本は我が満州を占領して便益を得たにしても、却って軍紀の堕落を迅速ならしめた。しかも軍人専制の政局を作り出し、諸君の国家は今日、狂妄無知の少壮軍人に左右されている。政権はまったく軍部に操られ、その軍部がまた少壮軍人の一団に操られている。この連中は野心はあっても識見なく、また各々議論は区々で、それぞれ派閥を作っている。そのためにただ侵略主義を高唱する者のみが益々勢力を得る結果となっている。諸君の国家の行動は、実際から言って、このごく少数の狂妄なる少数派に指導され、壟断されている。彼らは天皇の龍袍の袖に隠れ、悪のなさざるなく全く国家紀綱なきさまである。内閣に至っては、これら少壮派のロボットに過ぎず、彼らの尻について動くだけである。

 戦争は元々一大事件であるのに、諸君はただ受動的に少数軍閥の措置するままに任せ、しかも資材と生命を捧げさせられて、その上に不断に軍部の提灯持ちを強要され、しかも謳歌のみ許されて、反対は許されず、苟も疑いの様子あれば忽ち投獄され、拷問を受けた。この2年間に、警察と憲兵とに逮捕され投獄された幾千幾万の日本の知識分子に至っては我が東三省(満州)におけるいわゆる思想犯と同じ境遇ではないか。……日本の軍部の言動がどれほど信用のおけないものか……こんな事は諸外国はとうに気づいている、気づいていないのは日本の民衆諸君だけである。……これでは日本の民衆諸君は実に奴隷も同然である。……日本軍閥の思想的特徴は、自らの過ちを絶対に認めようとしない事で、中国での戦争がうまくいかない事に自省するのではなく、かえって欧米諸国に恨みを移し、遠からず米国や英国に戦争を仕掛ける事になるであろう。……中国の諺に『盲人盲馬に騎して夜半深池に臨む』という事がある。日本の民衆諸君は、自ら盲従に甘んじて、盲馬たる軍部に手綱を任せ、日本の国家を万丈の深淵に追い込みつつある。満州事変以来日本の実情は全くこのようである。しかもそのよって来る所以は、日本民衆が現に受けつつあり、将来も受けようとしている無限の禍害のことごとく、日本軍閥が東亜諸民族を奴隷視せんとした一念から出たものにほかならぬ。諸君がこのうえ自救に目覚めないとすれば、必ずや後悔の臍を噛む想いをする日があるに違いない。」以上

 以上であるが、神聖天皇制大日本帝国政府や国民はこのようなメッセージを送られながらもそれを無視し、泥沼化した日中戦争を打開するため東南アジアの資源獲得に向かったのである。そしてその先で、昭和天皇は、1941年12月8日「対英米開戦の詔勅」を発表する道を選ぶ事になったのである。

(2016年12月11日投稿)

  

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サイパン島とグアム・テニアン島の日本政府軍・民間人の最期を朝日新聞はどう報道したか?

2024-12-14 10:25:22 | アジア・太平洋戦争

 米国政府軍が、サイパン島を占領したのは1944年7月7日であった。その際の日本軍や日本民間人の状況を当時の朝日新聞は1944年8月19日付に以下のような記事を報道していた事を紹介したい。

一面右上角の記事上の横書き黒地白抜き大見出しは「壮絶・サイパン同胞の最期」、同面記事右側の縦書き大見出しは2行仕立てで右側に「岩上、大日章旗の前」、左側に「従容、婦女子も自決」、その大見出し2行目の左側にはさらに「世界驚かす愛国の精華」としていた。

「サイパン島守備のわが忠勇なる将兵が全員戦死をとげ、在留邦人と雖も戦い得る者は敢然戦闘に参加し、概ね将兵と運命を共にしたことは7月18日の大本営発表によって世界に伝えられ、その忠勇戦列な行為全世界を感動せしめたが、非戦闘員たる婦女子も亦生きて鬼畜の如き米軍に捕はれの恥辱を受くるよりはと潔く死を選んだ事が報ぜられ、民族を挙げた日本国民の敢闘精神愛国心の強烈さに全世界を驚かしている、これに関し近着の米週刊誌タイム8月7日号は『敵の性質』と題してサイパン島における日本軍の将士、在留邦人の自殺の状況を詳報し、その壮絶な最期はもはや西洋人にとり不可解なもの、神秘的なものと〇し、サイパン島在留邦人の自殺は『日本全民族が降伏よりもむしろ死ぬ』ことを意味するものとして怖れている、本報道はタイム誌前線特派員ロバート・シャーロッドの報告であり、米人の読者を相手にするものだけに殊更に興味本位に取扱い或は凄絶さを誇大にし或は脚色した部分もあるように見受けられるが、然し日本非戦闘員の壮絶なる最後についてはさすがに千軍万馬古強者の彼等も〇倒している、非戦闘員の壮烈な最期を伝えるものなき今日、せめて米誌の報道をかりてサイパン在留同胞の最期を故国に伝えたい 

 『我々はサイパン島における日本軍の最期攻撃を撃退するまでに日本軍将兵の自決の状況を〇さに見る事が出来たと思っていたが事実はそうではなかった、それについては未だ語るべき事がある、水陸両用トラックに乗って日本軍掃討に出掛けた米海兵隊の一分遣隊は沖合の珊瑚礁に7名の日本人がいるのを見てこれを捕えるべく沖合に出掛けた、水陸両用トラックが近づくと7名のうち6名の日本人は珊瑚礁の上で自決を遂げ遠目にも明らかに将校と見える残りの一名は部下と共に刀を振りかざして水陸両用トラックめがけて突進してきた、然し彼と残りの部下一名は米軍の掃射に遭い壮絶な最期をとげた、これまで我々はサイパン島にあった2万の日本人非戦闘員の多くは互いに助け合って自決して果てたという事実とも思えぬ話を耳にしていた』(ロバート・シャーロッドの報告)と先ず日本兵の壮烈なる最後から書き出しているが、彼らアメリカ人は活字を通しておそらく珍奇なものとしてだけしか把握し得なかったであろう「大和魂」「切腹」の精神を二つの肉眼にみて何と考えたであろうか、日本はサイパンに幾多の尊い人命を、犠牲を払ったが、いまやそれが故国の同胞に総武装の比類なき刺激となって結実しつつある事実にまで果たして思いをめぐらし得たであろうか、この米人記者の筆致にはそうした心の響きは感じられない、……」。

 米国政府軍がグアム島(日本名:大宮島)を占領したのは1944年7月、のちに日本の広島や長崎へ原子爆弾を投下するB29爆撃機の基地として使用するテニアン島を占領したのは1944年8月であった。

 朝日新聞は、グアム島テニアン島については1944年10月1日付で以下のような記事を報道していた事を紹介したい。

一面右上角の記事上の横書き大見出しは2行仕立てで、上には「死闘二箇月・不滅の闘魂」、下は黒字白抜きで「斃れて熄まぬ大和魂顕示」、同面記事右側も縦書き大見出しは2行仕立てで、先ず「大宮島、テニヤン島」、その左側に「全員壮烈な戦死」、その左側にはさらに「全在留同胞共に散華」としていた。

大本営発表(昭和19年9月30日16時30分)

一、大宮島及び『テニヤン』島の我が部隊は其の後いずれも一兵に到る迄、勇戦力闘したる後遂に9月27日迄に全員壮烈な戦死を遂げたるものと認む 同方面の陸軍指揮官は陸軍中将小畑英良にして大宮島の陸軍部隊指揮官は陸軍中将高品彪、海軍部隊指揮官は海軍大佐杉本豊、『テニヤン』島の陸軍部隊指揮官は陸軍大佐緒方敬志、海軍部隊指揮官は海軍大佐大家吾一なり 

二、両島の在住同胞亦終始軍の作戦に協力全員我が将兵と運命を共にせるものの如し

小見出し(大宮島)『残る三百で突撃 最高指揮官、陣頭に奮戦』

(2023年8月14日投稿)

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真珠湾「九軍神」と讃えた神聖天皇主権大日本帝国軍部・メディア

2024-12-10 16:30:42 | アジア・太平洋戦争

 2023年12月8日朝日新聞は、太平洋戦争開戦82年という事で、神聖天皇主権大日本帝国海軍による、当時米国自治領ハワイ準州であったオアフ島真珠湾奇襲攻撃に関連した記事を、真珠湾の「軍神」という見出しで載せた。当時の軍部やメディア(朝日新聞)はどのように国民に対し伝えたのかを紹介しよう。

 「軍神」とは、戦時中に功績を立て戦死した軍人を讃える言葉であった。その代表的なものの一つが「真珠湾九軍神」であった。「九軍神」とは、太平洋戦争開戦となる真珠湾奇襲攻撃の際、5隻の小型潜航艇(2人乗りで計10人)に乗り(特別攻撃隊)、真珠湾近辺へ出撃したが、4隻は撃沈され8人が戦死、1隻は座礁し、1人は水死し、他の1人酒巻和男少尉は捕虜(朝日新聞などメディアはまったく伝えず国民は戦後初めて捕虜となっていた事を知った)となったため戦死は9人だったからである。

 大本営発表は1942年3月で、軍部は彼ら若い兵士の功績を讃え、2階級特進させて英雄化し国民の戦意高揚に利用した

 朝日新聞軍部の意向に従い、「軍神」と呼び、功績を讃えた。又「軍神」に対し「特別攻撃隊」の名称を使用し、「英霊の事跡を汚さぬよう国民は自戒すべきである」と主張した。1面全面を使用して報じ、2、3、4面にも関連記事を載せ、吉川英治三好達治などの作家や詩人の追悼文や詩を載せた。

 朝日新聞は、「九軍神」を部数拡大につなげるため、1942年7月から獅子文六により九軍神」の1人横山政治をモデルにした小説『海軍』の連載を開始した。朝日新聞軍部の要求以上に「九軍神」を英雄として美化し、国民を戦争に煽る事に力を入れた。

 朝日新聞はこの後も、陸軍戦闘機「」の操縦士で「ビルマの撃墜王」と讃えられた加藤建夫中佐(戦死後2階級特進で少将)を「軍神」と讃えた。

※1941年12月8日神聖天皇主権大日本帝国政府は、新聞社、通信社に対して「日英米に対する情報宣伝方策要綱」を決定。「大綱」は「世論を誘導」する基本方針として、「開戦は日本の権威と大東亜の生存を確保するためのやむにやまれぬ戦争である事」、「戦争の原因は敵国の利己的世界制覇の野望である事」などを徹底して報道する事を強要していた。

(2023年12月8日投稿)

 

  

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