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蒋介石や欧米諸国による、第1次近衛内閣のアヘン・麻薬(化学)戦略戦術に対する非難

2025-02-14 20:18:29 | アジア・太平洋戦争

 神聖天皇主権大日本帝国政府の「中華民国侵略」における「アヘン政策(戦略戦術)」の目的は、「生産・販売による巨利の獲得」と「中華民国の毒化」であった。

 その戦略に対し、蒋介石は1938年12月26日(第1次近衛内閣)、前月の近衛首相の「東亜新秩序声明」(1938年11月第2次近衛声明)を批判した演説の中で以下のように非難した。

「中華民国国民は一度『日本』という言葉を持ち出したら、すぐ特務機関や罪悪を働く浪人の事を思い起こすのである。アヘン販売、モルヒネ売り、コカイン作り、ヘロイン売りなどを連想し、賭博窟を作り、娼妓を一手に引き受け、兵器の密売買、土匪援助、無頼漢庇護、あるいは漢奸を作って秩序を乱し、人民の道徳を頽廃させるなど、毒化、匪化の陰謀を連想する。」

 神聖天皇主権大日本帝国政府の「アヘン・麻薬政策(戦略戦術)」は欧米諸国からも非難された。

1938年6月27日付『ニューヨーク・タイムス』は、「ケシ畑」と題する「社説」で以下のように非難した。

「中華民国の日本軍占領地域にあるケシ畑は今満開だとの事だが、……これは大日本帝国政府(軍)武力麻酔剤とを併用して中華民国侵略を行っている事を示すものだ。……ここ10年間世界の主要なアヘン配給者であった大日本帝国政府は、今や中華民国中にこのを撒布して人心を堕落させようとしている。」

同年7月12日付『クリスチャン・サイエンス・モニター』は、

宋美齢は大日本帝国政府(軍)が中華民国の国民精神および抗日戦線を弱化させるためアヘンの取引を奨励しているとまで言っている。もちろん宋美齢の言い分は間違った解釈かも知れないが、大日本帝国政府(軍)が中華民国をその統制下に置く事によって、従来アヘンの売買を防止しようとしていた欧米諸国の人道的努力を水泡に帰せしめるような事をしているという事実を隠す事はできない。しかして以上の事実は、わずか半世紀位で世界列強の列に加わった大日本帝国政府(軍)が、西洋文明の外面的模倣即ち工業、軍備および自然科学に関する限り欧米諸国と遜色なきほど能率を挙げているにもかかわらず、道徳的には現代の世界標準に達せず、百年も遅れている事を示すものである。」

1938年8月、上記のような国際世論に対して、大日本帝国政府外務省は以下のような受止めをしていた。

日華事変の進展にともない我が軍事占領地域におけるアヘンおよび麻薬の事態は列国ことに英米の異常なる注意を惹き、昨冬新政府(中華民国臨時政府)がある程度アヘンの吸食を緩和するにおよび、列国はこれを従来在華一部邦人により行われたる麻薬の密造・密売と牽連せしめ、大日本帝国政府はアヘンと麻薬とをもって中華民国を征服せんとしつつありとの悪声を放ち、国際世論の力をかりて我方を圧迫せんとする情勢にあり。」

(2025年2月14日投稿)

 

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蒙彊(内蒙古)政権(大日本帝国政府の傀儡政権)による「アヘン」政策(東京裁判判決文より)

2025-02-12 11:48:21 | アジア・太平洋戦争

 神聖天皇主権大日本帝国政府の「アヘン(麻薬)政策」の目的は、「生産・販売により巨利を獲得する事」と、「中華民国の毒化」であった。極東国際軍事裁判(東京裁判)における、神聖天皇主権大日本帝国政府が「十五年戦争」下に行った「アヘン(麻薬)政策」についての「判決文」では、「大日本帝国政府は中華民国における占領地域にアヘン法を公布した。……これらの法律は、アヘンと麻薬を官許の店に配給する政府統制の専売機関を作り上げたのであって、これらの専売機関は、麻薬からの収入を増加するために、その使用を奨励する徴税機関に過ぎなかった。大日本帝国政府に占領されたあらゆる地域で、その占領の時から、大日本帝国の降伏に至るまで、アヘンと麻薬の使用は次第に増加していた。」。又、その政策意図について、「この(アヘンと麻薬の)売買は、軍事行動と政治的発展に関連していたものである。この売買によって、大日本帝国側によって設置された種々の地方政権のための資金の大部分が得られたからである。……アヘン吸飲者の非常な増加が、中華民国の民衆の志気に与えた影響は、容易に想像する事ができるであろう。」とし、神聖天皇主権大日本帝国政府の「アヘン(麻薬)政策」を、「国際アヘン条約」に違反して遂行したものであり、「平和に対する罪」の一環とみなし、荒木貞夫以下28人の被告全員を訴追し有罪判決を下した。さらに、対中華民国関係の中央機関であった「興亜院」について、「興亜院の管掌した種々の事項のなかにアヘンがあった。興亜院は中華民国の各地方におけるアヘンの需要の状態を研究し、蒙古から、華北、華中および華南へのアヘンの配給をとりはからった。」としている。

 検察側提出の「北京市政府文書」は、「北京へのアヘン来源日本人の奨励による「蒙彊土(アヘン)業組合にある。北京におけるアヘンの主要供給者は、蒙古傀儡政府により管理され日本軍によりアヘン栽培を奨励された蒙彊土(アヘン)業組合であり、運搬および販売日本人および朝鮮人により行われたものである」と指摘している。

(2025年2月12日投稿)

 

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アヘンの大日本帝国政府の国産化は台湾の植民地化から、その後国際条約無視のアヘン政策

2025-02-10 22:56:46 | アジア・太平洋戦争

 日清戦争後の下関講和条約により清国から台湾省を割譲させ植民地化したのをきっかけに、神聖天皇主権大日本帝国政府は「アヘン」との関りをもつ事となった。内務省衛生局長であった後藤新平の主張に基づき、アヘン漸禁政策専売制度を実施した。その理由が欺瞞的で、「厳禁すると癮者(いんじゃ。アヘン中毒者)に苦痛を与えるので、人道的配慮である」と。加えて、「癮者の反抗とそれを鎮圧する軍事的負担が不要になる事と巨額の専売収入を得る事が出来る」との事であった。

 1897(明治30)年1月、台湾アヘン令を公布し、アヘンを政府専売とし、癮者認定された者はアヘン煙膏(えんこう)の吸煙は特許する事を定め、違反する者は処罰した。しかし実際は、癮者の公医証明がなくても、満20歳以上であれば特許を与えた。そして、癮者の救済や矯正措置は行わず、膨大なアヘン収入を獲得した。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、台湾でアヘン漸禁政策専売制度を実施したが、アヘン原料はすべてインド・イラン・トルコ・中国などからの輸入品を当てていた。しかし、台湾総督府国産化を図り、内務省の合意の下に、1905年から大阪府三島郡で試作を開始した。しかし、輸入品が安く入手できたので、1907年に施策を中止した。その後アヘン価格の騰貴とともに、1913年以降、大阪府豊能郡・三島郡・河内郡などでケシ栽培を拡大させた。三島郡福井村(現在の茨木市)の二反長音蔵(にたんおさ おとぞう)は、後藤新平(台湾総督府民政長官)の支持を得てケシ栽培を行い「アヘン王」と称された。アヘンはすべて神聖天皇主権大日本帝国政府が買い上げ、ケシ栽培とアヘン生産は内務省の管轄に置いた。1930年代には、和歌山県大阪府を中心に栽培と生産を行った。太平洋戦争下には和歌山県でケシ栽培の強制割当を行った。

 ところで20世紀に入って、アヘン戦争後の清国(中国)のアヘン禍は国際問題となり、英国批判が高まり国際条約の成立へ向かう。1909年には上海で、米国の提唱で最初の国際アヘン会議が開催された。1912年にはハーグ会議国際アヘン条約が調印されたが批准国も少なく、アヘン煙膏の輸出入を禁止及び制限しただけで、生アヘンの生産と輸出入は禁止しなかった。1920年に国際連盟が成立すると、ハーグ国際アヘン条約の実施について連盟が監督権限を持ち、理事会の諮問機関として、関係国によりアヘン諮問委員会が組織された。1924年には連盟によりジュネーブ国際アヘン会議が招集され、1925年には2つのアヘン条約が成立した。1925年に成立した第一アヘン条約は、生アヘン、アヘン煙膏の輸入・分配を政府の独占事業とし、癮者以外の使用禁止などアヘン吸煙の漸進的制止をはかるもの。第二アヘン条約は、麻薬及びその原料の生産・分配・輸出入・販売の取り締まりに関するもので、条約実施の監督のため常設アヘン中央委員会を設置した。1931年にはジュネーブで、麻薬製造制限会議が開催され、麻薬製造制限分配取締り条約(特にヘロインに厳重な制限)が成立した。神聖天皇主権大日本帝国政府は、上記4つの国際アヘン条約を調印・批准した。このようにアヘン国際条約が締結されたが、第1次世界大戦前後から中国では麻薬(アヘン・モルヒネ・ヘロイン)禍が広がった。その麻薬の輸出・密造・密売の主役となったのが神聖天皇主権大日本帝国政府と民間日本人であった。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、第1次世界大戦でドイツからの医療用モルヒネの輸入が途絶えたので国産化を図り、1915年以降、台湾総督府から粗製モルヒネの独占的払下げを受けた星製薬株式会社モルヒネ精製を開始し、のち大日本製薬・三共製薬・内国製薬なども製造に加わり、この国産モルヒネ及び輸入モルヒネ中国へ密輸出した。……つづく

(2023年8月22日投稿)

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朝日写真館 プロパガンダ 戦意高揚突き進んだ果て「1936年毒ガスマスク装着防空大行進」は自国の犯罪行為への報復を怖れる証拠写真 

2025-02-03 10:35:06 | アジア・太平洋戦争

 2022年8月13日の朝日新聞「朝日写真館」欄が、「プロパガンダ 戦意高揚突き進んだ果て」の大見出しで掲載した写真中に、「1936(昭和11)年 空襲による毒ガス攻撃を想定し、防毒マスクを着けて大阪市内を歩く人たち」とし、「朝日新聞社が主催した『防毒面装着防空大行進』で、2・26事件後に軍国主義が強まる中、防空演習防毒訓練が各地で頻繁に行われた」と説明したものがあった。もし毒ガス兵器に関して、広い知識やそれを基にした適切な認識力を培っていない人が、これは若い人とは限らないのであるが、この写真を見、説明を読んだ際、果たしてどのように認識するだろうか?正しく認識できるのかその事が心配であった。メディアは読者に誤解を生じさせないよう、伝えたい意味内容目的を明確にし、その意味内容目的が正しく伝わるよう、「丁寧な説明」を添えるべきだろう。安易な気持ちで簡単な説明を添え写真を掲載したのであれば、歴史事実を修正改竄する犯罪行為に陥る事になるだろう。

 アジア・太平洋戦争で、日本本土各地が初めて米国政府空軍による空襲を受けたのは1942年4月18日であった。本格的な空襲が始まるのは1944(昭和17)年7月7日サイパン島陥落以後であった。同年11月24日以後は連日のように襲った。しかし重要な事は、米国政府空軍は「毒ガス弾」を投下した事実はまったくなかったという事である。爆弾ナパーム焼夷弾を投下したのである。B29が投下したナパーム焼夷弾は、B291機に80個積まれ、投下後目標上空300mでさらに48個の焼夷弾に分散して降り注いだので、1機が3840発の焼夷弾を投下した事になる。「米国戦略爆撃調査団報告書」によると、米国政府空軍が投下した爆弾や焼夷弾の総重量は16万1425㌧、B29の出撃回数は353回、延べ出撃機数3万3041機で、損失率は1.4%であった。

 さて、話を本題へ戻そう。神聖天皇主権大日本帝国政府下における、空襲に関しての対応については、2・26事件が起こった1936(昭和11)年6月には(翌37年には日中戦争を開始)、東部防衛司令部が『わが家の防空』というパンフレットを編纂し、「これからの戦争は、空襲に始まって空襲に終わります。ですから我々国民は宣戦布告の前から戦争の全期間にわたって、絶えず敵の空襲のあることを覚悟しなければなりません」と述べ、1937年10月1日には内務省が「防空法」を施行し、防空演習防空訓練を実施するよう定めた。パンフレットの内容は焼夷弾を想定した消火訓練、「ガス弾に備えた防護訓練」、灯火管制の実施などであった。そして、各家庭に周知徹底するために『家庭防空の心得』なる印刷物を配布した。

 『心得』の中の「防毒」と題した囲みには、その囲み右側に「主要毒ガスの性能と救急処置」として表形式で「生理作用による区別」「毒ガスの名称」「臭気」「作用時の形態」「主なる生理的作用」「消毒剤」「救急処置」「持久力」「防毒具」などについて詳しく説明している。表の下部には「毒ガスに対する処置は」の見出しで、➀決して騒いだり慌てたりしてはならぬ➁火の元に注意せよ③家に在る者は戸障子を閉め防毒室防毒蚊帳の中に入り少なくとも一名は防毒面を着て外を警戒せよ④屋外に在る者は早く退避せよ⑤ガスは風下に流れるから風向きに注意して風上に避難せよ⑥防毒面がない時には手拭等を濡らして鼻口にあて出来れば一時呼吸をやめて速やかに被毒地域を逃れよ⑦ビランガスが身体に附いたら直ちに拭い取る等の応急処置をして救護を受け⑧ガスに中毒したと思う者は速やかに救護班の救護を受けよ、とある。そのさらに下部には「防毒室の造り方」として、「適当な一室を『防毒室』に充て、戸障子、天井其の他の隙間をハトロン、障子紙等で充分に目張りをし、老人子供の避難所を設けねばならぬ、防毒室の入口は押し開きか、立てかけの戸がよい」としている。また、防毒室・防毒蚊帳の棲息可能時間(約7時間)の「広さ」とその「収容人員」を細かく記載している。このような動きが背景にあった事を示す写真であったという事である。

 しかしなぜ、早い時期から、「防毒演習」や「防毒訓練」を実施したのだろうか?その理由は、神聖天皇主権大日本帝国政府の「毒ガス兵器」=化学兵器開発に対する姿勢にあったのである。

 化学兵器に対する国際社会の動きは、

1868年セント・ぺテルスブルク宣言(化学兵器禁止の条約として最古のもの)

1899年第1次ハーグ条約(窒息性ガス或は有毒ガスの散布を唯一の目的とする投射(投げたり・撃ったり)物の使用禁止の宣言を採択(大日本帝国の批准は1900年))

1907年第2次ハーグ条約(有毒の兵器使用の禁止。大日本帝国の批准は1911年)

第1次世界大戦では、毒ガスを兵器として大々的に使用。毒ガス被害者は100万人を超えた。

ドイツは、ハーグ条約が規定しているのは「投射物」の使用禁止で、ドイツ軍が使用した毒ガスは固定したボンベの中から放出させたのだから条約違反ではないと言い逃れた。そこで化学兵器の使用禁止を実現するため、

1925年ジュネーブ議定書(第1次世界大戦の悲惨な経験を経て、「戦争中に窒息性、毒性あるいはその他のガス及び細菌作戦装置を禁止」した)。しかし、ここでは毒ガス兵器の実戦使用だけを禁止し、研究・開発・保有については制限していなかった。大日本帝国政府は調印したが、調印後、批准しないまま(批准は1970年)それ以前から進めていた化学戦の準備を秘密裏にさらに進めたのである。

1918年陸軍軍医学校に化学兵器研究室(責任者小泉親彦)をつくる(シベリア出兵で大量のガスマスクを送った)。陸軍省に臨時毒ガス調査委員会を設置し、毒ガス研究を開始(欧米視察)

1919年陸軍科学研究所を創設し、毒ガス委員会の主力メンバーが移った。

1926年参謀本部に毒ガス研究委員会を設置(29年化学戦委員会へ)

1929年広島県大久野島東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所を設立し、毒ガス製造を開始した。戦前は国民の眼にできる地図から消され、毒ガスの製造はもちろん、島の存在さえも秘密にした。

※大日本帝国軍が実戦で初めて毒ガスを使用したのは、1930年の台湾の原住民によよる抗日闘争「霧社事件」の時であった。

 毒ガス工場では、各種の毒ガスを製造したが、1935(昭和10)年までにはドイツ式・フランス式ビラン性(インペリット、ルイサイト)、中毒性(青酸)、窒息性(塩化アセトフェノン、ホスゲン)などを製造した。陸軍による毒ガス戦(化学兵器戦)の実態については、軍関係者以外の日本人には秘密にしてきたため、国民は事実を知らなかったが、1984(昭和58)年マスコミが報道し、研究開発は旧陸軍科学研究所(東京)、大量製造したのは大久野島、充填は曽根(北九州市)、運用・訓練は旧陸軍習志野学校で行われたという大日本帝国政府による化学兵器戦の構図が国民の前に明らかになった。

 中国における大日本帝国陸軍のよる毒ガス攻撃地点は中国の全都市に及び、1937~1945年の間に2091回の毒ガス使用が確認されており、9万4000人の死傷者を出していた。しかし、「毒ガス戦」は第731部隊(細菌だけでなく毒ガス兵器の効力も捕虜を使って生体実験していた)と深く関わりを持っていたことから、「細菌戦」と同じく、戦後の極東国際軍事裁判では不起訴となった。

 大日本帝国陸軍は敗戦後中国に大量(中国側調査では総数200万発で薬剤100㌧)の化学兵器を遺棄してきた。吉林省・河北省・黒竜江省・遼寧省・浙江省・江蘇省・江西省などの30数か所に及んでいるが、大部分は戦後中国政府が吉林省敦化市郊外のハルバ嶺に集めて埋設した。戦後、漏出した液剤などで数千人の中国人が死傷したといわれる。そのため、1997年4月29日に発効した化学兵器禁止条約には遺棄毒ガスの廃棄義務が盛り込まれている。

 敗戦後米国政府軍により廃棄処理された日本国内の毒ガス(弾)は大久野島内に埋設されたほか、北海道の屈斜路湖、関東の銚子沖、相模沖、東海の遠州灘、四国の土佐沖、九州の別府湾、中国地方の周防灘、大久野島周辺域など8カ所の地域に海洋投棄されたままである。

(2022年9月18日投稿) 

 

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侵略戦争に協力し煽った西田幾多郎を顕彰する石川県建設かほく市管理運営の記念哲学館

2025-01-11 10:53:48 | アジア・太平洋戦争

 2020年12月15日付朝日新聞が「西田哲学 スポーツで探る」という見出しの記事を掲載した。「生誕150年を迎えた」として西田幾多郎(1870~1945)を「称賛」「顕彰」し「肯定」している事をうかがわせる表現を使って。また、西田のプロフィール内容も極めて一面的で偏向しており、西田についての知識を持たない人を欺き好印象を与えるようにしている。朝日新聞はなぜ今何を目的に「西田哲学」を好意的に取り上げるのか注意が必要である。

 西田幾多郎の生誕地石川県かほく市(旧宇ノ気町)は、西田の業績を後世に長く顕彰する事を目的として、すでに1968年には宇ノ気町立西田記念館を建設していた。その後2002年6月8日には、石川県が、かほく市に管理運営を委ねた、「石川県西田幾多郎記念哲学館」(安藤忠雄の設計)を開設している。かほく市も石川県もともども西田を「顕彰」する「立場」に立っているといえる。

 哲学館HP「概要」には「西田哲学」を、「日本の哲学の歴史の出発点であり一頂点でもある……すでに古典の位置を獲得……国内外での関心の高さや研究文献の数が、その事を物語っている」「生きる事を凝視し続けた哲学」と高く称賛している。また、かほく市教育委員会が出す冊子は「西田先生」としており、市議会でも呼び捨てにしていない状況が存在する。

 しかし、西田はの関係する「国策研究会」での演説を『世界秩序の原理』(1943年)にまとめたが、それには「皇室は過去未来を包む絶対現在として、皇室が我々の世界の始であり終である。皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し来った所に、万世一系の我国体の精華があるのである。我国の皇室は単に一つの民族的国家の中心というだけでない。我国の皇道には、八紘為宇の世界形成の原理が含まれて居るのである。」「神皇正統記が大日本者神国なり、異朝には其たぐいなしという我国の国体には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室万世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云う事は、単に直線的という事ではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云う事でなければならない」「日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云う事にあるのである。八紘為宇の世界的世界形成の原理は内に於て君臣一体、万民翼賛の原理である。」「英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に傚うに至るであろう。」と述べているように、万世一系の天皇を頂く神国日本が、世界の覇者になると予言していたのである。

 また、1940年には講演録『日本文化の問題』では、日中戦争を肯定し、「従来、東亜民族は、ヨーロッパ民族の帝国主義の為に、圧迫せられていた、植民地視されていた、各自の世界史的使命を奪われていた。……今日の東亜戦争は後世の世界史に於いて一つの方向を決定するものであろう」と述べていた。

 また、西田は禅体験による「純粋経験」を哲学の出発点としたが、それは、主観と客観の分離の否定、知情意の区別の統合、個と全体の統一であり、滅私奉公、さらに国民が国家(政府)=天皇のために殉死する事を正当化するものであった。西田の国家観は、天皇を父()とする疑似家族国家であり皇道であり、共産主義のみならず、民主主義自由主義を否定した。

 西田の教え子三木清は1933年、近衛文麿のブレーン「昭和研究会」に参画し、中心メンバーとなっていた。39年には彼の著『新日本の思想原理』で「東亜共同体論を構想し、西田哲学を具体化した。これが近衛首相の「東亜新秩序」声明となり、「大東亜共栄圏」や「大東亜戦争」の元となったのである。

 西田の理解者であり、ともに京都学派をリードした田辺元は、1940年に『歴史的現実』を出版し、「抑々天民・君民一体という言葉が表して居る様に、個人は国家の統一の中で自発的な生命を発揮する様に不可分に組織され生かされて居る、国家の統制と個人の自発性とが直接に統合統一されて居る、之が我が国家の誇るべき特色であり、そういう国家の理念を御体現あらせられるのが天皇であると御解釈申し上げてよろしいのではないかと存じます。」「死が問題となるのは死に於いて生きつつあると共に、生に於いて死に関係しているからである。……我々が死に対して自由になる即ち永遠に触れる事によって生死を超越するというのはどういう事かというと、それは自己が自ら進んで人間は死に於いて生きるのであるという事を真実として体認し、自らの意思を以て死に於ける生を遂行する事に他ならない。」という論理、つまり「生きる事は死ぬ事だ」「悠久の大義に準じた者は永遠に生きる」という論理を説き、強要される戦死自発的な戦死へと歪曲させた。

 西田の直系の弟子の高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高らは1941年に座談会を行い、戦争を正当化した(『世界史的立場と日本』)。42年には『近代の超克』を発表した。敗戦後4名は公職追放となった。

 最後に、近年注意しなければならない動きは、「自由と民主主義が不幸を生む。平等主義や格差是正などは欺瞞である」(『反・幸福論』)などと主張している佐伯啓思が、西田哲学に傾倒し、日本や特攻を賛美している(『西田幾多郎 無私の思想と日本人』)事である。

(2020年12月18日投稿)

 

 

 

 

 

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