2022年2月17日の天声人語がウクライナ情勢について、「砲艦外交」という用語を持ち出し、「武力の威嚇により他国に譲歩を強いるやり方」で、その一例が、19世紀、日本に開国を強行に迫った「米国ペリー艦隊」であるとし、ロシアの姿勢は「現代の砲艦外交」といえるとしていた。
この「ペリーの砲艦外交」に関連して忘れてはならない事がある。この「ペリーの砲艦外交」に倣って、朝鮮国に対して、ペリー以上に凶悪な軍事的暴力的手法で「江華島事件」を起こし、この事件を口実に、さらに大規模な軍事的威嚇により「日朝修好条規」を締結させたのが神聖天皇主権大日本帝国政府であった事実である。
1875年9月、神聖天皇主権大日本帝国政府の命を受け、海軍少佐井上良馨が率いる日本軍艦雲揚号が、朝鮮国の首都ソウルの表玄関である江華島近くに侵入し、朝鮮国側を挑発し、江華府草芝鎮の砲台を砲撃し、これを破壊した。雲揚号側は1発の被弾、1人の死傷者もなかった。しかし、報復のため、永宗島砲台を砲撃し、陸戦隊を上陸させて朝鮮兵35人を殺害して占領し、大砲38門をはじめ兵器軍需品を奪った。この戦闘でも雲揚号側には負傷者を2人出した(内、1名は航海中死亡)だけであった。国交を樹立していない国の首都近くに侵入し、朝鮮国側を挑発して事件を引き起こしたのである。これが江華島事件である。
さらに大日本帝国政府はこの事件を口実に「修好条規」を締結させようと目論むのである。75年12月中には、駐日各国公使の了解を取り付け、陸軍中将兼参議黒田清隆を特命全権弁理大臣、議官井上馨を特命副全権弁理大臣とし、陸軍卿山県有朋には大兵を率いて下関に待機させ、黒田たちを1876年1月末に、艦船6隻に800名の護衛兵を乗せて 江華府へ入らせた。黒田は一方的に大日本帝国政府側にのみ都合の良い要求を突きつけ、圧倒的な軍事的圧力で脅しながら1876年2月26日に、朝鮮国側にとって不平等で不利益な日朝修好条規を締結させたのである。
なお、75年9月に起こした江華島事件の際に使用した江華島近辺の海図はアメリカ極東艦隊から提供されたものであり、75年12月9日には井上副全権は米国公使ビンガムから、ペリー提督が日本訪問した際の一随員テイラー著『ペリーの日本遠征小史』を手に入れている。
(2022年2月22日投稿)
「こんなに早くから! 天下統一直後に攻めていった秀吉と同じじゃないか。西郷の征韓論はいつだっけ? 」