2019年7月5日の新聞に、大阪市立泉尾北小学校で、先の5月8日に、小田村直昌校長(元銀行員、2012年に公募で民間人校長となる)が「愛国の歌姫」と呼ばれるシンガー・ソングライターの山口采希(「教育勅語」を「大切な宝物」という歌にし、塚本幼稚園で歌ったり、明治天皇の御製と五箇条の御誓文を組み合わせた楽曲を作成し、神社や自衛隊や、戦艦三笠でもライブ活動)を招き、全校朝礼を実施した。彼女は、敗戦まで唱歌とされた「神武天皇」(研究では天皇という称号は使用されておらず、実在しない)や「仁徳天皇」(神武と同じく実在は不明)という歌や、「ああ勇ましく日の丸が行くぞ」などという歌詞内容のオリジナル曲「行くぞ!日の丸!」などを児童に聴かせた(7月3日判明)。唱歌「仁徳天皇」の歌詞は、
「玉の宮居は名のみにて あれにぞあれし 大殿に
三歳の月日 凌ぎつつ 民のかまどを にぎはし給ふ
その大恩めぐみ 雨降りしきる あしたにも
風ふきすさぶ 夕べにも 大御身の上は 忘られて
民のうえのみ 思ほし給ふ その大御心」
というものである。「民のかまど」は皇民化教育を目的とした、教育勅語児童読本(1940年)や修身教科書の定番教材で、「慈悲心」「お恵み」を賛美し皇国臣民に感謝させ「天皇」に命を賭して奉仕する精神を植えつけるものであったが、山口はこれについての話もした上で歌った。
また、山口のオリジナル曲「行くぞ!日の丸!」を歌う前に話した内容が、学校教育の場では常識として絶対に許されるはずがないのであるが、故意の虚偽(おそらく勉強不足の事実誤認ではなく)を、児童に語っていたのである。それは、「今年は、人種差別をなくそうと日本人が世界に向けて声を上げた1919年の人種差別撤廃条約提案(当時台湾や朝鮮を侵略し過酷な植民地支配をしており、虚偽の説明をしている)から100年で、そんな節目の年に改めて、世界中のみんなが違いを認め合って手を取り合い、たくさんの笑顔が咲き誇る事ができるようにという思いで、おじいちゃんおばあちゃん、ご先祖様が引き継いで来られた優しい気持ちを伝えます」というものである。この言い回しは大東亜共栄圏建設を理想とした敗戦までの学校教育教科書(修身を主とする)表現の焼き直しと考えるべきで、山口の語る内容はまったく当時の神聖天皇主権大日本帝国政府の実態とはまったく異なるもので、侵略を隠蔽し、侵略行為を美化する虚偽である。
しかし、これに対し、校長は小学校HPで「とてもいいお話」「とても素晴らしいゲストでした」と絶賛している。校長自身も山口の歌の前に、新天皇を「神武天皇」から126代目と説明し、「神武天皇」を実在視した訓話を行った。さらに、校長は山口とツーショットの写真を学校HPで公表しているが、その校長が満面の笑みを見せて両手で持っているものは、山口が記念に贈った、敗戦まで神聖天皇主権大日本帝国政府が使用し臣民に使用させた、初代「天皇」を「神武天皇」としその即位を紀元とし、時を数え表す「皇紀2679年」と大書した色紙である。「皇紀」は敗戦後の日本国憲法下では廃され、使用を認めていないものであるにもかかわらず、学校HPに校長が喜色満面で載せているのである。それは常識では厚顔無恥そのもので非常識の極みである。
このような校長の姿勢に対し、市民団体「子どもたちに渡すな!あぶない教科書 大阪の会」が6月22日、「国民主権にそぐわない内容。公立学校でこのような集会は不適切で、児童や保護者に謝罪すべきだ」と大阪市教育委員会に抗議をした。
この点での市教委の問題点は、市民団体から抗議を受けるまで市教委は気づいていない形となっているという事である。また、小学校校長は、教育委員会に報告していない形となっているという事でもある。しかし、真実は市教委も校長も互いに十分な意思疎通を図ったうえで今回の全校朝礼を実施したのであり、それを何の問題もない正当な教育内容であるとしていたのである。なぜなら、校長はこれまでユーチューブなどにおいても自己の思想信条や価値観について堂々とその正当性を主張しており、また、これまでの政策実行の姿勢を見れば、市教委や市長も同類である事が明白であり、知らないという事はあり得ないと考えられるからである。それは憲法に反した極めて独善的で偏向したものである。あり得ないが、もしも互いに知らなかったと言うならば、それはそれで職務怠慢という事を免れない事であり、いずれにしても処分の対象と見なすべきである。
話を戻しそう。市民団体から抗議を受けた後、市教委は校長からの聞き取り調査をしたうえで、「神話など不確かな内容を取り扱う際は多面的な捉え方をするよう留意すべきだった伝えた」とメディアの取材にコメントした。しかし、これは市教委が、この全校朝礼における、校長の訓話や山口の話しの内容や歌った歌の内容や意味などを、憲法に照らして「真の問題点は何か」という判断をあえて避けており(能力を有していないのではなく)、そして問題処理対応のポイントを外し、「処分」に値する行為であるとも見做していないという事である。教育行政を担い教員処分の権限を有する立場のある者として、主権者市民を代表して子どもたちの人権と子どもたちのために教育内容を保障しなければならないにもかかわらず、その法的認識能力や人権尊重意識に欠けた極めて偏向した価値観に基づく対応をとっていると言って良く、その立場にある者としてその能力資質が相応しくないと言って良い。だから、憲法を尊重する主権者市民としては、子どもたちが今後、彼らにより人権を侵害され不利益を被らないように、直ちに罷免を要求すべきであるし、辞任するよう要求すべきである。
また、市教委から上記の指導を受けた校長は、「押しつけるようにはやっていない」と答えたという。この点での問題は、全校朝礼の形式で実施したという事が、正に「強制」にあたるという事を自覚できていない(故意に認めないのであるが)事である。また、全校朝礼を始める前には、校長としては当然の事として生徒全員に「君が代」を歌わせ、あわせて「校歌」や「大阪市歌」を歌わせてご満悦なのである。この事はすべての行事において教員に命じて実施させているのである。このような事を「繰り返」えさせる事によって、敗戦までの国民学校教育のように、児童に皇国民としての錬成を行っているのである。基本的人権を保障している日本国憲法の下で。校長は独善的体質を持ち、人権尊重教育や科学的歴史教育やそれに基づく意見主張を、自己の価値観を正当化するのに都合よく歪曲して理解し、自己の価値観に対し反対し否定する意見主張に、常識を逆転させて「偏向」レッテルを貼り犯罪者に陥れるこの悪質な犯罪者的人格は、児童の人権と教育内容を憲法に則って保障すべき校長としての資格をまったく有していないというべきである。このような校長に対して、「処分」を考える気配も見せない任命責任を有する市教委及び市長ともども同類として共犯と見做して「退場」させるべきである。
さらに問題として安倍自公政権を追求しなければならない事がある。それは校長が市教委に、今回の件について、「文科省が4月に出した『令和への代替わりに際し祝意を表する意義について児童に理解させる事が適当』との通知に則って実施した」と説明したからである。校長や市教委や市長については上記の処置が妥当であるが、安倍自公政権の文科省(文科相)が、このような一片の通知を出して、市教委や校長が教員に命じて、子どもに対して、有無を言わさず(子どもの権利条約にも保障され、日本政府も批准している人権を認めず )従わせたという事であるが、そんな事が許されて良いのだろうかという事である。憲法を尊重する主権者国民は、許されるとはいわないだろう。という事はこの事件が起きた元凶は「安倍自公政権」であるという事である。
(2019年7月11日投稿)