2019年7月6日、「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録された。その推薦作業に関わった考古学者に、白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長)と福永伸哉氏(大阪大学教授)がいる。安倍自公政権が世界遺産登録に推薦する動きを進めてきた中で、様々な点に関して、日本考古学協会など考古学・歴史学の13学会が登録推薦に対する見解や抗議を行ってきたが、彼ら両人のその見解や抗議に対する反論主張を分析してみると、彼ら両人はまったく学者として説得力のある常識や倫理を有していない事が明白である。彼らは、真の学者としての立場からではなく、自己の売名目的で推薦作業に関わっていたのであり、安倍自公政権はそのような彼らの体質を見透かして彼らを利用したのである。彼ら両人の考え方は、共通しており、軽薄で無責任そのもので、そして、彼らの専門とする考古学界はもちろん歴史学界の常識や倫理を否定無視したものであり、学者としての倫理に背いたものである。彼らは、ただ単に考古学に関する「物知り」に過ぎず、アマチュアにも劣る体質というべきである。
彼ら両人は「売名体質」を有していたので、安倍自公政権が彼らの「売名体質」や「肩書」(日本国民は肩書に弱い習性をもつ)を利用して、特に「大山古墳」をその代表としてその被葬者を確定するという宿願を、「世界遺産に登録される」という手法を使って達成しようと試み、実現させたと言って良い。彼ら両人は、神聖天皇主権大日本帝国政府において伊藤博文がすでに捏造し正当化してきた「神武天皇に始まり、万世一系とする神聖不可侵の天皇制支配」を、敗戦後の日本で否定されたにもかかわらず、安倍自公政権が今日再び真実として捏造しようとする(歴史捏造)目論見に加担したといえる。
白石氏の考え方は、極めて自己中心的独善的で軽薄で無責任である。たとえば、「「陵墓」の祭祀自体は国民に理解されている」と言うが、それは極めて非科学的で乱暴な判断であり実態を表していないし、彼がそうあらねばならないあるべきだと決めつけ国民の意識を誘導(洗脳、刷り込み)していると言うべきである。そして、「陵墓のあるべき姿に国民的な議論が起こり、バランスの取れた国民合意が形成できればいい」と言うが、そんな事ができるくらいなら今回の遺産登録推薦の経過の中でとっくにできているはずである。できていないから異議を唱えたり抗議したりしているのである。学者として白石氏自身が進んでそのような手順を踏むべきであったにもかかわらず、責任放棄し他者にその後始末を押し付けているのである。異議や抗議の声を無視したうえに、自分が学者としての常識や倫理に背いて推薦作業をした責任をまったく認識していない言い草はあまりに非常識である。白石氏の言うような国民合意は、これまでの自民党政権の政治姿勢を振り返っても、容易にできる政治環境ではなかった事は明白である。
彼の年齢からしても彼が専門とする分野からしても、彼はそれを故意に知らぬふりをしているのである。メディアも報道しないため国民の多くが知らないが、1972年4月の衆院文教委員会で超党派で「陵墓」の発掘に関して宮内庁に要求した事があった。自民党・中山正暉が「宮内庁は数多くの陵墓を管理しているが、その中身は学者によって調べられた事がない。我々の先祖の歴史を調べるうえでも、古代の陵墓を発掘すれば貴重な手掛かりが得られるのではないか。科学者天皇も、それを望んでおられるのではないか」と、また、社会党・小林信一が「陵墓の発掘調査は国民の意思なのだ。発掘していけないというのは天皇のご意思なのか」と追及したが、宮内庁は「陵墓は皇室の先祖の御陵であり祭祀もしている。発掘は考えられない。陛下のご意思は発掘したくないのだと思う」と答えたのである。1977年4月の参院内閣委員会でも社会党・秦豊が、陵墓を公費で賄っているなら発掘させるべきだとして、「天皇陵は国民共通の文化財だが、宮内庁は陵墓としておさえ、学術調査の対象にはなり得ない、として拒んでいる。今後ともずっと拒否するのであれば、天皇陵の維持管理に関する予算は、宮廷費で認めるわけにはいかない。内廷費に加えるべきだ。国民の共通財産的な、歴史的価値あるものについて調査の対象にしてもらいたいと言うと、それは拒否する、予算は国家のものを使います、天皇家の私的なものは守り抜きます。これでは憲法88条「皇室財産・皇室の費用」に定める「すべて皇室財産は、国に属する。すべての皇室費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない」に誠実に対応しているとは、とても思えない」と追及すると、宮内庁宇佐美長官は「この問題について私は(かつての委員会で)ウルトラ保守主義者であるといわれたが、それで良いと答えた事を思い出した。陵墓の文化的価値を知らないわけではないが、代々のご祖先のみたまを祀る静謐な、神聖な所と考えて、ご命日にはちゃんとお供えをしてお祀りしている。陵墓は古墳という一つの文化財というだけではない事を、基本的に考えている」と答えている。しかしこれは、憲法違反の私見に過ぎないと言って良い。つまり、宮内庁は、日本国憲法で定められている皇室用財産として管理しているにもかかわらず、明治初期(神聖天皇主権大日本帝国下)に伊藤博文が「陵墓」として治定(特定)した姿勢を変えず、「静謐と尊厳の保持」を理由に原則非公開とし、科学的な調査を認めようとしない姿勢を持っているという事を示すものである。大日本帝国政府下において、天皇の支配の正当性を保つため、天皇の古墳を天皇の「陵墓」として「神聖不可侵」として祀り上げ、一般大衆はもちろん学者であろうと、近づく事研究する事を許さず(早大の歴史学教授・津田左右吉は古事記・日本書紀など古代史の科学的解明を行い、神代説話が客観的史実ではない事を論証したため、皇室の尊厳を侵害したとして有罪とされ、著書『神代史の研究』などを発禁とされた)、発掘調査も禁じたように、敗戦後も大日本帝国政府を継承する自民党系政府が、今日に至るまでその態度をほとんど変えていないという事なのである。
現在の安倍自公政権においてはこれまで以上に期待する事は不可能である事は誰にでも推測できるにもかかわらず白石・福永両氏は上記のように公言しているのである。このうえ、安倍自公政権が憲法改悪し、日本の政権が再び敗戦前のような体質の政権に回帰したならば、国民的な議論や合意など到底できるわけがないのである。白石氏はそんな事態が迫っているにもかかわらず、そんな心配などあり得ないとするような無責任な認識を示しているのである。また、被葬者の研究についても、遺産推薦の名称と大きな関係があったが、白石氏は「宮内庁や自治体、学会も含め、可能な限り共同で進めてほしい」と言うが、登録推薦の前に発掘調査をせず、推薦には根拠なくその被葬者を決めつけ「仁徳天皇陵古墳」とした無責任さを棚に上げ、共同研究が安易にできるはずがないにもかかわらず、あまりにも楽天的楽観的に「是正すべき事があればそうする事も必要だ」というが、何時どのようにするのかについては他人任せで責任放棄をしている。
白石氏は遺産推薦の名称についてはまた、「宮内庁が乗ってくるギリギリの線が今の呼び名だった。現状を考えればやむを得ない」としているが、この言葉は、宮内庁が被葬者として特定している名称である「仁徳天皇陵」(宮内庁は科学的研究の成果を認めようとしない。ローマ字表記であろうと特定している事に変わりはない)をそのまま登録推薦する事に「取引」として同意しているもので、そこには学者としての常識倫理やそのような「捏造」をしてまで登録推薦し登録してもらうという姿勢について、責任のかけらさえも感じさせない。自身が真の学者であるならば、こだわらなければならない「名称」と「被葬者」について、登録推薦に関わった当事者でありながらその決定の責任を感じさせない「いい加減さ」を表している。
「名称」については福永氏も同様の姿勢が見られ、「(「仁徳天皇陵古墳」などは被葬者が確定したかのような誤解を与えるなど)呼称の問題もあるが、過渡的なものとして後世にゆだねたい」としており、学者としての常識や倫理に重大な問題を有しており無責任この上ない。福永氏は、おまけに「私は考古学者なので、長期的に考える。先ずは本体を残す事。そうすれば後世に託せる。新しい保護体系ができて、将来きっと課題を解決できると楽観的に思っている」としているのであるが、「考古学者なので、長期的に考える。先ずは本体を残す事」などと言う事はまったく意味がない言葉である。課題があると考えているのであれば、今何も、国民はもちろん世界中の人々に対して欺瞞的な屁理屈をもって「捏造」し、遺産登録を急ぐ必要はなかったのではないだろうか。自身の発言や行為は「後世に託せる」などと無責任な考え方をせず、自身が責任を取れる時間的範囲内の仕事をすべきである。「将来きっと課題を解決できると楽観的に思っている」という事であるが、これも国民意識に対する「刷り込み」(洗脳)が目的であり、「楽観的に思う」事はそのまま彼の「無責任」な考え方を表している。上記の福永氏の考え方は白石氏と同じで、学会に背を向け、学者としての常識と倫理を具えない人間である事を表し、そのような考古学会を代表して推薦作業を担ったわけでもない人間が、考古学会の代表であるかのように、明治の捏造を補強するために再び新しい手法で捏造を重ねたのである。捏造の上塗りである。どんな手を使ってでも今遺産登録される事だけを目的としたもので、登録後は「あとは野となれ山となれ」とする無責任な考え方そのもので、彼ら両人の主張はまったく自己を正当化するためのもので、国民意識に刷り込むための「屁理屈」というべきもので、であるから彼らと同じ考古学者たちの多くが抗議する事態を招いたのである。
安倍自公政権宮内庁の狙い通りに、「仁徳天皇陵古墳」の名称を疑う事なく頻繁に使用するようになる事態が発生するのではないかと心配したが、すでにこれまで以上に、テレビ番組やメディア、商魂たくましい国民大衆の間ではもちろん、学校でも軽薄な校長や教師が児童生徒を巻き込み利用して行われている。彼ら両人にとっては予想していなかった事であろうがこれが想定内の現実である。この事態にどのように責任を負うつもりなのだろう。
また、福永氏は「古墳に樹木が生い茂っているのは、適切な保存・管理にとっては良くない。木を間引いて切る事でシルエットが分かるのが望ましい」としているが、「木を間引いて切る事でシルエットが分かるのが望ましい」という「見栄えを良くする」意味での「保存・管理」を奨めているだけであって、真の考古学者であれば、発掘調査を行い、恐らく本来の姿がそうであったように、現在生えている樹木を伐採し、「葺石」を敷くべきであると主張すべきところをしていない。そして、その事は「お金もかかるし宮内庁だけで対応できない。国民合意のうえで、「令和の大修復」をしなくてはならない」としているが、自ら進んでやろうとする気持ちはなく、上記のような「妄想」を描いているのである。彼ら二人は、真の考古学者とは言えない、幼稚で軽薄、無責任な考え方で、安倍自公政権の求めに応じて常識や倫理を打ち捨てて何が何でも登録推薦の作業を果たしたという事である。それはまた自己の売名目的のためであった。
(2019年9月12日投稿)