つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

令和フィーバーは安倍自公政権とメディアが仕組んだ天皇制フィーバー:大日本帝国政府が捏造した天皇像により刷り込まれた臣民の虚勢の誇りの覚醒を目論む

2019-05-21 00:47:31 | 皇室

 令和フィーバー(熱狂)の実態は、安倍自公政権とメディアが仕組んだ天皇制に対するフィーバーである。私は国民のその光景を見て、大日本帝国臣民が政府により虚構の天皇像を刷り込まれ、それを誇りに思う姿、それは虚勢であったというべきであるが、その再来再現であるように見えた。敗戦後もその天皇への尊敬と臣民としての誇りを無意識に心の深層に脈々と今日まで継承してきたように見え、今回のフィーバーは急激にそれが解き放たれたようにみえた。元号は、元祖中国では中華民国成立によりすでに廃され西暦を使用しているが、日本では、敗戦前の国家体制・天皇主権国家への回帰を目指した自民党系政府は、敗戦後も「昭和」の元号を法的根拠なく非合法で、国民に選択の余地も与えず、公文書に使用する事を強いてきたと言って良い。ちなみに、旧皇室典範12条には「践祚の後元号を建て、一世の間に再び改めざること明治元年の定制に従う」と定めていたが、現行典範は定めていない。1979年(大平自民党内閣)にはそれを合法化するために「元号法」を成立させた。この法は、その法がしめすように「天皇制」が存在する事を前提とする法であり、国民の意思の如何によって、「天皇制」とともに、廃止できるものである。しかしこの事は、法に「政令で定める」としているように、その制定の主体は国民を代表する「内閣」としたもので、天皇の権力を示すものではなくなっているのである。しかし、安倍自公政権は主権を持つ「天皇制」を存続させるとともに、「元号」を戦前同様の意味を持つものとして復活存続させたいと考えているのである。

 元号法制定の経過を見ておこう。「明治100年」に当たる1961年、神社本庁は元号法制化を決議。72年、自民党が元号問題についての小委員会を作り、「昭和50年」「天皇在位50年」の頃から法制化を叫び始めた。

77年、福田赳夫(自民党)が首相として初めて元号存続の意向を表明。78年、自民、民社、新自由クラブの議員411人が「元号法制化議員促進連盟」を結成、79年、大平内閣は元号法案を本会議に提出し、6月成立した。そして、この法の附則で昭和の元号は、元号法第1項「元号は、政令で定める」の規定に基づき定められたとし、昭和を法的に裏付けたのである。

 神聖天皇主権大日本帝国政府下の国民学校における日本の国や天皇についての教育内容を紹介しよう。

 6年修身「大嘗祭の御儀」では「大嘗祭は、わが国でいちばん尊い、いちばん大切な御祭であります。御一代に御一度、神代そのままに、こうごうしいこの御祭をあそばされるのは、実にわが大日本が、神の国であるからであります……これこそ、実に大神と天皇が御一体におなりあそばす御神事であって、わが大日本が神の国である事を明らかにするもの、と申さねばなりません」(『初等科修身四』)

 天皇陛下は 宮城に おいでに なります

 宮城の 松の みどりは いつ ながめても かわりません。

 天皇陛下のおおさめになるわが日本は 世界中で一番りっぱな国です。

 天皇陛下をいただいている 日本国民は ほんとうに しあわせです

 私たちのそせんは だいだいの天皇に ちゅうぎをつくしました。

 私たちもみんな 天皇陛下にちゅうぎを つくさなければなりません。

 (『ヨイコドモ下』)

 日本の北東から、南西の岸へかけ、遠くわが南洋の島々まで、太平洋の波は、ひたひたと打ち寄せる。(中略)かなた、熱帯の海から流れ起こる黒潮、わが大日本の磯を洗いながら、北上し、東へ転じて、遥かにアメリカの大陸をつく。(中略)黒潮と台風と、その焦点に、神は大八洲を生み、皇祖皇宗は国を肇めたまう。そこには世界の原動力が力強くひそみ、最高文化の源泉が高鳴っているのだ。日向を船出して、都したまう国は大和、わが大日本はおおやまと、また浦安の国であるように、太平洋は、皇国の鎮めによってのみ、とこしえに「太平」の海なのである。(『初等科国語八』「太平洋」)

 あかるいたのしい春が来ました。日本は春夏秋冬のながめの美しい国です。山や川や海の綺麗な国です。このよい国に私たちは生まれました。おとうさんも おかあさんも この国にお生まれになりました。おじいさんも、おばあさんも この国にお生まれになりました。日本よい国、きよい国。世界に一つの 神の国。日本よい国、強い国。世界にかがやく えらい国。(『ヨイコドモ下』「日本の国」)

 世界に、国はたくさんありますが、神様の御ちすじをおうけになった天皇陛下が、おおさめになり、かぎりなくさかえていく国は、日本のほかにはありません(『初等科修身一』「日本の子ども」)

 親房は陣中にありながら、ふでをとって国史の本を書くことにしました。親房はその本の初めにこう書きました。「大日本は神の国である。神がこの国をお開きになり、天照大神が天皇の御位を、ながくさかえますように、お伝えになった。これはわが国だけにあったことでほかの国にはまったくないことである。だからこそ、わが国のことを神の国というのである」天照大神の仰せによって、神のお血すじをおうけになった天皇が日本をお治めになります。臣民は祖先のこころざしをうけついで、ひたすら天皇の大みわざをおたすけ申しあげてまいりました。かように、国の初めから、君と臣との分がさだまっているということが、日本の国の一番尊いところであります」(『初等科修身二』「日本は神の国」)

 私たちは先生から、いろいろなお話を聞きました。天皇陛下のありがたいことがわかりました天皇陛下をいただく日本の国は、世界中で一番とうとい国であることを知りました。私たちは天皇陛下にちゅうぎをつくし、このよい国をみんなでいっそうよい国にしなければならないと思います」(『ヨイコドモ下』「ヨイ子ドモ」)

 今の日本は海国日本の名のとおり、世界いたるところの海洋に日の丸の旗を掲げて、国の光をかがやかしながら活動しています。へさきに菊の御紋章を仰ぐ帝国軍艦は、み国のまもりもかたく、太平洋から印度洋にかけてその威力を張っています。海国日本のほまれをあげるぶたいは、かぎりなく大きいのです。その広いぶたいに日の丸の旗をささげて進むのが、私たちの尊い務めです」(『初等科修身二』「日本は海の国」)

 安倍自公政権やメディアは、上記のように、かつての大日本帝国政府によって、「虚構」の神聖天皇制を刷り込まれた臣民が、それを信じそれを誇り「虚勢」を張ったような風潮が再び今日の国民の間に広まる事を望んでいるのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大嘗祭は皇室神道の宗教儀式:政府・自治体などの公務員が関わる事は憲法が禁止する政教分離原則を蹂躙する非合法行為

2019-05-17 20:51:48 | 大嘗祭

 大嘗祭は日本国憲法の下で、国民から憲法違反であると異議を唱えられながら、既に平成天皇の即位の際、国事行為として実施を強行し、そしてまたこの度の新天皇(令和天皇)の即位に際しても国事行為として、安倍自公政府は実施を強行し始めている。大嘗祭は、神聖天皇主権大日本帝国政府が作った国家神道の核である、天皇を最高祭祀者とする皇室神道(天皇教)の宗教儀式のなかで最も重要とされるものである。

 この皇室神道については、敗戦後の1945年12月15日、GHQが、「神道指令」=「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督ならびに弘布の廃止に関する件」を発令したのに対し、宮内省は皇室祭祀令の大祭、小祭にある「天皇、皇族及び官僚を率いて」(8条、20条)の文言を削除し、19条1項「皇室又は国家の大事を神宮、宮中三殿、神武天皇山陵、先帝山陵に親告する」儀式を中止し、例祭の際、天皇の勅使が奉幣する勅祭社の扱いを取り止めた。そして、1947年の新憲法施行とともに、皇室典範は改正され、一連の皇室令(皇室祭祀)も憲法違反の扱いとなり廃止されたのである。しかし、1947年5月2日の日本国憲法施行の翌日である5月3日、宮内府長官官房文書課長名の「依命通牒」の「皇室令及び付属法令は、5月2日限り廃止せられる事になったについては、事務は概ね左記により取り扱う事になったから、命によって通牒する」、又その3項の「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理する事」にもとづいて、憲法違反(非合法)の状態のまま現在まで、続けられてきたのである。「従前の規定」とは神聖天皇主権大日本帝国政府が1908年9月の「皇室令」第1号で制定した「皇室祭祀令」であり、新嘗祭(大嘗祭)はその内の「大祭」に含まれていた。また、先の「皇族、官僚を率いて」行ってきたのは、春秋の皇霊祭、神殿祭及び新嘗祭で、その際には下記の「官僚」に賞典長名で案内状が出されてきた。

①内閣総理大臣、国務大臣、国会議員、衆参両院議長、同副議長、同両院事務総長、最高裁長官、同判事、同事務総長、認証官、国会図書館長、内閣法制局長官

②宮内庁職員、皇宮警察本部職員

などである。案内状の内容は「来る23日に新嘗祭神嘉殿の儀を行われますからご参列の向きは、午後〇時〇分までに賢所参集所に参集されますようご案内申し上げます。なお、モーニングコートを御着用…」である。

※宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)の成立は1872年である。 

 新嘗祭は、天皇家で毎年11月に行っているが、天皇が最高祭祀者である「天皇教」とも呼ぶべき皇室神道宗教行事であり、それも非合法の憲法違反の宗教行事である。「新嘗祭」は宮下矩雄の論文(『瑞垣』1975年10月号)によると、「11月23日の夕刻、神嘉殿に皇祖天照大神始め諸神を招じ、天皇陛下親しく新穀の御飯・御酒を神々に御饗し、また御自身も大神と御対座で召し上がられ、更に八重薦の寝座に一夜、大神の御寝を願った後、再び暁の御饗を共食あらせられる。即ち国土のいのちの稔りを神々と共に主上みずからきこしめされる神聖な一夜である」との意味づけをしている宗教儀式である。そして、儀式の内容は毎年行っている新嘗祭と同じであるが、新天皇が即位した場合、即位後の最初の新嘗祭を大嘗祭と呼ぶのである。大嘗祭は7世紀末の天武天皇(初の天皇称号使用)の頃に確立したといわれる。しかし、大嘗祭を行わない天皇もおり、中世の戦乱などで皇室が衰微した220年間は行われていない。東山天皇のとき再興したが次の中御門天皇の時は行わず、次の桜町天皇以後復活した。

 その大嘗祭(新嘗祭)で、皇室がその祖先であるとしている天照大神などの神々に供える米を作る都道府県を選ぶ「斎田点定の儀」を5月13日、皇居の宮中三殿の神殿前庭に設けられた「斎舎」で古式装束を身に着けた賞典職(皇室の私的使用人)が行った。

 新嘗祭で使用する新穀は明治以前には、山城国宇治郡から献上させていた。全国の農家からその年の新穀を献上させるようになったのは、1882年12月の地方官会議での岩倉具視の提案によるもので、1892年から各地方の農家が「米粟」を献上させられた。その「斎田」(大田といい、所有者を大田主という)決定は神聖天皇主権大日本帝国政府が定めた「登極令」にもとづいて行われた。登極令8条で「京都以東以南を悠紀の地方」「以西以北を主基の地方」としている。しかし、今回は東京(皇居)を中心に変更し両地方を分けた。決定手段はこれまた新憲法施行と同時に廃止された「登極令」を基に、亀甲を利用した占い古墳時代に行われていた太占の法に似せたもの)で決めている。これも違法違憲行為であるにもかかわらずそんな事はまったく無視して行っているのである。ついでながら、アオウミガメを含むすべてのウミガメは、国際的な商取引を制限するワシントン条約の対象となっている。国内でも環境省のリストで絶滅危惧Ⅱ類に分類されているものでありながらそれを使用するという、この国際的にも非常識な宗教儀礼を現在もなお行うという面からも皇室や宮内庁、安倍自公政権を非難し、この時代錯誤の大嘗祭(新嘗祭)を廃止させるべきである。

 今回の「斎田」には秋田県と大分県を選んだようだ。ところで新憲法施行後のこれまでもそうであったが今回も、宮内庁(皇室)・安倍自公政府自治体首長(知事市町村長)職員などの公務員や県民住民に、自己の非合法行為、憲法違反(政教分離原則違反)行為への加担を強いている。つまり、人権侵害行為を強制している。皇室の賞典長から都道府県知事に対し、「本年度の大嘗祭(新嘗祭)に献穀を希望する者がある場合は、別紙のような方法で受納しますから、よろしくお取り計らい願います」との文書が届けられるだろう。「希望する者」という表現であるが、それを「協力依頼」と変えても同じで、実態は憲法が保障する「思想良心信教の自由」をまったく無視した行為の強制で人権侵害人権無視でしかない。憲法第20条は1項で「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と定め、2項で「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加する事を強制されない」と定めている。にもかかわらずこれまで知事は市町村長を介して地元農協(JA)に伝え、献穀者担当農家)を決定してきたのであり、今回もするであろう。斎田に選ばれた両県の知事は、非合法、憲法違反の皇室神道に基づく大嘗祭を国民の権利保障以上に権利を侵害してまでも尊重すべきものとの考えに立ち、それを当たり前のように、「農業者の皆さんと共に、秋には滞りなくお納めできるようしっかり取り組みたい」「県民にとって大きな励みとなる」と歓迎し、「JAなす南」も担当農家の推薦に意欲を燃やしている。また、新嘗祭や大嘗祭には国や自治体から公金が支出されてきたが、憲法の政教分離原則第20条3項で、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」と定め、第89条では、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公けの支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」と定めている事を尊重すべきである。皇室神道(宮中祭祀、神聖天皇主権大日本帝国政府が作った国家神道の中核)は天皇を祭祀長とする一つの宗教であり、「天皇教」なるものであるから。

 このままでは今年の秋の献穀行事は、「農業祭」などの名称で、自治体(県、市町村)の首長や職員など公務員が中心となって行うだろう。その事についての彼らの理屈はおそらく、「大嘗祭(新嘗祭)と献穀行事は関連するが、両者は性質を異にする。祭りに神式の行事を伴うとしても、地鎮祭や神式の結婚式と同様の習俗的行事といえる。行事の主催者は新穀献納奉賛会で、地方公共団体ではない。奉賛会への補助金は農業振興であり、その性質は『農業まつり』である。自治体の支出は献穀者(担当農家)の栄誉をたたえ、生産の成功を祈る祝い金である」とするのであろう。今回、この大嘗祭に関連する「斎田点定の儀」を日本国民の多くが注目し歓迎したとするならば、日本の国はすでに、国民が限りなく、皇室を扶翼し、神聖天皇主権大日本帝国回帰を狙う安倍自公政府の翼賛団体化したファシズム体制に入ってしまったという事である。

(2019年5月17日投稿)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

令和:安倍談話の思想背景は『国体の本義』「第一 大日本国体 四 和と「まこと」」である

2019-05-10 16:17:58 | 令和の元号

 安倍首相の新元号「令和」についての談話(2019年4月1日)内容は、神聖天皇主権大日本帝国下において、美濃部達吉氏の「天皇機関説」の問題化に際し岡田啓介内閣が「国体明徴声明」を発表した後、文部省が1937年5月に発行した『国体の本義』に示された思想、価値観(ウルトラナショナリズム)に基づくものであり、その「焼き直し」である。『本義』は、『古事記』『日本書紀』に基づいた、神聖天皇主権大日本帝国政府による国民教化(洗脳)を目的とした根本テキストで、国体(国家体制)の尊厳・君臣の大義を説いたもので、日本は神聖天皇が頂点に立ち主権を行使する家族国家であり運命共同体であると説くものである。安倍首相が談話によって述べた新元号「令和」についての説明内容は、その『国体の本義』の「第一 大日本国体 四、和と「まこと」」に基づいたものであり、その「焼き直し」である事に気づくべきである。

 「令和」は万葉集の文言を「引用」したとするが、これまでの元号の「引用」の仕方とは異なっている。都合の良い漢字が存在する、いわゆる「」に目をつけて、必要な漢字をくっ付けて作っただけである。実状は「令和」と先に決めた上で、その「2文字」を万葉集の「序」が都合よく含んでいるのを見つけ出し、つなぎ合わせたというところであろう。

 そして、「令和」に込めた意味は、新天皇の下ですべての国民に「和」を尊ばせるという事であり、心身ともに挙国一致体制(一億総活躍体制)を樹立する事をめざすという事である。それは、神聖天皇主権大日本帝国政府が明治の国民(臣民)を教化した『国体の本義』に示されている、あるべき「国体」の姿を実現する事につなげるためである。それは談話で「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められている」と述べている事がそれである。

 そして、安倍首相は、その「」が天皇制とともに、『記紀』に書かれた神話の時代から変わる事なく継承されてきたものであると国民に刷り込むため(周知の如く事実はそうではない)、万葉集を「我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書である」と決めつけ、国民にそう思い込ませる事を目論み、さらに、日本を「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然」と形容(これも非科学的で主観的で短絡した誤った独善的な歴史修正主義的評価)し、「令和」を「我が国が誇る悠久の歴史、文化、伝統(天皇制を指す)の上に、次の時代を担う世代のためにどういう日本を築き上げていくのか。新しい時代への願いを示す上で最もふさわしい」とし、その上で、「しっかりと次の時代へと引き継いでいく」としているのである。

 元号(昭和への「改元」までは「詔書」によって実施)についても、安倍首相は独善的な解釈に立っている。「元号法」は「元号は国民のために国民が決める」ものと解釈すべきであり、国民主権の今日においては説明の必要がないにもかかわらず、わざわざ「元号は、皇室の長い伝統と、国家の安泰と国民の幸福への深い願いとともに、千四百年近くにわたる我が国の歴史を紡いできた」と歴史研究成果とは異なった非科学的(虚偽、フェイク)な内容を述べて事実を隠蔽し国民を欺き、安倍首相にとって都合の良い天皇(皇室)のイメージを国民に刷り込もうとしている。さらに、国民に元号の使用を強制してきた事実をも頬かむりして認めず、「日本人の心情に溶け込み、日本国民の精神的な一体感を与えるものとなっている」と述べ、そうする事を当たり前と思い込ませる刷り込みをしている事については呆れてしまう。

 

さて、『国体の本義』「と「まこと」」を紹介しよう。

「我が肇国の事実及び歴史の発展の跡をたどる時、常にそこに見出されるものは和の精神である。和は、我肇国の鴻業より出で、歴史生成の力であると共に、日常離れるべからざる人倫の道である。和の精神は万物融合の上に成り立つ。人々が飽くまで自己を主とし、私を主張する場合には、矛盾対立のみあって和は生じない。個人主義においては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、結局真の和は存しない。即ち個人主義の社会は万人の万人に対する闘争であり、歴史はすべて階級闘争の歴史ともなろう。かかる社会における社会形態・政治組織及びその理論的表現たる社会学説・政治学説・国家学説等は、和を以て根本の道とする我が国のそれとは本質的に相違する。我が国の思想・学問が西洋諸国のそれと根本的に異なる所以は、実にここに存する。我が国の和は、理性から出発し、互いに独立した平等な個人の機械的な協調ではなく、全体の中に文を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一体を保つところの大和である。従ってそこには相互のものの間に敬愛随順・愛撫掬育が行ぜられる。これは単なる機械的・同質的なものの妥協・調和ではなく、各々その特性を持ち、互いに相違しながら、しかもその特性即ち分を通じてよく本質を現じ、以て一如の世界に和するのである。即ち我が国の和は、各自その特質を発揮し、葛藤と切磋琢磨とを通じてよく一に帰するところの大和である。(中略)戦争は、この意味において、決して他を破壊し、圧倒し、征服せんがためのものではなく、道に則って創造の働をなし、大和即ち平和を現ぜんがためのものでなければならぬ。(中略)かくて君臣相和し、臣民互いに親和して国家の創造発展がなされる。現下の問題たる国家諸般の刷新改善も、またこの和によるむすび(創造)でなければならぬ。それは、一に天皇の御稜威の下に国体に照らして誤れるを正し、大和によって大いに新たなる成果を生み出す事でなければならぬ。(中略)このはいかなる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、みな共々に和の道に従わねばならぬ。それぞれの集団には、上に立つ者がおり、下に働く者がある。それら各々が分を守る事によって集団の和は得られる。分を守る事は、それぞれの有する位置において定まった職分を最も忠実に努める事であって、それによって上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互いに相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行われる。この事は、又郷党においても国家においても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執着して対立を事とせず、一に和を以て本とすべきである。我が国においては、それぞれの立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じうするところより出づる特有の大和によってよく一つとなる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によって結ばれる。ここに我が国の大精神がある。而して我が国に現れるすべての進歩発展は、皆かくして成される。(中略)「君のため世のため何か惜しからむ拾てて甲斐ある命なりせば」という歌の心は、臣民が天皇に一身を捧げ奉る和の極致を示したものである。かかる我が国の和の精神が世界に拡充せられ、それぞれの民族・国家が各々その分を守り、その特性を発揮する時、真の世界の平和とその進歩とが実現せられるであろう。(以下省略)

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政府(内閣府)広報による子供支援奨励の新聞記事:ペーパー行政をやめ全身全霊を賭して解決策を実施せよ

2019-05-02 14:30:50 | 安倍政治

 2019年4月20日の新聞に内閣府の政府広報が載った。それを見て安倍自公政権の体質に改めて、驚きと怒りを感じた。その内容は、

「子供の貧困 あなたにできる 支援があります。

 【支援の例】

 ●学習支援 ●子供食堂 ●子供の居場所づくり」

というものなのである。

 このような政府広報を新聞に掲載したのは敗戦後の歴代政府のなかでは初めてであろう。この広報は政府が、国民に親たちに、子どもの貧困状況に対して、何らかの支援をさせようとするものである。しかし、本来、政府が取り組まねばならない問題であるにもかかわらず、それにほおかむりをし、歴代政府がとらなかった、国民に支援させ国民に責任を負わせようとする手法に驚きと怒りとを禁じえない。それも、政府広報の新聞記事掲載という安易な手法をとっている事に(これが安倍自公政権の真の体質であるが)。国民は、安倍自公政権の、官僚的で無責任な、第三者的立場に立った物言いや、国民生活の現状を関知しようとしない悪質な体質むき出しのペーパー(通達)政策をやめさせるべきである。国民は、このような体質の安倍自公政権を存続させるべきではない。

(2019年5月2日投稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

退位即位儀式:メディアは生前退位のため服喪の自粛でなく、奉祝フィーバー番組以外を自粛

2019-05-01 15:44:05 | 皇室

 昭和天皇の死去に際しては、その前後において異常な自粛がメディアはもちろん各所で行われた。それに対して、この度の退位即位の儀式に際しては、「過度の自粛は行われなかった」とメディアは報じているようである。しかし、それはメディアが昭和天皇の際と同じ物差しで判断し報じているからである。また、国民にも同じ物差しでの判断をさせようと意図しているからであると言っても良い。平成天皇が生前退位である事を考えれば「服喪」の必要はないのであるから、一見かつてのような自粛が見られないという事で「異常な自粛は行われていない」と判断するのは当たり前である。しかし、国民は、メディアの報じるままに単純に「過度の自粛は行われなかった」と思う事はこの度の状況について誤った理解を招く事になると考えなければならない。それというのは、「過度の自粛」は形を変えて行われているからである。一見かつてのような自粛は行われていないように見えるが、実はこの度はメディア特にテレビにおいては、すべての局がニュースはもちろんその他のすべての番組において、退位即位の儀式内容を「これでもか」というほどの時間を当てて報じているのである。そして、そのためにその他の通常放送している番組を差し替えたり通常番組の内容を変質させているからである。つまり、メディアは退位即位の儀式の報道はいくら行っても皇室からも安倍自公政権からも批判を受ける事はないと心得ているから、その関係の内容を番組に充満させるという形での自粛をしていると考えるべきなのである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする