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孫文(天下為公の実現を目指した)ゆかりの移情閣(朝日新聞「いにしえナビ」記事)の物足りなさ

2024-11-24 09:35:09 | 中国・台湾

 2020年7月17日の朝日新聞の「いにしえナビ」が革命家・孫文ゆかりの建物として『移情閣』を取り上げていた。「孫文が1913年神戸を訪れた際、歓迎会の会場となったのが、舞子にあった中国人実業家・呉錦堂の別荘でした。移情閣はその2年後に別荘の東側に建てられ、……」と紹介していた。建物についての説明はそれ以外にも書いていたが、孫文についてはそれ以外にはまったく触れておらず、ひじょうに物足らないもので残念であった。

 孫文がなぜこの別荘移情閣に、また神戸日本にゆかりがあるのかをもっと詳しく伝えるべきである。孫文は、日中両国関係のあり方について、現在の日本国民にも示唆を与える言葉を残しているからだ。

 孫文が神戸(日本)を訪れた回数は、資料的に確認できるだけでも18回である。そしてその理由は、革命活動(亡命)にあり、1895年の広東省広州での武装蜂起の失敗から始まるのである。そして、「いにしえナビ」が紹介する1913年には、前年就任した「全国鉄路督弁」として鉄道借款交渉のため来日し、朝野の大歓迎を受け、2月から3月にかけて東京、大阪、神戸、福岡などを訪問している。その後帰国したが、袁世凱大総統と対立し、第2革命を起こしたが失敗し、8月に、翌々年に結婚し妻となる宋慶鈴とともに日本に亡命している。神戸にひそかに上陸し、在神協力者(呉錦堂など)の援助を受けて滞在している。この際に呉錦堂舞子にあった別荘に招かれ歓迎会が行われているのである。1916年には第三革命にも失敗し神戸を訪れている。

 孫文は1925年の死の前年の1924年にも来日し11月末には神戸を訪れている。この時には11月28日に兵庫県立高等女学校(当時は現在の県庁所在地に存在)講堂において、『大アジア主義』と題して講演を行っている。この講演会は神戸商業会議所が主催し、新聞社4社(神戸又新日報、神戸新聞、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞)が後援して開催された。その内容は、当時すでに「21か条要求」を押し付け、中国への侵略を推し進めていた神聖天皇主権大日本帝国政府を明確に批判反省を促そうとするものであった。それは、

「アジアの文化は仁義道徳を語る王道文化であり、ヨーロッパの文化は武力の文化であり、武力を用いてアジアを圧迫している。日本は日露戦争の勝利でアジアの人々を励ますなど武力を身につけており、また、アジアの王道文化の本質ももっているが、西方覇道手先となるか、東方王道守り手となるかは日本人は慎重に考慮してその一つを選ぶべきである」と訴えるものであった。

 しかし、この後の神聖天皇主権大日本帝国政府は、孫文の「訴え」に応えず期待を裏切る道を選び、中華民国に対して最も露骨な侵略者となっていった事は歴史が示す通りである。

 孫文が1924年の来日記念に揮毫した言葉は彼が革命によって実現しようとした「天下為公」である。中国古典『礼記』の「礼運篇」にある言葉で、「人々が等しく天下を共有する」「政権というものは一般平民が共有するものである」という意味である。

1925年3月12日、孫文死去(59歳)。

(2020年8月30日投稿)

 

 

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いわゆる「台湾出兵」は台湾占領と琉球処分強行の領土拡張(侵略)政策

2024-11-08 09:28:27 | 中国・台湾

 神聖天皇主権大日本帝国政府(当時実権は大久保利通が掌握)による、教科書的に表現すれば1874年5月の「台湾出兵」の目的は、大日本帝国政府が国境を画定するための軍事行動である。「台湾」全体を「占領」し、大日本帝国政府の領土とするためであり、併せて「琉球王国」の清国との両属関係を断ち切り、大日本帝国政府の完全な領土とする「琉球処分強行」ためであった。しかし、「台湾占領」は、清国の抗議や、英国の反対にあいこの時点で達成できず、1895年、日清戦争後の下関条約でついに清国に割譲させた。

 【経過】

○1871年、廃藩置県実施、薩摩藩は鹿児島県となり、琉球王国は鹿児島県の管轄

○1871年10月、琉球王国への上納を終え、宮古島へ帰る役人たち約70名が那覇港を出港。途中暴風にあい台湾東南岸牡丹社へ漂着し、54名が台湾の先住民族(パイワン族)に略奪殺害された。原因不明。

○生き残った者12人は清国の役人により1872年正月、福建省福州へ送られ、6月には琉球王国へ送還された。琉球王国の漂着民が台湾の先住民族に襲われる例は、1790年、1810年にも見られ、この事件と同様に生存者は琉球へ送還されている。

○1872年7月、琉球王国政府から鹿児島県庁へ報告。大山綱良鹿児島県参事は、「台湾先住民を討つべし」と大日本帝国政府へ報告。

○1872年9月、琉球藩設置。外交権接収、清国への朝貢禁止、琉球国王を藩王とし華族に列す。

 ➀琉球藩の事務は鹿児島県を離れ、琉球王国が締結した外国との諸条約も含めて外務省の管轄に移す(琉球の外交権停止

 ➁大日本帝国海軍が琉球列島を測量。

 ③久米島・宮古島・石垣島・西表島・与那国島に「日の丸」を立てる。

 清国は認めず琉球王国も抵抗。琉球王国の帰属争いは継続。国際問題化。

井上馨大蔵大輔の「琉球国」に関する建議……正院あてに提出

「〈百度維新〉を迎えた今、琉球の『あいまいな位置』を一掃し、『皇国の規模御拡張の御措置』をとるべ   き事を主張し、その方法として、武力による制圧は避け、琉球の『酋長』にその『不臣の責』を問い、これまでの歴史や『順逆の大義』を説いて、版籍を収めさせ、『内地一執の制度』を施行する、というもの。」

○1873年、大日本帝国政府は「台湾占領計画」を立て、宮古島島民の「台湾遭難事件」の責任の所在を求めて清国と交渉。清国は、台湾全島は清国の領土であるが、先住民族は中国の教えが及ばない「化外の民」である、と述べ責任を回避。

○1874年2月6日、大日本帝国政府は「台湾占領」と「琉球処分強行」の前提をつくるため、「台湾の先住民族地域は清国の領土ではない。主権者のいない地域である。大日本帝国政府の属民が殺害された仕返しをするのは政府の義務である」という事を根拠に台湾出兵を決定。

米英スペインなどの諸外国は大日本帝国政府の台湾への侵略戦争を警戒し、苦情申し出と局外中立を宣言。米国を当てにしていた大久保利通は計画中止を命令したが、西郷従道司令官は命令を拒否して出兵を強行。三菱汽船会社が軍事輸送を担当。

○1874年5月、西郷従道軍約3600名(鹿児島県士族300人を含む)は長崎を出発し、台湾南部に上陸し、パイワン族の住む牡丹社及び南部に住む先住民族を攻撃。戦闘は1カ月足らずで終了(その後も占領し続け撤兵は74年12月)。戦死者12名。マラリアなどで561名が病死。

※1874年5月、琉球藩を内務省の直轄地とし、井上の建議のような皇権拡張方針一貫して強行。琉清関係の廃絶と天皇のもとの中央集権国家機構の枠内に琉球を包含する「藩治職制」を強制。

○大日本帝国政府の「台湾占領」の目的は、清国の抗議、英国の反対にあい挫折。

○1874年10月、英国公使の仲介。清国は宮古島遭難民に対し10万両、大日本帝国陸軍が台湾で建設した道路や家屋の買収費として40万両、計50万両(約67万円)を支払う事で決着。大日本帝国政府は台湾を清国領土であることを認め、清国は琉球藩を日本領土である事を認める形となった。しかし、同年、琉球藩は清国になお進貢使を派遣。

○1875年5月、大日本帝国政府は内務官僚松田道之を琉球藩に派遣し、清国への進貢や冊封の廃止、藩王の上京鎮台分営の設置などを命じたが抵抗。琉球は米英清各国公使に救済を訴える。

○1876年、大日本帝国政府は琉球藩の裁判権・警察権を接収。

○1877年4月、琉球藩は受諾拒否し、王族の幸地朝常をリーダーに久米村の人間も集め、密使として清国福建省福州琉球館へ遣わした。清国は大日本帝国政府へ正式に抗議。清国公使から寺島宗則外務卿へ「隣国どうしの交際のならいに背き、弱小の国を欺くなど決してあってはならない」と。

○1879年4月4日、大日本帝国政府は再び松田道之を、警官160名、熊本鎮台から300余名の軍隊とともに派遣し、首里城武力で占領。琉球藩を廃し沖縄県を設置琉球処分)。450年間の琉球王国滅亡。藩王尚泰の上京、邸宅及び公債20万円給与、侯爵授与(1885年)、首里玉陵に埋葬。

○琉球王国滅亡の知らせは清国福州にも伝えられた。琉球館に派遣されていた琉球密使(脱清人)は北京や天津へ嘆願を直訴。幸地朝常は天津で李鴻章に嘆願。しかし、李鴻章は欧米列強と対抗するうえで、日本との関係を重視したため認めず。

※神聖天皇主権大日本帝国政府は、欧米的な近代国際法の論理台湾の先住民族を侵略し、琉球処分を強行した。その論理は、国境を明確にする事にあり、国境が明確でない土地は先に手を付けた国の領土(無住地先占)であるというもの。琉球各地に「日の丸」を掲揚した事や、神聖天皇主権大日本帝国政府が侵略した台湾の先住民族の族長たちに服属の証として「日の丸」を配布した事に見られる。

(2023年12月6日投稿)

 

 

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国民党政権が台湾で生き延びられた外的要因と米政府の中国・日本戦略

2024-10-03 10:07:48 | 中国・台湾

 中国大陸における国共(国民党と共産党)内戦で共産党軍に敗退し台湾へ後退移転した蒋介石国民党政権がその後生き延びる事ができた外的要因は、朝鮮戦争の勃発(1950年6月25日)東西冷戦の激化であった。

 蒋介石国民党政権中華民国では、1946年7月以降、国民党と毛沢東共産党の内戦が全面化した。1948年から49年には、国民党軍は相次いで共産党軍に敗退し、危機的状況となった。そのため蒋介石は台湾を国民党政権の最後の根拠地と定め、国民党中央軍及び党、政関係者の大陸からの撤退と台湾での権力基盤強化に力を注いだ。1949年12月7日には大陸で敗れた中華民国政府は正式に台湾台北へ移転し、政府とともに大陸から兵士、公務員、教員など100万人近い人々が当時人口700万人ほどであった台湾へ逃れてきた。

 米国政府の動きは、1949年8月国務省『中国白書』を発表し、国民党政権の腐敗や無能を嘲笑した。また、1950年1月5日にはトルーマン大統領台湾海峡不介入の声明を発表し、蒋介石国民党を見放した感があった。

 そして、その間の1949年10月以降、共産党軍が台湾解放作戦敢行の準備をすすめ、国民党政権の命運は極まった状況があったが、この状況を転換させた要因が、1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発と冷戦の激化であった。

 1950年6月27日、トルーマン米国大統領米国第7艦隊を台湾海峡へ派遣し、共産党軍の台湾攻撃を抑止し、また、国民党政権と軍への援助を再開したのである。そのため、共産党軍は台湾解放作戦を取りやめ、軍を東北や朝鮮へ向かわせる事になったのである。

 そして、米国政府は台湾(蒋介石中華民国政府)が国際連合の中国代表権常任理事国の地位を維持する事を支持するとともに、吉田茂日本政府に対しては、毛沢東中華人民共和国政府(1949年10月1日建国)ではなく、蒋介石政府平和条約を締結するよう圧力をかけ、吉田茂首相は1952年4月28日日華平和条約を締結した。

 この結果、蒋介石台湾中華民国政府は日本政府との関係を正常化できたが、戦争賠償権を放棄させられている。

 上記のように、蒋介石台湾中華民国国民党政権は冷戦の展開米国政府の支持により、その後しばらくの間、存続を維持する事が可能となったのである。

 一方、米国政府反共産主義政策として中華人民共和国政府封じ込める上で台湾の軍事的地政的価値を重視し利用するために、1950年から67年の間に、総額約24億ドルの巨額な軍事援助を行った。1951年以後には、軍事顧問を派遣し、最盛期の1955年には2347人の顧問を各部隊に配属し指導した。

(2022年9月9日投稿)

 

 

 

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台湾の「親日」とは何か?神聖天皇主権大日本帝国政府による植民地化により100年先延ばしになった台湾民主化

2024-06-09 08:17:45 | 中国・台湾

※以下は2015年12月21日に投稿したものに加筆修正したものである。

 アジア・太平洋戦争が神聖天皇主権大日本帝国政府の敗戦で終わった後、それまで50年間神聖天皇主権大日本帝国政府植民地支配してきた台湾省中華民国政府へ返還されたが、共産党と大陸で内戦を続けてきた蒋介石率いる国民党軍(外省人)が逃げ込み統治した。しかし、士気の低さや驕りのため台湾人(本省人)の人気を失う。そして、1947年に2・28事件が起こった。国民党の弾圧圧政に対する台湾人の反抗である。それに対し、蒋介石(国民党総統)により武力鎮圧(白色テロ)が行われた。かつて植民地時代に日本に抵抗した人々、農民組合の人々、民衆党など(台湾人エリート)が弾圧を受けた。1949年5月に戒厳令が出され約40年間継続した(1987年7月、金門・馬祖以外解除)。政治犯とされた人の最長収監期間は34年7カ月。20年以上は当たり前で2万人。約4500人の死刑囚を出した。反日勢力であった、当時民衆の側に立った人たちが弾圧されたため、親日分子が残っていった。

 親日分子についてであるが、日本による植民地支配は台湾と韓国では全く異なっていた。韓国では封建制度や地主階級を徹底的につぶしたが、台湾ではそれをせず、地主階級を温存し、親日派として養成した。戦後日本との経済が深まるなかで彼らは復権した。しかし、彼らは自分が親日分子だとは言えないため、看板として付け替えたのが「台湾独立派」ということである。その実態は「親日」ということである。

 李登輝氏(2020年7月30日死去)は1996年に初の総統直接選挙を実現し台湾の民主化を推し進めた、と日本のメディアが高く評価する報道をしている。しかし、今日の日本の主権者国民は、これより100年前の日清戦争後の1895年5月末、神聖天皇主権大日本帝国政府が下関条約で清国に割譲させた台湾省を植民地化する事に台湾の人々が抵抗し、独立宣言を発し、台湾民主国を成立させた事実があった事こそ忘れてはならない。そしてそのような台湾省の人々の願いに対し、神聖天皇主権大日本帝国政府があらゆる手段を使って有無を言わせず植民地化を達成しすべての人々の人権を蹂躙した台湾征服戦争を強行した過去があった事こそ忘れてはならない。

 台湾民主国独立宣言文(総統唐景崧名義)は「日本清国を欺凌し、わが国土台湾の割譲を要求す。台民朝廷(=清国政府)に嘆願を重ねるも功を奏せずして終われり。倭奴(=神聖天皇主権大日本帝国政府)不日攻めきたらん事すでに知る。われもしこれを甘受せば、わが土地、わが家郷みな夷狄の所有に帰す。しかれども我もしこれを甘受せずんば、わが防備足らざるが故、長期持続し難し。われ列強と折衝を重ねしも、いずれも援助を期さば台民まず独立せよと主張せり。それ故わが台民敵に仕うるよりは死する事を決す。また会議において台湾島を民主国とし、すべての国務を公民によって公選せられたる官吏を以て運営せん事を決定せり。この計画のため、且つ倭奴の侵略に抵抗せんがため、新政府機構の中枢たるべき人物必要ならん。……」と主張している。

 台湾征服戦争は1915(大正4)年まで続いた。その間の帝国日本陸軍の戦死者は日清戦争を上回った。日清戦争時の陸軍戦死者が1161人、病死7234人、計8395人に対し、台湾征服戦争の陸軍戦死者は1988人、病死者7604人、計9592人といわれている。

  しかし、上記の「独立宣言」に対して神聖天皇主権大日本帝国政府は、圧倒的な軍事力(初めて機関銃を使用)をもって粉砕鎮圧したのである。帝国日本政府は北白川宮能久の率いる近衛師団を急派した。動員兵力はその後の増援部隊(乃木希典率いる第2師団、伏見宮貞愛率いる混成第4師団)を含め、2個師団余の5万人、軍夫2万6000人、馬9400匹。当時の陸軍兵力の3分の1を超えるものであった。台湾省の人々の抵抗の姿は都新聞記者として従軍した大谷誠夫『台湾征討記』では「既に夜も更けたれば敵無かるべしと思わるる方の岸に沿うて300メートルばかり流れ来りたる、東天漸く白みたるを以て最早進行し難し、如何はせんと思案に暮れしが傍らに昼尚暗き迄に生茂れる森林ありて潜伏するには屈強の場所なり、3人はこれ幸いと最も鬱蒼なる中を択んで入り、朝饗を喫せり、是にて携える所の食物は既に尽きたるなり、一行は潜伏所よりひそかに敵の動静を伺うに20人或いは30人づつ此処彼処に群れを為し、中には婦女子にして銃を執るあり、老幼にして槍を携えるあり、糧餉は多く婦人の手に依りて運ばれ宛然米国13州独立のパノラマを見るが如し」と記している。

 神聖天皇主権大日本帝国政府はこの台湾征服戦争を内戦だとして戦時国際法を適用せず、捕虜も取らず兵士や住民を殺害した。

 ちなみに北白川宮能久は1895年10月に台南を陥落させた頃、マラリアで死亡したため、神聖天皇主権大日本帝国政府は官幣大社・台湾神宮及び台湾の諸神社に祀った。敗戦後は、靖国神社に合祀した。李登輝氏は、日本人として海軍に進み、フィリピンで戦死し、神聖天皇主権大日本帝国政府は靖国神社に祀り、敗戦後もそのまま今日に至っている。

また、1930年には霧社で植民地支配に対する抗日反乱事件(霧社事件)が起きた。台湾総督府は飛行機・毒ガス(1928年ジュネーブ議定書発効で使用禁止)を使用する大規模な討伐を行い鎮圧し、敗戦まで植民地支配を続けた。

 上記のような歴史こそ、日本のメディアは主権者国民に伝えるべきであろう。また今日、岸田自公政府が「台湾有事」と称し防衛費を驚異的に増額する問題の発生原因の淵源は、かつて神聖天皇主権大日本帝国政府が中国(当時清国)台湾省を日清戦争の講和条約下関条約により割譲させ植民地支配したという歴史に存在する事を明確にし国民に伝えるべきであろう。この視点は今日の北朝鮮問題南北分断問題においても同様で、神聖天皇主権大日本帝国政府が大韓帝国に韓国併合条約を押し付け日本領土とした歴史がその発生原因の淵源である事を明確にし国民に伝えるべきであろう。つまり、どちらの問題もそもそも神聖天皇主権大日本帝国政府の侵略行為が原因であるという視点に立つ認識が必要なのである。

 米国政府またそれに追従する日本政府が、台湾独立派(反中国)を利用し、習近平政権を危険な悪人視して、習近平政権が中台統一政策達成のために軍事行動を起こすと決めつけ、「台湾有事」なる言葉を吹聴し、日米両国それぞれの国民や台湾省の人々に理不尽との印象を広める事を狙い、危機意識を煽る姿勢をとる事は、日米両政府が習近平政権の中国の国力を抑え込み、世界秩序の主導権において優位に立とうとするための「中国封じ込め政策」を正当化するためのものであり、日米両政府の偽善者による「内政干渉」以外の何物でもないとみなすべきである(日本政府は過去の侵略行為の報復を受けるかもしれないという恐怖感もあるかもしれないが)。つまり真相は、世界秩序に関する、現勢力である米日と新興勢力である中国との主導権争いなのである。しかし残念ながら、すべてのメディアは、主権者国民に対して、神聖天皇主権大日本帝国政府の価値観歴史認識を引き継ぐ歴代政権(自公政権)側に立ち、偏向偏狭な報道を行っており歴史の全貌を報道しようとしていないのが現状である。 

尚、神聖天皇主権大日本帝国政府による台湾の植民地支配がどのようなものであったのかについてはこれとは別に投稿します。

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蒋介石国民党支配の50年代台湾

2024-05-21 08:40:13 | 中国・台湾

 蒋介石国民党は1950年以降、地方公職選挙を導入して、台湾人エリートの地方政治への参加を可能とし、中央政治における外省人支配との二重構造とした。青年層対策では1952年10月、蒋介石の長子蒋経国中国青年反共救国団を設立し、青少年に軍事訓練や娯楽を提供するとともに、これを組織化、政治的教化をし、反政府化を予防した。

 1950年代には、外省人知識人らによる雑誌『自由中国』が、国民党公認の反共自由主義から国民党の独裁を批判する傾向を強め、1959~60年には蒋介石の憲法改正、総統三選の動きを社説で批判、また、「中国民主党」結成を図った。

 この動きに対し、1960年9月、国民党は同誌編集長を逮捕・投獄し、同誌を廃刊とし、少数のリベラル知識人による民主化運動を圧殺した。

 この結果、中国大陸で共産党との内戦に敗退した国民党は、台湾での体制改革基盤強化に成功し、権威主義支配を再建した。

 これを可能にした背景には、神聖天皇主権大日本帝国政府が1905年から45年の敗戦まで植民地として支配するために作り上げた、すべての土地・住民を把握する体制がすでに存在していた事があり、国民党はこれを基盤として強固な支配を確立したのである。

(2022年11月25日投稿)

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