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国民党政権が台湾で生き延びられた外的要因と米政府の中国・日本戦略

2025-03-05 18:15:23 | 中国・台湾

 中国大陸における国共(国民党と共産党)内戦で共産党軍に敗退し台湾へ後退移転した蒋介石国民党政権がその後生き延びる事ができた外的要因は、朝鮮戦争の勃発(1950年6月25日)東西冷戦の激化であった。

 蒋介石国民党政権中華民国では、1946年7月以降、国民党と毛沢東共産党の内戦が全面化した。1948年から49年には、国民党軍は相次いで共産党軍に敗退し、危機的状況となった。そのため蒋介石は台湾を国民党政権の最後の根拠地と定め、国民党中央軍及び党、政関係者の大陸からの撤退と台湾での権力基盤強化に力を注いだ。1949年12月7日には大陸で敗れた中華民国政府は正式に台湾台北へ移転し、政府とともに大陸から兵士、公務員、教員など100万人近い人々が当時人口700万人ほどであった台湾へ逃れてきた。

 米国政府の動きは、1949年8月国務省『中国白書』を発表し、国民党政権の腐敗や無能を嘲笑した。また、1950年1月5日にはトルーマン大統領台湾海峡不介入の声明を発表し、蒋介石国民党を見放した感があった。そして、その間の1949年10月以降、共産党軍が台湾解放作戦敢行の準備をすすめ、国民党政権の命運は極まった状況があったが、この状況を転換させた要因が、1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発と冷戦の激化であった。1950年6月27日、トルーマン米国大統領米国第7艦隊を台湾海峡へ派遣し、共産党軍の台湾攻撃を抑止し、また、国民党政権と軍への援助を再開したのである。そのため、共産党軍は台湾解放作戦を取りやめ、軍を東北や朝鮮へ向かわせる事になったのである。

 そして、米国政府は台湾(蒋介石中華民国政府)が国際連合の中国代表権常任理事国の地位を維持する事を支持するとともに、吉田茂日本政府に対しては、毛沢東中華人民共和国政府(1949年10月1日建国)ではなく、蒋介石政府平和条約を締結するよう圧力をかけ、吉田茂首相は1952年4月28日日華平和条約を締結した。この結果、蒋介石台湾中華民国政府は日本政府との関係を正常化できたが、戦争賠償権を放棄させられている。

 上記のように、蒋介石台湾中華民国国民党政権は冷戦の展開米国政府の支持により、その後しばらくの間、存続を維持する事が可能となったのである。

 一方、米国政府反共産主義政策として中華人民共和国政府封じ込める上で台湾の軍事的地政的価値を重視し利用するために、1950年から67年の間に、総額約24億ドルの巨額な軍事援助を行った。1951年以後には、軍事顧問を派遣し、最盛期の1955年には2347人の顧問を各部隊に配属し指導した。

(2022年9月9日投稿)

 

 

 

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山東出兵・東方会議(大日本帝国政府の中国侵略外交政策)

2025-02-26 00:24:08 | 中国・台湾

 中国に対する侵略(積極)外交政策は、神聖天皇主権大日本帝国第2次大隈重信内閣(1914.4.16~16.10.4)による1915年1月18日の21か条の要求」から始まるが、その後の田中義一内閣(1927.4.20~29.7.1)では、先ず3次にわたる「山東出兵」が行われた。「第1次出兵」は1927年5月、「第2次」は1928年4月で「済南事件」を引き起こしている、「第3次」は1928年5月であり、日本人居留民の保護を名目にしていたが、実は1926年7月に開始された蒋介石国民革命軍による北伐の北上華北、特に東三省への波及)阻止にあった。次に「東方会議」開催(6月27日~7月7日)であった。神聖天皇主権大日本帝国政府の中国侵略外交政策の確立のため、田中(首相兼外相)、森恪(外務政務次官)、芳沢謙吉(駐中公使)、畑英太郎(陸軍次官)、大角岑生(海軍次官)、南次郎(参謀本部次長)、野村吉三郎(軍令部次長)、武藤信義(関東軍司令官)、吉田茂(奉天総領事)が参加し、「対支(中華民国)政策綱領」を発表した。

内容は、要約すれば、満蒙の権益を実力で守るという事であった。➀大日本帝国政府の極東における特殊の地位に鑑み、支那(中華民国)本土と満蒙を区別・分離させ、満蒙を大日本帝国政府の勢力下に確保する事、➁中華民国の全国的統一は見込みなく、中央政府確立は容易ではないので当分各地方における穏健なる政権と適宜接近し、地方軍閥の分裂抗争を助長する事、③不逞分子、不良分子によって、支那(中華民国)における大日本帝国政府の権利利益並びに在留日本人の生命財産にして、不法に侵害せらるるに於ては必要に応じて断然たる自衛の処置に出るという現地保護政策、④単に満蒙における個々の権益擁護にとどまらず、万一動乱満蒙に波及し、治安乱れ該地方に於ける我が特殊の地位、利益の侵害されるおそれのある時は、これを防護・保持するという満蒙分離政策、などであった。

1928年6月には、国民には知らせず「満州某重大事件」とよばれた謀略張作霖爆殺事件」を起こす。

(2025年2月26日投稿)

 

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張作霖爆殺事件(満州某重大事件)に見る神聖天皇主権大日本帝国政府の侵略体質

2025-02-23 21:39:02 | 中国・台湾

 張作霖(1875~1928)は、中国人の中流農家に生まれた。彼の父は、理由は明らかではないが、地方長官に捕えられ、家を焼かれ他の家族も行方不明となったが彼は逃げ延びた。父が牢獄で死亡したのを知ると、復讐を誓い、馬賊(流賊)の集団を率い、地方長官を襲い家族もろとも殺した。その後日露戦争(1904~05)の際には神聖天皇主権大日本帝国軍と協力して戦い、戦争後は大日本帝国政府軍から譲り受けた近代的兵器と装備によって東三省総督趙爾巽に帰順。16年奉天督軍となり、19年に東北三省の実力者となり奉天軍閥を形成した。その後大日本帝国政府軍の支援を得けて他の軍閥を倒し北京政界を支配し、27年には北京で大元帥となった。しかし、1928年6月、張作霖は蒋介石国民政府の第2次北伐軍との戦いに敗れ、根拠地である奉天へ戻ろうとした時、いわゆる「奉天事件」で命を奪われた。6月4日午前5時30分頃、京奉線(北京~奉天)の上に立体交差して満鉄線鉄橋が架かっていた場所を、張作霖を乗せた京奉線の列車が通った時、満鉄線が爆破され、満鉄線の重い鉄橋の一部が張作霖の特別列車の上に落下し、完全に粉砕した。張作霖はこの車両ではなく、前方の車両におり随行していた将軍と話し合っていた。しかし、この車両も爆弾の破片で大損害を受け、将軍は即死し、張作霖も重傷を負い、自動車で自宅へ運ばれたがまもなく死亡した。首謀者は神聖天皇主権大日本帝国陸軍関東軍河本大作大佐で、河本は張作霖爆殺により東三省満州)における大日本帝国政府の勢力拡大を狙う綿密な計画(陰謀)を立てていた。爆破作業の実行者は東宮鉄男大尉らであり、中国人苦力2人を殺して死体を横たえ彼らの仕業と見せかけようとした。

 1931年9月18日には関東軍は「柳条湖事件」(満州事変の発端)を起こした。中国革命の東三省波及を好まず、軍事占領を画策していた参謀板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐、奉天特務機関長土肥原賢二大佐らが計画した陰謀であり、奉天郊外の南満州鉄道(満鉄)線路で小さな爆発事件を起こし、これを張作霖の跡を継いでいた張学良軍の仕業であるとして直ちに奉天を占領し、直ちに全面的攻撃を開始し満州事変に突入した。

(2025年2月23日投稿)

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台湾嘉義農林学校卒業生・呉連義の人生を、神聖天皇主権大日本帝国政府と戦後自民党日本政府がいかに蹂躙翻弄したか

2025-02-09 19:52:58 | 中国・台湾

 神聖天皇主権大日本帝国政府のアジア侵略政策戦後の日本国政府の政策対応がいかに人権を蹂躙し人生を翻弄したものであったかを、台湾の嘉義農林学校出身の呉連義の人生を通して、知り、現行憲法前文に定めている「政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こる事のないようにする決意」を現安倍自公政権下においてこそ、より固くするために、大切な事実であると考え紹介したい。

 彼の存在については、1991年6月に、日本のテレビ取材班がベトナム北部ニンビン省の彼の家を取材する事により公けに知られる事となった。呉連義は、日清戦争の結果、中国が日本に割譲し日本の植民地となっていた台湾で、1924年に生まれ、育った。その後、国策会社・台湾拓殖に勤め、戦時中「綿作戦士」としてベトナムに赴任した。農民に綿花や黄麻を栽培させる仕事である。戦争末期には現地で日本軍に徴用され、軍需米の監視などに当たった。

 ベトナムに赴任した時は「新井良雄」という名前を使わされた。ベトミン時代は「カウ」と呼ばれた。その後はベトナム風に「ゴ・リエン・ギア」と名乗った。「自分が何国人だか分からなくなる時があった」と語っていた。

 1944年、台湾拓殖の社員として台湾を出航した。米軍の潜水艦に追われ、船は予定を変えてシンガポールに着いた。そこから陸路でハノイに向かった。着いたのは出航から2カ月が過ぎた5月5日、21歳の誕生日だった。新井良雄」という日本名を名乗らされる事になり、北部タインホア省農業試験場で地元の農民に綿花や黄麻などを栽培させた。

 仏印(仏領インドシナ、ベトナムなど)処理の後は台湾拓殖の子会社のクロム工場で日本人職員の警護に当たった。その後、日本軍に徴用され、商社の事務所で砂糖取引を装いながら、南部からくる軍需米の輸送船の監視などに当たった。平服に短銃を忍ばせ、赤いボタンが任務の目印だった。民間人でありながら情報班として日本軍の一線で働いた。 

 日本軍が進駐していた仏印には、台湾から多くの若者が日本人として渡った。日本の外務省資料によると、1945年10月にベトナムで引き揚げのために集まった人は4029人で、うち1400人が台湾と朝鮮出身者だった。ベトナムは45年春から夏にかけて、ひどい飢餓に見舞われた。呉によると、やせ衰えて道端に横たわる人々は、下痢で地面を黄色く染め、ハエで真っ黒になって息絶えていった。死んだ母親のしなびた乳首をくわえた赤ん坊が、息のあるまま母と一緒に穴に投げ捨てられたという。そして、日本軍は飢えた人を助けるどころか、軍需米をため込んでいたという。そして、「私もその手先だったのが恥ずかしい」と語っていた。 

 敗戦農業試験場で知った。引き揚げの準備のため集まるよう、クロム工場にも伝える事になった。呉が日本人の主任を載せて行くはずだった。しかし、異動してきたばかりの台湾出身の同僚が最後の機会なので工場を見たいというので交代した。出かけた二人は帰らなかった。工場からの帰りにベトミンに襲われ、二人とも殺されたという。

 ベトナム北部には、日本軍の武装解除のため、中国国民党軍が進駐した。日本軍に協力した台湾出身者の中には処刑される者もいた。北部タインホア省の農業試験場で働いていた呉は、中国国民党軍を恐れて逃げ回った。日本敗戦後、ハノイに集まった人たちは、台湾出身者は食べるのにも苦労し、台湾同郷会を作って助け合った。ハノイにいた台湾出身者たちの名簿「台湾同郷会・会員名冊」によれば、1946年3月には、20代の青年ばかり約300人が名を連ねる。

 引き揚げの機会を失った呉は、その後、知り合いの雑貨屋のおやじに出合った。事情を聴いたおやじは、ベトミンで働かないかと呉を誘った。おやじはベトミンの一員だった。呉はハノイから約100㌔南のニンビン省で、ベトミン軍に軍事教練や柔道を教える事になった。呉は共産党系のベトミンに関わった事が、その後半世紀もベトナム北部にとどまるきっかけとなった。

 ベトナムでは1945年9月、ベトミンを率いるホー・チ・ミンが独立を宣言していた。しかし、1946年になると、植民地支配の復活を狙うフランス軍が、国民党軍と入れ替わって北部にも上陸してきた。ベトミンは抗仏戦争を展開した。

 呉は1946年、ベトミンから共産党のニンビン省委員会に移った。当時、党は解散宣言をしていたが、組織は残っていたようだ。その委員会に1948年、新しい書記が着任した。呉は党員ではなかったが、書記は太い声で、呉の事を同志と呼んだ。書記の名前はド・ムオイ。後の共産党書記長である。

 1954年春、ベトナム北部のニンビン省で暮らしていた呉に、引き揚げのために集まれとの連絡が役所からあった。抗仏戦争が大詰めの頃で、ベトミンの支配地域に残る日本人が帰国できるよう、日越両国の民間団体が話し合って実現した引き揚げだった。

 呉はこの3年前に、マラリアで身体を壊して、共産党の省委員会を辞めた。その後、ベトナム人と結婚し、野菜を作ったりして暮らしていた。

 引き揚げる前に、政治学習を受けさせられた。中国国境に近い集合場所に行くと、90人余りがいて、5人が台湾出身者だった。日本の国内情勢や日米安保条約の意味など、ベトナムの共産勢力による学習は半年間続いた。11月、いよいよ引き上げる事になった。ところが、出発の間際になって、台湾出身とわかると、日本人だけが対象だと拒否された。引き揚げのための靴や工員服を支給されて、歓声を上げる日本人を、5人の台湾出身者は呆然と眺めていた。

 引き揚げの通知は59年にもあった。しかし、また台湾出身者は拒否された。南北ベトナムは1976年、正式に統一した。

 引き揚げの機会を失っていた呉は、農村の生活に溶け込むより仕方がなかった。北ベトナムでは55年から土地改革が始まり、農業集団化が進められた。呉も合作社(集団農場)に所属する事になった。配給は月に一人モミ6㌔。山に入って荒れ地の開拓もした。その時は800㌘の米で半月間食いつないだ。飯盒に、拾い集めたイモとタピオカを詰め、その上に米粒をそっと撒いて炊いた。

 ドイモイ(刷新)政策が始まってからは自分の収入のために働けるようになった。ベトナムの農村ではごく当たり前の自転車で物を運んで収入を得る生活を続けた。竹の棒で補強した古い自転車に、モミ袋を5つ積む。重さは130㌔にもなる。それを一日かけて指示された場所に運ぶ。5、6千ドンにしかならない。それでも仕事が欲しい。呉は倉庫の前で夜を明かして、荷を待った。

 1991年6月、荷物運びの仕事を終えて、呉が汗まみれで帰宅すると、人だかりができていた。日本のテレビ取材班が、ベトナム北部ニンビン省の呉の家を取材に訪れた。呉には連絡が届いておらず、突然の事だった。日本人に会ったのは30年ぶりだった。言葉をすっかり忘れていた。地面に絵を描いて、「なべ」「かま」と一言ずつ思い出した。取材されて、閉じ込めていた望郷の思いが、一気に噴き出した。これがきっかけで、呉はハノイの日本人大使館を何度も訪れた。それまでは、日本のスパイと疑われるのではないかと、怖くて行けなかった。日本大使館で呉は訴えた。「日本のために働いたんだから、日本政府が責任を持って帰してほしい」日本には割り切れない思いがあった。しかし、日本国籍がないのだから、何もできない」大使館ではそう言われた。

 1993年夏、細川首相日本の戦争責任を認める発言をした事を、日本から送られてきた新聞で知った。変化があるのではないかと期待したが、大使館の返事は同じだった。「日本政府は昔も今も、口先だけだ」と呉は怒る 

 上記の、引き揚げのために集まった、外務省資料にある1400人の台湾や朝鮮の出身者について、大日本帝国政府は敗戦により日本人として扱う事をやめ、引き揚げの対象から外した。そのため、自力で帰国を試みたり、あるいは各地へ散り、消息が分からない人も多い。

 1992年、台湾はハノイに事実上の大使館である台北経済文化事務所を開いた。呉は1993年末に初めてその存在を知り訪ねた。事務所は呉の台湾の戸籍を確認し、台湾の旅券を発給した。名前は呉義連である。

 1994年5月、呉は、大日本帝国の植民地時代には「新高山」と呼ばれた台湾の最高峰「玉山」の登山口にある嘉義市に半世紀ぶりに戻った。台北空港には、親類や知人が出迎えた。呉は、花輪を差し出した姉の呉彩鳳に抱きついて声を上げて泣いた。両親の墓参りをし、市役所で身分証明書を作った。出身学校の嘉義農林で、呉連義の存在を確認する卒業証書を再発行してもらった。

 日本語教育を受けた呉は台湾語ができない。姉や同級生とは日本語で話せるが、甥や姪には通じないので通訳を要した。呉は、台湾に3ヶ月間滞在して迷い続けた。懐かしい故郷で暮らしたい。しかし、言葉や年齢を考えると無理なように思えた。妻子もいるし余生も短い。そして、結局、7月、ベトナムのニンビン省の自宅に戻った。

(2018年11月19日投稿)

 

 

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台湾の「親日」とは何か?神聖天皇主権大日本帝国政府による植民地化により100年先延ばしになった台湾民主化

2025-01-12 16:58:30 | 中国・台湾

※以下は2015年12月21日に投稿したものに加筆修正したものである。

 アジア・太平洋戦争が神聖天皇主権大日本帝国政府の敗戦で終わった後、それまで50年間神聖天皇主権大日本帝国政府植民地支配してきた台湾省中華民国政府へ返還されたが、共産党と大陸で内戦を続けてきた蒋介石率いる国民党軍(外省人)が逃げ込み統治した。しかし、士気の低さや驕りのため台湾人(本省人)の人気を失う。そして、1947年に2・28事件が起こった。国民党の弾圧圧政に対する台湾人の反抗である。それに対し、蒋介石(国民党総統)により武力鎮圧(白色テロ)が行われた。かつて植民地時代に日本に抵抗した人々、農民組合の人々、民衆党など(台湾人エリート)が弾圧を受けた。1949年5月に戒厳令が出され約40年間継続した(1987年7月、金門・馬祖以外解除)。政治犯とされた人の最長収監期間は34年7カ月。20年以上は当たり前で2万人。約4500人の死刑囚を出した。反日勢力であった、当時民衆の側に立った人たちが弾圧されたため、親日分子が残っていった。

 親日分子についてであるが、日本による植民地支配は台湾と韓国では全く異なっていた。韓国では封建制度や地主階級を徹底的につぶしたが、台湾ではそれをせず、地主階級を温存し、親日派として養成した。戦後日本との経済が深まるなかで彼らは復権した。しかし、彼らは自分が親日分子だとは言えないため、看板として付け替えたのが「台湾独立派」ということである。その実態は「親日」ということである。

 李登輝氏(2020年7月30日死去)は1996年に初の総統直接選挙を実現し台湾の民主化を推し進めた、と日本のメディアが高く評価する報道をしている。しかし、今日の日本の主権者国民は、これより100年前の日清戦争後の1895年5月末、神聖天皇主権大日本帝国政府が下関条約で清国に割譲させた台湾省を植民地化する事に台湾の人々が抵抗し、独立宣言を発し、台湾民主国を成立させた事実があった事こそ忘れてはならない。そしてそのような台湾省の人々の願いに対し、神聖天皇主権大日本帝国政府があらゆる手段を使って有無を言わせず植民地化を達成しすべての人々の人権を蹂躙した台湾征服戦争を強行した過去があった事こそ忘れてはならない。

 台湾民主国独立宣言文(総統唐景崧名義)は「日本清国を欺凌し、わが国土台湾の割譲を要求す。台民朝廷(=清国政府)に嘆願を重ねるも功を奏せずして終われり。倭奴(=神聖天皇主権大日本帝国政府)不日攻めきたらん事すでに知る。われもしこれを甘受せば、わが土地、わが家郷みな夷狄の所有に帰す。しかれども我もしこれを甘受せずんば、わが防備足らざるが故、長期持続し難し。われ列強と折衝を重ねしも、いずれも援助を期さば台民まず独立せよと主張せり。それ故わが台民敵に仕うるよりは死する事を決す。また会議において台湾島を民主国とし、すべての国務を公民によって公選せられたる官吏を以て運営せん事を決定せり。この計画のため、且つ倭奴の侵略に抵抗せんがため、新政府機構の中枢たるべき人物必要ならん。……」と主張している。

 台湾征服戦争は1915(大正4)年まで続いた。その間の帝国日本陸軍の戦死者は日清戦争を上回った。日清戦争時の陸軍戦死者が1161人、病死7234人、計8395人に対し、台湾征服戦争の陸軍戦死者は1988人、病死者7604人、計9592人といわれている。

  しかし、上記の「独立宣言」に対して神聖天皇主権大日本帝国政府は、圧倒的な軍事力(初めて機関銃を使用)をもって粉砕鎮圧したのである。帝国日本政府は北白川宮能久の率いる近衛師団を急派した。動員兵力はその後の増援部隊(乃木希典率いる第2師団、伏見宮貞愛率いる混成第4師団)を含め、2個師団余の5万人、軍夫2万6000人、馬9400匹。当時の陸軍兵力の3分の1を超えるものであった。台湾省の人々の抵抗の姿は都新聞記者として従軍した大谷誠夫『台湾征討記』では「既に夜も更けたれば敵無かるべしと思わるる方の岸に沿うて300メートルばかり流れ来りたる、東天漸く白みたるを以て最早進行し難し、如何はせんと思案に暮れしが傍らに昼尚暗き迄に生茂れる森林ありて潜伏するには屈強の場所なり、3人はこれ幸いと最も鬱蒼なる中を択んで入り、朝饗を喫せり、是にて携える所の食物は既に尽きたるなり、一行は潜伏所よりひそかに敵の動静を伺うに20人或いは30人づつ此処彼処に群れを為し、中には婦女子にして銃を執るあり、老幼にして槍を携えるあり、糧餉は多く婦人の手に依りて運ばれ宛然米国13州独立のパノラマを見るが如し」と記している。

 神聖天皇主権大日本帝国政府はこの台湾征服戦争を内戦だとして戦時国際法を適用せず、捕虜も取らず兵士や住民を殺害した。

 ちなみに北白川宮能久は1895年10月に台南を陥落させた頃、マラリアで死亡したため、神聖天皇主権大日本帝国政府は官幣大社・台湾神宮及び台湾の諸神社に祀った。敗戦後は、靖国神社に合祀した。李登輝氏は、日本人として海軍に進み、フィリピンで戦死し、神聖天皇主権大日本帝国政府は靖国神社に祀り、敗戦後もそのまま今日に至っている。

また、1930年には霧社で植民地支配に対する抗日反乱事件(霧社事件)が起きた。台湾総督府は飛行機・毒ガス(1928年ジュネーブ議定書発効で使用禁止)を使用する大規模な討伐を行い鎮圧し、敗戦まで植民地支配を続けた。

 上記のような歴史こそ、日本のメディアは主権者国民に伝えるべきであろう。また今日、岸田自公政府が「台湾有事」と称し防衛費を驚異的に増額する問題の発生原因の淵源は、かつて神聖天皇主権大日本帝国政府が中国(当時清国)台湾省を日清戦争の講和条約下関条約により割譲させ植民地支配したという歴史に存在する事を明確にし国民に伝えるべきであろう。この視点は今日の北朝鮮問題南北分断問題においても同様で、神聖天皇主権大日本帝国政府が大韓帝国に韓国併合条約を押し付け日本領土とした歴史がその発生原因の淵源である事を明確にし国民に伝えるべきであろう。つまり、どちらの問題もそもそも神聖天皇主権大日本帝国政府の侵略行為が原因であるという視点に立つ認識が必要なのである。

 米国政府またそれに追従する日本政府が、台湾独立派(反中国)を利用し、習近平政権を危険な悪人視して、習近平政権が中台統一政策達成のために軍事行動を起こすと決めつけ、「台湾有事」なる言葉を吹聴し、日米両国それぞれの国民や台湾省の人々に理不尽との印象を広める事を狙い、危機意識を煽る姿勢をとる事は、日米両政府が習近平政権の中国の国力を抑え込み、世界秩序の主導権において優位に立とうとするための「中国封じ込め政策」を正当化するためのものであり、日米両政府の偽善者による「内政干渉」以外の何物でもないとみなすべきである(日本政府は過去の侵略行為の報復を受けるかもしれないという恐怖感もあるかもしれないが)。つまり真相は、世界秩序に関する、現勢力である米日と新興勢力である中国との主導権争いなのである。しかし残念ながら、すべてのメディアは、主権者国民に対して、神聖天皇主権大日本帝国政府の価値観歴史認識を引き継ぐ歴代政権(自公政権)側に立ち、偏向偏狭な報道を行っており歴史の全貌を報道しようとしていないのが現状である。 

尚、神聖天皇主権大日本帝国政府による台湾の植民地支配がどのようなものであったのかについてはこれとは別に投稿します。

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