2020年4月10日、安倍自公政府は、秋篠宮の「立皇嗣の礼」について、19日に実施予定であったが、新型コロナウイルスの感染拡大で7都府県に緊急事態宣言を発しているため、当面の間延期すると発表した。
ところで、現在の「立皇嗣の礼」実施の端緒となっているのは、サンフランシスコ講和条約調印の翌年1952年に皇室と第3次吉田茂政府が実施した催事にある。それはすでに1947年5月3日に施行されていた「日本国憲法」が定める「政教分離原則違反」を無視し、「非合法的に実施」した催事であった。この歴史を知っておく事は、国民主権国家の主権者国民として非常に重要な事である。
その催事とは、神聖天皇主権大日本帝国の国家宗教であった「天皇教」=「国家神道」の核であった「皇室(宮中)神道」に基づく「宮中祭祀儀礼」である皇太子の「立太子の礼」であった。
当時の状況をみると、1945年12月25日には、GHQ司令部が、神道指令を発し、国家神道の廃止と政教分離を指示した。
神社神道に対する国家・官公吏の特別な保護監督の停止、公の財政的援助の停止、神祇院の廃止、神道的性格を持つ官公立学校の廃止、一般官公立学校における神道的教育の廃止、教科書からの神道的教材の削除、学校・役場などからの神棚などの神道的施設の除去、官公吏・一般国民が神道的行事に参加しない自由、役人の資格での神社参拝の廃止などの措置を指示した。
また、1946年2月2日には、神祇院官制をはじめ、すべての神社関係法令は廃止され、国家神道は制度上完全に解体された。宮中祭祀儀礼については皇室祭祀令の一部が削除され、同年5月には皇室令が全廃され、宮中祭祀儀礼は天皇の私的行為と位置づけられ、賞典は天皇の私的使用人となった。このように皇室神道(宮中祭祀儀礼)の公的性格は完全に認められなくなった。
ところが、GHQ(米国)が占領政策転換(逆コース)するなかで、時の第3次吉田茂政府が、サンフランシスコ講和条約締結を選び独立すると、皇室(神社本庁も1946年2月3日設置された)とともに国家神道の復権復活をも目論んだのである。その政策が上記の「立太子の礼」であったのだ。
そして、1953年には、敗戦によって中止(1949年予定の第59回式年遷宮は昭和天皇の命令で中止)していた伊勢神宮の式年遷宮を実施した。
1958年には、皇太子の結婚式に際し、第2次岸信介政府は皇室(宮中)神道祭祀儀礼である「賢所大前の儀」を国事として公的行事化した。
1960年には、池田勇人政府は国会において、伊勢神宮の神体「八咫鏡」の所有権は皇室にあると表明し、それを祀る伊勢神宮内宮正殿に公的性格を持たせた。
自民党、遺族会、旧軍人団体、右翼団体、神社本庁、生長の家、国柱会などの宗教団体により伊勢神宮とともに国家神道の両輪であった靖国神社の国営化運動が活発化し、1963年以降、靖国神社の「国家護持」案が発表され、1969年には、自民党が「靖国神社法案」を国会に提出した。
1967年には、私の別稿にも書いておいたけれど、国民の反対を押し切って、神聖天皇主権大日本帝国政府が国家神道(皇室神道と神社神道)の祭日「紀元節」としていた2月11日を、祝日「建国記念の日」として制定し、実質的に「紀元節」復活させた。皇室ではその日を「紀元節」として「皇室神道祭祀儀礼」を実施している。以下、皇室と自民党政府は国家神道復活のための「皇室神道祭祀儀礼」の実施と関係法律制定を強行していった。
1979年には、「元号法」公布。
1989年には、昭和天皇の「大喪の礼」実施。
1990年には、新憲法下初の即位の礼実施。大嘗祭実施。
1999年には、君が代を国歌、日の丸を国旗とする「国旗国歌法」制定。
2011年からは、小学生に古事記日本書紀の「神話」教育開始。
(2020年4月14日投稿)