つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

関西電力の新型コロナ感染相次ぐ、下請けにしわ寄せ

2021-09-26 10:59:50 | 原発

 関西電力は2021年8月7日、美浜、高浜原発での新型コロナ感染者の発生を発表した。それによると、6日に美浜原発で協力会社従業員1名、高浜原発で協力会社従業員10名の感染を確認している。このため3号機建屋内の追加の安全対策工事に従事していた協力会社従業員674名を自宅待機としている。

 関電管内の原発では7月1日から8月9日までに33名が感染している。本社従業員1名、協力会社従業員32名である。

 関電以外の全国の原発では同期間中に95名が感染しており、特に東京電力管内の原発では7月27日以降に相次いでいる。福島第一原発で50名、福島第二原発で2名、柏崎刈羽で18名、計70名で社員は8名、協力会社従業員は62名である。

 感染者協力会社従業員に偏っており、下請けに危険を負担させる形となっている。今回の事態で多数の自宅待機者が発生し、安全対策工事が中断する事にもなっている。

(2021年9月26日投稿)

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ホロコースト犠牲者追悼式典:リブリンとシュタインマイヤー両大統領から安倍首相が学ぶべき事

2021-09-24 21:17:18 | 戦争遺跡

『戦争を善行と考えるか、悪行と考えるかで、戦争後の対応は異なる。それは、心を痛める事なく再び行えるか、それとも二度と行わないよう教訓を学びとり、継承するかにある

 1月27日はナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)を象徴するアウシュビッツ強制収容所(ポーランド南部オシフィエンチム。最大の収容所。約110万人を虐殺)ソ連軍によって解放された日(生存者約7500人)である。国連総会では05年11月、この日を「ホロコースト・インターナショナル・メモリアルデー」と決定した。今年2020年1月23日にはイスラエル・エルサレムの「ホロコースト記念館」で、アウシュビッツ強制収容所解放75年を前に、犠牲者追悼式典が開かれた。ちなみにアンネ・フランク一家の足跡は、1944年9月3日に一家全員がアウシュビッツ強制収容所へ連行された。同年10月28日にはアンネ姉妹ベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移され、両親と別離。1945年1月6日アンネの母が死亡。同年1月27日アンネの父が解放された。同年3月始めアンネの姉が死亡。その数日後アンネが死亡(15歳9カ月。連行7カ月後)した。同年4月15日英軍によってベルゲン・ベルゼン強制収容所が解放された。

 式典冒頭でイスラエル・リブリン大統領は「反ユダヤ主義や人種主義に対して、国際社会が団結して闘う事が重要だ。ホロコーストと第2次世界大戦の記憶は薄れつつある。私たちは記憶しなければいけないのだ」と訴えた。

 ドイツ・シュタインマイヤー大統領は「ユダヤ人600万人の産業的大量殺人という、人間の歴史の中で最悪の犯罪は我が国の人々によって行われた私は歴史的な罪の重荷を背負ってここに立っている。邪悪な精神は、反ユダヤ主義、人種主義、独裁主義といった新たな症状で表れている。ドイツ人は歴史から学んだと言えたら良かったが、憎悪が広がる中、そう語る事はできない」と述べた。

 ドイツと三国同盟という軍事同盟を結んでアジア侵略戦争という悪業に邁進した神聖天皇主権大日本帝国負の遺産を、戦後の自民党政権はもちろん今日の安倍自公政権も引き受けて当然であろう。そう考えれば安倍首相もこの式典に参加し自己の考えを述べるべきだと思うがどうであろう。この点について今日までの日本のすべてのマス・メディアはまったく触れた事がないがこのような姿勢は如何なものであろうか。

 1月27日のアウシュビッツ強制収容所解放75年式典では、収容所生還者、ポーランドのマリアン・トゥルスキ氏が語った。「最も経験を伝えたいのは若者たちだ。しかし、彼らが自分の苦労話を聞くのはつまらないと思うのは理解できる。私たちが1930年代のベルリンにいると想像してみよう。ある日『このベンチにユダヤ人は座るな』と言われる。『このプールに入るな』『この声楽隊には入るな』『ユダヤ人には17時以降しかパンを売らない』。差別は徐々にエスカレートする。だが、疎外される事に当のユダヤ人も、周りの人も、少しずつ慣れてしまう。気がつくと隔離され、収容所ができていた。」「アウシュビッツは急に空から降って来たものではない。憲法を守り、人権を守り、少数者の権利を守れば、悪に打ち勝てる。民主主義は少数者の権利を保護する事にかかっている。権力を握っている政府の行動に無関心になってはいけない。無関心になればアウシュビッツは空から降って来る」と。

 また、別の収容所生還者レッサー氏は語った。「自分と異なる人も、同じ人間だ。憎しみを止め、理解し、一緒に生きていく。それを若い人たちに教えていかなければならない」と。

 主権者国民の権利は、権力を握る安倍自公政権の行動に無関心になれば奪い取られていくものだ、という意味として理解しよう。諦めるのはまだ早い。権利を守るための闘い、民主主義を守るための闘い、共存共生を守るための闘いはこれからでもまだ間に合う。

(2020年1月31日投稿)

 

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南極と北極は、氷と寒さに違いはあるのか?

2021-09-18 15:12:01 | 環境問題

 2021年9月17日、朝日新聞が「63次隊先遣隊、来月末に南極へ」という記事を載せていた。ところで、南極について身近に感じられる内容は書かれていなかったので、そのような事を紹介したい。

 まず、南極北極に存在するそのについてである。どちらも「塩辛くない」のだろうかという点についてであるが、どちらも「塩辛くない」ようである。

 南極大陸であり、南極の氷は陸地でできた氷が氷山になり海に流れ込んでいるもので、陸地でできたものなので「真水」のようである。北極は大陸ではなく氷の塊そのもので、その氷は海水が凍ったものであるので、つい「塩辛く」思われるがそうではない。結晶というものは純粋なもので、零度で凍って結晶になるのは「」だけなのである。小さな氷の粒と粒の間に塩分を含んだ海水が閉じ込められる事はあるが「塩辛く」なる程ではないようだ。

 次に南極と北極の「寒さ」についてである。両地域ではこの「寒さ」の度合いがひじょうに違うのである。北極ではマイナス67度を記録しているが、南極ではマイナス89度を記録していて「南極」の方が「寒い」。その原因は「標高」の違いが存在するという事である。「標高」が高ければ「寒さ」は増すためである。北極は「氷床」はあるが、南極大陸はほとんどが標高2000m以上であり、南アメリカ大陸アルゼンチン側に位置するヴィンソンマッシーフ山4897mあり、アフリカ大陸南アフリカ共和国側にある日本のドームふじ基地4000m超にある。加えて海水の存在が影響を与え、北極では北極海が気温の低下を防いでいるようだ。

 最後に、南極にも露天温泉があります。南アメリカ大陸最南端のホーン岬側に位置する南極半島につながるサウスシェトランド諸島の一つであるデセプション島で1970年に火山爆発が起こり生まれたものである。

(2021年9月18日投稿)

 

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彼岸花は飢饉用の最後の食糧として植えられた。それも食べ尽くしたら人間の肉を食べた

2021-09-16 20:44:16 | 文学・歴史

 天声人語(2019年9月25日)に、気象庁が観測している全国18カ所のうち14カ所で、彼岸花の開花が平年より遅れているという内容が載っていた。

 そもそも彼岸花は昔、飢饉用の食糧(非常用保存食料)として人間が植えたものである。昔人間は干ばつや冷害など様々な自然災害を生き抜くために身近な生活空間の中に非常用保存食料を備えていたのである。塩蔵食品、燻製(芋がらなど)、漬物など。さらに、松皮、藁など。は土壁を作る時に入れる藁である。藁の根元を3㌢ほどの長さに切って壁土と混ぜて塗り込めておいたのである。食べる場合、壁を崩して藁を水洗いし、潰して汁のように煎じ、とれる澱粉を飲んだ。藁の根元近くには7、8%ほどの澱粉質があり、100年以上保存できるのである。

 それらをすべて食べ尽くすと、最後に彼岸花を食べたのである。彼岸花は渡来植物(931~937年の間に成立の日本初の分類体百科事典『和妙類聚抄』に不記載。)で、雄株は日本の酸性土壌に適応せず絶滅し、雌株だけが残った。球根植物であり、種で生え殖えるものではなく、飢饉用の食糧として人間が植えたものなのである。その球根を食用にした。球根には多量の澱粉質があるのである。

 ところでこの球根にはアルカロイド毒がある。だから、水に晒し溶解して毒を除いた。彼岸花を食べ尽くすとどうしたのか。それは驚くなかれ人間の肉を食べたのである

 天明の飢饉(1783~84)に関する史料で1784年のものである、杉田玄白『後見草 下巻』の一部を紹介しよう。

「貧しき者どもは生産の手だてなく、父子兄弟を見棄て、我一にと他領に出でさまよい、なげき食を乞う。されど行く先々も同じ飢饉の折からなれば、他郷の人には目もかけず、一飯を与える人もなく、日々に千人二千人、流民共は餓死せし由、又出で行く事のかなわずして残り留まる者共は、食うべきものの限りは食いたれど、後には尽き果て、先に死にたる屍を切り取りては食いし由、或は小児の首を切り、頭面の皮を剥ぎ去りて焚火の中にて焙り焼き、頭蓋の割れ目にヘラ差し入れ、脳味噌を引き出し、草木の根葉を混ぜ炊きて食いし人も有りと也」以上

 

 この飢饉による被害は単なる天災だけによるものではなく、租税の負担が平常から重く農民の余力がなかった事、領主は自己の領内の平和だけを望み、他領を救おうともしなかった事、天災に対する平常からの政治的配慮が極端に乏しかった事、飢饉に乗じて悪徳商人が跳梁した事などのため一層大きくなったといわれている。

(2019年9月29日投稿)

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