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朝日新聞記事「私のイチオシ コレクション『日本の活版印刷』」:中西学芸員が失格?聞き手高木記者が失格?

2025-01-28 22:48:49 | 文学・歴史

 2021年1月26日の朝日新聞の記事欄「私のイチオシ コレクション」に印刷博物館(東京都文京区)の学芸員・中西保仁氏が「日本の活版印刷」という記事を提供していた。

 それを読んで私は同じ博物館学芸員資格を有する者として、非常に残念に思うとともに中西氏に学芸員としての責任の重大さを自覚してほしいと感じた。それはなぜか?それは活版印刷技術がもたらされた事についての説明文が、事実に基づいた丁寧なものとなっておらず、読者に誤った認識を伝えるものとなっているからである。また、この説明文が「聞き手」の高木彩情氏の編集によるものであれば、編集者の不見識によるものであるか、故意にこのようにしたかのいずれかという事になるが。いずれにしても記者失格というべきであろう。

 その説明文は、「日本に活版印刷技術がもたらされたのは16世紀末。欧州から天正遣欧少年使節団を通じて、アジアから朝鮮出兵した豊臣秀吉を通じて、違う文化圏の技術が偶然同時期に伝わりました」という説明分の中の「朝鮮出兵」という表現と、それによって「伝わりました」とする表現である。

 定説では、豊臣秀吉は「朝鮮を侵略した」のであり、その際に「多くの活字と本、それに印刷の技術者を略奪して連れて帰ってきた」事を説明すべきであろう。このような点も丁寧に説明するのが博物館学芸員の仕事であると思いますがいかがでしょうか。中西氏自身が記事のような説明をしたとすれば、彼自身、学芸員として勉強不足であるし、学芸員としての責任感の乏しさが感じられ、学芸員としては失格でしょう。また、「聞き手」の高木氏が、中西氏の説明をそのまま自身で確認せず記事にしたのであれば「記者失格」でしょう。まして高木氏の編集によるものであれば、大手メディアとしてこれはフェイクの発信であり、「犯罪」的行為と言っても良いでしょう。読者は記事を批判的に読む習慣を持たなければいけません。そのためには、ウソを見抜く広い知識を持つ必要がありますし、そのための努力を惜しんではいけないでしょう。

ちなみに、金属活字による印刷技術は、13世紀の朝鮮半島の高麗国(918~1392)で発明されている。最も古い金属活字での刊本とされているのは、1974年にフランス国立図書館で発見された『直指心体要節』で1377年に刊行されたものである。現在、世界最古の金属活字印刷本として、ユネスコ世界記憶遺産に登録されている。李氏朝鮮国時代になると、第3代国王太宗(1400~18)の代の1403年に金属活字鋳造所が造られ、次の世宗(1418~50)の代には書籍出版が盛行し、訓民正音(朝鮮文字、ハングル)も制定された。

 (2021年2月1日投稿)

 

 

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杉玉(酒林)はなぜ酒屋の看板となったか?

2024-12-30 15:22:06 | 文学・歴史

 朝日新聞2024年12月29日付『時時刻刻』の「酒造り 守るため」に、軒先に青々とした「杉玉」が「新酒の完成を告げている」との記事を載せていた。「杉玉」は「酒林」ともいうが、かつて「杉玉」は酒屋の「看板」だったのであり、また看板の「元祖」でもあった。記事には、その「杉玉」がなぜ「酒屋の看板」となっていたのかの説明がなかったので紹介したい。

 「」の「ヤニ」は、「フーゼル油」という油脂を含んでいる。この「フーゼル油」は「防腐作用」があり、酒屋はむかし「杉の新芽」をたくさん用意しておいて、「」に保存していたお酒が「腐り」かけると「杉の新芽」を漬け、腐るのを防いでいたのである。

 奈良県では酒屋はむかし、「大神神社」という酒造りの神様を祀る神社が売っていた「杉の新芽」で作った「杉玉」を買ってきて上記の作業を行ったのであり、酒屋のシンボルとなったのである。しかし、江戸時代になると、「寒造り」技術の確立と、保存や運搬には「」から「杉樽」使用へと変化するようになり、特別に「杉の新芽」を必要とする事がなくなったようである。

 ついでながら、「フーゼル油」は揮発性で、摂取すると「脳神経」をおかされて頭が痛くなる。お酒(日本酒)を「お燗」するのは、「フーゼル油」を揮発させるためなのである。

 お酒(日本酒)は、原料の米の「でんぷん」が分解され、でんぷん→ブドウ糖→アルコールと変化(発酵)してできる。この過程は、蒸した米に麹菌を繁殖させた「」を加える事で促進される。「」と「酵母」(イースト菌)の働きによる発酵は、暑いの方が早いため、中世では旧暦8月から各種のお酒が造られた。しかし、雑菌の侵入も多く腐敗しやすかった。江戸時代元禄期になると、冬季に発酵温度を比較的低温に保ち、雑菌の侵入を巧妙に制御する「寒造り」の技術が確立し、現在に至るまでお酒造りの主流となった。

(2024年12月30日投稿) 

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通天閣の歴史と南海電鉄傘下へ

2024-12-05 11:22:09 | 文学・歴史

 2024年12月5日朝日新聞が「通天閣南海電鉄の傘下に」と掲載した。

 現在の「通天閣」は2代目である。初代は神聖天皇主権大日本帝国時代の1912年(明治45)年7月3日に誕生した。「新世界」を開発した大阪土地建物会社の直営事業として「大林組」が請負い建設した。フランス・パリのエッフェル塔(1889年建設、高さ312㍍)がモデルで、75㍍、当時日本一の高さであった。土台はアーチ型の鉄筋づくりで、天井には天女の舞い姿が描かれていた。エレベーターは金網張りの幼稚なものであったが、当時は東京・汐留駅と大阪・専売局に、貨物用が一つずつあるだけで、人間を運ぶものは初めてであった。不幸な出来事も起こった。1916(大正5)年10月9日夕方、山口県出身の24歳のノイローゼ症状があった店員が展望台の欄干を乗り越えて、飛び降り自殺したのである。以後は展望台に金網がめぐらされた。1920(大正9)年7月に「ライオン歯磨」の電飾広告が取り付けられた。これは全国の電飾広告のハシリであった。

 1938(昭和13)年9月に、吉本興業に身売りした。1943(昭和18)年1月16日に、芦辺劇場西隣の映画館「大橋座」から出火があり、被災した。アジア太平洋戦争中には、金属供出が及び、1943年2月に解体され300㌧ほどの鉄屑となった。

 敗戦後の日本国1956(昭和31)年10月、2代目「通天閣」が初代のものより北へ約20㍍よりにそびえ立った。地元の人たちがお金を出し合って「通天閣観光会社」を設立し、「奥村組」の施工で再建したものであった。高さ103㍍世界初円形のエレベーターを付けた。

(2024年12月5日投稿)

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広瀬武夫中佐(日露戦争旅順港閉塞作戦)の銅像の戦後復元と公園占拠の不可解さ

2024-11-30 16:47:20 | 文学・歴史

 日露戦争では、旅順港閉塞作戦が実施された。その作戦には神聖天皇主権大日本帝国政府初の「軍神」とされた広瀬武夫少佐(戦死後、中佐に昇進)がいた。先日、40年ぶりに岐阜県高山市へ出かけた際、前回は知らなかったために訪れなかった城山公園へ、高山の町が展望できると知ったのでその景色を見たいと思い登ってみた。そして、天守閣跡への道の途中の広場で、思いがけない銅像を見つけた。それは日露戦争の旅順港閉塞作戦で「軍神」とされ、文部省唱歌『広瀬中佐』にもなった広瀬武夫の背の高い石の台座に載せられた銅製胸像であった。その時とっさに思った事は、高山市では現在でもいまだにこんな人物の銅像が場所を与えられて、きれいに整備され存在が認められ(讃えられ?)ているのかという不思議な驚きであった。

 広瀬中佐の銅像は明治期に3体建立されていた。➀1905年3月、岐阜県高山市の城山公園中佐平に胸像。➁1910年5月、東京旧万世橋駅前。③1912年5月、生誕地の大分県竹田市に立像、である。しかしアジア太平洋戦争中に金属供出により、高山市竹田市の像はなくなり、東京の像は1947年に「戦犯銅像」という事で東京都が撤去した。

 高山市竹田市には現在、復元したものが存在しているのである。竹田市の像(立像)は、2010年10月22日に竹田市の有志「広瀬武夫ブロンズ像建立実行委員会」により竹田市歴史資料館の広場に建立された。除幕式では首藤勝次市長が「今は政治も文化も混迷の時代だが、広瀬武夫像が私たちの大きな羅針盤となって未来を指し示してくれると思うと挨拶し、広瀬武尚(武夫の親族)氏が「日本人の本来の心を思い出すきっかけになってほしい」と述べたという。2017年12月には竹田市の広瀬神社の鳥居前に移設された。高山市の像(胸像)については1967(昭和42)年に特別寄進者の協賛により復元されたと言われています。東京都の撤去の対応と比べ、竹田市の像は10年ほど前に復元したものであり、現在もなお健在であるという事に、竹田市民の歴史認識に対する不可解さ不気味さを感じる。又、高山市の像の敗戦約20年後の復元と現在もなお健在であるという事にも、やはり竹田市民の歴史認識と同様の不可解さ不気味さを感じる。

(2024年11月30日投稿)

 

 

 

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大阪関西における電信電報事業の開始

2024-11-23 18:20:05 | 文学・歴史

 電信機は米国のペリーが2度目の来航時(1854年1月)に徳川幕府へ贈った物が伝来したのが最初であった。電信事業が本格化したのは1869年10月23日(電信電話記念日)からの東京~横浜間の電信線工事開始からである。大阪では70年8月、川口居留地に「伝信局」(72年に電信局と改称)を開局し、神戸と造幣寮(1871年2月15日開業)とに架設し民間電報も扱い始めた。電信機はブレゲー指字機を経て72年にモールス式となった。

 電信事業は軍事上、行政上の必要から急速に発展した。1873年には神戸~大阪~東京間の通信を開始し、1881年頃には全国網をほぼ作り上げた。大阪では高麗橋、心斎橋、梅田すてん所内に川口電信局分局を開局。梅田分局の後身が1883年11月20日に梅田すてん所西隣に開局した西部電信中央局であり、川口電信局に代わって西日本の電信の元締めとした。

 西部電信中央局は、赤レンガ造り、2階建て洋館、2階の通信室には機械台が6台、モールス単信印字機の電信機が30台あり回線は21。局員は約60人、月給は通信担当者で15円前後(米1升が7,8銭、家賃が月3,4円)で高給。出勤姿は洋服ならモーニング、山高帽子、皮手袋で、和服なら黒七子の羽織、仙台平の袴、編み上げ靴。歌舞伎役者と間違われたようだ。

 1885年、主管庁が工部省から逓信省に移り、86年逓信管理局を大阪に置いた時、大阪電信分局となった。その後7回ほど改称し、1952年、電電公社発足で大阪中央電報局となった。局舎は1893年7月、梅田から中之島・備前岡山藩蔵屋敷跡へ移り、1928年北区堂島西町へ、1965年11月北区玉江町1へと移っている。電報料金は1885年には全国均一制とした。

 1894年5月には職員の殉職事件が起こった。18歳の電報集配人が淀屋橋北詰で人力車と衝突し死亡した。事件を新聞が報じると、各地から義援金が相次ぎ、大阪北区の太融寺顕彰碑が建てられた。

(2024年11月23日投稿)

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