つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

佐伯啓思氏(異論のススメ)が語っていない事 

2015-07-06 22:03:14 | 佐伯啓思

 朝日新聞が掲載している佐伯啓思氏の「異論のススメ」の6月5日「日米同盟の意味・日本にあるか米国の覚悟」と7月3日「日米安保と憲法・国をまもるのは誰か」を読んだ。佐伯氏の考え方について、思いつくままを書きました。ご意見ご教示ください。

 彼の、特に「集団的自衛権の行使」についての考え方は、彼の「集団的自衛権は保持するものの行使できない、などという姑息な従来の内閣解釈を改め、一定限度内での行使を可能とする安倍首相の方針は、私にはまずは当然に見える。日米安保体制は相互的な防衛体制であるから、日本側が行使できないという方が異常であった」「安全保障の枠組みを前提とする以上、行使を可能として相互協力体制を強化する事は当然といわねばならない」という言葉から明らかである。「集団的自衛権の行使」を容認するという立場に立っている。

 現在国会審議中の集団的自衛権行使に関わる法的整備について、「伏線」があったといい、そもそも存在した「安保条約の二重構造」を日本国民が間違った理解をしていたようにいうが、それは間違いで、国民は正確に理解していた。

 また、「米国が日本を対共産主義の前線基地とした」という理解を日本国民がしなかったという指摘についても、彼は誤っている。1951年のサンフランシスコ講和条約締結(安保条約締結)に際しては、永世中立・全面講和(ソ連・中華人民共和国などを含む全交戦国との講和)を唱えた東京大学総長・南原繁や法政大学総長・大内兵衛などの知識人を、空論をもてあそぶ「曲学阿世の徒」(学問を曲げて世の中にへつらう者の意)と非難し、多くの国民の反対の声を無視して、吉田首相が独断で、独立後の日本のとるべき道として「片面講和」(単独講和。米国側の多数派だけとの講和))を強行し、同日午後「安保条約を締結し、沖縄を米軍基地の島として本土から切り捨てるとともに、日本が西側の欧米資本主義陣営に加わり、反共の防波堤となる道を選択した」と国民は正確に理解している。60年の安保改定時には東大生「樺美智子」さんの死亡事件が起きるに至るほどの安保大反対(廃棄)示威行動が巻き起こってる(岸信介内閣のよる強行採決)。

※講和条約調印拒否国(ソ連、ポーランド、チェコスロヴァキア) 

 会議に招請されたが不参加(インド、ビルマ、ユーゴスラヴィア)

 招請されなかった国(中華人民共和国、台湾、韓国、共和国)

 佐伯氏は、安倍政権ワールドの気になる点として、「積極的平和主義」をあげて、「日米同盟の基礎は、日米両国の価値観の共有にある」「そんな覚悟が日本にあるのだろうか。その前に、はたしてこの種の価値観を日本は有しているのであろうか」という。その価値観とは、「ただ自由や民主主義や法の支配を説くだけではなく、それらの価値の普遍性と世界性を主張し、そのためには先制攻撃も辞さない強力な軍事力の行使が正義にかなうとするもので、米国流儀の自由や民主主義によって米国が世界秩序を編成すべきだとするもの」であるという。

 佐伯氏は米国政府の標榜する自由や民主主義をどう評価しているのであろうか。わたしは、表看板はそれらを掲げているが、実態はそれとは異なる価値観をもつ政府であると思う。民主主義の仮面をかぶった、「自由の使者」の仮面をかぶった冷酷で独裁的な政府と見てよいと思う。

 そして、佐伯氏は、「この種の価値観を日本は共有しているのであろうか」というのであるが。

 これについて日本政府は、残念ながら誇るべきものではないが、米国政府に勝るとも劣らない経験がある。それは、明治から敗戦まで、大日本帝国は、神聖な天皇を戴く神国で、日本民族は世界を支配する能力を有する優秀な民族であると盲信し、日本民族の持つその価値観が普遍的で世界的なものであると盲信し、軍事力をもってアジアを手始めに世界の支配を進めていった過去の歴史がある。抵抗反抗するものには先制攻撃も辞さない強力な軍事力の行使を正義にかなうもの(聖戦)として行った(超国家主義)事である。

 また、敗戦後の日本国憲法下、それも今日において、安倍政権ワールドは、四半世紀前から周到にその精神的風土を再構築するためのたゆまぬ準備(日本会議などのネットワーク構築)をしてきており、そのめざす日本のイメージを「自民党憲法改正草案」に公表した。安倍政権ワールドは米国政府の価値観に十分対応できる価値観を有している。佐伯氏は「日本会議」や「自民党憲法改正草案」についてその評価を一切語っていないのだが、それを語らずして、どのような論理を説明しても説得力を持たないしかみ合わないであろう。にもかかわらず安倍政権ワールドの方針を容認するというのは乱暴な結論の出し方だと思う。同じ言葉もを使っても、価値観が異なれば、その言葉の意味(解釈)する内容は異なるし、それに基づく行動も異なる結果を生じるのであるから。安倍政権ワールドは特にその傾向が強いためになおさらその視点が重要である。

 安倍政権ワールドの価値観が、大日本帝国(明治憲法)への回帰、その国体である天皇教(国家神道)の復活、軍事力に対する強い依存などを正当化するものであると考えれば、両政府はそれぞれの特殊性を持ち、異なる面はあるが、少なくとも「欺瞞」的で「傲慢」な点で、類は類を呼ぶといわれるように意気投合した「同じ穴のむじな」と考えてよい。米国政府と安倍政権ワールドは、同じような価値観を共有しているといえる。  

 そして、佐伯氏は、本音では疑問を持っていないのであろうが、安倍政権ワールドに「その覚悟があるのだろうか」と言うが、安倍政権ワールドは米国政府の最も信頼すべき子分として、ある時点まではともに行動する「覚悟」を持っていると考えられる。ただ、その先には、安倍ワールドは米国政府との間に対立を生み、過去の両国間にあったような衝突が起こる可能性を秘めている。なぜなら、安倍政権ワールドは、、「欺瞞性」と「傲慢性」では米国政府とは変わりはないが、いわゆる米国とは「同床異夢」の野望を持っていると思われるからである。

※安倍晋三『美しい国へ』2006年文春新書

「……戦後生まれのわたしたちは、彼ら(特攻隊の若者たち)とどうむきあってきただろうか。国家のためにすすんで身を投じた人たちにたいし、尊崇の念をあらわしてきただろうか。たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか」

 最後に、佐伯氏は「そもそもこれまで、日本独自の世界観も戦略もわれわれは持ち得なかった、という反省から始めなければならない」と結んでいるが、「われわれ」とは誰を指しているのだろうか。私は「佐伯ワールド」であろうと考えたい。なぜならばそれは、これまで過去の歴史を反省し、アジアの国の人々との友好関係を深め、日本国憲法を尊重し、国民主権、平和主義、基本的人権を尊重するとともに、またそれらを否定し妨害する勢力と闘い守ってきた国民の意志は、使命として脈々と受け継がれてきているからだ。この思いを持つ国民は、その価値観と真っ向から対立する安倍政権ワールドを支持できない。彼らが二度と政界へ復帰できなくなるまで徹底的に闘い放逐するつもりだ。そして、われわれの願いをさらに保障するために努力する新しい政権を樹立する。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする