2016年2月21日、馳浩文科省は、岐阜大学の森脇久隆学長が2月17日に、卒業式などで国歌「君が代」を斉唱せず、これまで通り「旧制学校の校歌」を斉唱する方針を示した事について、「国立大として運営費交付金が投入されている中であえてそういう表現をする事は、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」「(下村氏の要請は)大学の自主的な活動についてああしろ、こうしろと言うものでもない。学長が(斉唱しないことに)言及する事はちょっと恥ずかしい」と述べた。普通のおっちゃんなら大目に見ても良いが、大臣それも教育をつかさどる大臣として憲法第99条「憲法尊重擁護義務」を全く理解していないという事は許されるべき事ではなく罷免に値する大問題である。こんな文科省をそのままにしておく事は民主主義を大切に思う国民にとってその人権意識を問われる問題でもある。
馳文科省は国が「運営費交付金」を出しているのであるから「斉唱」する事は当たり前であると言いたいのであろう。しかし、「運営費」と「斉唱」を結びつけて考えるべきでない事は「常識」である。その事が理解できていないのですかね。この点で大臣の資格はありませんね。もし、理解したうえでそのように述べているのであれば「確信犯」という事になりますね。たぶん「「確信犯」だと思いますが。学長が言及する事は「恥ずかしい」という事であるが、「学長」であるからこそその「使命と責任」において言及したと考えるべきであり、大いに「評価」すべきであろう。その事が理解できない事も大臣の資格はありませんね。馳文科省自身こそ国民の教育をつかさどる大臣として、「使命と責任」を強く意識して述べるべきであろう。「恥ずかしい」という表現は不適切で軽率で人を蔑む差別的意識に基づく表現であり、表現の仕方さえも身につけていないようである。この背景には上から目線の「自己中心的な傲慢さ」が潜んでいるように思われる。人権意識が希薄であり、こういう人格の持ち主は、日本国憲法の人権規定についてや国民の思いを理解する能力は持ち合わせていないであろうから、当然、第99条の「憲法尊重擁護義務」の理解も欠落しているようであるから、「大臣」には不適格であろうし、権力を持たせる事は国民にとって危険である。安倍ワールドに共通する
さて、「日の丸」「君が代」についてであるが、「日の丸」は1945年9月にマッカーサーの占領軍により、その掲揚が禁止された。「君が代」については、軍国主義教材に対して墨が塗られたいわゆる「墨塗り教科書」では消去されなかった。国民学校6年生「国語」の最後の教材「国語の力」には「君が代」が引用され、「この歌を奉唱する時は、我々日本人は思わず襟を正して、栄えます我が皇室の万歳を心から祈り奉る」と書かれていたが、この教材は墨を塗らせなかった。
「君が代」はその後も演奏や斉唱は禁止されず、斉唱する機会もあり、政府主催の「日本国憲法施行記念祝典」でも斉唱された。また、吉田茂首相の発声で「天皇陛下万歳」が唱えられた。
1949年には「日の丸」掲揚が許可された。その際、マッカーサーは「この国旗が人間の等しく深く求めてきた正義と自由の不易の観念に立脚した平和の象徴として永久に世界の前にひるがえらん事を願う」と述べた。
1950年には、天野文部相が「国民の祝日に学校で国旗を掲揚し、「君が代」を斉唱する事をすすめる」と発言し通達した。
1952年には、サンフランシスコ講和条約発効の4月28日から、NHKラジオ放送終了時に「君が代」演奏を流すようになった。その理由は、その翌日の29日が「天皇誕生日」であったからだ。
1953年、テレビ放送が始まると、「日の丸」がはためく場面にあわせて「君が代」を流すようになった。
敗戦後、「君が代」を復活させたのは文部省であり、それを敗戦後の日本社会に普及させたのは「NHK」であった。
1998年8月に成立した「国旗国歌法」についての「小渕恵三首相」の発言を以下に紹介する。
「政府の見解は、政府としては、今回の法制化に当たり、国旗の掲揚等に関し義務づけを行う事は考えておらず、したがって、国民の生活に何らの影響や変化が生ずる事とはならないと考えている旨を明らかにしたものであります。なお、学校における国旗と国歌の指導は、児童生徒が国旗と国歌の意義を理解し、それを尊重する態度を育てるとともに、すべての国の国旗と国歌に対して、等しく敬意を表する態度を育てるために行っているものであり、今回の法制化に伴い、その方針に変更が生ずるものではないと考えております」「法制化に伴う義務づけや国民生活等における変化に関するお尋ねでありましたが、既に御答弁申し上げましたとおり、政府といたしましては、法制化に当たり、国旗の掲揚等に関し義務付けを行う事は考えておらず、したがって、現行の運用に変更が生ずる事にはならないと考えております」
当時の文部大臣の国会答弁を以下に紹介する。
「本当に内心の自由だ嫌だと言っている事を無理矢理する、口をこじ開けてでもやるとかよく話がありますが、それは、子どもたちに対しても教えていませんし、例えば教員に対しても無理矢理口をこじ開ける、これは許されないと思います。しかし、制約と申し上げているのは、内心の自由である事をしたくない教員が、他の人にも自分はこうだという事で押し付けて、他の人にまで色々な事を干渉するという事は許されないという意味で、合理的な範囲でという事を申し上げているのです」
(2016年2月22日投稿)