金銭感覚が偏向し、「信頼」「友好」など人間どうしの結びつきに対し「皮相的夢想的」な感覚の持ち主と思える、建築家の藤本壮介氏(万博会場デザイン担当)。メディアが取材した彼の言葉を見ると、「世界の約8割の国・地域が一カ所に集まり、半年間一緒に過ごすのはすごいコンセプトだ」「世界が集まる場所をつくる」「たくさんの国の人たちがみんなで空を見上げるストーリーがいいな」「リングでは世界中の人が手をつないだり」などと述べているが、「世界中の人々が集まる事の尊さ」「いろんな知恵を持ち寄って多様性が新しい物を生み出す」というが、その来観者数は世界人口のほんの微々たる数である。また、「たくさんの人が集まる事に高い評価をしている」がそれは自分勝手な偏向した価値観である事に気づいていない。または、他者に意図的に押し付け洗脳しようとしているものだ。「たくさんの国の人たちがみんなで……」「リングでは世界中の人が手をつないだり」という言葉は、万博が世界中の人々の間で「友好信頼」を築く場になるというような意味であろうが、人間どうしの「信頼」や「友好」の関係はそんな一過性の短期間の「催し」で築くるものではないし、「集団」で築けるものではない事はちょっと考えれば気づく事である。「知恵を持ち寄って多様性が新しい物を生み出す」という機会は「万博」でなければならない時代ではないしそれ以外の機会こそが現実的で真の「信頼」「友好」を築く機会である。これまで国内でたくさんの博覧会を日本各地で(世界各地でも)開催してきたが、今日振り返って博覧会がそのような成果を上げて来たかどうかを考えてみればすぐに明らかである。皮相的夢想的無責任な「万博に集う意義」を主張すべきではない。また、「リング」の「木材」にはどこで何本の木々が伐採されたのか?伐採は自然破壊であるが、その場所を知りたいものである。伐採跡をどのようにしたのかも知りたいものである。伐採費用と製材費用、運搬費用、組立費用などなどに「府市民と国民」の莫大な税金が充てられているが、それも6カ月後には解体処分する。これを「坪単価」だけで計算し「決して高くない」という主張は非常識で無責任そのものである。リユースについては、府市民や国民からの「批判」や「非難」の声が発せられてからの「後づけ」説明で、元々はそんな事を考えておらず、廃棄するつもりだったではないか。以上のような「杜撰」で「皮相的夢想的無責任」な計画に「子どもたちが触れる万博の機会は計り知れない」と主張するのは独善的な「不感症」としか言えず救いようのない人物である。
(2024年7月21日投稿)