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斎藤隆夫反軍議会演説の速記録削除部分と新聞発表部分の各要旨

2024-10-01 14:53:51 | 斎藤隆夫

 1940年2月、第75帝国議会立憲民政党斎藤隆夫議員が行った、米内光政首相(1940.1.16~

1940.7.16)に対する、いわゆる「反軍演説」は、帝国議会が速記録から大部分を削除し、新聞内務省・警察からの通達により削除部分は報道できなかった。

 内務省・警察からの新聞社への通達内容を先ず紹介しよう。

一、二日衆議院本会議における斎藤代議士の演説で(首相或は興亜院総務長官に質したい)以下全文は速記を取消されたる旨議院当局より通告有之候に付きこれを新聞に掲載せざるよう。

一、

 (イ)議会における斎藤問題は対内的には種々の疑惑を生ぜしめ、また対外的には国内輿論の分裂せるやの印象を与える虞あるをもって、本件に関する記事は時局柄特に慎重に取扱い相成り度し。

 (ロ)社会面に斎藤代議士を英雄視するが如き感情を与えるものの掲載は不可。

 (ハ)斎藤代議士の記者との談話中自己の演説を、悪くない、国民の代表として論じたものなどと言ってい  るのは具合が悪い。

 (二)新聞取扱に関して斎藤代議士の所説に対し、支持共鳴するようなものは不可。

一、所謂斎藤問題に関し、さきに発せる禁止通牒に追加し、四日斎藤代議士が同盟通信を通じ発表せる声明書を新聞に掲載せざるよう、同代議士の声明書が別に各社宛に届いたときは掲載前検閲を受けられたし。

一、斎藤問題についてはさきの氏の談話ならびに声明書を紙面に掲載し、または社会面に写真を掲載して「自分の言ったことは正しい」「自分にはこうこうした支援者がある、手紙などたくさん来ている」といったようなことが現れぬようお願いしたが、当局の希望するところと逆になってすでに発禁処分になった例もあり、右様のことは今後といえども御取扱は慎重に願いたいと思います。但し議会における委員会本会議などで秘密会ならざる場合、懲罰そのものに関する記事は従来通り差支えありませんが、斎藤氏の議論を是なりとするようなことになると一応御連絡願いたい。

一、衆議院本会議における斎藤代議士懲罰に対する賛否投票数は、秘密会議事の内容につきこれを新聞紙に掲載せざるよう御注意相成度し。

一、さきに電話をもって申入れ置き候代議士懲罰に関する衆議院本会議における出席者数欠席者数、並びに賛否の投票数を表す多数少数相当数等の用語を使用せざるよう御注意相成度し。     

以上が通達であるが、これに沿って、新聞が報じた内容の要旨を以下に紹介しよう。

「(米内首相の)施政方針演説に就いても相変わらず抽象的なものに過ぎない。事変処理に於ては全国民の関心の的であり、一体事変は何時まで続くか、一体どうなるか、支那事変処理の範囲と内容の二点に就いて質し度い、事変処理に当たって忘れる事のできぬものは、国民が払った多大の犠牲であり、十万の英霊とこれに数倍する傷病将兵、この犠牲を忘れて事変処理の内容はあり得ない、米内首相の方針は近衛声明を出発点としているようだが、私は近衛声明に些かの疑いをもつのである。近衛声明には、一、支那主権の尊重 二、領土、賠償を求めず 三、経済提携 四、在支第三国権益を制限せず 五、内蒙を除く地域の撤兵 の五項目を含んでいるようである、支那独立の主権を尊重する以上、支那の内政外政に干渉がましい事は出来ぬこととなり、領土、賞金をとらぬとすれば、今日迄消費した軍費と更に将来どの位かかるか判らぬ膨大な軍費を日本国民が全部負担せねばならぬのであるか、撤兵に付いても汪声明によれば、日支共同防衛を目的とする内蒙その他の特定区域以外、日本の駐兵が無い事になる、之等について米内首相は如何に考えられるか、近頃至る所で『東亜新秩序建設』と云うが、その具体的内容は如何なるものであるか、昨年十二月十一日付で興亜委員会の答申案として発表されたものは中々難解であるが、一体東亜新秩序建設原理原則或は精神的基礎を委員会まで設けて研究に着手せねばならぬとはどういう訳か、首相或は興亜院総務長官に質し度い(以下大量削除)」

次に、速記録から削除された部分の要旨を以下に紹介しよう。

「(政府はこの戦争は従来の戦争とは全く性質が違うという)。政府は飽くまでも所謂小乗的見地を離れて、大乗的な見地に立って、大所高所より此の東亜の形勢を達観して居る、そうして何事も道義的基礎の上に立って国際正義を楯とし、所謂八紘一宇の精神を以て東洋永遠の平和、延いて世界の平和を確立するが為に戦って居るのである故に、眼前の利益などは少しも顧る所ではない。是が即ち聖戦である、現に近衛声明の中には確かにこの意味が現れおるのであります、其の言は誠に壮大である、其の理想は高遠であります、併しながら斯くの如き高遠なる理想が、過去現在及び将来、国家競争の実際と一致するものであるか否やということについては、退いて考えねばならぬのであります、(世界平和などは断じて得られるものではない)現在世界の歴史から戦争を取除いたならば、残る何物があるか、そうして一たび戦争が起こりましたならば、最早問題は正邪曲直の争いではない、是非善悪の争いではない、徹頭徹尾の争いであります、強弱の争いである、強者が興って弱者が亡びる、此の歴史上の事実を基礎として、吾々が国家競争に向かうに当たりまして、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ、此の現実を無視して、唯徒に、聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない、私は此の考えを以て近衛声明を静かに検討して居るのであります、彼の近衛声明なるものが、果たして事変を処理するに付いて最善を尽くしたるものであるかないか、之を疑う者は決して私一人ではない、(さらに重慶政府と、近く生まれんとする新政府との関係をとりあげ、新政府は兵力を有せざる以上は威令が行われないであろうと前途の困難を指摘し、この点に関して、支那事変処理の根本方針について、政府と軍部の間に意見の相違があるようだと述べ)蒋政権を撃滅するにあらざれば断じて矛は納めない、蒋介石の政府を対手としては一切の和平工作はやらない、此の方針は動かすべからざるものでありまするが、一方に於ては何処までも新政権を支持せねばならぬ、此の二つの重荷を担って進んで行かねばならぬのでありますが、是が我が国力と対照して如何なる関係を持って居るものであるか。私共決して悲観するものではない、悲観するものではないが、是が人的関係の上に於て物的関係の上に於て、又財政経済の関係に於て如何なるものであるかということは、全国民が聴かんとする所であると思うのであります、(新政府には力がないとすれば、中国の将来はどうなるのか、『近衛三原則』のために日本は重慶政府を対手にせず、また新政府も同様であるとすれば)そうすると支那の将来はどうなるものでありますか、何時まで経っても此の現状をば清算することは出来ないと思われるのであります、国民は政府の命令に従順であり、政府が事変を解決すると期待しているが、然るに若し一朝此の期待が裏切られることがあったならばどうであるか、国民心理に及ぼす影響は実に容易ならざるものがある」

(2024年10月1日投稿)

 

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斎藤隆夫が反対した国家総動員法:立憲主義否定と高度国防国家(ファッショ的行政国家)への再編成

2024-08-11 09:54:58 | 斎藤隆夫

 日中戦争の長期化にともない、神聖天皇主権大日本帝国政府(第1次近衛内閣)は国家総力戦体制樹立のため、1938年4月1日、国家総動員法を制定した。総動員法は国民経済と国民生活のすべてを官僚統制のもとにおき、その統制に関する大幅な権限を政府に委任する事を規定していた。また、政府命令は、議会の議決を必要としない勅令により発せられる事になり、政府の権限は強化された。その反対に議会と政党の地位は低下させられ、天皇の恩恵として「法律の範囲内」において認められていた「臣民の権利」も、勅令により剥奪できる体制が出来上がった。

 そのため、1938年2月24日、法案が衆議院に提出されると、民政党の「斎藤隆夫」、政友会の牧野良三ら自由主義代議士が「憲法違反」として批判した。それは、

 ①「戦時又は国家事変」の際における臣民の権利の制限または停止は「天皇の非常大権」(帝国憲法第31条)であるにもかかわらず、それをあらかじめ法律で決めておく事は違憲である。

 ②法律によって個々になすべき臣民の権利の制限又は停止を、一括して政府の自由に委ねている事は違憲であるというものであった。

 しかし、近衛首相は、「日中戦争には適用しない」と明言して強行成立をめざした。2月17日には政府と呼応して民間右翼「防共護国団」が政友会と民政党の本部を占拠(テロ)した。陸軍は衆議院解散をほのめかして政党を圧迫し、3月3日には政府側委員として出席した陸軍省軍務課員の佐藤賢了中佐が質問中の議員に向かって「黙れ!」と怒鳴る議会史上初の「黙れ事件」も起きた。(ちなみに佐藤は処罰されず、その後陸軍中将まで順調に昇進した。しかし、戦犯に問われ東京裁判では終身禁固刑の判決を受けた。)

 反対した政友会と民政党の内部には、近衛首相を中心に親軍新党の樹立めざす動きがあり、社会大衆党東方会は積極的に賛成したため、反対運動は盛り上がらず、無修正で4月1日公布、5月5日施行された。

 近衛は、総動員法が成立すると同時に、前言を反故にし同法に基づく最初の勅令「工場事業場管理令」を発した。以後、統制は社会の隅々にまで及ぼされ、国民は日常生活の細部に至るまで国家権力により監視統制される事となった。

 国家総動員法は、大日本帝国憲法の立憲主義的な面を否定し、ファッショ的行政国家(高度国防国家)へと再編成していく上で画期となった法律なのである。

斎藤隆夫は1936年の2・26事件後の5月7日、第69特別議会衆議院本会議では、青年将校らの思想の単純さ浅薄さとともに、軍当局の三月事件(1931年)、十月事件(1931年)、5・15事件(1932年)での取り締まりの緩さを厳しく批判した(「粛軍演説」)。軍人の政治関与を非難して、「ある威力によって国民の自由が弾圧せられるがごとき傾向」があるのは国家の将来にとって誠に憂うべきだと指摘した。

 しかし、陸軍は2・26事件を、軍備の拡充、国防国家建設の体制を強化する圧力として利用した。また、広田弘毅内閣は36年5月軍部大臣現役武官制を復活させ、軍への外部からの容喙を一切排除するとともに、内閣の組織、存続に対する主導権を掌握し、軍を中核とする臨戦体制確立への一段階を画した。

(2016年6月19日投稿)

 

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斎藤隆夫の「反軍演説」と衆議院議員の動向

2024-08-11 09:22:54 | 斎藤隆夫

 1940年2月2日、第75帝国議会の2日目。斎藤隆夫は衆議院で、泥沼化していた日中戦争について、民政党から代表質問(反軍演説)をした。この演説に対して、米内首相は適当な答弁でかわし、畑陸相は沈黙した。ところが、会議後、軍務局長の武藤章らが、演説を「聖戦の目的を侮辱し、10万の英霊を冒涜する非国民的演説だ」として問題視し、斎藤の除名を主張した。

 斎藤演説の要点三つである(草柳大蔵『斎藤隆夫かく戦えり』)。

①「日中事変(日中全面戦争)が始まって2年半、10万の英霊という犠牲を払っても解決していない。戦いはいつまで続くか、処理はどうするのか。それを国民に示せ。

②「事変」に対する日本の態度を表明した第2次近衛声明(日満華三国連帯による東亜新秩序建設)のなかに「聖戦」「八紘一宇」とあるが、戦争の本質は歴史の示す通り弱肉強食であり、そのような考えでは事変は解決しない。

第1次近衛声明「蒋介石を相手にせず」とあり、汪兆銘の政権(大日本帝国政府の傀儡政権)に望みをかけているらしいが、それで事変の処理が可能か。蒋・汪両政権の関係はどうなるか。

である。

 軍部は、斎藤除名に同調する他の議員もいた事から、懲罰委員会にかけさせ、1940年3月7日、衆議院は除名を可決した(反対は7名)。そして、議長は演説の5分の3を官報速記録から削除した。その内容は、

「現在世界の歴史から戦争を取り除いたならば残る何物があるか。一たび戦争が起こりましたならば、最早問題は正邪曲直の争いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する、これが戦争である。正義が不正義を膺懲する、これが戦争という意味ではない。……この現実を無視して、唯いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界平和、かくのごとき雲を掴むような文字をならべ立てて、千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るような事があれば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼす事はできないのであります。……」というものである。

 2日後の3月9日には、社会大衆党がこの除名に反対した片山哲ら7議員を除名した。

驚くべき事は、その同じ日、衆議院は「聖戦貫徹決議案」を可決し、3月25日には各派の衆議院議員100名余りが「聖戦貫徹議員連盟」を結成し、全政党の解散一大強力新党の樹立を提唱た。この動きは近衛文麿を中心とする1940年6月からの新体制運動に発展し、さらに政党の解散、政党政治の崩壊を経てその年10月には大政翼賛会の発足へと進み日本のファシズム体制が整備完成されていったのである。

そして、大日本帝国政府は1940年11月には「紀元(皇紀)2600年式典」を実施した。当時「紀元(皇紀)2600年」をどう受け止めていたのだろうか(大日本雄弁会講談社『雄弁』の巻頭言「輝く新春」)。

聖戦ここに2年有半(1937年7月7日の盧溝橋事件にあたる)、国威いよいよ揚り、興亜新秩序建設の途上に於いて、輝ける皇紀2600年の新春を迎える事は、何という意義深い事であろうか。改めて、神武肇国の偉業を仰ぎ、国恩の有難さに感銘を新たにしつつ、将来への方途に深き省察の機縁を与えられた事は、まさに神意の恩寵であらねばならない。日本民族は、肇国の当初、既に八紘一宇の皇謨を授け賜ったのである。われらの行動一切は、肇国の神勅から一歩も逸脱せず、また逸脱する事を許されない。さればこそ、日本の大陸経綸は、侵略にもあらず、征服にもあらず、皇道に基づける仁愛と正義の弘布である。それ故に、満州事変も、支那事変も、聖業といい聖戦と言い得る。またこの清純な理想あるが為に、東亜の新秩序は必成の可能性を持つのである。われらは、この皇紀2600年を祝うのに、決してお祭り騒ぎを要しない。唯決意を新たにして聖業達成に驀進すればよい。それが尊き国恩に報いる最上の道である。……」というものに表れていると思う。

※参議院議員選挙や東京都知事選挙には、主権を持つ国民の一人ひとりが自分のため子孫のために、「国家百年の大計を誤るという罪」を犯さぬように「立憲主義」「人権」の尊重を第一に考える議員を選ぶ事が今ほど大切な時はありません。安倍自公政権(日本会議)はこれとは真逆の政治勢力です。

(2019年5月28日投稿)

 

 

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斎藤隆夫の第89回帝国議会衆院本会議(1945年11月28日)の戦争責任追及と幣原首相の答弁

2024-04-14 20:56:03 | 斎藤隆夫

 幣原喜重郎内閣は、東久邇宮内閣(GHQの人権指令実施は不可能として総辞職)のあとを受けて成立。GHQは五大改革指令(1945年10月11日)を伝え、憲法改正の必要を示唆した。この実行がこの内閣の課題となった。斎藤隆夫は第89回衆院本会議で幣原首相に「戦争責任者に対する政府の態度」と「なぜ戦争責任を国民全体に負わしているのか=一億総ざんげ論」について質問している。このやり取りから主権者国民が教訓とする事ができる一部を以下に紹介しよう。

先ず、「戦争責任者に対する政府の態度」についての質問。「幣原首相は日本全国民も戦争の責任を負わねばならぬと明言せられている、これは一体どういう事であるか、私共誠に怪訝に堪えない、日本国民は果たして戦争の責任を負わねばならぬものであるかないか、この論結に入る前に先立ちまして、先ず以て戦争責任の根本について一言せざるを得ない、今日戦争の根本責任を負う者は東條大将と近衛公爵、この二人であると思う、最もこの両人だけが戦争の責任者ではない、しかし、苟も政局の表面に立ってこの戦争を惹起した根本責任は近衛公爵と東條大将、この両人であるというについて、天下に異論ある筈はない、それは何故か、申すまでもなく大東亜戦争は何から起こっているかと言えば、つまり支那事変から起こっている支那事変がなければ大東亜戦争はない、それ故に大東亜戦争を起こした東條大将に戦争責任があるとするならば、支那事変を起こした近衛公爵にもまた戦争の責任がなくてはならない、私は今日この場合に於いて支那事変は何が故に起こったのか、そういう事は申さない、又当時近衛内閣が声明した現地解決、事変不拡大の方針、これが何故に行われなかったか、これまた言う必要はない、しかしながら事変は拡大に拡大を重ねて停止する事ができない、この時に当たって近衛内閣はいかなる事を声明したか、支那事変は支那を侵略するのが目的ではないそれを蒋介石が邪魔をするから、蒋介石を討つのが目的であって、決して支那民衆を敵とするものではない、こういう事を声明している、しかしかくの如き浅はかなる声明が支那の民心を把握して、世界の世論を惹きつける事ができると思うに至っては、全く児戯に類するものである、次に何を言うたか、蒋介石を討つにあらざれば戈を収めない、蒋介石を相手にしない、蒋介石を討つ事ができたか、討つ事ができないではないか、蒋介石を相手にするもしないも、支那は今日連合国の一員となって、戦勝国の権利として戦敗国たる日本に向かっているではないか、近衛公はこの事実をどう見るか、苟も責任を解し、恥を知る政治家であるならば、安閑としておれるわけはない、なお近衛公の責任はこれ位のものでは止まらない、彼の汪兆銘と称する政治家、この無力なる政治家を引っ張ってきて、そうして支那に新政府を作らせる、この新政府によって日本はどれだけ搾取せられたか、どれだけ犠牲を払ったか、実に言うに忍びない、しかるにこの新政府はどうなったか、終戦と同時に崩壊して、今日は影も形もなくなっている、この事実をどうするのか、あるいは日独伊の三国同盟を作ったのも近衛内閣である、当時日本国民はかくの如き同盟には衷心賛成はしていなかった、にもかかわらず強いてこれを作った、そうしてこの三国同盟が大東亜戦争を導いたという事は紛れもない事実である、あるいは又米英の蒋介石援助に向かって抗議を申込んだ、かくの如き抗議が成り立たないという位の事は、常識を備えている者なら分かるはずである、何故か、日本が蒋介石を討てば、日本の勢力が益々支那に侵入する、日本の勢力が支那に侵入すればそれだけ米英の勢力は後退しなくてはならぬ、いづれの国といえども自国の勢力が後退するのを、指をくわえて見ている馬鹿はない、それ故に日本から見たならば、米英の蒋介石援助はけしからぬ事のように思えるかもしれないが、米英より見たならば、日本の蒋介石討伐はけしからぬと思われるに違いない、こういう事が段々と悪化して、遂に日米会談となる、近衛公は近頃日米会談の裏面に於て非常に骨を折ったけれども、これを成立させる事ができなかったのは甚だ遺憾であると言うて、何となく自分の責任回避を仄めかしているようであるが、これはもっての外の我がままである、日米会談は何から起こったのであるか、支那事変から起こったのである、自分で火をつけて大火事を起こしておきながら、その火事を消す事ができなかったから、火事の責任は自分にはない、こういう理屈が今日の世の中に於て通ると思うのは、これは全く世間知らずの分らず屋である、近衛公の戦争に対する責任は実に看過すべからざるものがある、これを現内閣はどう見ているか、近衛公は戦争に対しては責任はないと思っているが、もし責任がないと思うならば、私が以上述べた事実と近衛公との関係はどうなるのか、これを説明されたい、私がこういう事を申すのは、別に深い意味がある、それは今日我が国民が最も恨んでいる者が二人いる、一人は東條大将であるが、他の一人は近衛公である、この両人に対する国民の恨みは実に深刻なものがある、政府の高いところにいてはこれが分からないかは知らないが、これは全く事実である、しかるに一方の東條大将は、戦争犯罪者として検挙せられて、その運命も余り遠からないうちに定まるのであるが、他の責任者たる近衛公は、戦争犯罪者としてはおろか、政治上に於ける責任もとる形跡はない、のみならず宮中府中を通じてその存在は今なお国民の眼に映ずる、国民よりこれを見るならばこれ程奇怪千万な事はない、こういう事実が今日の国民思想の上に於てどういう影響を及ぼすか、それでなくても今日敗戦後の国民思想の中には、極めて油断のならないものがある、この油断のならない思想の中に於て、かくの如き問題をこのままに葬り去る事は国家の大局より見て戒むべき事であると思う、これに対する総理大臣の見解を伺いたい」

次に、「総理大臣が戦争責任を国民全体に負わしている事=一億総ざんげ論」についての質問。「国民は果たして戦争の責任を負わねばならぬものであるかどうか、最も今回の戦争はやるべきものであったか、やるべからざるものであったかという事については、国民の腹の底には色々の考えがあったに相違ない、もしこれを国民投票に訴えたならばその結果はどうであったか、私は今日これを明言しない、しかしひとたび戦争が起った以上は、その戦争には何としても勝たねばならぬ、戦争に勝たなければ国は滅びてしまう、それ故に戦前にはいかなる考えを持っていたにせよ、ひとたび戦争が始まった以上は、この戦争に勝つがために、国民は各々その身に応ずる能力を捧げて、戦争に向かって努力をしたに相違ないのである、国民の中には幾百万人の出征軍人もいる、これらの軍人は命を捨てて国家の為に戦ってきた、これに戦争の責任があるわけはない、その他銃後の国民も勝つがためには各々その身に相当する犠牲を払っている、例えば全国民の約半数を占めている農民である、彼らは増産に骨を折れと言えば一生懸命に増産に骨を折る、米を出せと言えば黙々としてこれを出す、自分の食糧をも省いて無条件に米を出している、農民は正直である、米を出せば戦争に勝つが、米を出さねば戦争に負ける、戦争に負けたなら出すも出さないもない、根こそぎ取られてしまうと説かるる、正直な農民は一途にこれを信じて米を出してきた、戦争に勝ちましたか、戦争に負けたではないか、政府は国民を騙したのである政府が農民を騙していながら、その農民に戦争の責任を負わせんとするのが幣原首相の態度である、その他一般の国民もまた然り、徴用工になれと言えば徴用工になる、挺身隊になれと言えば挺身隊になる、全国幾十万の学生生徒は大切な学業を中止してまで、直接間接に戦争のために働いてきた、それらの国民に何の責任があるのか、責任を負う者は別にあるが、それらの責任者に向かっては一指を染める事ができずに、一般の国民に向かって責任を負わせんとする幣原首相の考えはどこから出るのか、民主政治の確立、戦争の責任者、現内閣のなすところ、幣原首相のなすところは全く解し難い、この機会に所信を披瀝せられん事を望む」

 これに対する幣原首相の答弁。「戦争の責任は国民一般にあるとかいうような事のお話があったが、私はかような事を申した事はない、その不確実あるいは無根の事を新聞に出された事によって、私を攻撃する事は甚だ残念です、特定の政治家が戦争の責任があるかどうかという事を、政府として表明する事は適当な事ではないと考える、唯一般論としては、戦争責任者の追究について国民の間に血で血を洗うがごとき結果となるような方法に依る事は好ましくない、既に戦争責任者の一部については、連合国側に依って逮捕審問を受けつつある、その他の人々の中にも自ら責任を痛感し、自発的に公的の地位ないし社会的の地位より隠退しつつある向きも少なくない事はご承知の通りです、なお政府としてはかくの如き自発的に責任を痛感して隠退を決意せらるる向きに対しては、その方法を容易ならしむべく具体的措置を講ずる」 

戦争処理のための皇族内閣東久邇宮稔彦内閣の国民への戦争終結メッセージ「一億総ざんげ論」の一部を以下に紹介したい。

「……終戦(敗戦)の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、後世史家の慎重なる研究批判に俟つべきであり、今日我々が徒に過去に遡って、誰を責め、何を咎める事もないのでありますが、前線銃後国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔をして神の前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の戒めと為し、心を新たにして、戦の日にも増して挙国一家乏しきを分ち、苦しきを労り、温き心に相援け、相携えて、各々其の本分に最善を尽くし、来るべき苦難の途を踏み越えて帝国将来の進運を開くべきであると思います……」

 神聖天皇主権大日本帝国政府官僚は、「天皇制国体の護持」こそが戦後政治に参画する者の重要なる責務と考え、天皇制国体の最大危機を救う最後の切り札として、久邇宮朝彦親王の9男で、明治天皇の娘を夫人とする東久邇宮稔彦に組閣(1945年8月17日~10月5日)させた。内閣制度開始以来初の皇族内閣である。任務は、天皇制国体に対する国民の離反を防止し、占領に先立って支配体制の安定を作り上げておく事であり、占領軍が実施する非軍事化民主化の先回りをして、天皇制国体の完全復活を期するにあった。国民教育に対する期待も「新日本建設の教育方針」(文部省1945年8月15日)には「今後の教育は益々国体の護持に努る事」としていた。

(2018年11月14日投稿)

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斎藤隆夫の第89回帝国議会衆院本会議(1945年11月28日)の戦争責任追及と下村定陸相の答弁

2024-04-14 19:03:53 | 斎藤隆夫

 1945(昭和20)年11月28日の第89回帝国議会衆議院本会議で、斎藤隆夫氏は下村定陸軍大臣に対し、「満州事変当時から軍人が政治に干渉し、この弊害を停止するところなく、ついに今回の非運を招いた。この際、軍の代表者たる者は、いかにして我が国に軍国主義が生まれたか、又何故にこれを抑圧する事ができなかったか、いかにして今回の戦争を導いたのであるか、について全国民理解を求めるために、一切の事情を説明する必要があると思う。軍部大臣と合い間見ゆる事は今回が最後と思われる故に、あえてこの機会に大臣の所見を聞きたい」と質問した。

 これに対して下村定陸相は、以下のように「申し訳ありませぬ」などの「お詫び」の「言葉」を発するだけで、具体的な説明を伴わないだけでなく狡猾で無責任な答弁であった。

「斎藤君の質問にお答えを致します。いわゆる軍国主義の発生につきましては、軍と致しましては、陸軍内の者が軍人としての正しき物の考え方が誤った事、特に指導の地位にあります者がやり方が悪かった事、これが根本であると信じます。この事が中外の色々な情勢と複雑な因果関係を生じまして、ある者は軍の力を背景とし、ある者は勢いに乗じまして、いわゆる独善的な横暴な処置をとった者があると信じます。殊に許すべからざる事は、軍の不当なる政治干渉であります。かような事が重大な原因となりまして、今回のごとき悲痛な状態を国家にもたらしました事は、何とも申し訳がありませぬ。私は陸軍の最後に当りまして、議会を通じてこの点につき全国民諸君に衷心からお詫びを申し上げます。陸軍は解体を致します。過去の罪責に対しまして、私どもは今後事実を以てお詫びを申し上げる事、事実を以て罪を償う事ができませぬ。誠に残念でありますが、どうか、従来からの国民各位の御同情に訴えまして、この陸軍の過去における罪悪のために、ただ今斎藤君の御質問にもありましたように、純忠なる軍人の功績を、抹殺し去らない事、殊に幾多戦没の英霊に対して、深きご同情を賜らん事を、この際切にお願いいたします。軍国主義の発生の経緯、ならびに、それを抑制し得なかった理由などについて、この議会に開陳せよという斎藤君の御希望、誠に御最もであります。これには清朝の検討を要する事でございまして、私ども、もとよりその必要を感じておりますが、今議会中において斎藤君の御満足いきますように、具体的、詳細に申し上げられるかどうかはお約束ができませぬ」

下村定陸相は、初の皇族内閣となった東久邇宮稔彦首相が、1945年9月初めに「戦争終結を国民に知らせる演説(一億総ざんげ論)」を行った際、演説草稿に「敗戦」という言葉を見つけ、「終戦」としてほしいと注文を付けた人物である。

※軍人勅諭では、「……世論に惑わず 政治に拘らず……」と定められていた。

(2024年4月14日投稿)

 

 

 

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