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自公政権は検定を恣意的(歴史修正主義)価値観押しつける制度へと変質させた、敗戦までの国定教科書(超国家主義思想の教化)制度復活狙う

2024-04-30 14:10:31 | 教育

 今回の教科書検定は、新基準で実施された。新基準は自民党の提言を受け、安倍自公政権が2014年に導入した。新基準は昨秋に合格した中学教科書に続いて、高校の地理歴史・公民の検定に初めて適用した。新基準とは、①政府見解がある場合はそれに基づく ②特定の事柄を強調しすぎない ③近現代史で通説的な見解がない数字などの記述では諸説ある事を示す、の3つの基準を追加した内容。

 今回の検定については、日本教育法学会浪本勝年理事教育法が、「文科省の見解を書かせる検定が広がっていると感じる。執筆者は異論があっても、合格するためには従わざるを得ない。検定制度は敗戦後、民間の創意工夫を生かすために導入されたが、敗戦までの国定教科書の時代に近づいているのではないか。研究者らが第三者委員会をつくって意見をまとめ、執筆者が参考にするなど、政権の見解を過剰に影響させない仕組みを考える必要がある」と話している。

 新基準の3つの項目内容についてであるが、①と②③とはその中身の質が異なるものである。②③は強いて言えば教科書編集上の方針で、印刷ミスや校正漏れなどのチェックに関わる内容に近いと考えられる。しかし、①の基準はそのようなものでなく、「政府見解」とは、安倍自公政権の歴史観を意味しており、それに基づく事を強制する内容である事に気づかなければならない。この政府見解」というものは、敗戦までの文部省の、日本史で言えば「日本史教育の指針」を言い換えて「ごまかし」たものと考えるべきである。

 敗戦前に、文部省の「図書編集官」として「日本史教科書」の編纂を担った人物である「喜田貞吉」が、1910年に著した『国史の教育』には興味深い事が書かれているので紹介したい。

 『国史の教育』は、学校で歴史を学ぶ子どもたちに真実に近づけさせない事を書いているのです。彼は「一口に歴史といっても、学問として研究する歴史と、一般世間の人の目に映ずる歴史と、普通教育に応用する場合の歴史の3つがある。この間には、余程の区別がなければならない。」とし、「第1の学問としての歴史の場合には、遠慮会釈なく過去の真相を明らかにするのだという。歴史の真実を押し隠し、美化する事があってはならない」としている。第2の世俗の目に映ずる歴史については、「学問としての歴史を研究した人の目からすると、ずい分偏っている、一般世間の人には真相がわからないので、過去の人物や事件の像を、自分の考えを加味して勝手に描いている。これは人情の然らしむる所で、まことにやむを得ない」としている。この考え方は世俗の人々を馬鹿にした「歴史教育論」といえる。そして今回の新基準による検定と重要な関係をもつ、第3の普通教育向けの歴史については、「歴史学から見ると間違っていても、普通教育ではかえって利用できることがある。日本の歴史は大体において善美であり、普通教育においては、この「大体」という事が何よりも大事だ」としているのである。そして、文部省が「日本史教育の指針」として、「国体(天皇制)の大要」を知らせ、「国民たるの志操を養うものと定めていたので、この指針からはずれる歴史を子どもたちに教えてはならないとされていたのである教師についても、歴史学の専門誌や著作を読んで、それを子どもに話す教師に対しては「不心得な教師」としていたのである。この第3こそ安倍政権の新基準そのものなのである。国民はうまく騙されたのだ。日本の教育は安倍自公政権が子どもたちに、彼らの恣意的な歴史観(歴史的研究の成果に基づかない作り話、歴史修正主義)や価値観を「教化」するものに変質させられたのである。

③については、安倍自公政権の「不作為の責任」を追及すべき内容であると考える。神聖天皇主権大日本帝国政府敗戦間際に「公文書」など「証拠」を焼却隠滅し、連合国による「戦争責任」追及を受けないようにした。この事を考えれば、安倍自公政権は、侵略国加害国として他人事のような責任がないような態度をとる事は許されず、自ら明らかにしなければならない責任を負うている。にもかかわらず、自ら「証拠」隠滅をしておきながら、「証拠」がない事を理由に、安倍自公政権に都合のよい「表記」を求めたものといえる。

 安倍自公政権は、学習指導要領も検定基準も自己に都合の良いように変質させ、彼らの偏向した価値観を国民に押し付ける(洗脳する)ための制度としたのである。今後もさらに、国民の幸せのためではなく、彼らの幸せのために改悪を続けてゆくだろう。

(2017年3月26日投稿)

 

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メーデー:安倍自公政権とメディアが仕組んだ新天皇新元号フィーバーに主役奪われた。日本最初のメーデーで歌われた歌詞に深い感慨。今日の労働運動はどれだけ進歩できたのか

2024-04-28 09:37:56 | 労働組合

 2019年5月2日の新聞に、新天皇や新元号などに関するひときわ目立つ派手で大きな写真や大きな見出しの記事に紙面を圧倒的に占められ、そっちに目を引かれて見過ごしそうになるほど目立たない地味で小さな見出しで写真も付けられていない形で「メーデー」の記事が載せられていた。この両者に対する扱いにはメディアの価値観が期せずして表れていると言って良いが、それはメディアの国民主権に対する認識がいかに低いかを示すとともに、国民の認識の実態にシフトしたものであるともいえる。新聞やメディアは、天皇制について自覚の乏しい多くの国民を信じて、安倍自公政権との徹底した対決や問題点の究明をする事より、皇室讃美の記事を報道する事の方が読者や視聴者の関心に答える事になり経営上も利益を上げる事ができる事を戦前の経験や戦後これまでの経験から身に染みて理解しているのでそのようにしたのである。そして、この状況は安倍自公政権にとっては期待通りの極めて喜ばしい状況であるという事だ。全労連は代々木公園に約2万8千人が参加し、「8時間働いて普通に暮らせる賃金・働くルールの確立」「全国一律最低賃金制度と最賃時給1500円の早期実現」などの宣言を採択。小田川議長は「大企業の内部留保が増加している、元号が変われば、富の偏在は改まり、過労死するまでの働き方でも賃金が低下する異常は解消されますか、いずれも答えはノーです」と抗議した。全労協は日比谷公園で約6千人が参加した。

 日本における最初のメーデー世界最初のメーデーは1886年5月1日、米国労働者が8時間労働実現と総同盟罷業を決議)神聖天皇主権大日本帝国政府下の1920年5月2日(当年のみ2日日曜日。当時労働者は日曜日でなければ参加できなかった。)であった。大会の資金幸徳秋水の遺著の印税から提供された。当時、労働運動は1912年8月に作られた「友愛会」が、1919年8月には「大日本労働総同盟友愛会」、1920年10月「日本労働総同盟友愛会」、1921年10月「日本労働総同盟」へと発展し、その中で神戸川崎造船所や八幡製鉄所の争議、東京での普通選挙法デモなどが闘われた。

 日本に初めてメーデーを紹介したのは、1890年、フランスにいた中江兆民門下の酒井雄三郎が、徳富蘇峰の『国民之友』に寄せた「5月1日の社会党運動」であった。日本で最初のデモは、1898年4月10日労働組合期成会が東京遷都30周年を利用し、本石町から上野公園までの800人のデモであった。

 最初のメーデーは東京上野公園で実施されたが、日曜日であったため参加者は1万人となった。治安警察法第17条(ストライキを制限する内容)の撤廃、失業防止(当時戦後恐慌)、最低賃金法の設定、8時間労働制、シベリア出兵の即時撤兵公費教育の実現、言論絶対自由などを決議した。

 そして、この日に歌われた歌が下中弥三郎の作詞である以下のような内容であった。下中は、埼玉師範卒業の小学校教師によって作られた日本最初の教員組合である啓明会(1919年8月)代表であり、この歌は一高寮歌「あ々玉杯に花うけて」の曲にのせて歌われた。

 この世の富も繁栄も   われ等が汗の末になる

 われ等が手をばおく時は 世界も闇となりぬべし

 汗の値の貴さを     いざ遊民に示さばや

 (略)

 あ々メーデーよ、メーデーよ 

 飢餓貧乏の恐怖なき   自治労働の新社会

 建設すべき我々の    志気を天下に示すべき

 一年一度の祝祭よ

 この歌は第2回まで歌われたが、第3回からは大場勇作「聞け万国の労働者」に変わった。

 また、1923年9月の関東大震災後、ファシズムの強まりにより労働運動は抑圧され分裂し、メーデーは1936年の2・26事件以後禁止された。

 労働運動の曲折についてみると、労働総同盟は1924年2月大会で、運動の「方針転換」を宣言。運動の大衆化をめざし、「現実主義」とする立場に立ち、政治的に経済的に改良運動を重視。労働者の要求は、資本家の情態を考慮し、その要求が社会一般から受け入れられるかどうか、工場側が許容できるかどうかを条件に「過大な」要求をかかげる態度を退け交渉において、「相手が常識的である場合に於いては、出来る限り罷業団に於ても温和に……理論整然と交渉すべき」であり、「裏面に於てなされる戦術が、争議の勝敗を決定する重要な役目を持っている」との態度を表明(『労働』大正14年8月15日)。

 「現実主義」は端的に言えば、革命主義に対決する反共主義であった事は歴史がすでに示す通りである。その反共主義は天皇制権力と資本家の反共主義と軌を一にしていた。反共主義の体質は神聖天皇主権下で権力の弾圧を回避できたし、資本家側からも理解を得る事を可能とし、その組織の安定を保つ事ができた。しかし、権力や資本の侵略や反動化には、労働者の日常的利益に対してすら闘わず順応するという論理を内に有していた。現在の「連合」の姿勢に対してどのような評価が多いかによって、これからの労働運動のあり方と労働者の位置づけが決まっていくであろう。日本の労働運動はあれからどれほど進歩できたのだろうか。歴史から何を学ぶべきか?

(2019年5月2日投稿)

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ラジオ体操放送開始の目的とその中止と再開の正しい認識を

2024-04-23 22:05:13 | メディア

 2023年6月10日付朝日新聞be記事が「ラジオ体操」の歴史を掲載した。しかし、今日の主権者国民が最も知っておかねばならない事を書いていないので、それからは偏向した知識教訓しか学べないのでメディアの責務として是非書いて欲しかった事を以下に少し紹介したい。

 ラジオ体操は、1920年代に逓信省職員が米国で体験し、日本での実施を提唱した事から始まり、同省簡易保険局が作った。その目的は、神聖天皇主権大日本帝国政府が、1928年11月10日に実施予定の昭和天皇の大礼(即位儀式)を記念するためであった。 

 日本初のラジオ放送は、新聞社、通信社、無線機器メーカーなどの出資による、それぞれ独立した3つの社団法人、つまり東京放送局(1925年3月)、大阪放送局(3月)、名古屋放送局(7月)が開始した。その後、神聖天皇主権大日本帝国政府は「放送は国家的事業」と考え始め、3局を合併して1つの組織にまとめるとともに、全国各地に支部を設けていき、1926年8月には社団法人日本放送協会を創設した。新役員の多くは逓信省出身者により占めた。そして、1928年11月10日実施予定の昭和天皇の大礼(即位儀式)を目標に、3局を結ぶ中継回線建設を計画し、11月5日に完成させた。つまり、神聖天皇主権大日本帝国政府は、全国ラジオ放送体制を、天皇制との関係で整備したのである。そしてそれを用いて昭和天皇の大礼奉祝番組を11月6日から27日までの22日間にわたり全国中継でラジオ放送したのである。

 そして、ラジオ体操の放送についてであるが、大日本帝国政府逓信省が日本放送協会に持ち込み、政府がその「大礼」を記念する事を目的として1928年11月1日東京放送局から開始させ、時を開けず全国放送とさせ、早朝に集団で実施させるようにした。目的は、音楽と号令による学童の集団行動や集団統一の馴致であった敗戦の翌1946年4月には再開したが、連合国軍総司令部(GHQ)が翌47年9月1日からの放送中止を命じた。しかし、朝鮮戦争開始後約1年の1951年5月に実施を許可した。これはGHQによる警察予備隊創設をはじめとする、民主化・非軍事化から再軍備へという占領政策の大転換(逆コース)と大きく関係していたのである。主権者国民は、このような歴史をしっかりと認識した上で、ラジオ体操を、又今日ではテレビ体操をも健康維持のために生かす事は良い事である。

(2023年6月10日投稿)

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昭和天皇や国会公文書が示す(新憲法施行から52年まで)の新憲法否認意識

2024-04-17 21:44:52 | 皇室

 現在、国会の「開会式」は「国会が行う行事」として行われるが、大日本帝国憲法下では「開院式」と称し、「宮内省が行う宮中儀式行事」として「貴族院」議場で行われた。本来、宮中で行うべき行事であるが、宮中には全議員を集める場所がないので、議事堂を使用する事になったといわれる。貴族院職員にその日だけ「貴族院職員兼宮内省職員」という身分を与え事務に携わらせた。帝国議会最終日には「閉院式」を行った。現行新憲法下の国会では「閉会式」は行わない。

 「開院式」では、天皇が「勅語」を読んだ。

 戦時最後の第87回帝国議会(1945年6月9日)の「開院式」での「勅語」は、

「朕茲に帝国議会開院の式を行い貴族院及び衆議院の各員に告ぐ

朕は国務大臣に命じて特に時局に関し緊急なる議案を帝国議会に提出せしむ 卿等よく朕が意を体し和衷審議以て協賛の任をつくせよ」

 戦後初第88回帝国議会(1945年9月4日)の「開院式」の「勅語」は、

「朕茲に帝国議会開院の式を行い貴族院及び衆議院の各員に告ぐ

朕すでに戦争終結の詔命を下し 更に使臣を派して関係文書を調印せしめたり 朕は国務大臣に命じて国家内外の情勢と非常措置の径路とを説明せしむ 卿等其れよく朕が意を体し道義立国の皇謨に則り政府と協力して朕が事を奨順し億兆一致愈々奉公の誠を竭さん事を期せよ」

 1947年5月3日には現行新憲法施行され、「前文」中には、「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と定めた。又、第98条1項でも「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と定めた。

 ところが、新憲法下での第1回国会(1947年6月23日)の「開会式」にも、衆議院議長の式辞の後、昭和天皇は以下の「勅語」を読んだ。その中には「国会は、国家の最高機関であり、国の唯一の立法機関である」と述べているにもかかわらず。

「本日、第1国会の開会式に臨み、全国民を代表する諸君と一同に会する事は、私の深く喜びとするところである、日本国憲法に明らかであるように、国会は、国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関である、従って、我国今後の民主主義に基づく平和国家、文化国家の建設に成功する事を切に望むものである」

 この後、「開会式」での「勅語」は、国会の公文書第13回国会(1951年12月10日)まで使用している。

そして、第3次吉田茂内閣(1949年2月16日~52年10月30日)が「抜き打ち解散」をしたので、第14回国会(1952年8月26日)は「3日間」で、「開会式」は行われず、第15回国会(1952年10月24日)の「開会式からやっと「お言葉」に改めている。

 ところで新聞メディアの報道では、朝日新聞第2回国会の「開会式」には「勅語」を止め、「お言葉」を使用している。

(2024年4月16日投稿)

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斎藤隆夫の第89回帝国議会衆院本会議(1945年11月28日)の戦争責任追及と幣原首相の答弁

2024-04-14 20:56:03 | 斎藤隆夫

 幣原喜重郎内閣は、東久邇宮内閣(GHQの人権指令実施は不可能として総辞職)のあとを受けて成立。GHQは五大改革指令(1945年10月11日)を伝え、憲法改正の必要を示唆した。この実行がこの内閣の課題となった。斎藤隆夫は第89回衆院本会議で幣原首相に「戦争責任者に対する政府の態度」と「なぜ戦争責任を国民全体に負わしているのか=一億総ざんげ論」について質問している。このやり取りから主権者国民が教訓とする事ができる一部を以下に紹介しよう。

先ず、「戦争責任者に対する政府の態度」についての質問。「幣原首相は日本全国民も戦争の責任を負わねばならぬと明言せられている、これは一体どういう事であるか、私共誠に怪訝に堪えない、日本国民は果たして戦争の責任を負わねばならぬものであるかないか、この論結に入る前に先立ちまして、先ず以て戦争責任の根本について一言せざるを得ない、今日戦争の根本責任を負う者は東條大将と近衛公爵、この二人であると思う、最もこの両人だけが戦争の責任者ではない、しかし、苟も政局の表面に立ってこの戦争を惹起した根本責任は近衛公爵と東條大将、この両人であるというについて、天下に異論ある筈はない、それは何故か、申すまでもなく大東亜戦争は何から起こっているかと言えば、つまり支那事変から起こっている支那事変がなければ大東亜戦争はない、それ故に大東亜戦争を起こした東條大将に戦争責任があるとするならば、支那事変を起こした近衛公爵にもまた戦争の責任がなくてはならない、私は今日この場合に於いて支那事変は何が故に起こったのか、そういう事は申さない、又当時近衛内閣が声明した現地解決、事変不拡大の方針、これが何故に行われなかったか、これまた言う必要はない、しかしながら事変は拡大に拡大を重ねて停止する事ができない、この時に当たって近衛内閣はいかなる事を声明したか、支那事変は支那を侵略するのが目的ではないそれを蒋介石が邪魔をするから、蒋介石を討つのが目的であって、決して支那民衆を敵とするものではない、こういう事を声明している、しかしかくの如き浅はかなる声明が支那の民心を把握して、世界の世論を惹きつける事ができると思うに至っては、全く児戯に類するものである、次に何を言うたか、蒋介石を討つにあらざれば戈を収めない、蒋介石を相手にしない、蒋介石を討つ事ができたか、討つ事ができないではないか、蒋介石を相手にするもしないも、支那は今日連合国の一員となって、戦勝国の権利として戦敗国たる日本に向かっているではないか、近衛公はこの事実をどう見るか、苟も責任を解し、恥を知る政治家であるならば、安閑としておれるわけはない、なお近衛公の責任はこれ位のものでは止まらない、彼の汪兆銘と称する政治家、この無力なる政治家を引っ張ってきて、そうして支那に新政府を作らせる、この新政府によって日本はどれだけ搾取せられたか、どれだけ犠牲を払ったか、実に言うに忍びない、しかるにこの新政府はどうなったか、終戦と同時に崩壊して、今日は影も形もなくなっている、この事実をどうするのか、あるいは日独伊の三国同盟を作ったのも近衛内閣である、当時日本国民はかくの如き同盟には衷心賛成はしていなかった、にもかかわらず強いてこれを作った、そうしてこの三国同盟が大東亜戦争を導いたという事は紛れもない事実である、あるいは又米英の蒋介石援助に向かって抗議を申込んだ、かくの如き抗議が成り立たないという位の事は、常識を備えている者なら分かるはずである、何故か、日本が蒋介石を討てば、日本の勢力が益々支那に侵入する、日本の勢力が支那に侵入すればそれだけ米英の勢力は後退しなくてはならぬ、いづれの国といえども自国の勢力が後退するのを、指をくわえて見ている馬鹿はない、それ故に日本から見たならば、米英の蒋介石援助はけしからぬ事のように思えるかもしれないが、米英より見たならば、日本の蒋介石討伐はけしからぬと思われるに違いない、こういう事が段々と悪化して、遂に日米会談となる、近衛公は近頃日米会談の裏面に於て非常に骨を折ったけれども、これを成立させる事ができなかったのは甚だ遺憾であると言うて、何となく自分の責任回避を仄めかしているようであるが、これはもっての外の我がままである、日米会談は何から起こったのであるか、支那事変から起こったのである、自分で火をつけて大火事を起こしておきながら、その火事を消す事ができなかったから、火事の責任は自分にはない、こういう理屈が今日の世の中に於て通ると思うのは、これは全く世間知らずの分らず屋である、近衛公の戦争に対する責任は実に看過すべからざるものがある、これを現内閣はどう見ているか、近衛公は戦争に対しては責任はないと思っているが、もし責任がないと思うならば、私が以上述べた事実と近衛公との関係はどうなるのか、これを説明されたい、私がこういう事を申すのは、別に深い意味がある、それは今日我が国民が最も恨んでいる者が二人いる、一人は東條大将であるが、他の一人は近衛公である、この両人に対する国民の恨みは実に深刻なものがある、政府の高いところにいてはこれが分からないかは知らないが、これは全く事実である、しかるに一方の東條大将は、戦争犯罪者として検挙せられて、その運命も余り遠からないうちに定まるのであるが、他の責任者たる近衛公は、戦争犯罪者としてはおろか、政治上に於ける責任もとる形跡はない、のみならず宮中府中を通じてその存在は今なお国民の眼に映ずる、国民よりこれを見るならばこれ程奇怪千万な事はない、こういう事実が今日の国民思想の上に於てどういう影響を及ぼすか、それでなくても今日敗戦後の国民思想の中には、極めて油断のならないものがある、この油断のならない思想の中に於て、かくの如き問題をこのままに葬り去る事は国家の大局より見て戒むべき事であると思う、これに対する総理大臣の見解を伺いたい」

次に、「総理大臣が戦争責任を国民全体に負わしている事=一億総ざんげ論」についての質問。「国民は果たして戦争の責任を負わねばならぬものであるかどうか、最も今回の戦争はやるべきものであったか、やるべからざるものであったかという事については、国民の腹の底には色々の考えがあったに相違ない、もしこれを国民投票に訴えたならばその結果はどうであったか、私は今日これを明言しない、しかしひとたび戦争が起った以上は、その戦争には何としても勝たねばならぬ、戦争に勝たなければ国は滅びてしまう、それ故に戦前にはいかなる考えを持っていたにせよ、ひとたび戦争が始まった以上は、この戦争に勝つがために、国民は各々その身に応ずる能力を捧げて、戦争に向かって努力をしたに相違ないのである、国民の中には幾百万人の出征軍人もいる、これらの軍人は命を捨てて国家の為に戦ってきた、これに戦争の責任があるわけはない、その他銃後の国民も勝つがためには各々その身に相当する犠牲を払っている、例えば全国民の約半数を占めている農民である、彼らは増産に骨を折れと言えば一生懸命に増産に骨を折る、米を出せと言えば黙々としてこれを出す、自分の食糧をも省いて無条件に米を出している、農民は正直である、米を出せば戦争に勝つが、米を出さねば戦争に負ける、戦争に負けたなら出すも出さないもない、根こそぎ取られてしまうと説かるる、正直な農民は一途にこれを信じて米を出してきた、戦争に勝ちましたか、戦争に負けたではないか、政府は国民を騙したのである政府が農民を騙していながら、その農民に戦争の責任を負わせんとするのが幣原首相の態度である、その他一般の国民もまた然り、徴用工になれと言えば徴用工になる、挺身隊になれと言えば挺身隊になる、全国幾十万の学生生徒は大切な学業を中止してまで、直接間接に戦争のために働いてきた、それらの国民に何の責任があるのか、責任を負う者は別にあるが、それらの責任者に向かっては一指を染める事ができずに、一般の国民に向かって責任を負わせんとする幣原首相の考えはどこから出るのか、民主政治の確立、戦争の責任者、現内閣のなすところ、幣原首相のなすところは全く解し難い、この機会に所信を披瀝せられん事を望む」

 これに対する幣原首相の答弁。「戦争の責任は国民一般にあるとかいうような事のお話があったが、私はかような事を申した事はない、その不確実あるいは無根の事を新聞に出された事によって、私を攻撃する事は甚だ残念です、特定の政治家が戦争の責任があるかどうかという事を、政府として表明する事は適当な事ではないと考える、唯一般論としては、戦争責任者の追究について国民の間に血で血を洗うがごとき結果となるような方法に依る事は好ましくない、既に戦争責任者の一部については、連合国側に依って逮捕審問を受けつつある、その他の人々の中にも自ら責任を痛感し、自発的に公的の地位ないし社会的の地位より隠退しつつある向きも少なくない事はご承知の通りです、なお政府としてはかくの如き自発的に責任を痛感して隠退を決意せらるる向きに対しては、その方法を容易ならしむべく具体的措置を講ずる」 

戦争処理のための皇族内閣東久邇宮稔彦内閣の国民への戦争終結メッセージ「一億総ざんげ論」の一部を以下に紹介したい。

「……終戦(敗戦)の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、後世史家の慎重なる研究批判に俟つべきであり、今日我々が徒に過去に遡って、誰を責め、何を咎める事もないのでありますが、前線銃後国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔をして神の前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の戒めと為し、心を新たにして、戦の日にも増して挙国一家乏しきを分ち、苦しきを労り、温き心に相援け、相携えて、各々其の本分に最善を尽くし、来るべき苦難の途を踏み越えて帝国将来の進運を開くべきであると思います……」

 神聖天皇主権大日本帝国政府官僚は、「天皇制国体の護持」こそが戦後政治に参画する者の重要なる責務と考え、天皇制国体の最大危機を救う最後の切り札として、久邇宮朝彦親王の9男で、明治天皇の娘を夫人とする東久邇宮稔彦に組閣(1945年8月17日~10月5日)させた。内閣制度開始以来初の皇族内閣である。任務は、天皇制国体に対する国民の離反を防止し、占領に先立って支配体制の安定を作り上げておく事であり、占領軍が実施する非軍事化民主化の先回りをして、天皇制国体の完全復活を期するにあった。国民教育に対する期待も「新日本建設の教育方針」(文部省1945年8月15日)には「今後の教育は益々国体の護持に努る事」としていた。

(2018年11月14日投稿)

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