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自公政権は検定を恣意的(歴史修正主義)価値観押しつける制度へと変質させた、敗戦までの国定教科書(超国家主義思想の教化)制度復活狙う

2024-04-30 14:10:31 | 教育

 今回の教科書検定は、新基準で実施された。新基準は自民党の提言を受け、安倍自公政権が2014年に導入した。新基準は昨秋に合格した中学教科書に続いて、高校の地理歴史・公民の検定に初めて適用した。新基準とは、①政府見解がある場合はそれに基づく ②特定の事柄を強調しすぎない ③近現代史で通説的な見解がない数字などの記述では諸説ある事を示す、の3つの基準を追加した内容。

 今回の検定については、日本教育法学会浪本勝年理事教育法が、「文科省の見解を書かせる検定が広がっていると感じる。執筆者は異論があっても、合格するためには従わざるを得ない。検定制度は敗戦後、民間の創意工夫を生かすために導入されたが、敗戦までの国定教科書の時代に近づいているのではないか。研究者らが第三者委員会をつくって意見をまとめ、執筆者が参考にするなど、政権の見解を過剰に影響させない仕組みを考える必要がある」と話している。

 新基準の3つの項目内容についてであるが、①と②③とはその中身の質が異なるものである。②③は強いて言えば教科書編集上の方針で、印刷ミスや校正漏れなどのチェックに関わる内容に近いと考えられる。しかし、①の基準はそのようなものでなく、「政府見解」とは、安倍自公政権の歴史観を意味しており、それに基づく事を強制する内容である事に気づかなければならない。この政府見解」というものは、敗戦までの文部省の、日本史で言えば「日本史教育の指針」を言い換えて「ごまかし」たものと考えるべきである。

 敗戦前に、文部省の「図書編集官」として「日本史教科書」の編纂を担った人物である「喜田貞吉」が、1910年に著した『国史の教育』には興味深い事が書かれているので紹介したい。

 『国史の教育』は、学校で歴史を学ぶ子どもたちに真実に近づけさせない事を書いているのです。彼は「一口に歴史といっても、学問として研究する歴史と、一般世間の人の目に映ずる歴史と、普通教育に応用する場合の歴史の3つがある。この間には、余程の区別がなければならない。」とし、「第1の学問としての歴史の場合には、遠慮会釈なく過去の真相を明らかにするのだという。歴史の真実を押し隠し、美化する事があってはならない」としている。第2の世俗の目に映ずる歴史については、「学問としての歴史を研究した人の目からすると、ずい分偏っている、一般世間の人には真相がわからないので、過去の人物や事件の像を、自分の考えを加味して勝手に描いている。これは人情の然らしむる所で、まことにやむを得ない」としている。この考え方は世俗の人々を馬鹿にした「歴史教育論」といえる。そして今回の新基準による検定と重要な関係をもつ、第3の普通教育向けの歴史については、「歴史学から見ると間違っていても、普通教育ではかえって利用できることがある。日本の歴史は大体において善美であり、普通教育においては、この「大体」という事が何よりも大事だ」としているのである。そして、文部省が「日本史教育の指針」として、「国体(天皇制)の大要」を知らせ、「国民たるの志操を養うものと定めていたので、この指針からはずれる歴史を子どもたちに教えてはならないとされていたのである教師についても、歴史学の専門誌や著作を読んで、それを子どもに話す教師に対しては「不心得な教師」としていたのである。この第3こそ安倍政権の新基準そのものなのである。国民はうまく騙されたのだ。日本の教育は安倍自公政権が子どもたちに、彼らの恣意的な歴史観(歴史的研究の成果に基づかない作り話、歴史修正主義)や価値観を「教化」するものに変質させられたのである。

③については、安倍自公政権の「不作為の責任」を追及すべき内容であると考える。神聖天皇主権大日本帝国政府敗戦間際に「公文書」など「証拠」を焼却隠滅し、連合国による「戦争責任」追及を受けないようにした。この事を考えれば、安倍自公政権は、侵略国加害国として他人事のような責任がないような態度をとる事は許されず、自ら明らかにしなければならない責任を負うている。にもかかわらず、自ら「証拠」隠滅をしておきながら、「証拠」がない事を理由に、安倍自公政権に都合のよい「表記」を求めたものといえる。

 安倍自公政権は、学習指導要領も検定基準も自己に都合の良いように変質させ、彼らの偏向した価値観を国民に押し付ける(洗脳する)ための制度としたのである。今後もさらに、国民の幸せのためではなく、彼らの幸せのために改悪を続けてゆくだろう。

(2017年3月26日投稿)

 

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メーデー:安倍自公政権とメディアが仕組んだ新天皇新元号フィーバーに主役奪われた。日本最初のメーデーで歌われた歌詞に深い感慨。今日の労働運動はどれだけ進歩できたのか

2024-04-28 09:37:56 | 労働組合

 2019年5月2日の新聞に、新天皇や新元号などに関するひときわ目立つ派手で大きな写真や大きな見出しの記事に紙面を圧倒的に占められ、そっちに目を引かれて見過ごしそうになるほど目立たない地味で小さな見出しで写真も付けられていない形で「メーデー」の記事が載せられていた。この両者に対する扱いにはメディアの価値観が期せずして表れていると言って良いが、それはメディアの国民主権に対する認識がいかに低いかを示すとともに、国民の認識の実態にシフトしたものであるともいえる。新聞やメディアは、天皇制について自覚の乏しい多くの国民を信じて、安倍自公政権との徹底した対決や問題点の究明をする事より、皇室讃美の記事を報道する事の方が読者や視聴者の関心に答える事になり経営上も利益を上げる事ができる事を戦前の経験や戦後これまでの経験から身に染みて理解しているのでそのようにしたのである。そして、この状況は安倍自公政権にとっては期待通りの極めて喜ばしい状況であるという事だ。全労連は代々木公園に約2万8千人が参加し、「8時間働いて普通に暮らせる賃金・働くルールの確立」「全国一律最低賃金制度と最賃時給1500円の早期実現」などの宣言を採択。小田川議長は「大企業の内部留保が増加している、元号が変われば、富の偏在は改まり、過労死するまでの働き方でも賃金が低下する異常は解消されますか、いずれも答えはノーです」と抗議した。全労協は日比谷公園で約6千人が参加した。

 日本における最初のメーデー世界最初のメーデーは1886年5月1日、米国労働者が8時間労働実現と総同盟罷業を決議)神聖天皇主権大日本帝国政府下の1920年5月2日(当年のみ2日日曜日。当時労働者は日曜日でなければ参加できなかった。)であった。大会の資金幸徳秋水の遺著の印税から提供された。当時、労働運動は1912年8月に作られた「友愛会」が、1919年8月には「大日本労働総同盟友愛会」、1920年10月「日本労働総同盟友愛会」、1921年10月「日本労働総同盟」へと発展し、その中で神戸川崎造船所や八幡製鉄所の争議、東京での普通選挙法デモなどが闘われた。

 日本に初めてメーデーを紹介したのは、1890年、フランスにいた中江兆民門下の酒井雄三郎が、徳富蘇峰の『国民之友』に寄せた「5月1日の社会党運動」であった。日本で最初のデモは、1898年4月10日労働組合期成会が東京遷都30周年を利用し、本石町から上野公園までの800人のデモであった。

 最初のメーデーは東京上野公園で実施されたが、日曜日であったため参加者は1万人となった。治安警察法第17条(ストライキを制限する内容)の撤廃、失業防止(当時戦後恐慌)、最低賃金法の設定、8時間労働制、シベリア出兵の即時撤兵公費教育の実現、言論絶対自由などを決議した。

 そして、この日に歌われた歌が下中弥三郎の作詞である以下のような内容であった。下中は、埼玉師範卒業の小学校教師によって作られた日本最初の教員組合である啓明会(1919年8月)代表であり、この歌は一高寮歌「あ々玉杯に花うけて」の曲にのせて歌われた。

 この世の富も繁栄も   われ等が汗の末になる

 われ等が手をばおく時は 世界も闇となりぬべし

 汗の値の貴さを     いざ遊民に示さばや

 (略)

 あ々メーデーよ、メーデーよ 

 飢餓貧乏の恐怖なき   自治労働の新社会

 建設すべき我々の    志気を天下に示すべき

 一年一度の祝祭よ

 この歌は第2回まで歌われたが、第3回からは大場勇作「聞け万国の労働者」に変わった。

 また、1923年9月の関東大震災後、ファシズムの強まりにより労働運動は抑圧され分裂し、メーデーは1936年の2・26事件以後禁止された。

 労働運動の曲折についてみると、労働総同盟は1924年2月大会で、運動の「方針転換」を宣言。運動の大衆化をめざし、「現実主義」とする立場に立ち、政治的に経済的に改良運動を重視。労働者の要求は、資本家の情態を考慮し、その要求が社会一般から受け入れられるかどうか、工場側が許容できるかどうかを条件に「過大な」要求をかかげる態度を退け交渉において、「相手が常識的である場合に於いては、出来る限り罷業団に於ても温和に……理論整然と交渉すべき」であり、「裏面に於てなされる戦術が、争議の勝敗を決定する重要な役目を持っている」との態度を表明(『労働』大正14年8月15日)。

 「現実主義」は端的に言えば、革命主義に対決する反共主義であった事は歴史がすでに示す通りである。その反共主義は天皇制権力と資本家の反共主義と軌を一にしていた。反共主義の体質は神聖天皇主権下で権力の弾圧を回避できたし、資本家側からも理解を得る事を可能とし、その組織の安定を保つ事ができた。しかし、権力や資本の侵略や反動化には、労働者の日常的利益に対してすら闘わず順応するという論理を内に有していた。現在の「連合」の姿勢に対してどのような評価が多いかによって、これからの労働運動のあり方と労働者の位置づけが決まっていくであろう。日本の労働運動はあれからどれほど進歩できたのだろうか。歴史から何を学ぶべきか?

(2019年5月2日投稿)

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増補版 石橋湛山首相のプレスクラブ演説(1957年1月25日)抜粋、米ソ両国政府とどう対応するか?

2024-04-27 23:09:56 | 日本人

 石橋湛山は1956年12月23日から57年2月23日まで首相を務めた。その首相が1957年1月25日の行ったプレスクラブでの演説内容である。ここには今日の日本の政治の在り方を考える上で大いに参考になる事がうかがえる。以下にその抜粋を紹介したい。 

「昔から国際間の紛争を見るに、互いに相手を侵略者なり、秩序の破壊者なりと一途に疑いて、これを非難し、その侵略者、破壊者の中にも、互いに心を軟らかにして見直すならば、また仏(ほとけ)を発見し得るにもかかわらず、強いて目をふさいで来た感が強いのです。今日の国際関係を調整する道も、この互いに疑い合う心境から脱却する事が、まず第一の要件ではないでしょうか。私はかようの信念に基づいて、わが国民と共に、世界の平和と繁栄のために、できる限りの努力をして行きたいと考えます。私は、もちろんいかなる主義主張に対しても、もしそれが人類の幸福を増進するに役立つものである事が証明されるならば、これを忌み嫌う理由はないと信じます。だがそのある主義主張を実現する手段として、独裁専制政治を布き、一般国民の自由を窒息せしめるごとき事は、我々の耐えがたきところであります。いわんや他国から何らかの力をもって、さようの独裁専制政治を押し付けられる事になっては、あくまでこれに反抗しなければなりません。さようの危険のない限り、たとい共産主義を国是とする国であろうとも、私は共存共栄の道を歩んで行くべきだと思います。………第2次世界大戦後、列国の軍備が縮減しないのみか、軍備競争がかえって激化した感のある事は、迷惑至極であります。それは、いずれも自衛のためだと唱えられています。だが昔から、いかなる国でも、自ら侵略的軍備を保持していると声明した国はありません。すべての国が自分の国の軍備はただ自衛のためだと唱えて来ました。たぶん彼らはそう心から信じてもいたでありましょう。だが、自衛侵略とは、戦術的にも戦略的にも、はっきりした区別のできる事ではありません。かくて自衛軍備だけしか持っていないはずの国々の間に、第一次世界戦争第二次世界戦争も起こりました。もし同じようにして今後大きな戦争が起こるなら、原子力兵器の発達した世界において、それは人類の滅亡を意味するでありましょう。いな原子力兵器の実験だけでさえも人類の滅亡を招来する危険があります。人類を救わんとするならば、我々は軍備拡充競争を停止し、戦争を絶滅しなければなりません。わが国の国連代表が、近ごろ原子力兵器の実験に関して行った提案(※1)のごときも、いささかさようの趣旨に従ったものであります。………

※1 1956年1月原子力委員会発足。同年4月東海村に原子力研究所設置決定(57年8月点火)、などの事と考えられる。

 わが国は古く19世紀以来自由主義諸国と親好を保ち、これを外交の基調として、国際社会に処して来ました。不幸にしてその関係は第二次世界戦争中一時中絶しましたが、1945年以来再び回復し、爾来一層の親密を加えるに至りました。私は今日この親好関係を変更すべき理由を何ら発見いたしません。昨年(56年12月)ソ連との国交正常化が実現し、今後同国との国交も親善を深めるに至りましょう。深める事を望みます。だがその事は自由諸国との友情を冷やかにし、薄くしなければならない理由にはなりません。

 しかし、そうだからとて私は俗に向米一辺倒というがごとき、自主性なき態度をいかなる国に対しても取る事は絶対に致しません。米国は最近の世界においては自由諸国のリーダーたる位置にあります。また戦後わが国とは最も深い関係にある国です。従って私は米国とは特に緊密の上にも緊密な協調を保って行く覚悟です。だがそのためには、私は米国に向け率直にわが国の要求をぶっつけ、わが国の主張に耳をかしてもらわなければならないと信じます。その結果は、時々主張が一致せず、気まずい思いをお互いにしなければならない事も起こるかも知れません。だが、それは緊密を増進する手段としての一時の不一致である事を知ってもらわなければなりません。米国以外の自由諸国、ソ連その他の諸国についても同様の方針で臨みます。幸いにして諸君を通じて、私の意の存するところの諒解を、これら諸国に求めえられるなら感謝の極みです。」以上。

(2021年6月20日投稿)

                                

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靖国春季例大祭:安倍首相の真榊奉納も憲法の政教分離原則違反。メディアは大きく取り上げよ。靖国思想で台湾少数民族をも洗脳した

2024-04-23 22:11:12 | 宗教

 安倍首相は2020年4月21日、靖国神社の春季例大祭に際し、「内閣総理大臣 安倍晋三」との名前で「真榊」を奉納した。12年12月の政権奪取以来、春秋の例大祭には毎回「真榊」を奉納してきた。「参拝」は13年12月に1度だけ行った。加藤勝信厚生労働相や高市早苗総務相も「真榊」を奉納した。

 2017年10月17日、靖国神社の秋季例大祭に、安倍首相は「内閣総理大臣 安倍晋三」の名前で、「真榊」を奉納した。「真榊」とは、神前に供えるサカキの鉢植えの事で、それを奉納できるのは1年中で最も重要な祭事とされている春と秋の例大祭のみであり、5万円である。

 メディアは大きく取り扱う事を止めたようであり、新聞では隅々まで注意深く見ないと見落としてしまうほどに小さく、また、事実やこれまでの経過だけを載せていただけであるが、安倍首相の行為は明らかに憲法の政教分離原則に違反する行為であり、メディアの責務としての、国民に対する注意喚起を果たさなかった。

 「内閣総理大臣」の肩書を記し、「5万円」の「真榊」を供え、その際に公務員を随行させる、という事は、憲法第20条【信教の自由】➀「……いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」②「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加する事を強制されない」③「国及びその機関は、宗教教育その他のいかなる宗教活動もしてはならない」の規定や、第89条【宗教団体への公金等の支出の禁止】「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」という規定に抵触違反するにもかかわらずである。

 主権者である国民は、冒頭のような安倍首相やメディアの対応に慣らされてはいけない。

 靖国神社は、敗戦後、当時の(天皇を含む)為政者とその後継者が政治的目論見により、敗戦までの国家神道の役割(教義・思想)をそのまま保持させて、一宗教法人として残存させてきたものであるが、それを安倍首相は敗戦前の位置づけにそっくり戻そうと画策しているのであり、国民にはそれを受け入れる精神基盤を培う事を目論んでいるのである。つまり、国のために死ぬ事は名誉な事であるとし、死の意味付けを安倍首相の「参拝」を含め「真榊奉納」という「宗教行為」を通じて国民に示し続ける事により、靖国の思想を国民に焼き付け浸透させ、戦争に向かう時の精神基盤を培おうとするものであり、安倍政権の諸政策と連動した戦争準備行為と見做すべきであり、集団的自衛権行使に向けて戦争体制を支える精神的基盤を形成していく事を目論んでいるのである。

 靖国神社の様相も、日中戦争開始までは、臨時大祭では曲馬や猿芝居などの興行も行われていたが、1938(昭和13)年秋には制限され、39年には廃止された。40年春には、露店も認めないようになり、「神域」の荘厳化を図っていったが、安倍首相の考えでは近い将来にはそうする予定であろう。

 国民学校初等科「音楽二」(昭和17年)に載せられた「靖国神社」は、神社をどのように紹介しているか見ておこう。

「ああとうとしや 大君に    命ささげて 国のため

 たてし勲は とこしえに    光かがやく 靖国の神

 

 九段の母 空をつくよな    大鳥居 こんな立派な御社に

 神と祀られ 勿体なさよ    母は泣けます 嬉しさに

 

 進め一億火の玉だ       靖国神社の 御前に

 柏手打って ぬかづけば    親、子、兄弟、夫らが

 今だたのむ 声がする     おいらの胸にゃ ぐっときた

 そうだ一億 火の玉だ                   」

という内容であるが、侵略戦争に国民を駆り立てるための教育施設として、最大限に死者の霊を利用してきたのである

 靖国神社と台湾についても紹介しておこう。台湾では1930年秋に「霧社事件」が起きた。神聖天皇主権大日本帝国政府台湾総督の植民地支配下にあった中部山岳地帯の霧社周辺の原住民族が、彼らを現地支配する日本警察の圧政に反抗して起こした事件である。日本軍警は軍隊警官各約1200人、人夫医療関係者1600人を動員し、山砲・軽機関銃・航空機による爆撃・毒ガス投下など近代兵器を総動員し約50日かけて制圧した。蜂起側の死者は約700人であった。しかし、この霧社事件には第2幕「第2霧社事件」もあった。日本当局は、蜂起側の投降者・生存者約600人を保護の名目で川中島の収容所に収容したが、ここを日本当局に従う原住民族に襲撃させ約200人を殺害させた。そしてこの村に「神社」をつくり、生き残った者に参拝を強制した。加えて、毎年、この抗日の末裔たちを日本に連れてきて、靖国神社に参拝させたのである。靖国神社の思想で意識改造(洗脳)したのである。この結果、このように扱われた子どもたちは、高砂義勇軍の募集が行われると真っ先に血判を押して参加していった。台湾の少数民族の「皇民意識」は「靖国思想」の強制により植え付けられた歴史があるのである。

(2020年4月27日投稿)

 

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ラジオ体操放送開始の目的とその中止と再開の正しい認識を

2024-04-23 22:05:13 | メディア

 2023年6月10日付朝日新聞be記事が「ラジオ体操」の歴史を掲載した。しかし、今日の主権者国民が最も知っておかねばならない事を書いていないので、それからは偏向した知識教訓しか学べないのでメディアの責務として是非書いて欲しかった事を以下に少し紹介したい。

 ラジオ体操は、1920年代に逓信省職員が米国で体験し、日本での実施を提唱した事から始まり、同省簡易保険局が作った。その目的は、神聖天皇主権大日本帝国政府が、1928年11月10日に実施予定の昭和天皇の大礼(即位儀式)を記念するためであった。 

 日本初のラジオ放送は、新聞社、通信社、無線機器メーカーなどの出資による、それぞれ独立した3つの社団法人、つまり東京放送局(1925年3月)、大阪放送局(3月)、名古屋放送局(7月)が開始した。その後、神聖天皇主権大日本帝国政府は「放送は国家的事業」と考え始め、3局を合併して1つの組織にまとめるとともに、全国各地に支部を設けていき、1926年8月には社団法人日本放送協会を創設した。新役員の多くは逓信省出身者により占めた。そして、1928年11月10日実施予定の昭和天皇の大礼(即位儀式)を目標に、3局を結ぶ中継回線建設を計画し、11月5日に完成させた。つまり、神聖天皇主権大日本帝国政府は、全国ラジオ放送体制を、天皇制との関係で整備したのである。そしてそれを用いて昭和天皇の大礼奉祝番組を11月6日から27日までの22日間にわたり全国中継でラジオ放送したのである。

 そして、ラジオ体操の放送についてであるが、大日本帝国政府逓信省が日本放送協会に持ち込み、政府がその「大礼」を記念する事を目的として1928年11月1日東京放送局から開始させ、時を開けず全国放送とさせ、早朝に集団で実施させるようにした。目的は、音楽と号令による学童の集団行動や集団統一の馴致であった敗戦の翌1946年4月には再開したが、連合国軍総司令部(GHQ)が翌47年9月1日からの放送中止を命じた。しかし、朝鮮戦争開始後約1年の1951年5月に実施を許可した。これはGHQによる警察予備隊創設をはじめとする、民主化・非軍事化から再軍備へという占領政策の大転換(逆コース)と大きく関係していたのである。主権者国民は、このような歴史をしっかりと認識した上で、ラジオ体操を、又今日ではテレビ体操をも健康維持のために生かす事は良い事である。

(2023年6月10日投稿)

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