「野党共闘こそ真の積極的平和主義、メディアは安倍政治に対して主体性はあるのか」 goo.gl/L0mqbd
重光葵は日本人について、「政治を見る事、あたかも芝居を見るがごとく、鑑賞はしても、自分自身が役者の一人であり、自ら舞台の上にある事を悟っていない」と述べているが、現状のメディア、特に大手新聞社は記事の論調から、全般に「鑑賞する立場」に立ち、第三者的(他人事という意味で、客観的という意味ではない)であり、傍観者的であり、そのため当事者意識が薄く、責任感に乏しいと感じる記事が多い。その事はまた、国民運動を支援し育てる事に無情で冷ややかな姿勢となって表れており、安倍政権を極めて短絡的に「善政である」と見なし彼らを翼賛し利する立場で記事を書き報道しているような姿勢となって表れている。(重光葵は敗戦直後の東久邇宮内閣外相の時、政府代表として日本降伏文書に調印。1947年極東国際軍事裁判でA級戦犯として禁固7年に処された。)
安倍政権は、「積極的平和主義」という言葉を使って、「安保法制」を強行成立させ、「戦争を仕掛ける事ができる」国に変え、さらに「憲法全面改悪」する事により、現行憲法との間の矛盾を取り除き名実ともに「国民主権」「民主主義」を葬り去ろうとしている。平和を守るという事は、人権を最も大切にすることである。戦争をするという事は人権尊重の基礎である「生命」を軽視するという事であり、最大の「人権侵害」行為である。安倍政権の「積極的平和主義」がいかに欺瞞的に使用されている事か。
それに対して、「野党共闘」の目指す内容こそ、真実の誠意ある「積極的平和主義」といえるであろう。「野党共闘」は「学者の会」と「シールズ」が中心となって旗揚げされた「市民連合」の後押しで成立したが、野党合意の内容は、「安保法制の廃止」、「集団的自衛権の行使を認めた閣議決定の撤回」をめざし、今夏の「参院選」での「憲法全面改悪」を「阻止」するために「安倍政権の打倒」を掲げ国会や国政選挙での協力を約束したのである。これこそ「積極的平和主義」ではないのか。これこそ「平和主義」を守るための積極的行動ではないのか。
メディアは、この事が理解できていないようだ。その点で、存在価値を「無意識のうちにか意識してかも知れないが」自ら否定している事になっている。
海外メディアからも、日本のメディアはその使命と責任において、末期的症状にあると批判されている事を理解できていないのであろう。
我々は日本のメディアの現状を正しく把握しておかなければ、「井の中の蛙大海を知らず」という事になり、「知らなかった」という「弁解」をする事になる。何事も自ら検証し真実を知る努力をしなければ騙されてしまうのが現状のメディアの報道である。
※伊丹万作の言葉「さて、多くの人が今度の戦争で騙されていたという。日本人全体が夢中になって互いに騙したり騙されたりしていたのだろうと思う。騙されるという事もまた一つの罪であり、昔から決して威張っていい事とはされていないのである。『騙されていた』と言って平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも騙されるだろう。いや、現在でもすでに別のウソによって騙され始めているに違いないのである。」
※半藤一利氏の「日本人観」①日本人は危機的な状況にあっても、「危機は絶対に起きない」と希望的観測に思いたがる悪い癖がある。実際に起きたら、「想定外」だと。それは無責任さを示す。②日本人は冷静に考えないまま、同じ方向に走るのが特徴。戦争に負けても同じだった。
昨夏、大阪市で初めて、16年度から公立中学校で使用する「歴史」「公民」の教科書としてともに「育鵬社」版を採択した。その採択会議の冒頭で市教委が「市民アンケート」の結果報告をし、「育鵬社」版に肯定意見が約7割(779件)、否定的意見が約3割(374件)と報告した。その「市民アンケート」について、大阪の教員らでつくる市民団体「子どもたちに渡すな!あぶない教科書 大阪の会」が、「不正」が行われていたとして、大阪市議会に真相究明を求めて陳情書を提出していたが、2月23日の委員会で審議された。
朝日新聞記事では、「組織的動員で育鵬社版への肯定意見が多数を占めた疑いがある。育鵬社版は公平に採択されたのか」という指摘に、市教委は「アンケートは参考資料。教委の責任で公平に採択した」としている、と書き、市教委の大森不二雄委員長は「アンケートの結果は重視しておらず、採択の決め手ではない」と答弁した、と書き、アンケートは匿名で実施した事から「組織的動員はあったかもしれない、実施方法の改善を検討する」と述べた、と書いている。
朝日新聞は、この記事から読者に何を伝えたいのだろうか?読者には何が伝わるだろうか?素朴に考えれば、「教委の責任で公平に採択された」「重視しておらず、採択の決め手ではない」「実施方法の改善を検討する」という委員長発言から、「アンケートの実施方法」では改善の余地はあるが他の面では問題となる事は一切なかった、という方向へ世論を誘導したいように受け取れる。
なぜならば、市民団体の訴えている「不正」としている内容を明らかにしていないし、市教委の「採択の仕方」について、「朝日新聞」自身が分析・判断したうえでの主張もない。まず、市教委の「アンケート報告」は特定の教科書についてだけで、それも採択の冒頭で史上初めて行った事、また、「アンケート集計」では記載内容について「公正」な姿勢で行うならば感じるはずの奇異感を問題視せず「集計」をしている事などを見ると、市教委ははじめから何が何でも「育鵬社」版を「意図的」に印象づけ採択にもっていく事を目論んでいたものであると判断せざるを得ない。にもかかわらず、その事に一切触れていないからである。
このような記事内容は読者にとって価値はなく、「購読」を継続する事の意味を考えさせられるものであった。
さらに言えば、採択後に大森委員長が突然の史上初の提案をし「決議」された「複数教科書使用」は、「育鵬社」版を強行に採択するための、大森委員長と橋下徹との密談で考えついた「批判」回避のため手法であったといえる。これにより、「歴史」「公民」の教科書費用がこれまでの2倍、次回の教科書改訂まで4年間必要となる事を史上初めて簡単に決めてしまった事も無責任な行為である。「税金」だから彼らの腹は痛まないと考えたからであろう。このような「税金」に対する感覚も一貫性がなく無責任なところも「おおさか維新の会」の体質である。
「メディア」は、ある事実を記事にしないという事は、何の責任も負わない批判も受けない「中立の立場」とかいう事ではなく、「ある事実」を「支持している」「幇助している」という事で、「ある立場」の側に立つという事を理解しているのだろうか。理解していないはずはないですよね?その上で記事にしないという事は、意図的に記事にしないという事になりますね。市民の国民の「知る権利」に応える姿勢ではありませんね。