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生前譲位の「お言葉」に潜む「国家神道」:地域の「共同体」を支える人々がいる事を認識し「祈る務め」なし得た。

2024-03-14 15:45:30 | 生前譲位

 天皇制の存続は、国民に奴隷根性を培い、国民自ら愚民化を深める。

 生前譲位の「お言葉」のなかに、「象徴的行為としての全国に及ぶ旅は、どこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のある事を私に認識させ、この認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務め、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得た」という文言がある。

 まず、おさえておかなければならない事は、「全国に及ぶ旅」を「象徴的行為」として行ってきたのは、天皇の意思によってであるという事。そして、それは「国事行為」に規定されたものではなく、憲法に定められていないものであり、「政治的行為」であるという事であり、厳密に考えれば「憲法違反」の行為である。これまで国会で問題となった事であるがそれを無視して行ってきたという事である。

 さて本題に入りますが、上記文言の中に「地域を愛し、その共同体を支える人々がいる事を認識した」とあるが、この文言は庶民には違和感を感じさせた。このような表現は今日ほとんど耳にしない目にしない文言であるからだ。非常に特殊な意味を持っていると考えられる。

 そして、到達した結論は、敗戦までの大日本帝国の「国体」であり、大日本帝国憲法教育勅語に具体化された国教であった「国家神道」の思想に基づく国民観だという事なのである。現行天皇にはここにも「国家神道」を脈々と継承し息づいている事がわかるのである。そして、その「国家神道」に基づく国民観を継承する国民が全国津々浦々に存在するという事を言っているのである。

 なぜ、そのように考えられるか。

 国家神道の祭祀は、宗教儀礼の一種であったが、それは民族宗教の儀礼が持つ機能を意図的に復活したという特徴を持っていた。

 宗教儀礼は一般的に、祭司などの儀礼執行者を中心として、参加者全員により、一定の形式に従って営まれる。その形式は、儀礼の意味と目的を様式化して示したもので、その動作を通して、参加した者全員は共通する一つの意志を表明し、この意志を互いに確認し合う事になるのである。

 定型化された宗教儀礼は、国民にとって結合の再確認と意志統一の場としての政治的機能を持つ事になるのである。民族宗教での儀礼では、この結合と統一がそのまま社会集団全体の日常生活における結合と統一を意味した。

 国家神道の祭祀は、このような民族宗教の儀礼の機能を、近代社会において再現したものであった。そして、その目的は、天皇の政治上宗教上の絶対的な権威を主張する国体の教義を、定型化された行動で示し、この儀礼に全国民を強制的に参加させる事によって国体の教義に基づく「共同体」的な結合と統一を確保する事にあったのである。

 そして、現行天皇は、国内のどこにおいても、そのような「共同体」が存在している事を認識し、その「結合と統一」を認識したと言ってるのである。しかし、その認識は極めて手前勝手な自分本位の自己に都合のよい偏ったものといえる。なぜなら、それは「思い込み」や「決めつけ」と「国家神道」復活を待望する人々との関わりだけで得た認識でしかないからである。

 しかし、現行天皇は、このような「国家神道」に基づいた思想で、「その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と言っているのである。これが現行天皇や皇室の本質なのである。

 そして、彼らは、傲慢にも規定にない「生前譲位」や「天皇制の永久化」など、極めて「私利私欲に基づいた欲望」を国民に認めさせようとしているのである。つまり、彼ら天皇家の「地位と名誉と財産」を守る事だけを目的としているとしか思えないのである。

 天皇や皇室がこの思想状況に執着する姿勢は、「民主主義」や「人権尊重」の思想を大切にしたい国民とは正反対の側に立つ事を意味するのであり、天皇制の存続は日本国民の思想的混乱を深化させ、社会的混乱を広げ、国民を愚民化し続けるだけで、それを食い止めるためには天皇制廃止は仕方がない事であろう。

(2016年8月20日投稿)

 

 

 

 

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生前退位は天皇と安倍政権の謀略、自民党の「皇室典範と特例法は一体」の附則明記の狙いを暴く

2024-03-14 15:36:35 | 生前譲位

 生前退位の法的根拠をつくるために、現行皇室典範条文の改定に反対し、一代限りの特例法の制定で実現させたい自民党が、皇室典範条文の改訂によるべきとする民進党の歩み寄りを狙って、皇室典範の附則に、特例法と皇室典範が「一体」である事を示す規定を明記する事を提案したのはなぜか、又なぜそんなに成立を急ぐのか、また自民党がなぜ「一代限りの特例法」にこだわるのかを改めて考える必要があるのではないか。

 まず、少なくとも国内最高水準の健康管理体制や医療体制を有する天皇は、現状からみて国民の多くが心配するほど早く危篤状態になり死ぬとは思えない。それこそ神のみぞ知るといってよい状況である。しかしそれを、政治家、特に自民党が先頭に立って、そして、国民の多くが「お言葉」を深刻に受け止めて必要以上に大騒ぎし大慌てしているように思える。

 上記のような健康管理、医療体制にありながら、天皇自身が近い将来に重病に陥ったり死ぬかもしれないという危惧から「お言葉」発表をしたとすれば、天皇は何を危惧しているのか。「お言葉」によれば、高齢化に伴う公務遂行の困難や、危篤状態に陥る事、葬儀と即位の行事などに関してである事を述べており、一見、国民として頷かされるが、なぜこの時期に発表が行われたのだろう。そこには明確な理由があったと考えられる。「お言葉」では明確にしていないけれど、この生前退位の「お言葉」発表の真の理由は2020年開催のオリンピックにあると考えられる。天皇にとってオリンピック終了までの間に、上記の危惧が現実化する可能性があるかもしれない事を危惧したものとみられ、それを回避するためには生前退位し、皇太子に譲位した方が、オリンピックをつつがなく実施終了できるのではないかと考えたとみるべきであろう。とすれば、この「お言葉」発表は天皇(家)の意思もあるだろうがそれだけではなくそれ以上に、安倍自民党政権(行政)の強い要請がその背景にあるとみるのが自然であり、極めて巧妙に政治的に仕組まれた「お言葉」発表であり内容であったといえる。つまり、国民は天皇と安倍政権の謀略にまんまと引っかかったという事で、まだそれに気がついていないという事である。

 そして、そのような狙いをもって現在、安倍自民党政権は、今後の新たな天皇についてもこれまで以上に政治利用していくために、この機会に安倍自民党政権にとって都合の良い生前退位の法的根拠を作り上げようとしているのである。その法的根拠が、現行の典範内容をそのまま残した上で、皇室典範の附則として、「典範と一体である」と規定した一代限りの特例法」を制定する事なのである。その手法には計算されたいくつかの狙いがあるのである。

 それは、安倍自民党政権にとって都合の良い典範改訂手続きの先例をつくろうとしているという事である。

 そもそも皇室典範は最高法規である憲法の他の条文と同等の拘束力をもつものと認識すべきである。だからその改訂においては、憲法改正と同じ手続き(衆参各議院の総議員の3分の2以上の賛成で発議し、国民投票で過半数の賛成)を経なければならないが、そのようにせず、皇室典範を単なる一般法として位置づける既成事実(先例)をつくろうとしているのである。また、本来条文を改訂すべきであるがそのようにせず、附則で「典範と一体である」として改訂するという先例をつくろうとしているのである。 

 このような改訂手法は法改訂のルールを崩壊させるものであり許してはならない。しかし、安倍自民党政権はこの手法で典範改訂を押し切ろうとしているのである。国の形を決める皇室典範の改訂を、主権者である国民を全く除外して行う先例を作る事や法律などの改訂においても自由自在に行えるようにする事を狙ったものなのである。もし、この改訂手法が国会で、また国民から問題視されなければ、安倍自民党政権は今後、あらゆる一般法においても使用するつもりなのである。

 なぜ附則による改訂手法を使うのか。それは、皇室典範の外の条文の改訂に検討が及ぶ事を避け、そのまま存続させる事ができるからである。現行条文を改訂しない事によって、典範第1条の「男系男子による天皇の継承」、安倍自民党政権が死守したい「万世一系の天皇」を今後も守り続ける事ができるからである。また、第4条「即位」にある「天皇が崩御すれば直ちに即位する」というこれまでの規定などを存続させ生かす事ができるからである。

 そうする事により、(今まで通り天皇の死亡により新天皇が即位するという形と、天皇の生前退位により新天皇が即位するという、天皇の交代が二通りとなるわけであるが、)基本的には現行の典範内容を生かしつつ、時には附則の「特例法」を生かす(皇室会議も自民党政権の翼賛組織である)という形で、天皇の地位を不安定にし(自民党政権の翼賛組織である皇室会議により、自民党政権に都合の悪い天皇を「特例法」に適う理由をつけて退位させることができる)、自民党政権の天皇に対する統制(行政権)を強化し、天皇の退位即位を、自民党政権が存続する限り(現在の国会での情況が続く限り)、自由自在に行える道をつける事ができるからである。換言すれば、天皇の退位即位を自民党政権が続く限り自民党の意のままに行い、天皇を意のままに利用する道をつける事ができるからである。 

 安倍自民党政権が、「典範と一体である」と規定する「一代限りの特例法」の制定にこだわるのは、憲法第1条を含めて、天皇の地位に関する国民主権の原則を形骸化させ、行政権を牛耳る自民党の思うままできるようにするためである。

(2017年3月16日投稿)

  

 

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生前退位は特例法制定でも皇室典範改正でも憲法第1条の主権者である国民の総意確認(国民の意思表明)のため国民投票必要、即位規定とともに皇室典範改正が正道

2024-03-14 15:35:18 | 生前譲位

 生前「退位」をどのような形で実現するかという事で、国会での検討が進められているが、生前「退位」が実現すれば、新天皇も現行「皇室典範」に規定がない状況下で「即位」するわけであるが、その場合当然、現行「皇室典範」規定の改正が必要であるにもかかわらず、安倍政府がまったく話題としないのはどういう事であろうか。生前「退位」については「皇室典範」改正は行なわないが、「皇室典範」第4条「即位」についての条文改定は行うという事なのであろうか。筋の通らない考え方である。

 生前退位をどのような形で実現するかという事で、政府の「天皇の公務負担軽減等に関する有識者会議」をはじめ、多方面で検討がなされているようだ。生前退位とはもちろん、死亡する前に退位する事で、その結果、後継者にその地位を譲るという事を意味する。

 政府の「有識者会議」では、安倍政府の意志に沿って、現天皇に限って(一代限りの)退位を可能とする「特例法」制定か「皇室典範」の附則に根拠規定を設ける事を提言し、安倍政府はいずれかによって実現させようとしているようだ。これは自民党の常套手法である「解釈改憲」であり憲法の規定を形骸化させる事になるので認めてはいけない。また、民進党は恒久制度として「皇室典範」の「改正」が必要であると考えているようだ。

 ところで、憲法第1条では、「天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づく」としているが、それは、天皇の地位とは、天皇の「あり方」であり、また天皇制の存廃を意味する言葉であり、それが国民の総意が反映されたものである事が示されなければならないとの趣旨であると解釈すべきである。そして、「継承」については憲法第2条において、国会の議決した「皇室典範」の定めに基づくとしているのであるからそれに基づいて行われるべきものである。

 ところで「皇室典範」の定めには、「継承」に関わる定めとしては、第4条「即位」が定められており、「天皇が崩じたとき」だけと定められているのである。「生前譲位」に関わる定めは一切存在しない。

 しかし、このような法制度の下で、天皇及び天皇制に関する「新しいあり方」として「生前譲位」を実現させようとするならば、一般的には、まず国会において「皇室典範」の「改正案」を作成するという方法こそ妥当とすべきである。つまり、「生前退位」に関する新しい規定と、「即位」に関する現行の規定を改正する必要があるのである。

 そしてその際最も重視すべき事は、憲法第1条の趣旨に基づくならば、その「改正案」が「国民の総意」を反映している「内容」かどうかについて、主権者である国民の意志を確認する「手続き」が必ずなされなければならないという事である。この「手続き」とはつまり、「国民投票」に委ねるという事である。その形式には、一つの「改正案」に対する賛否を問う方法もあるが、二つの「改正案」のどちらかを選択する二者択一の方法をとっても良いと思う。

 またその際、「改正案」が「承認」される投票条件として、「最低投票率」の制限を定め、18歳以上の有権者の少なくとも70%(以上)の投票がなければ「国民投票」は無効とし、70%(以上)を満たした場合、その60%の賛成を必要とするとすべきである。なぜなら、現在の衆議院議員は、衆議院小選挙区選挙において、最高裁判決を無視して「一人別枠制度」「一票の格差」を放置した制度の下で選出された議員からなり、国民の意思を公平正確に反映しているとはいえないのであるから、そのような議員の意見集約には価値はなく国民に対して説得力を持たないからである参議院選挙についても最高裁が、都道府県単位で選挙区を設定する仕組みの見直しを求めたのに対して自民党の反対のため十分な改革がなされず、衆院と同様に国民の意思を公平正確に反映していない状況が存在するからである。主権者である国民の意思を公平正確に反映しない国会議員による、いわゆる「談合」によって決定し処理して良いものではないからである

 

 ところで、1月16日には、自民党所属の衆参両院議長が各会派の代表者を集めて意見集約を図る意向を表明した。しかし、この手法は、朝日記事にある「見解の相違を残したまま国会論戦が始まれば、憲法が天皇制に求める『国民の総意』も、天皇陛下がお気持ち表明で触れた『国民の理解』も得られない可能性がある」という自民党の危惧を解消するための、また「解釈改憲」をスムースに行うための「根回し」の手法である。自民党は可能な限り、議論を避け自己の思惑通りの結果を得ようと目論んでいるのである。

 大島衆院議長は周囲に「陛下の問題を国会で政争の具にしてはならない」と話していたというが、日本の将来の国家体制が変質するか否かに関わる重大な問題であるわけだから、本来国会では白熱した議論をすべきであり、議論する事は「政争の具にする事」とは全く異なり、議論する事をそのように考える事こそ無責任な否定されるべき態度である。天皇のあり方や天皇制度を議論する事をタブーと思わせる事は、何らかの思惑を持っているものとして否定されるべき態度で、むしろ、公明正大に議論する事こそ主権者である国民としての責任ある態度である。「政争の具」発言は、天皇を特別視させ、議論する事を否定的なものと思わせ、議論しようとする者を「牽制」する狙いを持つものである。大島議長の言葉をそのまま受け入れる事は、国民が自民党の思うつぼにはまるという事である。

(2017年3月12日投稿)

 

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生前譲位は天皇と安倍が東京五輪を利用して結託した目論見

2024-03-14 15:34:18 | 生前譲位

 なぜ今時、天皇は「生前譲位」の意思を発表したのか。それも、天皇自身の言葉を借りれば「憲法の下、天皇は国政に関する権能を有していない」立場を十分認識しながらも。

 発表の内容は安倍政権との意思の疎通が十分になされている。それは、安倍政権の政策と深い関係があるからである。それは4年後に予定されている「東京五輪」開催であり、それを無事に成功させる事と関係があるのである。安倍政権は、そのためには、それまでの間、国内の受け入れ態勢準備態勢を整備していく上で、東京五輪の実施上致命的な不都合が生じないよう事前に可能な限り予想できる重大事態を回避するための手立てをしておく必要があると考えたからである。天皇家はこの機会に天皇の継承問題を進展させようとしているのである。

 安倍政権にとってその重大事態の最たるものが天皇の「体調異変」やそれに伴う「死去」なのである。その可能性を有する事を想定してその事態を、「生前譲位」を認める事によって切り抜けようとしているのである。

 天皇としては、父である昭和天皇が87歳で死去した事を思えば、自分もあと5年前後でその年齢となる。だから、それから生じる、自分もいつ重大事態となるかもわからない、という不安とその先の死去を想定して、天皇の地位の継承に対する不安や天皇家の存廃に対する不安を取り除いておこうとする意思が働いているのである。

 その意思を「高齢による体力の低下……従来のように重い務めを果たす事が困難になった場合、どのように身を処していく事が、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考える」という言葉で表しているのである。「国にとり」というのは安倍政権にとり」の意味である。国民は第一とは考えられていない事がわかる。

 「皇族にとり」とは、現行天皇は自分が55歳で天皇に即位したのに対して、現皇太子は、56歳となっているため、早く即位させたいという思いがある事。またその事により、次男の秋篠宮を皇太子とし、将来の天皇への道を保障しようとしているのである。秋篠宮は天皇としての在位期間は短かくなるかもしれないが、その子(現行天皇からすれば孫)の悠仁親王に皇太子とその後の天皇の地位が保障されるであろう事によってそれぞれは了解し合っているという事である。

 現行天皇の「生前譲位」の意思表示は、重大事態、それは、体調の異変や最悪は死去という事態であるが、そのような事態を回避するための手立てなのである。天皇はその事を、「天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶ事が懸念される。皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、……。こうした事態を避ける事はできないものだろうか」と述べているがそれは、社交辞令のようなもので重要事とは考えられていない。それは国民に対して天皇制の二つの顔のうちの一つの顔「慈悲の顔」をアピールしようとする演出であり国民の事を本気で気遣った言葉ではない。なぜなら、生前譲位すれば新天皇の即位式が行われる。また即位後、東京五輪までに前天皇が死去した場合、譲位していても前天皇としての葬儀をするのであれば東京五輪に与える影響は上記の天皇の言葉と同じようになるからである。生前譲位しようがしまいがいずれにしても東京五輪に影響を与えるのであればわざわざ生前譲位の必要はないという事になる。国民にとっては、生前譲位によって前天皇に費やされる税金の負担がこれまでより増加するだけである。

 しかし、現行天皇のままで、東京五輪を前にして現行天皇が重大事態になって困るのは安倍政権である。安倍政権は現在自らが五輪を迎えるために、総裁任期延長を成立させようとしていることからも重大事態は避けなければならないのである。そのため安倍政権にとっては生前譲位による新天皇を政権に利用する事を目論み、天皇家にとっては生前譲位によって天皇の継承問題を進展させる事ができ得る絶好のチャンスとしようとしているのである。

 また、「象徴天皇の務めが常に途切れる事なく、安定的に続いていく事を念じ」との天皇の言葉も、東京五輪を意識した言葉なのであり、無事に成功させるためにも安定した象徴天皇制の継続を主張しているのであるが。この言葉はもっと、突き詰めていえば、天皇家はどんな形であろうとも天皇制を継続させたいという意思を主張しているのである。

 天皇家のそのような意思は、すでに、幕末明治維新の時期や、敗戦の時期の天皇の動向によって明白である。天皇制はどのような形であれ継続させる事こそが重要と考えられているのである。天皇制が存続できさえすれば、天皇家はどのような形にでも変化してゆく体質をもっている。ただし、自らの出自を否定されないかぎりで。つまり、古事記日本書紀に書かれた「神の裔」である事を否定されない限り。また、天皇制国家日本という「国体」を廃止されないかぎり。一方、安倍政権としては元首としての天皇制への回帰をめざしてとりあえず現行天皇制を存続させておきたいのである。

 「生前譲位」の「お言葉」は、天皇と安倍自民党政権との間で結託し綿密に計算され計画され実施された政治政策であるという認識を持つ事が必要である。それを単に人間の誰もが生物として経験する老化や死を迎える事から生じる人間としての一般的な不安や苦悩としてのみ理解したり、天皇が自身の死去後の、家族などの将来に対する人間として一般的な不安や苦悩であるとのみ理解してしまうと真実は見えてこない。また、正しい判断をし対応する事はできない。

 例えば、「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していく事には無理があろうと思われる」。ここでは縮小が無理な理由を述べずに、自己の政治的主張を国民に強引に認めさせようとしている。実はこの裏には憲法違反に当たる行為が存在するのである。

  また、摂政を置く事について「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続ける事に変わりはない」と述べているが。この場合、国事行為や象徴的行為を果たせなくなれば生前退位したいという個人的な意思を強く主張しているだけである。そして、生前退位者の待遇についてやそれに対する国民の負担への深い思慮を示す言葉は存在しない。

 天皇は天皇家を代表して、今後の、天皇の地位のあり方や、天皇家のあり方や、天皇制のあり方(象徴天皇制)について、その変革を求める意思を憲法皇室典範の定めに違反して強く示したという事なのである。

 その意思とは、老化に伴って、国事行為や、象徴的行為を縮小することはできない(その理由は国家神道に関わる政治的行為などであるため糺さなければならない)。また、摂政を置き、死ぬまで天皇の地位にある事は嫌だ。皇太子に天皇の地位を譲りたい、(象徴)天皇制という国体を護持するという事である。

 生前譲位の希望の背景には、2020年の東京五輪が大きな原因として考えられる。五輪をスムースに開催するために天皇を利用しようとする安倍政権の考えがあり、五輪をきっかけに天皇には天皇の思惑があり、安倍政権の考えに応じながら利用もして、天皇の継承問題を進展させようとする意志があるという事である

 また、生前譲位は、「国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良い事である」という意思に基づいている。そこには、国民のためではなく、天皇家(国)のためという考えが優先している。それは最後の言葉である「象徴天皇の務めが常に途切れる事なく、安定的に続いていく事を念じている」という言葉にも表れている。

 そこには、天皇の地位の存廃を憲法第1条が規定している事にとらわれず、天皇家自らが「天皇制」を維持する事を当然の事として希望している事がわかるのである。これは明らかに政治的発言であり、政治的行為である。主権者である国民は看過してはいけない。

 この背景には、喫緊の参院選で、民進党と共産党などが連合し議席を増やした事、特に共産党が増やした事が天皇家と安倍政権にとって、脅威となってきた事があると思う。

つまり、天皇は天皇家や天皇制(象徴天皇制であっても)を廃止されては困るのである。敗戦時にそれまでの「国体護持」にこだわったように

また、安倍政権自民党は象徴天皇制を元首天皇制に回帰したいと考えているのである。

※日本国憲法において、天皇が「象徴」としての地位を獲得できたのは、マッカーサー(米国政府)昭和天皇との交渉による利害の一致を基礎に、国会の決議によるものであった。

※現天皇家や皇族は、立憲主義にもとづく憲法と皇室典範の規定によってその地位を国民により認められている。

(2016年9月8日投稿)

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生前譲位を考える一重要視点。伝統の継承者、長い天皇の歴史とは。皇室の思想的基盤は何か。

2024-03-14 15:32:58 | 生前譲位

 現行天皇が「象徴天皇制」に基づいて「天皇」としての「地位」に位置づけられているのは、彼の父である「昭和天皇」が米国、直接的にはマッカーサーとの間の戦後の日本の国家体制のあり方についての交渉(取引)の中で双方の利害の一致によって「合作」という形で生み出されたものである事は今日周知の事実である。

 そして、現行天皇は、憲法第2条の「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とする定めに則り、父である昭和天皇からその地位を継承して今日に至っているという事である。

 「象徴天皇」とは、憲法第4条に定められているように、「国政に関する権能を有」せず、「この憲法の定める国事に関する行為のみを行」う存在という事で「象徴」という言葉で表現されているのである。そして、その「地位」については、憲法第1条に定められているように、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であり、その存廃については「主権の存する日本国民の総意に基づ」いて決定されるものであり、決定されてきたのである。

 「お言葉」は曖昧な表現が多いため、聞く側は手前勝手な「思い込み」はすべきではないし、それを基にした議論はすべきではない。それは、実のある議論とはならないからだ。また、その意味では、「お言葉」はもっと明確な表現をすべきであったと思う。このような表現の仕方は敗戦までの日本の為政者が国民に対して「常套手段」として使用した「内面指導」という手法と同一であると思う。

 しかし、そのような表現でありながらも、重要な事であるので誤解を恐れず糺しておきたい事がある。それは、「お言葉」の中の、「伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し」とあるが、天皇が継承するその「伝統」とは何を指すのかという事である。また、「我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ」とあるが、その「長い天皇の歴史」とはどの期間を指すのかという事である。

 なぜならば、その中身が明確に示されなければ、どのようにでもその「意味」を「込める」事が可能であるからだ。発表されたままの「お言葉」の中身自体が極めて「政治的発言」「政治的行為」であると判断される内容であるにもかかわらず、そのうえに「上記の文言」についてまったく詳細な説明をせず、「意味不明」のままで国民の理解を求めるというのは、非常に無責任な態度であり放置できない重大な問題であると考える。

 昭和天皇は、象徴と冠した天皇の地位を手に入れ天皇の地位に居座るために、マッカーサーとの交渉で合意の下に、1946年1月1日、「天皇の人間宣言」(正式には「新日本建設に関する詔書」という)を発表した。しかし、その内容作成で、昭和天皇はマッカーサーと日本国民を「現御神」という「文言」を使用する事で騙して、「神の裔」であるとする「天皇制の思想的基盤」を守ったという出来事があった。それは今日、「人間宣言書き換え事件」と呼ばれているものである。

 マッカーサー原案が「天皇を神の裔なりという事を否定する」となっていた事に対し、昭和天皇が反発し、当時の国民が、また今日の我々日本人が目にする「天皇を以って現御神とし」という「文言」に書き換え、それを「架空なる観念」と言い、それに「基づくものにあらず」として「否定」した内容に書き換えて発表したのである。そうする事によって天皇は自己の意図を達成する事に成功したのである。

 つまり、昭和天皇にとって死守しなければならなかった事は、「天皇は神の末裔」であるという事だったという事である。それは、天皇の地位の正当化の根拠は「古事記」と「日本書紀」に書かれた内容にあったからだ。神の子孫であるという家系の神話を否定する事される事は、自分の存在を全否定する事される事になるために「ごまかして」でも死守しなければならなかったのである。

「古事記」「日本書紀」にはどんな事が書かれているか。それは、「天照大神から地上の支配権を与えられたその孫ニニギノミコトが九州に天孫降臨し、ニニギノミコトのひ孫にあたるカムヤマトイワレヒコが九州から大和に遠征して初代・神武天皇となり、その初代・神武天皇から天武天皇に至るまで断絶することなく(連続して)、神の子孫である事を支配の根拠とする王家が続いた」としているのである。つまり、これは、日本版「王権神授説」であり、天皇家の支配者としての正当性を主張したものなのである。

 現行天皇がこの事件における昭和天皇の意思を継承しているとするならば、現行天皇もそれを歴史的事実とみなし自己正当化のために「伝統」と主張しているのではないだろうか。また、それを「我が国の長い天皇の歴史」とみなして主張しているのではないだろうか。またそれを国民に対して改めて認めてもらおうとし認めさせようとしているのではないだろうか。このような疑問を持たせるために糺さざるをえないのである。

 つい最近、「神武天皇」没後2600年という事で天皇皇后、又皇太子一家が奈良の橿原へ、明治期に当時その地に生活していた民家を強制移転させて作った「神武天皇陵」へ参拝したが、それはどのような思想価値観の下に行われたのかといえば、天皇家皇室の思想価値観歴史認識である「古事記」「日本書紀」に基づいて行われたものであるという事になるのである。「古事記」「日本書紀」に書かれた天武天皇までの歴史を、天皇家は今日に至っても「真実」として信じ、彼らの生活の中で息づいているという事になるのである。歴史学的には事実ではないとする事が定説となっているにもかかわらず。その事に国民は気づかなければならないのである。

 また、「君が代」斉唱で起立しない教員を「職務命令違反」として処分する「教育委員会」や「裁判所」、それを放置してきた「安倍政権自民党」の思想価値観歴史認識もその延長線上にあり、天皇家皇室と利害関係を同じくしている事を教えてくれているのである。

 また、天皇制は、根本的に、ある人間集団は生まれながらに尊い、と認める事を国民に強制する政治体制であるという事である。その思想価値観は、人権尊重の思想とは正反対のものであるとともに、人権侵害を認めるものである。

 国民は自らの人権を守るためには、天皇制を象徴天皇制であろうと廃止する事が重要である。天皇制を廃止する事こそ、すべての国民の人権を保障する「鍵」となり、結果的に天皇家も人権を尊重される人間となれるという事なのである。

 天皇を特別視する人間は、自らを奴隷化しているのであり、人間を平等として見る事ができない人間であり、そこから他を差別する意識が生まれるのである。

 さて、改めて思う。天皇家は天皇家の存続だけを考えているのだろう。お言葉には、自己の存続のため有力者に助力を求める事を目的として日和見をする歴史の中の天皇家の姿が映し出されているのかもしれない。今回は国民か?

しかし、国民から信頼を得るためには自己の本当の姿気持ちを知ってもらおうとする努力が必要である。信頼はうわべだけの優しさや美辞麗句では育たない。見せかけの信頼はすぐに化けの皮がはがれるものだ。これは人間と人間との間の普遍的真実である。

 

 国民は「天皇のお言葉」を感情で受け止め、軽率な判断はするべきではない。それほど無責任な態度はない。

(2016年8月12日投稿)

 

 

 

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