※河野俊嗣宮崎県知事に関する、2023年1月1日の動静について朝日新聞は、「自身のFBへの投稿(2日午後6時42分)では「14時ごろ、宮崎神宮及び宮崎県護国神社に初詣 夕方、倦怠感あり」としているが、宮崎県秘書広報課は1日午後9時過ぎ、この日の行動を「宮崎神宮、県護国神社に初詣」と書いたメールを、「知事の動き」を掲載している宮崎日日新聞社に送ったが、2日午後、同社に変更を要請するメールを送ったという。同紙は要請に応じず、3日付朝刊に初詣の事も記載した。一方、県が2日午後5時過ぎに発表した河野知事の……プレスリリースには、1月1日は「公舎などで過ごす」と書かれていた」とする報道を行った。ちなみに、宮崎神宮は神武天皇を祀っており、県護国神社は靖国神社の支社である(2023年1月6日)。
※以下は表題に関して2021年7月25日に投稿したものであるが、河野俊嗣知事と上記の記事の意味を理解するうえで役に立つと考えられるので改めて投稿しました。
2020年東京五輪の聖火リレーについて、メディアが報道し始めた。安倍自公政権の五輪組織委員会は、開幕4カ月以上前の東日本大震災発生日の3月11日前後に始めたいようだが、1964年当時のように、「八紘一宇」刻字の塔(宮崎県宮崎市の県立平和台公園)を、再び2020年の東京五輪聖火リレーの起点の一つにする目論見は持っていないかのような内容の報道がなされているが、まだ油断はできないだろう。さて、前回の東京五輪聖火リレーに関して、以下の内容を2016年7月28日に投稿したのですが再投稿しますのでぜひ読んでください。
宮崎県宮崎市内の「県立平和台公園」内に、その正面に大きく目立つように「八紘一宇」という文字が刻まれた巨大な石積みの塔(37㍍)が立っている。今日では「平和の塔」と呼ばれている。
しかし、そんな文字が刻まれた巨大な石塔がなぜ今日、県立公園に堂々と屹立しているのだろう。宮崎県はなぜそのような状態を放置させているのか。県はその意味を認識していないという事だろうか、そんな事はあり得ないだろう。であれば地方自治体の責任としてそのままの状態を放置する事は非常識であり許されるものではない。しかし、敗戦後70年を過ぎた今日も存在しているという事は、宮崎県は「確信犯」と言ってよく、「意図的」に放置しているとしか考えられない。この姿勢は日本国憲法第99条が国民に対して保障する「憲法尊重擁護義務」「天皇及び摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」に違反するものであり、その「不作為」は処分に値するものである。
「八紘一宇」という言葉の語源は、日本書紀にあり、それによると、神武天皇を初代天皇とし、神武天皇が大和橿原に都を定めた時に、「八紘を掩いて宇にせん」と抱負を述べた、と書かれている。その意味は「八方の地の果てまでを一つの家として統治支配するぞ」というもので、強い権力志向を表す言葉である。
この日本書紀をもとにして、「八紘一宇」の造語を生み出したのは、宗教家の田中智学(1861~1939)で、それを軍部が1930年代から「天皇の威光がアジアを覆う」という趣旨で使用し始めた。そして、神聖天皇主権大日本帝国政府は1940年には、「八紘一宇」を盛り込んだ「基本国策要綱」を閣議決定したのであるが。
その同じ年である1940年に「八紘一宇」の文字が刻まれたこの石塔が建てられているのである。その建造理由は、1940年がちょうど紀元2600年(神聖天皇主権大日本帝国政府が定めた、日本書紀に記された神武天皇即位年からの年数)にあたり宮崎県がそれを記念して、企画し建設したといわれる。また、中国への聖戦完遂(侵略戦争継続)のための国民の総動員と戦意高揚が目的であった。完成時の正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」である。石塔はこのように「侵略戦争」に強くかかわる建造物なのである。
この塔の基礎部分には1800個位の世界から略奪したり献納させた「石」を使用した。うち約1割180個は、中国、朝鮮半島からは120~130個、台湾からは41個、満州国からも。また南米や軍事同盟国ドイツからのものある。また、「八紘一宇」の塔の中には「厳室(いつむろ)」という空間をつくり、そこには世界地図を描き、「昭和天皇」の思召しが及ぶ(また、支配下にあった)地域として、朝鮮半島や台湾などを含むアジア全域、樺太の南部、南米大陸などを描いているのである。
敗戦後の連合国軍による占領支配の下では、戦争遂行や戦意高揚に関係する事物の多くが破壊されたり、地中に埋められたりなどして処分され国民の目に入らないようにされた。靖国神社の境内の事物についても同様であった(占領支配後は埋めたものを掘り返して元に戻して今の姿になった)。
それでは、宮崎県のこの石塔については、どうなっていたのか。敗戦後、他の地域の事物と同様の対象となった。しかし、「八紘一宇」の文字が占領軍によって削除されただけで、塔自体は破壊されずにそのままの姿で残す事を認められたようだ。
しかし、「確信犯」と考えられる事が起こった。それはその後の1964年の「東京五輪」開催との関係で、1961年になると、地元の観光業者らの働きかけを受けて宮崎県は、多くの県民や労働者の反対を無視して、かつての場所に「八紘一宇」の文字を復元したのである。それが今日、目にする事ができる「八紘一宇」の文字なのである。そして、当時の知事名による由来碑には「八紘一宇が平和を祈念して刻まれた」などと書かれたのである。この言葉には、日本による侵略戦争であるという「認識」は微塵も感じられないだけでなく、「東亜永遠の平和」のための「聖戦」として「正当化」するものであり、そのためもちろん「加害者」としての「反省」「謝罪」の言葉は「かけら」さえも見られないのである。おまけに、それ以降この石塔は「由来碑」の言葉から「平和の塔」と呼ばれるようになったようである。スリカエや欺瞞も甚だしいものである。
しかし、そのような認識の下に、1964年の東京五輪では、「県立平和台公園」が「聖火リレー」の起点の一つとなったのである。
その後も今日まで、そのままの姿で存在し続けているのであるが、宮崎県知事や県議会、そして宮崎県民はどんな意識をしているのであろうか。
2015年10月、中国・南京民間抗日戦争博物館の呉先斌館長が宮崎県庁(河野俊嗣知事2011年1月21日~)に来訪し、「この塔の礎石の一部は南京産である」として返還を要求した。返還要求しているのは3個で、1個は中国の霊獣「麒麟」の絵と「南京日本居留民会」の文字が刻まれたもので、14世紀に明王朝を興した皇帝陵墓にあった可能性があり、「国宝級の文化財」ともいわれるもの。ほかの2個は、「孫文」の陵墓である「南京中山陵」の刻印があるものと「南京紫禁山麓」と刻まれたものである。
現在、宮崎県都市計画課(河野俊嗣知事)は、「取り壊しはできない。現状のまま保存する」方針であり、返還要求には応じない姿勢を続けている。「侵略戦争について学ぶ場」とする気もなく、返還要求に応じる気もない。ここにもこの現在においても「確信犯」としての姿勢を続けている。
それはなぜか? この石塔をそのまま残し、2020年の「東京五輪」で再び「聖火リレー」の起点(県立平和台公園から1㌔のところに「神武天皇」をまつる「宮崎神宮」がある)とするためなのである。そして、「聖火リレー」の「到着点」は「聖地」と呼ばれている「国立競技場」を建て替えた「新国立競技場」という構想が練られているのである。
※「国立競技場」がどのような意図で建築されたかについては、本ブログの別稿をぜひ読んでください。