つれづれなるままに心痛むあれこれ

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行楽地「高尾山」麓に残る東京都最大規模の戦争遺跡「浅川地下壕」

2025-02-01 18:55:48 | 戦争遺跡

 高尾山は東京近郊では誰もが知っており多くの人々が出かける行楽地である。テレビのニュースや色々な番組でもその方面からよく話題として取り上げている所である。それはそれで良いのであるが、高尾山にはその麓に、東京都では最大の戦争遺跡が遺っている事をもっと取り上げてもらいたいものだ。

 それは「浅川地下壕」といい、八王子市の高尾町と初沢町にまたがるもので、3地区に分かれた全長約10㌔に及ぶ地下トンネル群である。

 この地下壕は、現在の武蔵野市にあった中島飛行機株式会社の発動機(エンジン)製造工場である武蔵製作所疎開工場として建設されたものである。

 この地下壕は、1944年9月頃から着工されたが、発電所やトンネル工事などを専門とする建設会社が請負い、朝鮮人労働者を働かせて建設した。のちには勤労動員の学生・生徒も働かせたが。

 工事は空襲が始まった1944年11月末以降本格化した。そして、一部で操業を開始したが、発動機10基を完成させたところで敗戦となり、地下壕は未完成に終わり、大半未使用のままとなった

 高尾山へ出かける人は、行楽で終わらせる事なく、ぜひ足を伸ばし、神聖天皇主権大日本帝国政府が遂行した侵略戦争の遺跡を訪れてほしいものだ。

参考図書:浅川地下壕の保存をすすめる会編『フィールドワーク浅川地下壕』(平和文化、2006年)

(2023年11月4日投稿)

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西南戦争田原坂の戦い以降に見る西郷軍、「玉砕」の生みの親、太平洋戦争での日本軍の戦闘とまったく同じ

2025-01-28 22:53:17 | 戦争遺跡

 西南戦争(1877(明治10)年2月15日~9月24日)田原坂の戦いで、西郷軍はどのような戦い方をしたのか。当時の新聞記事に見てみよう。一言でいえばそれは、太平洋戦争の末期の日本軍の戦争指導者の戦い方とまったく同じであったといえる。

 政府軍については、「……前報に田原坂の樹木は一寸間毎に銃丸を打ち込まれざるはなしと記したるが、官兵(政府徴兵軍)の費消する数を聞くに田原、二俣等の戦には、1日概数25万発(スナイドル銃)に下らず、その最も多き日は35万発より40万発に及び、大砲は12門にて1000発以上を打発したり」(郵便報知新聞・1877(明治10)年4月11日)

 それに対し西郷軍は、「賊兵弾薬に乏しきにや、田原坂の戦いに河原の小石を以て銃丸に用いたるよし」(朝野新聞・明治10年4月11日)。また「賊徒の屯集したる田原坂の胸壁中に、馬の骨を数知れぬ程積置きたるを見れば、兵糧欠乏ゆえ馬を屠殺して喰らいしなるべし」(東京曙新聞・明治10年4月5日)

 西郷軍は、田原坂の戦いで敗北後、潰乱状態となり、奇襲や斬り込みなどゲリラ的戦い方となり、「玉砕」という言葉を使用するようになった。

 「この頃日向の宮崎にて戦死せし賊が死体の懐中に左の通りな廻文が有りしよし、その写しは『諸隊順達』。瓦となって完からんより玉と成って砕けよとは、各自予て知る所、今更又何をかいはん、当軍さきに告示せし如く、既に金城湯池を失い、わずかに日向の一地に拠るのみ、然りと雖も未だ一人当千の勇士に乏しからず、豈おめおめと敵に降り軍門に惨刑せらるるを愧じざらんや、国に報い義を重んずる者、戮力奮戦以て同日同刻に斃れんことを期す」(浪花新聞・明治10年8月26日)と「玉砕」を命じている。

 この背景のある西郷軍幹部の当時の意識は、「最早賊徒の兵気は余程衰えたるものと見えて、この頃降伏人の云う所に拠れば、近頃は別府晋介、逸見十郎太らをはじめ賊徒の重立たる者は皆砲塁の後ろに抜刀をして控え、若しや兵士に卑怯の者か或は敵に降らんとする者あれば、直ちにその場において首を刎ね、以て兵気を鼓舞するくらいの勢いなりという」(東京日日新聞・明治10年7月24日)状況となっていた。

 この後の西郷軍の様子は、「確乎たる部署もなく亦一定の戦略もなく」「十分の糧食を輸送する事を得ず」「その糧食窮し」「その弾薬乏しく到底戦わずして自ら斃れ」「官軍に抗するものなかりき、この如きが故に賊兵の降伏は昨今最も夥しく、6000名に達したり」「西郷これ無恥の最も甚だしきものなり」(東京日日新聞・明治10年9月5日)と報道されている。

(2018年2月25日投稿)

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戦争絶滅受合法案を成立させよう

2024-09-12 16:32:44 | 戦争遺跡

 「戦争絶滅受合法案」は、デンマークの陸軍大将フリッツ・ホルムが起草したもので、長谷川如是閑(1875.11.30~1969.11.11)が『我等』(1929年1月号)の巻頭言で紹介した。2004年には高橋哲也氏が2004年1月17日付『しんぶん赤旗』に紹介した。以下に紹介しよう。

「 戦争絶滅受合法案

戦争行為の開始後又は宣戦布告の効力の生じたる後、10時間以内に次の処置をとるべきこと。即ち、下の各項に該当する者を最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わしむべし。

一、国家の元首。但し、君主たると大統領たるとを問わず、尤も男子たること。

二、国家の元首の男性の親族にして16歳に達せる者。

三、総理大臣、及び各国務大臣、並びに次官

四、国民によって選出されたる立法部の男性の代議士。但し、戦争に反対の投票を為したる者は之を除く。

五、キリスト教又は他の寺院の僧正、管長、その他の高僧にして公然戦争に反対せざりし者。

上記の有資格者は、戦争継続中、兵卒として召集さるべき者にして、本人の年齢、健康状態等を斟酌すべからず。但し、健康状態に就ては招集後軍医官の検査を受けしむべし。以上に加えて、上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦又は使役婦として召集し、最も砲火に接近したる野戦病院に勤務せしむべし。」

(2024年9月12日投稿)

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博物館明治村の第四高等学校物理化学教室:名古屋鉄道の浅薄な歴史認識を映す新聞広告、731部隊長・石井四郎の出身校である説明こそ必要

2024-08-18 12:19:22 | 戦争遺跡

 2020年3月10日の新聞の一面の片隅に、「名古屋鉄道」が自社の宣伝広告「明治村 本物の歴史がここにある」を掲載していた。この日は「第四高等学校物理化学教室」についてであり、写真とその建物についての短い説明文を掲載していた。

 広告にはその広告主が伝えたい事が、また、そこには自ずと広告主の価値観や思想信条などが映し出されるものであるが、説明文は「明治23年に第四高等中学校物理化学実験場として建てられ、第四高等学校、金沢大学へと引き継がれ今年創建130年を迎える。工事監督は山口半六、設計は久留正道の二人の文部省技術者が手がけ、その後の学校建築の規範となった。金沢市より明治村に移築された」というものである。

 これを読んで私は思った。この第四高等学校については、現代の我々主権者国民が決して忘れてはならない受け継いでいくべき歴史が存在している。しかし、それに触れてくれていないのが残念な事だと。

 それは、731部隊の創設者であり初代部隊長・石井四郎軍医が、第四高等学校理科乙類を1916(大正5)年に卒業しているという事実である。彼はその後京都大学医学部を出て軍医になるのである。731部隊というのは歴史辞典によれば、「日本陸軍の細菌戦部隊。関東軍防疫給水部。1933年石井四郎軍医がハルビン郊外に設立。ペスト・チフスなどの細菌兵器を開発した。細菌戦の実行のほか、3千名におよぶ人体実験を行うなどの戦争犯罪を犯したが、米軍への資料提供と引換えに関係者は極東国際軍事裁判(東京裁判)での訴追を免れた」といわれている。

 731部隊の幹部には石井四郎以外にも、第四高等学校出身者が非常に多いのである。たとえば、二木秀雄、石川太刀雄、岡本耕造、増田知貞、谷友次などである。また、二木秀雄と谷友次とは柔道部の先輩後輩の関係であった。現在「明治村」に移築されているが、第四高等学校の武道場(柔道、剣道、弓道の3種)「無声堂」に「名札」が残っている。弓道場には石井四郎の「名札」が残っている。

 主権者国民は、主権を脅かされないために、歴史を記憶し継承する努力を怠ってはならない。

(2020年3月12日投稿)

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沖縄戦は長野県松代大本営を中心とする「本土決戦」準備のための時間稼ぎ(捨て石)

2024-07-06 11:57:22 | 戦争遺跡

 沖縄戦(1945年3月26日米軍慶良間諸島上陸に始まる)は、「本土決戦」を準備するための時間稼ぎとして位置付けられた戦いであり、住民を巻き込んだ出血持久戦術をとった、いわゆる「捨て石」作戦であった。

 その「本土決戦」の準備の主眼は、大本営を長野県松代移転する事を意味していた。

 沖縄戦は1945年6月22日(23日とも)に司令官牛島中将長勇参謀長が自決し、日本軍の組織的な戦闘は終結したが、その時期の松代大本営工事(1944年11月~45年8月)の進捗状況と、司令官牛島満中将と陸軍中枢との間の情報のやりとりからその事がわかる。

 松代では、6月中旬には陸軍中枢の要人の訪問が続く。6月10日には田中静壱・東部軍司令官、同月16日には阿南惟幾・陸軍大臣などで、彼らは松代大本営が使用可能である事を確認し概ね満足している。阿南陸相は、同行した平林盛人・長野師管区司令官に、「平林君、この大本営や御座所を使用なさる事なく終われば結構だが、その時は、私どもはかく迄準備しましたと一度陛下の行幸をお願いする事ですね」(平林盛人『わが回顧録』)と語っている。

 そしてその後の6月21日、阿南惟幾・陸軍大臣梅津美治郎・参謀総長が連名で、沖縄守備軍牛島満司令官に決別電報を送っている。「貴軍の忠誠により、本土決戦の準備は完了した」と。

 昭和天皇が大本営を松代へ移転する事をどのように考えていたについては、木戸幸一内大臣の日記(7月31日)によれば、「先日、内大臣の話した伊勢大神宮の事は誠に重大な事と思い、種々考えて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移しして御守りするのが一番よいと思う。しかしこれを何時御移しするかは人心に与える影響をも考え、余程慎重を要すると思う。自分の考えでは、度々御移しするのも如何かと思う故、信州の方へ御移しする事の心組で考えてはどうかと思う。此辺、宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰いたい。万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思う。……」(木戸日記研究会『木戸幸一日記』下巻 東京大学出版会)との記録がある。

 ちなみに、松代大本営建設工事の労働者の主力は朝鮮人で、国内のダムなどの工事現場で働いていた人々で、不足を補うためには植民地朝鮮から「強制動員」した。

 また、朝鮮人労働者相手の「労務慰安所」として、松代町内の児沢聡氏宅を接収し、20歳前後の朝鮮人女性4名を「慰安婦」として働かせていた。児沢氏は、「警察が来て、娯楽室を貸してくれって。はじめは朝鮮人娯楽場を作るって言ったが、次の日に詳しく聞いたら、朝鮮人労務者が入ってくるから、付近の婦女子にいたずらをすると困るから、慰安婦を連れてきて料理屋兼ねた娯楽所にするから貸してほしいと言った。それ聞いたらなお嫌になって、貸すのやだって言ったら、児沢さん、こんなにお願いしても、国策に協力できないかって言われたから仕方なく貸した。あの当時、国策に協力できねって事は、国賊だった」との証言を残している。

 もし、1945年11月以降(米軍によるオリンピック作戦…南九州上陸)、本土決戦が実際に行われていたら、沖縄戦が日本全土に拡大し再現する事になっていたであろう。

(2020年6月23日投稿)

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