つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

戦争絶滅受合法案を成立させよう

2024-09-12 16:32:44 | 戦争遺跡

 「戦争絶滅受合法案」は、デンマークの陸軍大将フリッツ・ホルムが起草したもので、長谷川如是閑(1875.11.30~1969.11.11)が『我等』(1929年1月号)の巻頭言で紹介した。2004年には高橋哲也氏が2004年1月17日付『しんぶん赤旗』に紹介した。以下に紹介しよう。

「 戦争絶滅受合法案

戦争行為の開始後又は宣戦布告の効力の生じたる後、10時間以内に次の処置をとるべきこと。即ち、下の各項に該当する者を最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わしむべし。

一、国家の元首。但し、君主たると大統領たるとを問わず、尤も男子たること。

二、国家の元首の男性の親族にして16歳に達せる者。

三、総理大臣、及び各国務大臣、並びに次官

四、国民によって選出されたる立法部の男性の代議士。但し、戦争に反対の投票を為したる者は之を除く。

五、キリスト教又は他の寺院の僧正、管長、その他の高僧にして公然戦争に反対せざりし者。

上記の有資格者は、戦争継続中、兵卒として召集さるべき者にして、本人の年齢、健康状態等を斟酌すべからず。但し、健康状態に就ては招集後軍医官の検査を受けしむべし。以上に加えて、上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦又は使役婦として召集し、最も砲火に接近したる野戦病院に勤務せしむべし。」

(2024年9月12日投稿)

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行楽地「高尾山」麓に残る東京都最大規模の戦争遺跡「浅川地下壕」

2024-08-28 07:49:32 | 戦争遺跡

 高尾山は東京近郊では誰もが知っており多くの人々が出かける行楽地である。テレビのニュースや色々な番組でもその方面からよく話題として取り上げている所である。それはそれで良いのであるが、高尾山にはその麓に、東京都では最大の戦争遺跡が遺っている事をもっと取り上げてもらいたいものだ。

 それは「浅川地下壕」といい、八王子市の高尾町と初沢町にまたがるもので、3地区に分かれた全長約10㌔に及ぶ地下トンネル群である。

 この地下壕は、現在の武蔵野市にあった中島飛行機株式会社の発動機(エンジン)製造工場である武蔵製作所疎開工場として建設されたものである。

 この地下壕は、1944年9月頃から着工されたが、発電所やトンネル工事などを専門とする建設会社が請負い、朝鮮人労働者を働かせて建設した。のちには勤労動員の学生・生徒も働かせたが。

 工事は空襲が始まった1944年11月末以降本格化した。そして、一部で操業を開始したが、発動機10基を完成させたところで敗戦となり、地下壕は未完成に終わり、大半未使用のままとなった

 高尾山へ出かける人は、行楽で終わらせる事なく、ぜひ足を伸ばし、神聖天皇主権大日本帝国政府が遂行した侵略戦争の遺跡を訪れてほしいものだ。

参考図書:浅川地下壕の保存をすすめる会編『フィールドワーク浅川地下壕』(平和文化、2006年)

(2023年11月4日投稿)

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博物館明治村の第四高等学校物理化学教室:名古屋鉄道の浅薄な歴史認識を映す新聞広告、731部隊長・石井四郎の出身校である説明こそ必要

2024-08-18 12:19:22 | 戦争遺跡

 2020年3月10日の新聞の一面の片隅に、「名古屋鉄道」が自社の宣伝広告「明治村 本物の歴史がここにある」を掲載していた。この日は「第四高等学校物理化学教室」についてであり、写真とその建物についての短い説明文を掲載していた。

 広告にはその広告主が伝えたい事が、また、そこには自ずと広告主の価値観や思想信条などが映し出されるものであるが、説明文は「明治23年に第四高等中学校物理化学実験場として建てられ、第四高等学校、金沢大学へと引き継がれ今年創建130年を迎える。工事監督は山口半六、設計は久留正道の二人の文部省技術者が手がけ、その後の学校建築の規範となった。金沢市より明治村に移築された」というものである。

 これを読んで私は思った。この第四高等学校については、現代の我々主権者国民が決して忘れてはならない受け継いでいくべき歴史が存在している。しかし、それに触れてくれていないのが残念な事だと。

 それは、731部隊の創設者であり初代部隊長・石井四郎軍医が、第四高等学校理科乙類を1916(大正5)年に卒業しているという事実である。彼はその後京都大学医学部を出て軍医になるのである。731部隊というのは歴史辞典によれば、「日本陸軍の細菌戦部隊。関東軍防疫給水部。1933年石井四郎軍医がハルビン郊外に設立。ペスト・チフスなどの細菌兵器を開発した。細菌戦の実行のほか、3千名におよぶ人体実験を行うなどの戦争犯罪を犯したが、米軍への資料提供と引換えに関係者は極東国際軍事裁判(東京裁判)での訴追を免れた」といわれている。

 731部隊の幹部には石井四郎以外にも、第四高等学校出身者が非常に多いのである。たとえば、二木秀雄、石川太刀雄、岡本耕造、増田知貞、谷友次などである。また、二木秀雄と谷友次とは柔道部の先輩後輩の関係であった。現在「明治村」に移築されているが、第四高等学校の武道場(柔道、剣道、弓道の3種)「無声堂」に「名札」が残っている。弓道場には石井四郎の「名札」が残っている。

 主権者国民は、主権を脅かされないために、歴史を記憶し継承する努力を怠ってはならない。

(2020年3月12日投稿)

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沖縄戦は長野県松代大本営を中心とする「本土決戦」準備のための時間稼ぎ(捨て石)

2024-07-06 11:57:22 | 戦争遺跡

 沖縄戦(1945年3月26日米軍慶良間諸島上陸に始まる)は、「本土決戦」を準備するための時間稼ぎとして位置付けられた戦いであり、住民を巻き込んだ出血持久戦術をとった、いわゆる「捨て石」作戦であった。

 その「本土決戦」の準備の主眼は、大本営を長野県松代移転する事を意味していた。

 沖縄戦は1945年6月22日(23日とも)に司令官牛島中将長勇参謀長が自決し、日本軍の組織的な戦闘は終結したが、その時期の松代大本営工事(1944年11月~45年8月)の進捗状況と、司令官牛島満中将と陸軍中枢との間の情報のやりとりからその事がわかる。

 松代では、6月中旬には陸軍中枢の要人の訪問が続く。6月10日には田中静壱・東部軍司令官、同月16日には阿南惟幾・陸軍大臣などで、彼らは松代大本営が使用可能である事を確認し概ね満足している。阿南陸相は、同行した平林盛人・長野師管区司令官に、「平林君、この大本営や御座所を使用なさる事なく終われば結構だが、その時は、私どもはかく迄準備しましたと一度陛下の行幸をお願いする事ですね」(平林盛人『わが回顧録』)と語っている。

 そしてその後の6月21日、阿南惟幾・陸軍大臣梅津美治郎・参謀総長が連名で、沖縄守備軍牛島満司令官に決別電報を送っている。「貴軍の忠誠により、本土決戦の準備は完了した」と。

 昭和天皇が大本営を松代へ移転する事をどのように考えていたについては、木戸幸一内大臣の日記(7月31日)によれば、「先日、内大臣の話した伊勢大神宮の事は誠に重大な事と思い、種々考えて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移しして御守りするのが一番よいと思う。しかしこれを何時御移しするかは人心に与える影響をも考え、余程慎重を要すると思う。自分の考えでは、度々御移しするのも如何かと思う故、信州の方へ御移しする事の心組で考えてはどうかと思う。此辺、宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰いたい。万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思う。……」(木戸日記研究会『木戸幸一日記』下巻 東京大学出版会)との記録がある。

 ちなみに、松代大本営建設工事の労働者の主力は朝鮮人で、国内のダムなどの工事現場で働いていた人々で、不足を補うためには植民地朝鮮から「強制動員」した。

 また、朝鮮人労働者相手の「労務慰安所」として、松代町内の児沢聡氏宅を接収し、20歳前後の朝鮮人女性4名を「慰安婦」として働かせていた。児沢氏は、「警察が来て、娯楽室を貸してくれって。はじめは朝鮮人娯楽場を作るって言ったが、次の日に詳しく聞いたら、朝鮮人労務者が入ってくるから、付近の婦女子にいたずらをすると困るから、慰安婦を連れてきて料理屋兼ねた娯楽所にするから貸してほしいと言った。それ聞いたらなお嫌になって、貸すのやだって言ったら、児沢さん、こんなにお願いしても、国策に協力できないかって言われたから仕方なく貸した。あの当時、国策に協力できねって事は、国賊だった」との証言を残している。

 もし、1945年11月以降(米軍によるオリンピック作戦…南九州上陸)、本土決戦が実際に行われていたら、沖縄戦が日本全土に拡大し再現する事になっていたであろう。

(2020年6月23日投稿)

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「八紘一宇」刻字の塔(宮崎県宮崎市の県立平和台公園)、安倍政権は再び東京五輪聖火リレーの起点にする事は諦めたのか?

2024-03-25 07:56:04 | 戦争遺跡

河野俊嗣宮崎県知事に関する、2023年1月1日の動静について朝日新聞は、「自身のFBへの投稿2日午後6時42分)では「14時ごろ、宮崎神宮及び宮崎県護国神社初詣 夕方、倦怠感あり」としているが、宮崎県秘書広報課1日午後9時過ぎ、この日の行動を「宮崎神宮県護国神社初詣」と書いたメールを、「知事の動き」を掲載している宮崎日日新聞社に送ったが、2日午後、同社に変更を要請するメールを送ったという。同紙は要請に応じず、3日付朝刊に初詣の事も記載した。一方、県が2日午後5時過ぎに発表した河野知事の……プレスリリースには、1月1日は「公舎などで過ごす」と書かれていた」とする報道を行った。ちなみに、宮崎神宮神武天皇を祀っており、県護国神社靖国神社の支社である(2023年1月6日)。

※以下は表題に関して2021年7月25日に投稿したものであるが、河野俊嗣知事上記の記事の意味を理解するうえで役に立つと考えられるので改めて投稿しました。

 2020年東京五輪の聖火リレーについて、メディアが報道し始めた。安倍自公政権の五輪組織委員会は、開幕4カ月以上前の東日本大震災発生日の3月11日前後に始めたいようだが、1964年当時のように、「八紘一宇」刻字の塔(宮崎県宮崎市の県立平和台公園)を、再び2020年の東京五輪聖火リレーの起点の一つにする目論見は持っていないかのような内容の報道がなされているが、まだ油断はできないだろう。さて、前回の東京五輪聖火リレーに関して、以下の内容を2016年7月28日に投稿したのですが再投稿しますのでぜひ読んでください。 

 宮崎県宮崎市内の「県立平和台公園」内に、その正面に大きく目立つように「八紘一宇」という文字が刻まれた巨大な石積みの塔(37㍍)が立っている。今日では「平和の塔」と呼ばれている。

 しかし、そんな文字が刻まれた巨大な石塔がなぜ今日、県立公園に堂々と屹立しているのだろう。宮崎県はなぜそのような状態を放置させているのか。県はその意味を認識していないという事だろうか、そんな事はあり得ないだろう。であれば地方自治体の責任としてそのままの状態を放置する事は非常識であり許されるものではない。しかし、敗戦後70年を過ぎた今日も存在しているという事は、宮崎県は「確信犯と言ってよく、「意図的」に放置しているとしか考えられない。この姿勢は日本国憲法第99条が国民に対して保障する「憲法尊重擁護義務」「天皇及び摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」に違反するものであり、その「不作為」は処分に値するものである。

 「八紘一宇」という言葉の語源は、日本書紀にあり、それによると、神武天皇を初代天皇とし、神武天皇が大和橿原に都を定めた時に、「八紘を掩いて宇にせん」と抱負を述べた、と書かれている。その意味は「八方の地の果てまでを一つの家として統治支配するぞ」というもので、強い権力志向を表す言葉である。

 この日本書紀をもとにして、「八紘一宇」の造語を生み出したのは、宗教家の田中智学(1861~1939)で、それを軍部が1930年代から「天皇の威光がアジアを覆う」という趣旨で使用し始めた。そして、神聖天皇主権大日本帝国政府は1940年には、「八紘一宇」を盛り込んだ「基本国策要綱」を閣議決定したのであるが。

 その同じ年である1940年に「八紘一宇」の文字が刻まれたこの石塔が建てられているのである。その建造理由は、1940年がちょうど紀元2600年(神聖天皇主権大日本帝国政府が定めた、日本書紀に記された神武天皇即位年からの年数)にあたり宮崎県がそれを記念して、企画し建設したといわれる。また、中国への聖戦完遂(侵略戦争継続)のための国民の総動員と戦意高揚が目的であった。完成時の正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」である。石塔はこのように「侵略戦争」に強くかかわる建造物なのである。

 この塔の基礎部分には1800個位の世界から略奪したり献納させた「」を使用した。うち約1割180個は、中国朝鮮半島からは120~130個、台湾からは41個、満州国からも。また南米や軍事同盟国ドイツからのものある。また、「八紘一宇」の塔の中には「厳室(いつむろ)」という空間をつくり、そこには世界地図を描き、「昭和天皇」の思召しが及ぶ(また、支配下にあった)地域として、朝鮮半島や台湾などを含むアジア全域樺太の南部、南米大陸などを描いているのである。

 敗戦後の連合国軍による占領支配の下では、戦争遂行や戦意高揚に関係する事物の多くが破壊されたり、地中に埋められたりなどして処分され国民の目に入らないようにされた。靖国神社の境内の事物についても同様であった(占領支配後は埋めたものを掘り返して元に戻して今の姿になった)。

 それでは、宮崎県のこの石塔については、どうなっていたのか。敗戦後、他の地域の事物と同様の対象となった。しかし、「八紘一宇」の文字が占領軍によって削除されただけで、塔自体は破壊されずにそのままの姿で残す事を認められたようだ

 しかし、「確信犯」と考えられる事が起こった。それはその後の1964年の「東京五輪」開催との関係で、1961年になると、地元の観光業者らの働きかけを受けて宮崎県は、多くの県民や労働者の反対を無視して、かつての場所に「八紘一宇」の文字を復元したのである。それが今日、目にする事ができる「八紘一宇」の文字なのである。そして、当時の知事名による由来碑には「八紘一宇が平和を祈念して刻まれた」などと書かれたのである。この言葉には、日本による侵略戦争であるという「認識」は微塵も感じられないだけでなく、「東亜永遠の平和」のための「聖戦」として「正当化」するものであり、そのためもちろん「加害者」としての「反省」「謝罪」の言葉は「かけら」さえも見られないのである。おまけに、それ以降この石塔は「由来碑」の言葉から「平和の塔」と呼ばれるようになったようである。スリカエ欺瞞も甚だしいものである

 しかし、そのような認識の下に、1964年東京五輪では、「県立平和台公園」が「聖火リレー」の起点の一つとなったのである

 その後も今日まで、そのままの姿で存在し続けているのであるが、宮崎県知事や県議会、そして宮崎県民はどんな意識をしているのであろうか。

 2015年10月、中国・南京民間抗日戦争博物館の呉先斌館長が宮崎県庁(河野俊嗣知事2011年1月21日~)に来訪し、「この塔の礎石の一部は南京産である」として返還を要求した。返還要求しているのは3個で、1個は中国の霊獣「麒麟」の絵と「南京日本居留民会」の文字が刻まれたもので、14世紀に明王朝を興した皇帝陵墓にあった可能性があり、「国宝級の文化財」ともいわれるもの。ほかの2個は、「孫文」の陵墓である「南京中山陵」の刻印があるものと「南京紫禁山麓」と刻まれたものである。

 現在、宮崎県都市計画課(河野俊嗣知事)は、「取り壊しはできない。現状のまま保存する」方針であり、返還要求には応じない姿勢を続けている。「侵略戦争について学ぶ場」とする気もなく、返還要求に応じる気もない。ここにもこの現在においても「確信犯」としての姿勢を続けている。

 それはなぜか? この石塔をそのまま残し、2020年の「東京五輪」再び「聖火リレー」の起点(県立平和台公園から1㌔のところに「神武天皇」をまつる「宮崎神宮」がある)とするためなのである。そして、「聖火リレー」の「到着点」は「聖地」と呼ばれている「国立競技場」を建て替えた「新国立競技場」という構想が練られているのである。

※「国立競技場」がどのような意図で建築されたかについては、本ブログの別稿をぜひ読んでください

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