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新型コロナ「ありがとう」の魔力(朝日新聞・耕論):漫画家ひうらさんの致命的な浅はかさ

2024-10-16 21:51:41 | 新型コロナ感染症

 2020年7月18日の「耕論」に漫画家のひうらさんが「相手を想像し感謝の行動」という主張を掲載していた。彼女の主張の趣旨は、彼女の言葉を借りると、「新型コロナでは、医療従事者への『ありがとう』の思いを表現したいと考え、4月に『#GratefulForTheHeroes絵(ヒーローに感謝の絵を)』として、医療従事者を描いたイラストの投稿をSNSで呼びかけました。」「少しでも元気になってもらいたいからと、明るく『たたえる』というイメージで描いた」という事である。しかし、この発想は極めて「浅はか」なものと言って良い。その「浅はかさ」は、ひうらさんのいう「相手」の、ここでは医療従事者の事であるが、彼らの置かれた状況や彼らが本当に切実に求めている事への想像力が残念ながら欠如している事が原因である。そしてそれは、ひうらさんの偏狭な歴史認識をも顕わにしている。彼女の歴史認識は、2013年12月末に安倍晋三氏靖国神社参拝後に行った談話の趣旨とピッタリ同じ発想をしている。談話は、

「……尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります。今日は、その事を改めて思いを致し、心からの敬意と感謝の念を持って、参拝しました」というものである。これは「靖国神社の思想」であり、「祭神」に対し「感謝」の言葉で対応する事により、国民(臣民)に対し、「天皇国家」のために「殺す事」や「死ぬ事」を強制し、そのような生き様(死に様)を模範とさせ、またその生き様(死に様)に対して「疑問」や「憤り」や「恨み」や「悲しみ」や「辛さ」を抱く事を封じ、ひたすら命じた事に邁進させる(神聖天皇主権大日本帝国政府ではさせた)事を意味するものなのです。どうでしょうか?

 ひうらさんの主張は、安倍晋三首相(安倍自公政権)の考え方を支持し、意図的でない事を信じたいが、代弁する効果を生み扇動している事にもなっているのである。そして、そのような主張であるにもかかわらず、さらにSNSで不特定多数の人々に軽率に無責任にも呼びかけてしまっているという事なのである。この主張に対する批判に謝罪文を投稿したようですが、上記のような事に気づいたうえでの事なのでしょうか。どのような内容であったのか知りたいですね。また、「感謝」や「謝罪」は直接相手を目の前にして、その反応を直に確かめながらするべきものだと思います。

 ひうらさんは、文末で「批判の背景には、コロナの前からあった労働環境や格差への不満もあるように感じます。そういう社会構造に対して何かできる事はないか。そんな事も考え始めています」と述べているが、SNSで呼びかける前に、そのような事にこそ第一番に気づくべきだったと思います。そして、軽率に無責任にSNSなどで扇動するべきではないと思います。

 日中全面戦争の真っ最中の1939年1月20日に「兵隊さんよありがとう」(原題:兵隊さんよありがたう)という歌のレコードがコロンビアから発売された。この歌詞は大阪朝日新聞と東京朝日新聞が前年の10月に、「皇軍兵士に感謝するための歌」を懸賞募集した際、佳作一席に選ばれたものである。作詞したのは東京の印刷所に勤めていた工員さんであるが、その時の感想が「街で見かける少年少女たちの兵隊さんに対する尊敬や憧れの純真な気持ちをそのまま童謡風に綴ってみた」というものであった。

「1、肩をならべて兄さんと 今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです

   お国のために お国のために戦った 兵隊さんのおかげです

 2、夕べ楽しい御飯どき 家内そろって語るのも 兵隊さんのおかげです

   お国のために お国のために傷ついた 兵隊さんのおかげです

 3、淋しいけれど母さまと 今日もまどか(安らか)に眠るのも 兵隊さんのおかげです

   お国のために お国のために戦死した 兵隊さんのおかげです

 4、明日から支那の友達と 仲良く暮してゆけるのも 兵隊さんのおかげです

   お国のために お国のために尽くされた 兵隊さんのおかげです

   兵隊さんよありがとう 兵隊さんよありがとう

 ひうらさんのSNSの呼びかけは、この歌詞や安倍首相の談話などとどれほどの違いがあると言えるだろうか?ひうらさんは自身にとって致命的な誤りを犯したと言って良い。

(2020年8月9日投稿)

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「天声人語」が触れた毛沢東の4害「ネズミ」で思い出した「731部隊」細菌兵器研究と大阪ペスト襲来

2024-04-14 09:24:35 | 新型コロナ感染症

 朝日新聞の2017年10月26日「天声人語」欄に、「1950年代、中国の全土でスズメ撲滅運動が起きた。当時の指導者だった毛沢東の指示により、ネズミ、ハエ、カと並ぶ「四害」とされた」との言葉を見て、ふと最近テレビ番組でも取り上げられたあの悪名高い日本のアウシュビッツともいわれる「731部隊」も「ネズミ」と関りが深かった事を思い出した。

●「731部隊」とは秘匿名で正式には「関東軍防疫給水部本部」(1940年12月2日)といい、ハルピン市の平房に秘密基地がつくられたのである。その部隊長・石井四郎(軍医中将)の名前をとって「石井部隊」とも呼ばれた。言葉通りに受け取れば「伝染病や風土病を予防し、無害の飲み水などを給付する」部隊という事であるが、実際の活動は対ソビエト戦に備えての大規模な細菌戦の研究と開発であった。

 細菌戦とは、人を殺すために様々な「ばい菌」を作ってばら撒く事である。人の命を救う事を使命とする医者でありながら、それを逆に利用したという事である。それも反満抗日運動をしていた中国人や、朝鮮人、ロシア人などを生体実験の材料としていたのである。

 日本敗戦の年には、「731部隊」はペスト菌の乾燥保存(乾燥菌製造)技術を開発し、通常ペスト菌の60倍の毒性を持つ変性菌をも産出していたという。また、ペスト菌霧化技術も進み、陶器爆弾も完成し、特別に生存力の強いネズミや、「最も効果的な吸血能力を持つノミ」の一種族が大量繁殖されていた。

 そして、1945年5月、石井部隊長は部隊幹部に対して「日ソ開戦は必至の情勢……これより731の総力を挙げて、細菌とノミ、ネズミの増産に突入する」という増産訓示をしたのである。

 元隊員の証言によれば「ペスト菌を中心に、井戸水や貯水池に投げ込むチフス菌、コレラ菌、河や牧場を汚染する脾脱疽菌を、向こう2カ月間に大量生産せよ、命令が下りてきたのが5月10日の事だった……細菌製造工場だったロ号棟1階勤務の柄沢班は増員され、24時間体制で生産に入った……その結果、ペスト菌だけで20㎏近く製造したと思う……貯蔵してあるものを含めると、乾燥菌を合わせ100㎏に達したのではないか」という。

 ペスト菌をネズミのノミを媒介にして拡散させるために、ネズミについては「300万匹増産」を目指す命令が下った。ネズミの捕獲のために「特攻隊」が組織され、隊員たちは大量の捕鼠器をトラックに積み込み、ハルピンや新京(長春)の各市街を回り、住民や中学生女学生たちを大々的なネズミ捕りに動員したようだ。731部隊は各支部はもちろん、庁舎、宿舎を問わず、高さ1㍍足らずの板囲いの中で、不寝番までつけてネズミ増産に狂奔したという。平房秘密基地周辺の村人にも1人当たり5匹の「ネズミ捕りの命令」が発せられ、捕まえなければ処罰されたという。

 散布・投下にも使用するペスト・ノミの増産目標は「300㎏」(約10億匹)とされたが、田中班には4500個のノミ飼育器があり、わずか数日間で1億匹のノミを確保できたという。

 元隊員の証言によれば、敗戦直前に使用可能な保存細菌は「もし全部を理想的な方法でばら撒けば地球上の人類はことごとく死んでしまう」ほどの量であったという。

 この増産計画は8月9日のソ連軍の対日参戦により成就できずに終わらざるを得なくなったというが、ナチスと同類の731部隊の一連の極悪非道の所業は二度と行ってはならない事であり、戦後に生まれた我々日本人も先祖の犯したその所業の罪深さを肝に命じ決して忘れてはならない

●大阪にペスト襲来について

 1899年には大阪に襲来しており、府下で161人が発病し、市内では153人のうち138人が死亡しているが、1904年暮れから1910年までの6年間、再び大阪で大流行した。ペスト菌がネズミのノミを媒介にして広まる事は1894年に北里柴三郎により究明されており、感染経路は明らかとなったが、死亡率は89%であった。患者は大阪市立桃山病院に運び込まれ、家族と隣接民家の住民は北区西梅田下島町(現福島区)の通称鼠島の消毒所へ隔離された。患者の出た町も広い範囲でトタン板で交通遮断し石灰のようなもので大消毒がなされた。治療の決め手はなく、リンパ腺を切り取り、衰弱するとブドウ酒に強心剤を混ぜて飲ませたという。

 ペスト菌の感染拡大を防ぐ方法も「ネズミ退治」しかなかったので、1904年11月25日から大阪市は、各交番を窓口にしてネズミ1匹を2銭で買い上げた。連日3000匹以上が持ち込まれ、感染地域が広がると買い上げ値段は値上げ(05年12月には1匹10銭)されていき、持ち込まれるネズミの量も5000匹を大きく上回った。当時1日20銭あれば大人の男は1日生活できた時代であったので、5匹も獲れると「すき焼き」をしたという。また、ネコを飼うのも流行り、どこの家でも最低2匹はいたという。ネコがネズミをくわえていると、人間がそれを横取りし交番へ走ったともいう。

 この大阪でのペスト大流行の時期は、ちょうど日露戦争旅順総攻撃、桂・タフト協定、ポーツマス条約、日比谷焼打ち事件、第2次日韓協約、朝鮮統監府開庁、ハーグ密使事件、第3次日韓協約、安重根による伊藤博文射殺、大逆事件、韓国併合(朝鮮植民地化)条約、朝鮮総督府開庁などの時期に当たる。

(2017年10月29日投稿)

 

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中山義隆石垣市長:「つくる会」系採択をくわだて八重山教科書問題を引き起こし、コロナ禍下でキャバクラ会食

2023-09-17 09:08:57 | 新型コロナ感染症

 沖縄県石垣市中山義隆市長が、2021年2月2日、宮古島市長選(2021年1月17日投開票)の候補者応援のため同市を訪れた際、地元の支援者とキャバクラなどで会食していた事を明らかにした事を、翌日メディアが報じた。

 中山氏は2018年、自民、公明、維新の会、幸福実現党の推薦により、市長の3選を果たした。県内9市の保守系市長で構成した市長連合「チーム沖縄」のメンバーである。中山氏についてこれまで特に印象深い事は、市長初当選の翌年2011年に引き起こした、八重山地区において「つくる会」系の教科書採択をもくろんで引き起こした八重山教科書問題である。

 今回はコロナ禍下で、中山石垣市長自らが市民に要請した自粛期間中に、宮古島市キャバクラなどで会食をしていたのである。

 2021年1月6日の記者会見で「明日1月7日から1月20日までの2週間は、不要不急の外出を控えていただき、マスクの着用、手洗い、うがい、手指の消毒を徹底してください」と述べるとともに、島外での飲食などに注意を促していた。1月12日には沖縄県立八重山病院の病床逼迫を受け、「状況としては『医療崩壊危機宣言』だ」として、不要不急の外出自粛を1月末まで延長していた。

 中山氏はその後、1月17日投開票の宮古島市長選に立候補した下地敏彦氏を応援するため、1月15日から17日まで宮古島に滞在し、15日と16日、選対関係者らと居酒屋やキャバクラなど5軒で会食したという。1月27日、宮古島市は新型コロナの爆発的な感染により、公園や図書館など公共施設を閉鎖するとともに市民の外出、島外への移動、観光客らの来県の自粛を要請した。沖縄県立宮古病院はコロナ対応に集中するため、一般外来を中止するに至った。

 宮古島での接待付き飲食が発覚したのは2月1日。中山氏はメディア記者から「会食したのはキャバクラではないか」と聞かれ、「スナックだ。キャバクラではない」と否定し、「僕は基本的なキャバクラの認識は、女の子がミニスカートで隣に座ってもも触ったり、肩を抱いたりするようなお店。そういう店ではない」「県の緊急事態宣言前の事だから問題ない」と釈明したり、「誤解を与えるような行動になった事への批判は真摯に受け止める」と述べたともいわれる。

(2021年2月21日投稿)

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感染症(伝染病)に対する神聖天皇主権大日本帝国政府の対応:強兵富国政策を偏重し、臣民(国民)の健康と生命を軽視

2023-01-20 16:23:59 | 新型コロナ感染症

※2023年1月20日の「天声人語」に、先週から始まった国立公文書館の企画展「衛生のはじまり、明治政府とコレラのたたかい」について、「目を引いたのは死者10万人に上った明治の流行を記録した政府文書。タコと青菜を食べ感染した。川の水を飲み発症した。細かい感染例に当時の人々の苦境がしのばれる」とあった。

※以下は表題について、2020年3月7日投稿の内容に加筆修正し再投稿したものです。

 新型コロナ感染症で、安倍自公政権の対応への主権者国民の不信不満が噴き出しているが、この安倍自公政権の対応は、実は彼がテキストとしている神聖天皇主権大日本帝国政府の対応に淵源がある

 明治時代における感染症伝染病)に対して、神聖天皇主権大日本帝国政府はどのように対応したのかを紹介しよう。

 明治時代の国民(臣民)を苦しめ不幸に陥れた感染症伝染病)は、4種あり、天然痘、コレラ、赤痢、腸チフスであった。明治10年代と20年代のわずか20年間に80万人を超える死者を出すに至った(その内、1879(明治12)年(10万5千人)、1886(同19)年(14万6千人)、1893(同26)年(6万人)の3年間だけで、4種の感染症(伝染病)による死者は30万8千8百人を数える)。この数字は明治時代44年間に行われた5回の対外出兵(侵略)と2度の大戦争の死者総数よりもはるかに大きい

 その実態は、天然痘と赤痢で6万人を超える死者を出していた1893(明治26)年の頃に神聖天皇主権大日本帝国政府のお雇い外国人として東大医学部教授をしていたドイツ人ベルツ日記にうかがえる。それは、

「3月10日、学生たちと駒込の天然痘病院を訪れた。醜態だ。4百名の患者に、時としては日に50名の新患がある有様なのに、これに対して、一部は無経験の者を含めて8名の医師と20名の看護婦である。冬だというのに、破れ障子のバラック、ひどい!いったい東京市は、病気の市民のために、何をしているというのだコレラ、チフス、天然痘の感染症(伝染病)!それでいて、貧しい人たちを、せめて大切に飼われている馬ぐらいの程度にでも、収容しておける病院すらない」というものである。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、臣民(国民)の言論・集会・結社などの取締りや弾圧には最優秀のプロシア法(警察)を取り入れ、世界無比の能力を発揮したが、臣民(国民)の保健・衛生・福祉・厚生・人権擁護などの面では文明諸国のうちでは最劣等の、とても文明国の仲間入りはできないような対応しか行わなかったようだ。

 コレラは1858(安政5)年アメリカの軍艦ミシシッピー号からであり、長崎から全国に拡大し、3年にわたり猛威を振るい、「コロリ病」と言われた。1879(明治12)年6月にも再流行した。この時、コレラに対する対応は少しも進んでいなかった。帝国政府は、「コレラ病予防仮規則」を発し、「避病院」を作り、患者の強制隔離・検疫・消毒・死体処理の方法を決めたが、罹病者16万人、死者10万5700余人を出した。東京市では避病院を作り患者を隔離したが、病院とは名ばかりのバラックの板囲い、医師も看護婦も不足し、患者はここに入れられるとろくな看護も受けられず、ほとんどが死亡した。内務省はこの時初めて、外国人医師や日本人医師を招いて「中央衛生会」をつくり、「地方衛生会」と連絡を取り衛生行政に一貫性を持たせた。さらに、全国の臣民(国民)の力を借りる事を考え、「戸長」を助けて町や村の衛生問題を扱う「町村衛生委員(住民の公選)」制度を作った。1880(明治13)年には中央衛生会が「伝染病予防規則」を制定した。

 1882(明治15)年、再びコレラが蔓延した。東京市内で患者は6528人となり、5071人が死んだ。警視庁は市当局とともに患者の命を救う事よりも「隔離第一主義」をとり、本所・大久保・芝など5カ所に避病院をつくり、強制隔離をした。収容しきれなくなると、ゴザやムシロの上に転がしておいた。

 この年、警視庁や吏員に対する臣民(国民)の反感を示す歌「チョイトチョイト節」が流行った。

「いやだいやだよ じゅんさはいやだ 

   じゅんさコレラの先き走り チョイトチョイト

 つとめすりゃこそ おかいこぐるみ

   親はコモまいて 門に立つ チョイトチョイト」

 1883(明治16)年と1885年には赤痢が流行し、死者は1万人を超えた。そして、1886(明治19)年は最悪の年となった。東京市では5カ所ほどの避病院で収容しきれず、重患は死ぬのを待って、そのまま火葬場へ直送された。1886年の1年間に、上記4種の感染症(伝染病)だけで、14万6千人超の死者が出た。コレラ10万8千4百人超、天然痘1万8千人超、腸チフスと赤痢併せて約2万人であった。

 しかし、この間の神聖天皇主権大日本帝国政府の感染症(伝染病)に対する対応は後退した。1884(明治17)年、皇室費や軍備拡張費の増額で財源不足を理由に、感染症(伝染病)の際の貧民救済補助費を廃止。1885(明治18)年、地方衛生会町村衛生委員制度を廃止。1886(明治19)年、新官制を制定し、地方衛生行政の実務を警察官僚に移した。警察の上からの強権による手法の方が効果を上げられると考えたのである。

 感染症(伝染病)はその後も、1890(明治23)年、1893(明治26)年、1895(明治28)年とコレラ・天然痘などが猛威を振るったのである。

天然痘については、1874・75年に大流行、1886・87年、1892・93年に流行した。

ペストは1899(明治32、33)年に大阪を襲っており、府下で罹病者161人、市内では153人の罹病者うち138人が死亡した。

(2020年3月7日投稿)

 

 

 

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吉村府知事「大阪モデル」:「砂上の楼閣」論理、安倍自公政権の「お先棒担ぎ」演じる

2021-05-10 08:30:53 | 新型コロナ感染症

 2020年5月5日、大阪府は新型コロナウイルス対策本部会議を開催し、特別措置法に基づく休業と外出自粛要請の段階的解除に向けた独自の基準「大阪モデル」を決定した。吉村洋文・大阪府知事(大阪維新の会)は、安倍自公政権に抗議する姿勢を見せ、威勢よく、頼れる救世主顔をしてメディアに登場し、多くのテレビ番組も高く評価しているせいかこの事取り上げている。

 ところでその基準は、①感染経路が不明な新規感染者が10人未満、②検査を受けた人に占める陽性患者の割合(陽性率)が7%未満、③重症病床の使用率6割未満、の3点。これを「警戒信号の消灯基準」とし、①と②については過去7日間の平均をみる。

 感染状況が悪化した場合に、改めて休業や外出の自粛要請をする基準は、①1週間の経路不明者の平均が前週と比べて同じか増加、②経路不明者の人数が概ね5人以上、③陽性率が7%以上、の3点をすべて満たす事としている。

 おまけに、大阪城や通天閣などをライトアップし、「警戒信号の消灯基準を満たしているうちは緑色警戒信号が点灯すれば黄色。概ね2倍になった場合は赤色」とするなどとしている。

 さて、吉村氏がこの「大阪モデル」を独自に決定した裏には何か「維新の会」としての意図目論みが存在するのではないかと考えているのであるがどうでしょう。それというのも、このコロナウイルス問題で多忙を極めている中であるにもかかわらず、今月5月8日、内閣の判断で検察幹部(検事長)の「役職定年」を延長できるようにする検察庁法改正案の委員会審議を松本文明・衆院内閣委員長(自民)が、野党の要求を無視して職権で強行に開催したが、その際出席したのが自民、公明以外では、「日本維新の会」だけだったからである。

 吉村府知事の「大阪モデル」は、2025年「大阪万博」を実現するために「維新の会」に注目させイメージアップを狙うものである。また、安倍自公政権に対して対抗的な態度を見せるのは、裏では相互了解済みの企てで、安倍自公政権にとっては「今後のコロナ政策」において「時間」を稼ぐためと、「維新の会」に「お先棒担ぎ」をさせ、府民(国民)の反応を観察するためで、「維新の会」としては党の評価人気を高め、国会において今後さらに自民党の補完勢力として議席を増やすための「印象操作」である。それは公開の場に出る際に、胸に「2025大阪万博」をアピールする文字が大書されている上着を彼が常に着ている(非常識だと思うが)事からも明かであろう。そしてこの「大阪モデル」のさらなる問題は、上記の基準が「砂上の楼閣」の論理である事だ。それは、特に①②に関してであるが、これらの基準の数値が真に有効性を持つのは、基本的には、府民(国民)が、感染の不安を解消するために、どんな制限も受ける事なく速やかに「PCR検査」を受けられる態勢が整備された上での検査総数を基にしていなければならないであろう。しかし、「大阪モデル」はそこを故意に触れないようにしているのである。これでは得られた数値が上記の基準を満たしているか否かは正確に判断できない。つまり、詐欺のような判断、府民(国民)を欺瞞する判断であるといってよい。このような事から、「維新の会」の「大阪モデル」はパフォーマンスに過ぎないというしかないのである。この論理は安倍首相のもの(5月4日の記者会見)と同根であり、無責任極まりないのである。例えばそれは、(検査数が少ないにもかかわらず)「緊急事態宣言から間もなく1カ月。一時は1日当たり700人近くまで増加した全国の感染者数は、3分の1まで減少した。収束に向けた道を着実に前進している。……感染拡大を回避し、減少へと転じさせる事ができた」というものである。どれだけの府民(国民)がその通りであると納得したであろうか。騙されてはいけない。今国民が安倍自公政権や吉村府知事など自治体首長に要求すべき事は、全国民が手続きや費用面などで大きな負担なく気軽に「PCR検査」を受けられるようにせよ、という事である。

(2020年5月9日投稿)

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