つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

東くめさんの初の作詞「鳩ぽっぽ」とそのきっかけ

2024-12-25 17:17:03 | 日本人

 東くめさんの事を朝日新聞2024年12月25日付「天声人語」が掲載した。

東くめさんは大阪府池田市室町2番丁929に住んでいた。「鳩ぽっぽ」の作詞者。

〇和歌山・新宮藩の家老職であった由比家に生まれた。5歳で父に死別、母の実家(新宮市馬場町2丁目3-6に宅跡)に引き取られた。

〇10歳の時、一家は来阪。川口居留地のミッションスクール・ウィルミナ女学校(後の大阪女学院)に通った。ここで米国人姉妹によるピアノの連弾に感動し音楽に開眼した。

1890(明治23)年、東京音楽学校(後の東京芸大音楽部)の選科に入学(13歳)。ピアノと唱歌を学んだ。

1896年、2番の成績で専修部を卒業。首席は幸田露伴の妹。大阪音楽大学の創立者永井幸次も同級生であった。くめさんはさらに1年間研究科に残った後、東京府立高女(後の都立白鴎高校)に音楽教師として勤務。その2年後、同郷で6つ年上の東京女子高等師範教授の東基吉さんと結婚した。

1901年春、くめさん23歳の時、東京神田の自宅で、付属幼稚園にも関係し、幼児教育に熱心だった基吉さんから、話し言葉の唱歌があってもよさそうなものだ(当時は文語体のものばかり、鉄道唱歌も、曲も外国製の借り物がほとんど)、といわれて最初に作ったのが「鳩ぽっぽ」(鳩ぽっぽ、鳩ぽっぽ、ぽっぽぽっぽと飛んでこい……)であった。

〇作詞は浅草の観音さま(浅草寺)の鳩を思い浮かべながら子どもの気持ちになりきって作ったという。作曲は東京音楽学校で2年後輩の滝廉太郎(豊後日出藩家老の家柄)に頼んだ。

〇滝とくめさんは名コンビで「水あそび」「お正月」「雪やこんこん」も2人の作品である。

1901年7月、東京芝の共益商社という書店から「幼稚園唱歌」という唱歌集を発行した。全20曲。12曲がくめさんの作詞で、作曲は1曲(ドイツ曲)以外はすべて滝のものである。どれも子どもに歌いやすく、適当な遊戯動作が加えられるように工夫しており、オルガンで弾けるように簡単で適切な伴奏も付けていた。基吉さんが自分の幼稚園で歌わせたところ、子どもたちは大喜びしたという。

は、ドイツ・ライプチヒに留学中病気になり帰国し、1903年、23歳で郷里大分で死去。

1906年、くめさんは教壇を去った後、自宅でピアノ塾を開いて音楽教育に専念した。

1917年、夫基吉さんが池田師範学校長に転任したのをきっかけに大阪府池田市に転居した。長男貞一さん(大阪音楽大学教授)・長女照子さん・次女吉田正子さんの兄妹は力を合わせて「ピアノ研究会」を主宰した。

1962年、出身地の和歌山県新宮市は、詩人の佐藤春夫さんについで2人目の名誉市民号を、大阪府池田市も文化功労賞を贈った。「鳩ぽっぽ」の歌碑は、JR新宮駅前、東京浅草観音境内、長野善光寺境内、池田市五月山公園などに建てられている。

(2024年12月25日投稿)

 

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増補版 石橋湛山首相のプレスクラブ演説(1957年1月25日)抜粋、米ソ両国政府とどう対応するか?

2024-12-14 11:20:30 | 日本人

 石橋湛山は1956年12月23日から57年2月23日まで首相を務めた。その首相が1957年1月25日の行ったプレスクラブでの演説内容である。ここには今日の日本の政治の在り方を考える上で大いに参考になる事がうかがえる。以下にその抜粋を紹介したい。 

「昔から国際間の紛争を見るに、互いに相手を侵略者なり、秩序の破壊者なりと一途に疑いて、これを非難し、その侵略者、破壊者の中にも、互いに心を軟らかにして見直すならば、また仏(ほとけ)を発見し得るにもかかわらず、強いて目をふさいで来た感が強いのです。今日の国際関係を調整する道も、この互いに疑い合う心境から脱却する事が、まず第一の要件ではないでしょうか。私はかようの信念に基づいて、わが国民と共に、世界の平和と繁栄のために、できる限りの努力をして行きたいと考えます。私は、もちろんいかなる主義主張に対しても、もしそれが人類の幸福を増進するに役立つものである事が証明されるならば、これを忌み嫌う理由はないと信じます。だがそのある主義主張を実現する手段として、独裁専制政治を布き、一般国民の自由を窒息せしめるごとき事は、我々の耐えがたきところであります。いわんや他国から何らかの力をもって、さようの独裁専制政治を押し付けられる事になっては、あくまでこれに反抗しなければなりません。さようの危険のない限り、たとい共産主義を国是とする国であろうとも、私は共存共栄の道を歩んで行くべきだと思います。………第2次世界大戦後、列国の軍備が縮減しないのみか、軍備競争がかえって激化した感のある事は、迷惑至極であります。それは、いずれも自衛のためだと唱えられています。だが昔から、いかなる国でも、自ら侵略的軍備を保持していると声明した国はありません。すべての国が自分の国の軍備はただ自衛のためだと唱えて来ました。たぶん彼らはそう心から信じてもいたでありましょう。だが、自衛侵略とは、戦術的にも戦略的にも、はっきりした区別のできる事ではありません。かくて自衛軍備だけしか持っていないはずの国々の間に、第一次世界戦争第二次世界戦争も起こりました。もし同じようにして今後大きな戦争が起こるなら、原子力兵器の発達した世界において、それは人類の滅亡を意味するでありましょう。いな原子力兵器の実験だけでさえも人類の滅亡を招来する危険があります。人類を救わんとするならば、我々は軍備拡充競争を停止し、戦争を絶滅しなければなりません。わが国の国連代表が、近ごろ原子力兵器の実験に関して行った提案(※1)のごときも、いささかさようの趣旨に従ったものであります。………

※1 1956年1月原子力委員会発足。同年4月東海村に原子力研究所設置決定(57年8月点火)、などの事と考えられる。

 わが国は古く19世紀以来自由主義諸国と親好を保ち、これを外交の基調として、国際社会に処して来ました。不幸にしてその関係は第二次世界戦争中一時中絶しましたが、1945年以来再び回復し、爾来一層の親密を加えるに至りました。私は今日この親好関係を変更すべき理由を何ら発見いたしません。昨年(56年12月)ソ連との国交正常化が実現し、今後同国との国交も親善を深めるに至りましょう。深める事を望みます。だがその事は自由諸国との友情を冷やかにし、薄くしなければならない理由にはなりません。

 しかし、そうだからとて私は俗に向米一辺倒というがごとき、自主性なき態度をいかなる国に対しても取る事は絶対に致しません。米国は最近の世界においては自由諸国のリーダーたる位置にあります。また戦後わが国とは最も深い関係にある国です。従って私は米国とは特に緊密の上にも緊密な協調を保って行く覚悟です。だがそのためには、私は米国に向け率直にわが国の要求をぶっつけ、わが国の主張に耳をかしてもらわなければならないと信じます。その結果は、時々主張が一致せず、気まずい思いをお互いにしなければならない事も起こるかも知れません。だが、それは緊密を増進する手段としての一時の不一致である事を知ってもらわなければなりません。米国以外の自由諸国、ソ連その他の諸国についても同様の方針で臨みます。幸いにして諸君を通じて、私の意の存するところの諒解を、これら諸国に求めえられるなら感謝の極みです。」以上。

(2021年6月20日投稿)

                                

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松下幸之助(幸吉)氏のこと

2024-11-29 11:25:25 | 日本人

 松下幸之助は、大阪市東区久宝寺町4丁目の松屋町筋にあった自転車屋「五代商店」の小僧だった。和歌山県海草郡(現海南市)の出身で、家は土地では上位の地主であったが、1899(明治32)年に父親が米相場に失敗し跡形もなくなった。小学校を4年で退き、1904(明治37)年11月に大阪へ奉公に出された。八幡筋の火鉢屋に3カ月、そして「五代商店」へ。当時、自転車は輸入の米国製か、英国製ばかりで、1台100円から150円する高価なものであった。休みは正月、天長節、夏祭りだけ。月に20銭の小遣い食事は、朝は漬物、昼は野菜一菜、晩は漬物が決まりであった。

 1908、9年頃、新車の宣伝のため、発売元の間で自転車レースが大流行した。卸し専売に発展していた「五代商店」も参加したが、幸之助はその選手もした。毎朝4時半頃から、住吉のレース場で猛練習しては、各レースに出場した。「小さいのにえらいなあ」と人気を集めた。堺のレースではゴール寸前で転倒し左肩甲骨骨折で意識不明になるまで奮闘した。1910(明治43)年、5年7カ月の小僧生活に別れを告げ、「大阪電灯(関西電力の前身)」の内線工となった。

※松下幸之助のことば

「貧乏には慣れていたので、さほど辛いとは思わなんだが、難儀はずいぶんしたな。しかし、世間というものは、厳しくもあるし、また温かいものや。こないしたろ、と思うことが、なかなか思惑どおりにいかん。それでも辛抱して真剣に取り組んでいるうちに、周囲の情勢が変わったり、辛抱している姿に共鳴、援助があったりして、思いもしない道が必ず開けてくるもんです。逆境よし、順境またよし。その日その日と真剣に取り組むことが大事ですな。」

(2024年11月29日投稿)

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福沢諭吉はアジア諸国との共生を断ち列強の手下を選択(脱亜論全文から伺える価値観)

2024-10-05 23:09:58 | 日本人

 「脱亜論」は、1885年3月16日の『時事新報』に発表した社説である。神聖天皇主権大日本帝国政府は、日清戦争(1894年7月25日~95年4月17日)後にアジア諸国民を、日露戦争(1904年2月8日~05年9月5日)後には世界諸国民を差別蔑視するようになったと言われるが、日清戦争の10年前にはすでに、福沢諭吉自身がアジア諸国民に対し独善的な優越意識を増強させ、彼らを差別蔑視していた。以下に「脱亜論」の全文を紹介しよう。

「 世界の交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、至る所、草も木もこの風になびかざるは無し。けだし、西洋の人物、古今に大いに異なるに非ずといえども、その挙動の古に遅鈍にして今に活発なるは、唯交通の利器を利用して勢いに乗ずるが故のみ。故に、今東洋に国する者のために謀るに、この文明の東漸の勢いに抵抗してこれを防ぎおわり得るの覚悟あれば即ち可なりといえども、いやしくも世界中の現状を視察して事実上不可能ならんを知る者は、共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を掲げて共に文明の苦楽を分ち合うの外あるべからざるなり。文明は猶麻疹の流行の如し。目下東京の麻疹は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。この時に当たりこの流行病の害を防がんとするも、果たしてその手段あるべきや。我輩断じてその術なきを証す。有害一遍の流行病にても尚且つその勢いには抵抗すべからず。いわんや利害相伴って常に利益多き文明においておや。まさにこれを防がざるのみならず、務めてその蔓延を助け、国民をして早くその気風に浴せしむる知者の事なるべし。

 西洋近時の文明が我が日本に入りたるは嘉永の開国を発端として、国民漸くその採るべきを知り、漸次に活発の気風催したれども、進歩の道に横たわるに古風老大の政府なるものがありて、これを如何ともすべからず。政府を保存せんか、文明は決して入るべからず。如何となれば近時の文明は日本の旧体制と両立すべからずして、旧体制を脱すれば同時に政府も亦廃滅すべければなり。然らば即ち文明を防ぎてその侵入を止めんか、日本国は独立すべからず。如何ともなれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さざればなり。是に於いてか我が日本の士人は国を重しとし政府を軽しとする大義に基づき、また幸いに帝室の神聖尊厳に依頼して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一切万事西洋近時の文明を採り、独り日本の旧体制を脱したるのみならず、亜細亜全州の中に在りて新たに一機軸を出し、主義とするところは唯脱亜の二字にあるのみなり。

 わが日本の国土は亜細亜の東辺にありといえども、その国民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るにここに不幸なるは近隣に国あり、一を支那と言い、一を朝鮮と言う。この二国の人民も古来亜細亜流の政教風俗に養わるること、我日本に異ならずといえども、その人種の由来を異にするか、ただしは同様の政教風俗中に居ながらも教育の旨に同じからざるあるか、日支韓三国相対し、支と韓の相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、この二国の者共は一身に就き又一国に関して改進の道知らず。交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以って心を動かすに足らずして、その古風旧慣に恋々するの情は百千年の古に異ならず、この文明日に新たの活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と言い、学校の教旨仁義礼智と称し、一より十二至るまで外見の虚飾のみを事として、その実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払って残酷不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し。

 我輩を以ってこの二国を視れば今の文明東漸の風潮に際し、とても独立を維持するの道あるべからず。幸いにしてその国中に志士の出現して、先ず国事開進の手始めとして、大いにその政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先ず政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、もしも然らざるに於ては、今より数年を出でずして亡国となり、その国土は世界文明諸国の分割に帰すべきこと一点の疑いあることなし。如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭いながら、支韓両国はその伝統の天然に背き、無理にこれを避けんとして一室内に閉居し、空気の流通を絶って逼塞するものなればなり。

 輔車唇歯とは隣国相助くるの例えなれども、今の支那朝鮮は我日本のために髪の毛一本の援助とならざるのみならず、西洋文明人の目を以ってすれば、三国の地理相接するがために、時に或はこれを同一視し、支韓を評価するのと同じ水準で我日本に命ずるの意味なきにあらず。例えば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の頼るべきものあらざれば、西洋の人は日本もまた無法律の国かと疑い、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思い、支那人卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠もこれがために覆われ、朝鮮国に人を刑するの残酷なるあれば、日本人もまた共に無情なるかと推量せらるるが如き、これらの例を計れば、枚挙にいとまあらず。

 これを例えば近隣軒を並べたる一村一町内の者共が、愚かにして無法にして然も残忍無情なる時は、まれにその町村内の一家人が正当の人事に注意するも、他のに覆われて煙没するものに異ならず。その影響の事実に現れて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少なからず我日本国の一大不幸というべし。されば、今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待って共に亜細亜を興すの猶予あるべからず。むしろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従って処分すべきのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免るべからず。我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。」

(2024年10月4日投稿)

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福沢諭吉は独善的傲慢的排他的侵略主義者以外の何物でもない。お札から退場をさせよう。

2024-09-15 08:46:57 | 日本人

※以下は2018年1月15日に投稿したものに加筆修正したものです。

 お札にどのような人物(肖像)を載せているかで、少なくともその国の政府の考え方を知る事ができる。つまり、政府が高く評価している人物であると考えてよい。また、国民の間でその人物に対し違和感を感じる事なく、また否定的に受けとめられる事なく受け入れられているとすれば、それがその人物に対する国民の理解の大勢であると考えてよいだろう。日本政府は1984年から福沢諭吉を1万円札に載せている。2004年に政府は紙幣の人物を一斉に入れ替えたが、福沢諭吉だけは替えなかった。しかし、その時点で、メディアも国民も問題視しなかった。例外的に、朝日新聞の「声」欄にだけ「アジア軽侮の諭吉なぜ札に」という題で、アジアに対して強硬な国権論者であった福沢を起用する国際感覚の欠如は理解できない、との批判が載った程度の認識であった。それはつまり、政府は意図をもって(福沢がアジアを蔑視しアジア侵略の先頭に立っていた真実の姿を隠蔽し、民主主義の先駆者であるかのように歴史を修正歪曲し)お札に載せているのであるが、国民は福沢に対する知識不足や無知のためにその事に疑問を持たなかったという事なのである。そして現在においてもその状態が続いているという事を示しているという事なのである。

 福沢諭吉は『学問のすすめ』(1872~76)で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといえり」と述べているが、この「いえり」(伝聞態)とした事情について、彼自身の言葉ではない事を示すため、また、彼が人間平等論や天賦人権論に同意・同調していない事を示すために「伝聞態」にした事を表明していた。

 また「一身独立して一国独立する」という言葉は、「国のためには財を失うのみならず、一命をも投げうちて惜しむに足らない」とする、国家主義的な報国の大義の事であり、滅私奉公的な愛国心の事を意味しているのである。『文明論之概略』(1875)においても、「先ず事の初歩として自国の独立をはかり、一身独立のようなその他の課題はこれを第二歩にのこして、他日なす所あらん」と述べている。つまり、「天賦国権、国賦人権」という国権中心主義的な近代化路線を提示していたのである。

 また、自由民権運動期においては、『学問のすすめ』(1872~76)のような、一般大衆の啓発はもうやめたと表明していた。

 大日本帝国憲法と教育勅語を「完美なる憲法」と手放しで賛美し、「思想、良心、信教の自由」「学問の自由」に対する弾圧・蹂躙という事態に対しては完全沈黙を通す事により、政府の弾圧に加担している。

 また、「強兵富国」の対外強硬路線の主張と、「内国の不和を医するの方便としてことさらに外戦を企てて、もって一時の人心を瞞着(欺く)するの奇計をめぐらす」という「権謀術数」的発言をしていた。このような福沢に対して、同時代の元外務省勤務の吉岡弘毅は「我が日本帝国をして強盗国に変ぜしめんと謀る」ものであり、日本がもしその道を進むのなら、「不可救の災禍を将来に遺さん事必せり」と厳しく批判している。

 日清戦争については、『ベルツの日記』によると、「時事新報を先頭に全新聞紙は、敵を完全に粉砕するまではいかなる条件のもとでも講和しない事を要求している」「台湾、満州と他になお清国の一州を併合せねばならぬと主張している」と記録されている。

 また、1897年、神聖天皇主権大日本帝国政府が工場法の制定を立案した際、工場では多数の学齢児童の存在が、低賃金・長時間労働の日本の資本主義を支えていた事から福沢は大反対した。

 また宗教について、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせならん」と経世の道具として利用する事を主張していた。そして、神聖天皇制の本質が「愚民を籠絡する詐術」「国民をたぶらかすための騙し」の政治装置であると見抜いた上で、明治日本にはそれが必要だとの判断をしていた。時事新報論説「戦死者の大祭典を挙行すべし」(1895)には、戦争に備えて死を恐れずに戦う兵士の精神を養うために、可能な限りの栄光を戦死者とその遺族に与えて「戦場に斃るるの幸福なるを感ぜしめざるべからず」、つまり戦死する事が幸福であると感じさせるようにしなければならない。そのために帝国の首都東京に全国戦死者の遺族を招待して、明治天皇自らが祭主となって死者の功績を褒め讃え、その魂を顕彰する勅語を下す事こそが戦死者とその遺族に最大の栄誉を与え、戦死する事を幸福と感じさせる事になると主張していた。これは靖国神社の軍国主義的政治利用の奨励である。

 また、福沢は家父長的な差別的女性論を体系化した人物であり、娼婦の海外出稼ぎ(からゆきさん)を含め、公娼制度の積極的な賛成論者であった。

 また、福沢は1901年2月に死去したが、『自叙伝』には「実に今度の戦(日清戦争)は空前の一大快事、……今や隣国の支那朝鮮も我が文明の中に包羅せんとす。畢生の愉快、実もって望外の幸せに存じ候」「大戦争に国光を世界に輝かして大日本帝国の重きを成したるがごときは、……思えば洸として夢のごとく、感極まりて独り自ら泣くの外なし。長生はすべきものなり」「この日本国を兵力の強い商売の繁盛する大国にして見たい……それが大本願で……勝利、愉快とも有難いとも言いようがない。命あればこそこんな事を見聞するのだ。……私は自身の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快な事ばかり」と述べている。

 以上は、福沢諭吉についての一部であるが、これだけ見ても彼は、人権尊重の民主主義者とは正反対の、独善的傲慢的排他的侵略主義者以外の何物でもないとしか評価できないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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