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天皇の宮中祭祀(皇室神道)が三権の長(為政者)など公務員による憲法の「政教分離原則」違反行為を生んでいる。

2022-12-27 11:47:20 | 皇室

※下記は2018年1月18日の投稿したものであるが再投稿します。

 国家神道の中核となっていた「皇室神道」は、GHQが日本政治に政教分離を確立させるために発令した1945年12月15日の「神道指令」(「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督ならびに弘布の廃止に関する件」)に基づいて、当時の宮内省は、国家神道の中核となっていた皇室神道の祭祀(宮中祭祀=天皇の祭祀)を規定した「皇室祭祀令」の廃止をしなければならなくなった。

 皇室祭祀令は1908年9月の「皇室令」第1号で制定されたもので、1927年に部分的に改正され、宮中祭祀の主な内容と形式を定めたものであった。それを敗戦後のGHQ の指導により廃止をしなければならなくなったという事である。

 廃止の中身は、特に8条と20条を見ると、「皇室祭祀令」の大祭、小祭にある「天皇、皇族及び官僚を率いて」(8条、20条)の文言を削除した。また、19条1項「皇室又は国家の大事を神宮、宮中三殿、神武天皇山陵、先帝山陵に親告する」儀式を中止し、例祭の時に天皇の勅使が奉幣する「勅使社」の扱いを取りやめた

 しかし、1947年5月2日、日本国憲法施行の前日に、宮内府長官官房文書課長名で「依命通牒」が出された事によって、宮中祭祀は、基本的に1908年9月の「皇室令」第1号で制定された「皇室祭祀令」に基づいて、敗戦後も引き続き行われ伝承継承され、現在も行われているのである。その「通牒」の内容は、

 「皇室令及び付属法令は、5月2日限り廃止せられる事になったについては、事務は概ね左記により取り扱う事になったから、命によって通牒する」、そして第3項で「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理する事」というものであり、『宮内庁法規集』に収録されていたが、その後(1950年9月)この「通牒」は削除してしまっているのである。

 このような宮内庁の国民に対する欺瞞的な対応によって、現在まで、上記のいずれもが、廃止されたかつての「皇室祭祀令」に基づいて「内廷の事」(私事)として行われてきたのである。しかし、この行為は、憲法の「象徴天皇制」「政教分離原則」「三権分立」「国民主権」など、「日本国憲法」の原則をまったく無視し空洞化させた犯罪行為という以外の何物でもなく、天皇を含む時の為政者による政治権力の濫用によって主権者である国民を欺いて続けられてきたのである。

 例えば、「宮中祭祀」の「大祭」の中の「春秋の皇霊祭」「神殿祭」「新嘗祭」は先の「皇室祭祀令」によれば、天皇自らが「皇族及び官僚を率いて親から祭典を行う」となっているのであるが、そのために祭祀令中の「官僚」(国家公務員など)に当たるものに賞典長(天皇家の私的使用人)名で「案内状」が出されているのである。

 その「官僚」とは、

内閣総理大臣、国務大臣国会議員、衆参両院議長、同副議長、同両院事務総長、最高裁長官、同判事、同事務総長、認証官、国会図書館長、内閣法制局長官宮内庁職員、皇宮警察本部職員」であり、

その案内状は、

「来る23日に新嘗祭神嘉殿の儀を行われますからご参列の向きは、午後○時○分までに賢所参集所に参集されますようご案内申し上げます。なお、モーニングコートを御着用」というものである。

 そして、「皇族及び官僚」は「天照大神」(伊勢神宮の祭神、天皇は祖先神としている)に拝礼しているのである。日本の自民党系政権は天皇家というオカルト集団を核として成立するオカルト政権という事なのである。天皇家というオカルト集団による宮中祭祀(皇室神道)廃絶しないかぎり、これによって生じる様々な弊害(科学的思考が困難)は継続し、主権者国民は非建設的なその矛盾に苦悩し続け発展できないであろう。しかし、為政者はそれが狙いなのである。

 安倍政権は「憲法違反」を重ねている。また、メディアはその情報を意図的に隠し、安倍政権の側に立ち、安倍政権にとって不利にならないように、国民に伝えず国民の判断を誤らせているのである。つまり、情報操作であり、世論操作をしているのである

 宮中祭祀の大半は、国家神道体制を樹立するために、明治維新後に新しく創作されたものであり、何百年もの歴史を持つものではないという事も知っておかねばならない。為政者は政権を維持するために主権者国民に隠し欺いている事が多い。国民は主権者であろうとするならば、隠されている事を知る事に努力し、知り得た事を多くの国民に広め正しい判断の糧としてもらわなければならない。

 主権者国民は、安倍政権の「式典準備委員会」が、現行天皇の退位や新天皇の即位に関する儀式のあり様を検討している今こそ、憲法の「政教分離の原則」の重要性に目覚め、現行天皇の即位儀式の誤り(政教分離原則に違反していたが強行した)を繰り返してはならない。そして、天皇家や安倍政権に対して、第99条「憲法尊重擁護の義務」を遵守するよう要求すべきである。

 安倍政権は、主権者国民の考え(皇室神道色の排除)が反映される方法で、退位・即位の儀式のあり方を決定すべきである。

 

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ペンス米副大統領の発言が示す、安倍政権以降がめざしている新しい日本国の形(国体)

2022-12-18 23:03:47 | 米国の世界戦略

 2018年2月7日、ペンス米副大統領は安倍首相と首相官邸で会談した。そこでは、首相が「関係国に北朝鮮のほほえみ外交に目を奪われてはならない事を訴えていく事で一致した」とし、「日米韓の強固な協力関係」の重要性を強調したという。それに対し、トランプ政権ペンス副大統領は「すべての選択肢をテーブルの上に置く」として、軍事攻撃も排除しない方針を改めて示したが、日本国民にとってそれより重要と考えるべき発言をしている。それは、「日米軍事同盟について日本の役割を拡大しようとしている安倍首相の努力に感謝する」と述べた事である。

 また、翌日の2月8日、米軍横田基地での在日米軍兵士たちに対する演説の中では、上記と同様に日本国民に関係する重要な発言として、「全ての選択肢はテーブルの上にある。米軍と自衛隊は(日本)国民とその生活を守るための準備を整えるだろう」と発言している事である。

 つまり、トランプ政権ペンス副大統領と安倍政権は、北朝鮮に対して、軍事攻撃も辞さない事、その際に日米軍事同盟(日米安保条約)における日本(自衛隊)の役割を拡大する事の確認をしているという事なのである。

 そして、その戦略の内容こそが、トランプ政権が2月2日に発表した「核戦略の見直し」(NPR)なのである。それは、世界122カ国の賛成で採択された核兵器禁止条約に対して「国際的な安全保障環境の変化という前提を無視した、まったく非現実的な核兵器廃絶の期待に駆られている」という批判や、あらゆる核実験を禁じる包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准も目指さないとしたり、「米国は深刻な技術的、地政学的な問題が起きた場合、速やかに核実験を再開できるようにする」とか、「通常兵器やサイバー攻撃などを受けた場合にも核兵器で報復する可能性がある」とも主張し、核兵器の役割を拡大増強させている。

 つまり、トランプ米政権を批判したり、反発反抗し従属しない存在に対して、彼は「抑止力」という言葉で世界の眼を欺き核兵器という「軍事力」によって圧倒・威圧・威嚇し、恐怖を抱かせ沈黙させ己の意思に従わせようという目論見なのである。「力こそ正義」という時代錯誤の価値観でこれからの世界を牛耳ろうとしているのである。

 そして、このトランプ政権に対する安倍政権の姿勢は、たとえば2月3日には河野太郎外相が「NPRは米国による抑止力の実効性の確保と日本を含む同盟国に対する拡大抑止への関与を明確にした」として「高く評価する」と発表した。また、「政府には国民の平和と安全を現実的に守らなければいけないという責務がある」(これは国民を欺くための口実である)とし、「核抑止と核軍縮は相反するものではない」と、核兵器禁止条約に参加しない態度を示した時点から、誰もがもうすでに信じていない矛盾した理屈を今なお白々しく述べているのである。また、安倍首相はすでに1月30日の衆院予算委員会において、「核兵器による米国の抑止力を維持していく事が必要不可欠だ。核兵器禁止条約は核抑止そのものを否定しており、政府としては条約に参加する事はできないと言わざるを得ない」との答弁で明確に表明している。安倍自公政権のめざす新しい日本国の形(国体)がここに示されているのである。

 そして、その仕上げが、「憲法改正」なのである。2月6日の衆院予算委員会での首相の発言「憲法は国の形、理想を語るものである」はそのような意味を表しているのである。

(2018年2月11日投稿) 

 

 

 

 

 

 

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盧溝橋事件を利用し華北占領を図った神聖天皇主権大日本帝国近衛文麿政府

2022-12-10 21:55:43 | アジア・太平洋戦争

 盧溝橋事件が起きたのは、1937年7月7日である。この日、支那駐屯日本軍・第八中隊には損害は何もなかったのであるが、それを承知で、翌8日早朝、支那駐屯軍歩兵第一連隊(北平)長・牟田口廉也大佐と同第三大隊(豊台)長・一木清直少佐は独断で、「銃撃や銃声」が、中国軍の不法行為であると決めつけ、日本軍に対する「侮辱」「冒瀆」とみなし、日本軍の「面目」「威武」「威信」を保つために、意図的に中国側の対応などは無視し、攻撃命令を下し部隊を出動させ、一方的に戦闘を引き起こした。

 参謀本部は9日夜、事件解決のため中国側へ一方的に譲歩を強い折衝方針を支那駐屯軍に指示し、7月11日、松井特務機関長と張自忠天津市長(第38師長)との間で解決条件をまとめ調印した。これにより現地では停戦が実現した。

 ところが陸軍中央は7月10日、関東軍から二個旅団、朝鮮軍から一個師団、日本国内から三個師団を華北へ派兵する事を決定した。神政天皇主権大日本帝国近衛文麿政府は、7月11日、五相会議を開き、陸軍提案を承認した。続いて閣議を開き、同じ決定を行い、事態を「北支事変」と命名した。近衛首相は、天皇の下へ行き、派兵について天皇の許可を受け、政府声明「政府は本日の閣議において重大決意をなし、北支派兵に関し政府としてとるべき所要の措置をなす事に決せり」を発表した。

 政府はさらに、新聞・通信社、政界、財界の代表者を順番に首相官邸に招き、政府への協力を要請するという前例のない措置をとり、挙国一致体制をつくりあげた。

 このような姿勢をとったのは、政府がこれまで防共資源・市場確保のため、華北の分離と支配という侵略政策を推し進めてきたのをさらに強行するためであった。

 このため、7月11日に成立した停戦協定の実施条項として意図的に、中国側第29軍(北平)司令の陳謝と第37師(西苑)長の罷免など、中国側が受け入れがたい強行要求を出した。第29軍は近衛政府に妥協し、19日にこれを受け入れたが、中国政府日中双方の軍隊の同時撤退外交交渉による解決現地協定は中央政府の承認を要すると近衛政府に申し入れた。

 これに対し20日、日本陸軍中央は「外交的折衝をもってしては到底事件の解決に至らざるものと判断」し、「武力行使を決意するを要す」という決定を下した。

 25日には日中両軍が衝突した。石原莞爾少将・参謀本部第一部長(作戦)は、支那駐屯軍司令官・香月清司中将に対し、「徹底的に膺懲せらるべし。上奏等一切の責任は参謀本部にて負う」と通報した。支那駐屯軍は、中国軍に撤退要求の最後通告行った。

 26日、北平の広安門で日中両軍が衝突すると、27日には、近衛政府は日本国内三個師団の動員を承認し、参謀本部は支那駐屯軍に対し、「平津(北京天津)地方の支那軍を膺懲せよ」と命じた。7月28日午前8時、日本軍は総攻撃を開始し、日中戦争は全面戦争へと突入した。

 1937年8月15日、近衛政府は、「支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促すため、今や断固たる措置をとる」と声明を発表した。9月2日、「北支事変」を「支那事変」と改称した。宣戦布告をせず、「事変」としたのは、宣戦布告により米国中立法(交戦国への武器・戦略物資の輸出を禁止した法律)を日中戦争に適用し、米国から軍需物資の供給を受けられなくなることをおそれた姑息な手法であった。

 8月14日、中国国民党政府は抗日自衛を宣言し、15日には全国総動員令を発し蒋介石が総司令官となった。22日には華北の紅軍は国民革命軍第八路軍に改編され、9月23日には第二次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線を結成した。

 この頃、参謀本部内では戦争不拡大派と駐華ドイツ大使トラウトマンとの間で停戦交渉(和平工作)を開始したが、12月13日、日本軍が首都南京を攻略(南京大虐殺)すると、1938年1月15日の大本営連絡会議では交渉打ち切りを決定した。翌16日、近衛政府は、ドイツを仲介としたトラウトマン和平工作をけり、以下のような第1次近衛声明を発表し和平解決の道を閉ざした。

「帝国政府は南京攻略後なお支那国民政府の反省に最後の機会を与えるため今日におよべり、しかるに国民政府は帝国の真意を解せず漫りに抗戦を策し、内民心塗炭の苦しみを察せず、外東亜全局の和平を顧みるところなし、依って帝国政府は爾後国民政府を相手とせず帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整し更生新支那の建設に協力せんとす、固より帝国が領土及び主権並びに在支列国の権益を尊重するの方針には毫も渝る(かわる)ところなし。今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し、政府は国民がこの重大なる任務遂行のため一層の発奮を希望してやまず」

 1938年11月3日には以下のような第2次近衛声明を発表し、東亜新秩序建設肇国の精神に淵源するとした。

「今や陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東武漢三鎮を攻略して、支那の要域を戡定(かんじょう)したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまで帝国は断じて矛を収ることなし。帝国の希求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり。今次政戦究極の目的亦此に存す。この新秩序の建設は日満支三国相携え、政治、経済、文化等各般に亙り、互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界進運に寄与する所以なり。帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。帝国は支那国民が能く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応えんことを期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢えて拒否するものにあらず。帝国は列国も亦真意を正確に認識し、東亜の新情勢に適応すべきを信じて疑わず。就中盟邦諸国従来の厚誼に対しては深くこれを多とするものなり。惟うに東亜に於ける新秩序の建設は、我肇国の精神に淵源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。帝国は必要なる国内諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り、万難を排して斯業の達成に邁進せざるべからず。茲に政府は帝国不動の方針と決意とを声明す。」

 さらに近衛政府は1938年12月22日にも第3次近衛声明を発表し、日満支三国による政治的・経済的提携と防共体制の3項目を呼びかけた。

 盧溝橋事件を契機に日中両国を全面戦争へと拡大させた、神聖天皇を頂点とした日本側の軍隊指揮官政府閣僚為政者の思考様式には、自国のみを正当・無謬とし絶対化する思い上がりと浅薄さと自己中心主義が等しく巣くっていた。彼らは、中国人や中国軍は日本人や日本軍の前にひれ伏すべき存在であり、手向かってくる事などはもってのほかと思い込んでいた。

(2022年12月10日投稿)

 

 

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障害者の65歳問題:介護保険申請か障害福祉サービス継続か熟慮を

2022-12-03 19:14:12 | 障害者問題

 2012年に制定された障害者総合支援法の第7条には「障害福祉から介護保険に移行する時には、国や自治体が障害福祉制度自立支援給付に『該当する』と定めている介護保険給付を優先する」と定めている。これにより介護保険制度に同様のサービスがある場合には、介護保険を原則優先する事になっている。しかしそのため、それまでと同様のサービスが受けられないとか自己負担が増えるなど障害者の命と尊厳、社会保障が脅かされ問題化している。

 例えば、65歳で介護保険になった場合、①障害福祉サービスの生活介護の通所施設・作業所(就労継続支援A型・B型は対象外)や訪問(居宅・短期入所・共同生活介護=グループホーム)、身体介護(食事・排泄・入浴介護等)、重度訪問介護、短期入所、グループホームなどが介護保険に優先され、従来と同水準のサービスが保障されない場合がある。②利用時間も介護保険は介護度で定められ、同じ時間が保障されない。どんなに重度であっても介護保険の認定等級による固定された費用になる(上乗せ給付もあるが、要件を設定する自治体もある)。③障害福祉サービスは非課税所得の場合、利用負担はないが、介護保険の給付は所得がなくても利用料は1割必要である。④事業所が障害者対応でない場合、事業所を変えなければならない。など生活を維持できなくなり、経済的負担も増す

 65歳で介護保険を申請しない事により、それまで受けていた障害福祉サービスを打ち切る事は違法である。2018年12月13日に広島高裁岡山支部(浅田裁判)は、介護保険優先原則を理由とした障害福祉サービスの打ち切り問題での訴訟判決で「障害者総合支援法第7条は、障害福祉サービスを利用していた障害者が介護保険サービス利用を申請した場合に生じる二重給付を避けるための調整規定であり、介護保険制度に申請していない場合この調整規定は採用されない」と断じた。

 介護保険を申請しない場合は、はっきりその意志を伝える事が必要である。一度介護保険を申請すると、サービス提供の要件を満たす限り将来にわたって介護保険からサービスが提供される。それを断り、障害福祉サービスを受ける事はできない。

(2019年12月10日投稿)

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「天声人語」電気代など光熱費値上げ・豆炭あんか・政府の節電要請に戦時下のフラッシュバック

2022-12-02 13:25:08 | メディア

 2022年11月30日の朝日新聞「天声人語」を読んで、戦争中の朝日新聞記事の国民への「書きぶり」とよく似ているのをふと思い出した。

 天声人語には、「余計な明かりを消す。重ね着をする。すぐできる事はいくつもある」とあるが。さて、戦争中の朝日新聞の記事をいくつか紹介しよう。

➀昭和17(1942)年10月11日「食物総力戦、イナゴの食べ方」

「秋のハイキングにはイナゴを捕って大いに食べよう。蝗は虫偏に皇と字があてられて虫の中での王とされているのも、つまりは蝗が食べられるからである。エビに似た味でビタミンA、Dを多量に含んでいる。捕えた蝗はザルに入れ布をかぶせ熱湯をかけ、水洗いし、天陽で乾す。油で煎りつけて食べてもよければ、醤油で煮つけて食べるもよい。あるいは陽に乾してすり潰して粉にして御飯にふりかけたり、味噌汁の中へ入れて食べる。そのまま澄まし汁の中に入れたものは蝗の姿が見えて食べにくいが、粉にして味噌汁に入れれば十分食べられるうえ、蝗の全身を乾かして粉にしたものはカルシウムに富む。」〈陸軍航空技術研究所川島四郎大佐談〉

➁昭和17年10月25日「食物総力戦、砂糖代用に柿の皮」

「例年ほどではないが、今年も柿がいくらか出回りはじめている。柿の皮は多く捨てられて顧みられないが、柿の皮を砂糖代用として用いる事は古くから行われている事で、大変甘く糖分が約50%あるから砂糖の甘さが得られる。その最も簡単な方法は、むいた柿の皮から、そのまま甘味をとる事で、ニンジン、ごぼう、里芋などの野菜類と一緒に鍋の水の中へ柿の皮を入れ、出汁のようにして5分か10分煮出す。すると柿の皮の糖分がみんな湯に溶けてしまうから、大体溶けたところで柿の皮だけ出して、これに醤油などの調味料を加えて煮つければよい。柿の皮を出した後で調味料を加えないと柿の皮に味がついて、それだけ調味料が不経済になる。しかし、柿の皮は生の時よりも乾かした方が水分が少なくて甘味を感じるから、陽に乾してすり鉢ですって粉にして用いると保存もできて便利である。」〈日本女子大食物室〉

③昭和19(1944)年4月30日「〝藁うどん〟の腹でさあ出炭、鶴嘴戦士に贈る変わった決戦食」

「藁うどん、藁のパンといっても牛や馬の餌に用いる生の藁ではない。稲藁を粉末にして適当な科学的処理を加え、あらめ(こんぶ科の海藻)やかじきなどヨード分の濃厚な海藻や小麦粉を混ぜて作った新決戦食糧、名づけて「瑞穂麺」、「瑞穂パン」が炭鉱の北九州を舞台に代用食時代の脚光を浴びて登場した。原料藁の入手もこのほど試食をした内田信也農商相も「せめて九州の鶴嘴戦士だけでもうんと食べて貰いたい」と考慮を約したとあるから、栄養価値はともかく、文字通り米の成る木の牛飲馬食(多量に食べる意)で満腹感を味わえる日も近いものとみられる。」

という具合であるが、戦争末期には、「蝸牛(カタツムリ)や井守(イモリ)も結構戴けます」との見出しも登場した。

(2022年12月2日投稿)

 

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