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神聖天皇主権大日本帝国政府時代の移民は、なぜ「広島県」出身が多かったのか?

2022-05-27 22:09:59 | 移民

 神聖天皇主権大日本帝国政府外務省の「移民出身府県」記録(1899~1937年までの累計)によると、1位 広島県、2位 沖縄県、3位 熊本県、それに続いて和歌山県、山口県、福岡県となっており、西日本が多い。「故郷への送金額」記録では、1位 広島県、2位 和歌山県、3位 沖縄県となっている。

 広島県は大日本帝国一の移民県であり、原爆投下当時には、数千人の「米国生まれ」の日本人が広島県にいたといわれている。広島県はなぜ大日本帝国一の移民県になったのか?

 袖井林次郎著『私たちは敵だったのか』によると、明治時代初期に広島県令・千田貞暁による宇品港(現広島港)の築港が原因で、漁民たちが生活基盤を失った、という背景が存在したという。旧広島藩藩士の生活救済策(士族授産)として宇品港工事を行ったのであるが、漁民たちはこのため、牡蠣や海苔養殖漁場を奪われたのである。そこで漁民たちは、大日本帝国政府がハワイ王国と結んだ「官約移民」(1885~1894年)の取り決めを頼りにハワイ王国へ渡ったのがきっかけとなったのであった。その後、広島県では「兵隊に行かねば米国へ行け」という言葉さえ広まったという。そして、広島県はその後全国一の移民送出地となった。中でも安芸郡仁保村は有数の移民送出地となった。米国への移民は、1924年の「排日移民法」で激減し、移住先はブラジルへと比重を移した。

 ところで、広島市は1894(明治27)年、朝鮮国で甲午農民戦争が起こった際、広島に置かれた第5師団に最初の動員命令が下された事で「軍都」の様相を帯び始め、日清戦争の派兵基地の役割を担い、兵士と兵器、食料など宇品港(現広島港)から朝鮮国に向けて送った。同年9月15日には明治天皇も広島へ来て、広島は臨時首都となり、10月15日には第7回臨時帝国議会も開催した。当時は、第2次伊藤博文内閣(元勲内閣)時代で、帝国議会は紛糾を続けてきていたが、戦争関係の予算や法律案を全会一致で可決した。日清戦争は1895年4月17日に講和条約が下関で締結されたが、以後、1900(明治33)年の北清事変時でも、1904~5(明治38)年の日露戦争時でも広島は同じ役割を担い、「軍都」としての様相を深めていった。

(2022年5月27日投稿)

 

 

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