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感染症(伝染病)に対する神聖天皇主権大日本帝国政府の対応:強兵富国政策を偏重し、臣民(国民)の健康と生命を軽視

2023-01-20 16:23:59 | 新型コロナ感染症

※2023年1月20日の「天声人語」に、先週から始まった国立公文書館の企画展「衛生のはじまり、明治政府とコレラのたたかい」について、「目を引いたのは死者10万人に上った明治の流行を記録した政府文書。タコと青菜を食べ感染した。川の水を飲み発症した。細かい感染例に当時の人々の苦境がしのばれる」とあった。

※以下は表題について、2020年3月7日投稿の内容に加筆修正し再投稿したものです。

 新型コロナ感染症で、安倍自公政権の対応への主権者国民の不信不満が噴き出しているが、この安倍自公政権の対応は、実は彼がテキストとしている神聖天皇主権大日本帝国政府の対応に淵源がある

 明治時代における感染症伝染病)に対して、神聖天皇主権大日本帝国政府はどのように対応したのかを紹介しよう。

 明治時代の国民(臣民)を苦しめ不幸に陥れた感染症伝染病)は、4種あり、天然痘、コレラ、赤痢、腸チフスであった。明治10年代と20年代のわずか20年間に80万人を超える死者を出すに至った(その内、1879(明治12)年(10万5千人)、1886(同19)年(14万6千人)、1893(同26)年(6万人)の3年間だけで、4種の感染症(伝染病)による死者は30万8千8百人を数える)。この数字は明治時代44年間に行われた5回の対外出兵(侵略)と2度の大戦争の死者総数よりもはるかに大きい

 その実態は、天然痘と赤痢で6万人を超える死者を出していた1893(明治26)年の頃に神聖天皇主権大日本帝国政府のお雇い外国人として東大医学部教授をしていたドイツ人ベルツ日記にうかがえる。それは、

「3月10日、学生たちと駒込の天然痘病院を訪れた。醜態だ。4百名の患者に、時としては日に50名の新患がある有様なのに、これに対して、一部は無経験の者を含めて8名の医師と20名の看護婦である。冬だというのに、破れ障子のバラック、ひどい!いったい東京市は、病気の市民のために、何をしているというのだコレラ、チフス、天然痘の感染症(伝染病)!それでいて、貧しい人たちを、せめて大切に飼われている馬ぐらいの程度にでも、収容しておける病院すらない」というものである。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、臣民(国民)の言論・集会・結社などの取締りや弾圧には最優秀のプロシア法(警察)を取り入れ、世界無比の能力を発揮したが、臣民(国民)の保健・衛生・福祉・厚生・人権擁護などの面では文明諸国のうちでは最劣等の、とても文明国の仲間入りはできないような対応しか行わなかったようだ。

 コレラは1858(安政5)年アメリカの軍艦ミシシッピー号からであり、長崎から全国に拡大し、3年にわたり猛威を振るい、「コロリ病」と言われた。1879(明治12)年6月にも再流行した。この時、コレラに対する対応は少しも進んでいなかった。帝国政府は、「コレラ病予防仮規則」を発し、「避病院」を作り、患者の強制隔離・検疫・消毒・死体処理の方法を決めたが、罹病者16万人、死者10万5700余人を出した。東京市では避病院を作り患者を隔離したが、病院とは名ばかりのバラックの板囲い、医師も看護婦も不足し、患者はここに入れられるとろくな看護も受けられず、ほとんどが死亡した。内務省はこの時初めて、外国人医師や日本人医師を招いて「中央衛生会」をつくり、「地方衛生会」と連絡を取り衛生行政に一貫性を持たせた。さらに、全国の臣民(国民)の力を借りる事を考え、「戸長」を助けて町や村の衛生問題を扱う「町村衛生委員(住民の公選)」制度を作った。1880(明治13)年には中央衛生会が「伝染病予防規則」を制定した。

 1882(明治15)年、再びコレラが蔓延した。東京市内で患者は6528人となり、5071人が死んだ。警視庁は市当局とともに患者の命を救う事よりも「隔離第一主義」をとり、本所・大久保・芝など5カ所に避病院をつくり、強制隔離をした。収容しきれなくなると、ゴザやムシロの上に転がしておいた。

 この年、警視庁や吏員に対する臣民(国民)の反感を示す歌「チョイトチョイト節」が流行った。

「いやだいやだよ じゅんさはいやだ 

   じゅんさコレラの先き走り チョイトチョイト

 つとめすりゃこそ おかいこぐるみ

   親はコモまいて 門に立つ チョイトチョイト」

 1883(明治16)年と1885年には赤痢が流行し、死者は1万人を超えた。そして、1886(明治19)年は最悪の年となった。東京市では5カ所ほどの避病院で収容しきれず、重患は死ぬのを待って、そのまま火葬場へ直送された。1886年の1年間に、上記4種の感染症(伝染病)だけで、14万6千人超の死者が出た。コレラ10万8千4百人超、天然痘1万8千人超、腸チフスと赤痢併せて約2万人であった。

 しかし、この間の神聖天皇主権大日本帝国政府の感染症(伝染病)に対する対応は後退した。1884(明治17)年、皇室費や軍備拡張費の増額で財源不足を理由に、感染症(伝染病)の際の貧民救済補助費を廃止。1885(明治18)年、地方衛生会町村衛生委員制度を廃止。1886(明治19)年、新官制を制定し、地方衛生行政の実務を警察官僚に移した。警察の上からの強権による手法の方が効果を上げられると考えたのである。

 感染症(伝染病)はその後も、1890(明治23)年、1893(明治26)年、1895(明治28)年とコレラ・天然痘などが猛威を振るったのである。

天然痘については、1874・75年に大流行、1886・87年、1892・93年に流行した。

ペストは1899(明治32、33)年に大阪を襲っており、府下で罹病者161人、市内では153人の罹病者うち138人が死亡した。

(2020年3月7日投稿)

 

 

 

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林芳正外相は自公政権の「人の支配に近い法治主義」を「法の支配」と欺いている

2023-01-12 22:39:52 | 防衛

 林芳正外相は、2023年1月9日午後(日本時間10日未明)、ブラジルの首都ブラジリアで、同国の外交官らに向けて講演した。

 「我々は今、歴史の岐路に立っている。自由、民主主義、人権といった基本的価値を守るため、『法の支配でつながる連帯の輪』を広げていく事は、未来世代に向けた我々の責務だ」と訴えたという。

 現在の日本国は、安倍晋三首相以来の自公政権が、その独裁的政治姿勢政治政策をもって、憲法に定められた基本的人権の尊重、国民主権、平和主義などの原則を蹂躙し、民主的な憲法形骸化してしまった状態にある。

 林氏は、日本国をそのような状態に破壊し変質させてしまった加害者の一員でありながら、まったくそれとは正反対のさも憲法尊重擁護者であるかのような発言をしている偽善者である。

 つまり、「法の支配」とは、「人権を保障する法」に統治者も拘束され、法の目的と限界の下で「権力は行使」されるという原則である。しかし、岸田自公政権も安倍氏と同様であるが、「法治主義」という政治姿勢であり、「法に基づく支配統治」「(成立の経緯内容に憲法上問題があろうと)法を根拠に(政権の都合により恣意的に解釈変更をしたり、拡大解釈をしたりして国民を)支配統治する」というもので、「法の内容」よりも、支配統治の形式を重視するものであると言ってよい。つまり、「人の支配」と言ってもよいレベルの、恣意的な「法治主義」である。

(2023年1月12日投稿)

 

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伊勢神宮の御師は元祖旅行業者、大日本帝国政府により廃止消滅

2023-01-05 17:55:36 | 宗教

 2021年5月15日の朝日新聞beの「はじまりを歩く」が、「お伊勢参り」を取り上げ、「御師」についても触れていた。 

 御師とは、日本中世においては神職(権禰宜層)であり、信仰の布教者であった。しかし、近世では、民衆の寺社参りが盛んとなるにつれ、「神人」の性格を失い「商人」化する。伊勢では、神宮との組織的関係を断ち、独立した「口入れ神主」と化した。御師の数は江戸中期頃には600家以上あったようだ。また、それぞれの御師は縄張り「カスミ」を定めていた。

 御師の主な商業活動は、毎年一度、縄張り内の「檀家」に「大神宮」と書かれた「神札」(神宮大麻)を配布する事で、大麻は檀家が神宮に参って、祈願すべきところを、御師が代行して祈願したものとする、証印であった。

 神宮大麻に次ぐ「商品」は「音物」といわれた伊勢みやげの類であった。また、御師の大きな収入源は、伊勢神宮に参る檀家宿を提供する事であった。御師の家に宿する檀家は、神饌料(御供料)・神楽料・神馬料を奉納という名目で支払う慣習であったが、いずれも御師の収入(諸々の祈祷はすべて御師の家で行われた)となった。ちなみに御師の商業活動を今日の旅行業務に照らしてあげると、

縄張り「カスミ」の管理(顧客管理)、伊勢講の組織化(ツアーの企画)、「講」金の管理(旅行積立金の運用)、道中手代の派遣(ツアーコンダクターの添乗)、出迎え(送迎)、祈祷、参宮の案内(ガイドの手配)、宴会のもてなし(宴会のセッティング)、宿泊の世話(宿泊の手配)、みやげの手配(土産の斡旋、記念品の贈呈)、古市への案内(歓楽街へのガイド)などである。

以上の事から、御師とは現在のように分業化する前の総合的な旅行業者、元祖旅行業者といってよい存在だったのである。

(2021年5月16日投稿)

追記:神聖天皇主権大日本帝国政府神道国教化のため、1871年、寺社領の上知令、神社の社格制定、氏子調べ制度の新設など、重要措置を相次いで実施した。5月14日には神社はすべて国家の祭祀であるとの太政官達を出し、全神社の公的性格を確定した。全神社の本宗と定めた伊勢神宮に対しては、7月、近衛忠房を神宮祭主とし、神祇官の直接の指揮下で、改正を行った。内外宮の別を明確にし、内宮を上位に置き、祠官の職掌を改め、伝統的に「御師」が持っていた「大麻」(神札)や「神宮歴」の製作配布権取り上げ、本宗にふさわしく作り変えられたのである。

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記紀の神代史は天皇支配正当化のための政治的創話とした津田左右吉の口封じをした神聖天皇主権大日本帝国政府

2023-01-05 06:20:25 | 皇室

 今日の学校における歴史教育において、敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国政府が自由主義的な学問研究に対して行った弾圧の教材例として、それも天皇(皇室)に関係した研究内容に対して行った弾圧例として取り上げられている人物に、津田左右吉がいる。

 阿部信行内閣時の1939年10月、極右思想の蓑田胸喜一派が、東大法学部に新設された東洋政治思想史講座へ出講した津田左右吉に対し、彼の著述の中に「大逆思想」があると騒ぎ立てた。その著述とは、『神代史の研究』(1924年)、『古事記及び日本書紀の研究』(1924年)、『日本上代史の研究』(1930年)、『上代日本の社会及び思想』(1933年)の4著(これらはいずれも米内光政内閣時の1940年2月発禁処分)であった。

 彼の主張は、古事記・日本書紀神代史は、建国の事情を述べた歴史でもなく史実でもなく、古代人の宇宙観を表現した神話でもなく、天皇(皇室)の由来と天皇(皇室)による日本統治の必然性、正当性を理由づけるための「政治的要求」から作り出された「政治的述作(創話)」であるというものであった。

 つまり、中国の歴史書である、いわゆる『魏志倭人伝』などの研究を踏まえて、日本の古代史について、「邪馬台国」や女王「卑弥呼」の存在などを学生に講義したのであるが、この事を体育会系の学生が官憲に通報した(チクった)のである。それを受けて神聖天皇主権大日本帝国政府は、津田を、翌年の1940年、出版法違反で起訴した。さらに東条英機内閣時の1942年には「皇室の尊厳を侵害した」として有罪とした。ちなみに、近衛内閣時の1940年11月には「紀元2600年記念式典」を実施した。

 しかし、津田の主張は今日の歴史学界の定説となっており、学校では正当な歴史として教育している。

 しかし、大日本帝国憲法に基づく神聖天皇主権大日本帝国政府が崩壊した後に成立した日本国憲法に基づく「日本国」政府においても、昭和天皇(皇室)は、いわゆる「人間宣言」(天皇を利用しようとした米国の意向と天皇制存続を目論んだ天皇との間で合意)で、「現人神」である事を否定するという形で、天照大神を祖とする神の裔」である事を守ったし、平成天皇(皇室)も自民党に支えられてそれを継承し、現天皇(皇室)も安倍自公政権に支えられて同様に継承している。そしてまた、GHQの占領政策である「神道指令」(1945年12月15日)により廃止を命じられたにもかかわらず、その古事記・日本書紀の神代史(加えてそれに基づいて樹立された、国家神道を精神的支柱とした神聖天皇主権大日本帝国政府が制定したが、日本国憲法制定により廃止された皇室令皇室祭祀令など)に基づいて、「神武天皇」を初代天皇と位置づけた「神武天皇祭」や、「神武天皇没後2600年祭」などを含む「宮中祭祀(皇室神道)」を継続している。このような天皇(皇室)の行為姿勢は科学的な歴史研究の成果を無視した行為である事はもちろん、憲法を蹂躙するものであり、主権者国民を愚弄するものであると言って良い。

 ちなみに、古事記・日本書紀に書かれている事は、天照大神から地上の支配権を与えられたその孫ニニギノミコトが九州に天孫降臨し、ニニギノミコトの曾孫に当たるカムヤマトイワレヒコが九州から大和に遠征し、初代神武天皇となり、その初代神武天皇からずっと前方後円墳がつくられている時代を通じて、さらに前方後円墳時代が終わってから100年後の律令国家の王者、つまり天武天皇に至るまで断絶する事なく、神の子孫である事を支配の根拠とする王家(天皇)が続いたというものである。

 最後に、津田左右吉が1946年に書いた天皇讃美の文章を紹介しておこう。

「二千年の歴史を国民と共にせられた皇室を、現代の国家、現代の国民生活に適応する地位に置き、それを美しくし、それを安泰にし、そうしてその永久性を確実にするのは、国民みずからの愛の力である」

(2020年3月23日投稿) 

 

 

 

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「唯生論 シベリア抑留の恩讐を乗り越えた音楽人生」に思う

2023-01-03 22:32:12 | アジア・太平洋戦争

 著者の田中唯介さん(95)は、日本の敗戦後の4年間、カザフスタンとシベリア抑留体験をした。凍傷、重労働、栄養失調などなど。死と隣り合わせの日々を送った。

 抑留中に、捕虜の中にいたベルリン・フィルの元団員からアコーディオンを習い、今日も現役のアコーディオン奏者である。そして、抑留体験を伝える歌を作詞作曲し、弾き語りを続け、体験した戦争、抑留、引き揚げを「哀切と歓喜」と表現している。

 ところで、シベリア抑留者60万人以上と言われている。そして、そのうち6万人が死亡したと言われているが、このような事態が起きた背景にはどのような事があったのだろうか?

 神聖天皇主権大日本帝国政府関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報をつかんだのは1945年11月頃である。そして、1946年12月にやっと米国を通じてソ連との交渉を開始している。それによって抑留者の帰国に関する米ソ協定が成立し、同年12月8日に引き揚げが開始されているのである。

 つまり、関東軍の軍人がシベリアに抑留された背景には、神聖天皇主権大日本帝国政府の戦後処理が大きく関係していたのである。戦後処理をきちんと行わず放置した事がシベリア抑留を引き起こす大きな要因の一つであったと言えるのである。

 アジア太平洋戦争は1945年8月14日に連合国のポツダム宣言を受諾する旨を通達しただけで自動的に終了するものではなく、どのように降伏条件を実行するかについての交渉が必要であった。そのため大日本帝国政府は、連合国軍総司令官マッカーサーの本部所在地であったフィリピンのマニラへ停戦協定作成ために川辺虎四郎中将らを全権委員として派遣し、45年8月20日降伏文書を受領している。そしてその時、総司令部から「ソ連軍に関しては、連合国軍の指揮下にはない」との通告を受けているのである。それにもかかわらず大日本帝国政府は、対ソ連交渉を現地の関東軍に委ね、ソ連極東軍総司令官マリノフスキー将軍のもとへ全権代表を送らなかったのである。そのため、関東軍を大日本帝国政府の公式の代表と認めないソ連軍の軍事行動は、満州では8月20日、樺太では8月26日、千島では9月5日まで戦闘を継続し、死傷者はもちろん抑留者の増大を引き起こしたといえるのである。

 しかし先に書いたように、1946年12月に入って米ソ協定が成立し、46年12月8日にナホトカからの引き揚げ第1陣である「大久丸」「恵山丸」(合計5000人)が舞鶴港に帰着できたのである。そして、1956年12月26日には最後の引き揚げ船「興安丸」が舞鶴港に帰着し、受刑者(関東軍の高級将校、特務機関員、731部隊関係者など)を含む抑留者のほとんどが帰国できたのである。

(2021年4月25日投稿)

 

 

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