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兵庫県庁舎の復元は明治150年記念の翼賛事業、県市民国民の意思に反した行政議会の恣意的な時代錯誤の憲法違反事業で税金の無駄遣い

2024-07-02 14:46:48 | 自治体

 2017年11月30日の新聞は、「兵庫県は29日、初代総理大臣の伊藤博文が初代知事として執務した『初代県庁舎』を神戸市兵庫区の市有地に復元する計画案を明らかにした」と報じた。その『初代県庁舎』は1868年7月、明治政府が大坂町奉行所兵庫切戸町勤番所を使用して設置したもの。

 復元目的は、来年7月で「県政150年を迎える記念事業」の一環で、県政の歴史や文化を学ぶ施設などとして活用するという。

 このような目的の事業に対し、兵庫県民や神戸市民は異議申し立てをすべきではないのか。なぜなら、安倍政権が強引に、「明治の精神に学ぶ」という事を目的として、2018年に「明治150年記念事業」を実施しようとし、あらゆる形で、たとえば「福井国体」に「明治150年記念」の冠称をつけるなどのように、翼賛させる動きを推し進めているが、『初代県庁舎』復元は、安倍政府の事業に追従し翼賛するために実施する事業以外の何物でもないと考えられるからである。地方(自治)制度が戦前と戦後では、天皇主権下と国民主権下との違いから、その性格が大きく異なるにもかかわらず、その事を重要視せず無視し連続したものと捉えているとともに、天皇主権下においても制度変遷があるにもかかわらずそれをも無視する偏向した非科学的な歴史認識に基づいたこじつけ事業だからである。新聞の記事表現もその点においては、兵庫県や神戸市と同様の歴史認識を基づいており同類であるといってよい。そこには、兵庫県民や神戸市民、ひいては日本国民に対し、そのような戦前戦後を連続したものと捉える歴史認識に基づいて、伊藤博文を兵庫県の「初代」県知事であったと無理やり位置づけ、後には「初代」総理大臣ともなったと位置づけて顕彰し、それを誇りと感じる意識を植え付けようとする狙いを感じさせる。そのために、伊藤博文の多面的全体的な評価やイメージを、偏向した非学問的な認識に基づいて美化しようとする狙いを感じさせるとともに、神聖天皇主権大日本帝国政府の時代すべてを正当化するために都合よく歴史を書き変えようとする歴史修正主義(価値観の強制)の臭いも感じさせるからである。そして、そのような事に総事業費として県市民の10億円という巨額な税金を投じようとしているからである。県市民や国民にとってこれほど無駄で理不尽な行政議会の恣意的な目的による支出はない。

 ちなみに、大日本帝国憲法には地方自治制度の規定はなかったのである。そして、簡単に言えば、今日のような地方自治制度は認められておらず、外見だけの形式的なもので、実態は中央集権的な色彩が強く、政府の統制が強く、政府による国民支配の単なる末端下請け機関であった。知事制度(地方制度)は内務大臣であった山県有朋が、ドイツ人顧問モッセの助言を得て、1890年5月に公布した府県制により確立したが、知事は選挙で選ばれたのではなく、内務省の官吏天皇から任命されて政府から派遣されたのである。伊藤博文はその府県制以前の府藩県三治制の下で、1868年7月12日(慶応4年5月23日)から、1869年5月21日(明治2年4月10日)までの間、兵庫県知事(正確には知県事でもちろん公選ではない)を務めた。そして、在任中に県庁舎を勤番所から坂本村(現:神戸市中央区橘通)に移転したのである。

 ついでながら、府県制確立当時の府議会議員はどのような人がなりどのような人が選んだのかについてみると、府議会議員の被選挙権を持つ人たちは、直接国税10円以上納入する35歳以上の男子で、選挙権を持つ人たちは、市会議員(直接国税2円以上納入する25歳以上の男子)と市参事会員(市会議員から選挙)、郡会議員(市議と同資格の各町村会で各1名選出した議員と地価1万円以上有する者)と郡参事会員(郡議から3名互選)たちであった。要するに地域の寄生地主などの経済的有力者たち同士の間で選び選ばれたという事である。その人たちはまた大日本帝国政府(為政者)と利害の一致する者たちでもあったのである。その資格条件を有さない圧倒的多数の国民(臣民)は、地方行政や政府の政治に関与する権利はまったく認められていなかったのであり、それに抗する行為は犯罪とみなされ警察権力の手が及ぶ対象となったのである。

 これに対して戦後は、1947年5月3日施行の日本国憲法第8章地方自治が地域住民の権利として保障され、1947年4月地方自治法の公布によって住民が地方自治に直接参加する事になったのである。憲法第92条【地方自治の基本原則】では「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める」としている。「地方自治の本旨」とは、住民自治と団体自治を内容とし、地域の住民自らが自分たちの要望に沿った政治を国からの干渉を受ける事なく実現する事である。第93条【地方公共団体の機関、その直接選挙】では、①地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する(団体自治)。②地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員はその地方公共団体の住民が、直接これを選挙する(住民自治)、などと定めている。

 このような歴史を考えれば、今日の我々の府県政のルーツが日本国憲法の施行とともにあると考える事は適切である。

 であれば、県政の歴史と文化を学ぶ上で、何を大切に考え、何を受け継いで行くべきかも明確である。「県政150年を記念する」という考え方は日本国憲法を踏みにじるものであり、現在の国民の生活を否定するものであり、行政が守らなければならない憲法第99条【憲法尊重擁護の義務】「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」という趣旨に違反するものであり、兵庫県民、神戸市民、すべての国民はこれを断じて認めてはいけない。

 記念事業を同じするなら「県政70年」を今年するべきであった。しかし、兵庫県や神戸市のような歴史認識は、安倍政権を翼賛して、沖縄県を除く全国の自治体行政に蔓延しつつある状況である。2017年11月24日に、全国知事会が改憲草案を公表したが、その一つが参院選で2つの県を1つの選挙区にする「合区」を解消するため、選挙区を都道府県単位にするように第47条の改正を明確に求めている。そして、それは安倍自民党が11月16日に憲法改正推進本部の全体会合で確認した内容とまったく同じなのである。この日の案では、「(参院議員は)改選ごとに各広域的な地方公共団体の区域(都道府県)から少なくとも1人が選出されるよう定めなければならない」との文言を第47条に追加するというものである。この内容は、2010年と13年の最高裁判決の「都道府県を選挙区の単位とする仕組みを維持しながら一票の格差の是正を図る事は著しく困難である」との指摘を無視したものであり受け入れる事はできない。

 これは日本国が歴史の逆戻りをし、戦後これまで作り上げて来たものが壊されつつある事を意味している。国民はその事に気づかなければ息の根を止められてしまう事になる。

(2017年12月3日投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

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自民党『憲法改正草案』第8章「地方自治」に見える戦前政府の排外主義

2024-06-28 17:57:18 | 自治体

 岸田自公政府は2024年6月19日、政府の地方自治体に対する「指示権」を拡大するために、地方自治法改正(改悪)した。国会審議では、「指示権」を行使する具体的事例を示さなかっただけでなく、政府は行使後、指示内容を国会に「事後報告」する義務を追加したが、自治体からの事前の意見聴取は努力義務とした。岸田自公政府はこの「指示権」拡大で地方自治体を変質させたいようだが、どのようにするつもりだろう。そのヒントは自民党の「憲法改正草案」にある。

 たとえば、地方自治に関しての規定は、現行憲法では第8章で第92条から第95条に定めており、「地方自治の本旨」については、第92条地方自治の基本原則」で「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める」としている。「地方自治の本旨」とは、「住民自治」と「団体自治」であり、その地域住民自身が自分たちの要望に沿った政治を国からの干渉を受ける事なく実現する事である。そのために、第93条第1項で「地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する」、第2項で「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」と定めている。

 ところがこの「地方自治の本旨」を、自民党は「憲法改正草案」では大きく変質させている。「改正草案」の第92条地方自治の本旨」と題し新設するとともに、現行憲法第93条「地方公共団体の機関、その直接選挙」に相当するものとして、「憲法草案第94条に新しく「地方自治体の議会及び公務員の直接選挙」と題し、その第1項では「地方自治体には、法律の定めるところにより、条例その他重要事項を議決する機関として、議会を設置する」、第2項では「地方自治体の長、議会の議員及び法律の定めるその他の公務員は、当該地方自治体の住民であって日本国籍を有する者が直接選挙する」と定めているのである。

つまり、「議会」は、「議事機関」ではなく、「議決機関」として設置するものと変質しており、地方公共団体の公務員についても、「住民」であるだけでなく、「日本国籍」保有者(国籍条件)により直接選挙すると外国人排外主義を明確にし、変質している。このような考え方価値観は、神聖天皇主権大日本帝国政府が有していたものであり、戦前回帰そのものである。

(2024年6月28日投稿)

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地方自治法改正(指示権)案は岸田自公政権版「国家総動員法」

2024-06-01 17:56:13 | 自治体

 2024年5月14日岸田自公内閣は、「非常事態」に政府が「自治体」に対応を「指示(指示権)」(法的拘束力を有する)する事ができる地方自治法「改正案」(=改悪案)を衆議院議長に提出し衆院総務委員会が審議を始めた。この「改悪案」は一言でいえば、戦前、第1次近衛文麿内閣が1938年4月1日に公布し5月5日に施行した「国家総動員法」の岸田自公政権版であると言ってよい。「国家総動員法」第1条には「本法に於て国家総動員とは戦時(戦争に準ずべき事変の場合を含む以下之に同じ)に際し、国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及び物的資源を統制運用するを謂う」とある。内容は、➀戦時における「人的及び物的資源」に対する統制運用権政府に付与した事、➁戦時規定として臣民の徴用、総動員業務への協力、労務の需給調整、労働争議の防止、物資の需給調整、輸出入の統制、総動員物資の使用もしくは収用、資金の需給調整、施設・土地工作物・鉱業権等の使用・収用、事業設備の統制、統制協定、統制組合の結成、物価統制、出版の制限又は禁止などを列挙、③平戦時規定として職業能力調査、技能者養成、物資保有、業務の計画、試験研究、事業の助成、報告徴収及び臨検検査を列挙、④政府の命令に違反した者を3年以下の懲役又は禁錮、1万円以下の罰金又は拘留もしくは科料に処すとの厳しい罰則規定を定めた。国家の全力を最大限発揮できるよう人的・物的資源を統制運用する事を目的としたものであった。国民経済国民生活のすべてを官僚の統制下におき、その国民の諸権利の統制に大幅な権限を政府に委任する事を定めるものであった。これらを必要に応じ議会の議決を必要としない勅令を以て政府が発動し得るものとした。そのため政府は、帝国議会政党軽視し、政府の権限は増強した。

 近衛内閣は当初日中戦争には「勅令」を発動しないと明言したが法施行と同時に発動し、1939年以降各種の勅令を乱発し、第2次近衛内閣では「改正案」(=改悪案)を1941年の第76回帝国議会で通過させ、統制制限を撤廃し事業統制の権限拡大等を定め、統制を社会の隅々にまで行き渡らせ、政府権力は国民の日常生活の細部に至るまで統制監視を行うようになった。

 現在は「戦時」ではないが、岸田自公政権が「非常事態」に対応するためという「改正案」(=改悪案)の「指示権」は、「総動員法」にある「戦時」を「非常事態」と読み変えれば、この「国家総動員法」とまったく同様の効力効果を有し発揮するものである事は明らかである。

 第1次近衛内閣は、1937年11月9日の閣議で立案着手を決定し、企画院(国家総動員の中枢機関で、内閣直属の総合国策企画立案機関、革新官僚親軍的ファッショ官僚の拠点)を中心に関係各省、特に陸軍省と密接に連絡を取りながら審議を進め、1938年1月に成案、2月24日第73回帝国議会に法案を提出した。内容は、国民経済と国民生活のすべてを官僚による統制とし、その統制に関する大幅な権限を政府に委任する事を定めていた。そのため憲法論からも問題があるとして斎藤隆夫(民政党)らが批判反対した。批判の第1は、「戦時又は国家事変」の際における臣民の権利の制限又は停止天皇の非常大権であるにもかかわらず、それをあらかじめ法律で決めておく事は違憲である。第2は、法律によって個々になすべき臣民の権利の制限又は停止一括して政府の自由に委ねている事は違憲である、とするものであった。これに対し近衛内閣は「日中戦争には適用しない」と明言しただけで、近衛内閣と繋がった右翼は法案反対議員に圧力を加えたり、防共護国団が反対政党本部を占拠する脅迫行為を行った。帝国議会審議過程では3月3日に佐藤賢了陸軍中佐軍務課長が、質問した議員に対し「黙れ」と怒鳴り一喝して脅す「黙れ事件」などを起こしたため、唯一の無産政党であった社会大衆党も法案に積極的に賛成し、帝国議会は軍部の圧力に屈し、3月24日には無修正で可決に至り、第1次近衛内閣は4月1日公布し、5月5日施行した。ちなみに「黙れ事件」の収拾は杉山元陸相が陳謝しただけであった。佐藤は処罰されず、1942年陸軍省軍務局長、45年陸軍中将と順調に昇進したが、敗戦後、戦犯として訴追され、極東国際軍事裁判では「終身禁固」の判決を下された。

 国家総動員法の成立は、神聖天皇主権大日本帝国政府にとって、強力な「高度国防国家」=ファッショ的行政国家に再編成し戦時体制を確立する決定的な画期であった国民にとっては神聖天皇主権大日本帝国憲法が定めていた立憲主義的側面は事実上否定され、政府の統制が隅々まで行き渡り、政府権力は国民の日常生活の細部に至るまで統制監視を行うようになったのである。

(2024年5月18日投稿)

 

 

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福井県知事の反原発運動に対する抑圧妨害阻止の手法と大飯原発再稼働表明の目論見

2023-07-21 23:13:05 | 自治体

 2017年11月28日の朝日新聞によると、福井県の西川一誠知事が地元の定例会見で再稼働への同意を表明したという。

 記事では「大飯原発の再稼働では、おおい町長や県議会などの同意から、西川知事の判断までに2カ月近くかかった。西川知事は高速増殖原型炉「もんじゅ」などの廃炉、高浜1、2号機の40年超運転、再処理までの間に関電の使用済み核燃料を保管する中間貯蔵施設を福井県外につくる計画の問題などを次々に持ち出し、国(安倍政権)や関電に解決と地域振興を迫り続けた。これを受けて、11月26日に県庁を訪れた世耕弘成経産相が、地場産業や、再生可能エネルギー研究への支援などを表明。11月22日の文科省での「もんじゅ関連協議会」でも、電源立地地域対策交付金の上積みが示された。関電側も岩根社長が11月23日、中間貯蔵施設の計画地を2018年中に示す事を明言した」としている。

 ところで、西川知事が、再稼働表明に至るまで、県市民による反原発を訴えるアピール活動に対してどのように対応してきたのか、また、それはどのような目論見を持って行われてきたのかという事を、しっかり見抜き教訓としなければならない。

 福井市では、県庁前の交差点歩道で平日昼間、反原発の市民団体が県公安委員会の許可を得て5年ほど前から続けてきた反原発を訴えるアピール活動に対して、が文書で「活動の音量が大きくて不快」「横断幕やのぼりは美観上好ましくない」「通行の妨げ」といった「苦情」が寄せられているとして、活動を自粛するように要請してきた。

 この場合、は「アピール活動に対する苦情」が寄せられた事を理由として「アピール活動」の自粛を要請しているが、県自身が「アピール活動」を単なる迷惑行為の対象とみなして対応処理していると見なす事ができる。そこに根本的な問題が存在する。アピール活動は一般的に「大きな音量、横断幕やのぼりは当たり前」である。また憲法で保障された権利に基づいたものである。この件では、県行政に対して、時間を限定し許可を得て実施されてきた合法的なアピール活動である。にもかかわらず県が、法的根拠もなく自粛を要請した、という事は、「アピール活動」に対する理解に乏しいというものではもちろんなく、県はその「苦情」を「アピール活動」よりも尊重しているのであり、そしてその「苦情」を口実にして意図的に「アピール活動」を抑圧妨害阻止しようとしていると考えるべきである。つまり、福井県知事は「原発推進」の姿勢をとっている事が背景にあり、安倍政権とも結託した行為であり、「反原発アピール活動」は不愉快で阻止禁止に値する行為とみなしているのである。さらにいえば、住民自治(主権)を否定し、自治体行政(知事、市長)主権に転換させようとする重大な目論見を持つ問題と考えるべきである。

 住民(国民)が政府への批判も含めて自己の意見意思を表明する行為に対して、自治体行政(知事、市長)はどのような法的根拠に基づいて否定できるのか。自治体行政(公務員)は憲法以外にその存在根拠はない。「中立性の確保」という一見もっともらしく思わせる理由についても、恣意的で極めて政治的な偏向した自治体行政の意思を押し通すためのゴマカシ以外の何物でもない。「中立」とは「誰をも利せず、何も主張しない、どのような行動もとらない」という事を意味しており、判断や行動する際の基準にはなり得ず、関わりあいを避けるために使われている「言葉」であるだけだから。住民(国民)の自治と権利の保障と、そのために自治体行政が奉仕支援する事を定めた憲法を無視否定しているからこそ上記のような対応をとれるのである。自治体行政(知事、市長)が住民(国民)自治を統制し、「住民(国民)主権」を抑圧否定し、「自治体行政(知事、市町)主権」へ変質させようとしている事を見抜くべきである。

(2017年12月1日投稿)

2019年4月杉本達治氏当選(自民・維新推薦)

2023年4月杉本達治氏再選(自民・公明・立憲推薦)

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自治体行政が住民自治(主権)否定、首長による憲法尊重擁護義務に背く職権濫用、安倍政権の立憲主義否定と連動

2023-05-02 16:43:09 | 自治体

 2017年4月には、各地の地方自治体で、憲法で保障された権利に基づいてなされてきた各種のアピール活動が行政によって否定され排除される事態が発生している。

 その共通する理由内容は、それぞれの自治体行政の恣意的で浅薄な判断と見做されても仕方のないようなものであり、憲法が住民(国民)に保障する、「思想及び良心の自由」や「集会・結社・表現の自由」などの諸権利を自治体行政(公務員)は尊重擁護しなければならない(第99条)と課している規定に基づいて判断したものとはまったく考えられないものである。そしてそのような憲法に基づかない判断によって、主権者である住民が合法的にその意思を表明し訴えるアピール活動に対して抑圧妨害阻止の姿勢対応をとっており、それは自治体行政(知事、市長など公務員)が住民の権利を統制剥奪し、「住民自治(主権)」を形骸化空洞化させようとするものであり立憲主義を否定する意図をもつものであるといってよい。また重要な点は、この自治体行政の動きは、それぞれ独自に行われているものではなく、国会(国民の代表)や国民を無視して政策を強行している安倍自公政権と強い関係をもち、自治体行政の権限(権力)を強化し、住民(国民)の自治(主権)を制限剥奪し、住民(国民)に対して行政が指導命令的上位に立つように自治体の性格を改造する事を目的として行われている事である。

 福井市では、県庁前の交差点歩道で平日昼間、反原発の市民団体が県公安委員会の許可を得て5年ほど前から続けてきた反原発を訴えるアピール活動に対して、が文書で「活動の音量が大きくて不快」「横断幕やのぼりは美観上好ましくない」「通行の妨げ」といった「苦情」が寄せられているとして、活動を自粛するように要請している。

 この場合、県は「アピール活動に対する苦情」が寄せられた事を理由として「アピール活動」の自粛を要請しているが、県自身が「アピール活動」を単なる迷惑行為の対象とみなして対応処理していると見做す事ができる。そこに根本的な問題が存在する。アピール活動は一般的に「大きな音量、横断幕やのぼりは当たり前」である。また憲法で保障された権利に基づいたものである。この件では、県行政に対して、時間を限定し許可を得て実施されてきた合法的なアピール活動である。にもかかわらず県が法的根拠もなく、自粛を要請したという事は、「アピール活動」に対する理解に乏しいという事ではもちろんなく、県はその「苦情」を「アピール活動」よりも尊重しているのであり、そしてその「苦情」を口実にして意図的に「アピール活動」を抑圧妨害阻止しようとしていると考えるべきである。つまり、福井県(県知事)は「原発推進」の姿勢をとっている事が背景にあり、安倍自公政権と結託した行為であり、「反原発アピール活動」は不愉快で阻止禁止すべきものなのである。さらにいえば、住民自治(主権)を否定し自治体行政(知事)主権に転換させようとする重大な問題と考えるべきである。

 石川県金沢市は、金沢市の市民団体「石川県憲法を守る会」が5月3日の憲法記念日に同市庁舎前広場で開催しようとした「護憲集会」の申請を不許可にした。

 市は、広場が工事で一時使用できなくなる前の2014年まで、例年集会を認めていた。ところが今年2017年は、4月14日付で不許可を通知したため、「守る会」は会場変更を余儀なくされた。市によると不許可の理由は、「市庁舎管理規則の示威行為に当たる。集会内容に政府への批判が含まれる。市の中立性を確保するため。」という。

 この場合も、これまで許可されていたものが突然不許可とされたところに市行政(市長)に対する不信感を感じるが、不許可理由も憲法に照らして論理的に説明できない極めて恣意的なものであり、護憲集会に対する意図的な妨害阻止行為であるとしか考えられない。上記の「政府への批判が含まれる」「示威行為に当たる」「市の中立性の確保」などを不許可の理由にする姿勢は、憲法に定めた理念に基づき住民(国民)の権利を保障する事を目的として行政を実施しているとは思えないものである。

 住民(国民)が政府への批判も含めて自己の意見意志を表明する事に対して自治体行政(市長)はどのような法的根拠に基づいて否定できるのか。自治体行政(公務員)は憲法以外にその存在根拠はない。「中立性の確保」という一見もっとらしく思わせる理由についても、恣意的で極めて政治的な偏向した自治体行政の意志を押し通すためのごまかし以外の何物でもない。「中立」とは「誰をも利せず何も主張しない、どのような行動もとらない」という事を意味しており、判断や行動する際の基準にはなり得ず、関わりあいを避けるために使われているだけだからである。住民(国民)の自治と権利の保障と、そのために自治体行政が奉仕支援する事を定めた憲法を無視否定しているからこそ上記のような対応をとれるのである。これも自治体行政(市長)が住民(国民)自治を統制し、「住民(国民)主権」を抑圧否定し「自治体行政(市長)主権」へ変質させようとしている事を見抜くべきである。

 群馬県では県立近代美術館で、2017年4月23日から展示予定であった、県内の「朝鮮人犠牲者追悼碑」をモチーフにした作品「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」が、同館の指導で撤去された。

(2017年5月10日投稿)

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