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滝川事件(京大事件)での法学部教授会の声明書:菅自公政権の学術会議推薦者任命拒否は神聖天皇主権大日本帝国政府への回帰

2020-11-19 06:31:49 | 教育

 2020年10月に入り、日本学術会議に対する菅自公政権の対応が問題となっている。学術会議が新会員として推薦した105人のうち6人を、菅首相が任命しなかったからである。学術会議の会員らは憲法第23条「学問の自由」を踏みにじる行為であるとして批判を強めている。

 日本国憲法23条「学問の自由はこれを保障する」は、京大法学部教授・滝川幸辰が文部省鳩山一郎大臣に休職処分に処された神聖天皇主権大日本帝国時代の1933年「滝川事件(京大事件)」、1935年「天皇機関説事件」、1937年「矢内原事件」、1939年「河合栄治郎事件」、1940年「津田左右吉事件」など、大日本帝国政府が学問研究を弾圧した歴史を踏まえて定められたものである。

 滝川事件(京大事件)滝川幸辰を文部省(鳩山一郎文相)が罷免しようとした事がきっかけで起きた。文部省は滝川の著書「刑法読本」「刑法講座」や講演内容が、内乱を扇動し、姦通を奨励するもの(刑法は家制度維持のため妻に対する姦通罪・堕胎罪を規定)とみなし(文部省が理由としてあげた点はひじょうに薄弱で、難癖というべきものであった)、大学教授として適当ではないという理由で小西重直総長を通じて罷免を要求した。そのため、特に法学部教授会は、教授の学問上の見解の当否は文部当局の判断によって決めるものではなく、その時々の政府の都合で教授の地位を動かすべきではない、という立場からこれを拒否し、総長も滝川教授の処分を拒否した。そこで文部大臣は急速に高まりつつあったファシズムの風潮を利用し「文官分限令」(1899年公布)により滝川教授を一方的に休職処分にした。

 この事は、教授の進退は総長の具申によるという大学自治の慣行を蹂躙したものであったので、京大法学部はこれに抗議するため教授全員が辞表を提出して抵抗し、学生たちも教授会を支持し総退学運動を展開した。しかし、小西総長が文部省の処置を承認して辞職し、松井新総長が、法学部教授会を退官組と残留組とに分裂させて事態の収拾をした。

 この事件は「大学の自治」「学問の自由」が失われる契機となり、以後学問教育の場はもちろん国民生活のすべてがファシズム(全体主義・国家主義・軍国主義)に蹂躙されていったのである。

 法学部教授会が辞表を提出した際の声明書を紹介しておこう。

「政府が今回、滝川教授辞職の事あらしめたるの措置は、甚だしく不当にして、遂に吾人一同をして辞表を呈出するの已む無きに至らしめたり。……事は実に大学の使命及び大学教授の職責に関す。これをもって滝川氏個人の擁護なりとする人の如きは、吾人初めよりこれと共に本問題を談ずるの意を有せざるなり。

 大学の使命はもとより真理の探究にあり。真理の探究は一に教授の自由の研究に待つ。大学教授の研究の自由が思索の自由及び教授の自由を包含する事、論なし。教授が熱心に思索し、思索の結果たる学説を忠実に教授する事を得るにおいて、始めて研究の自由あり。……政府の滝川教授休職に関する措置は、まったく大学教授の職責を無視し、もって大学の使命の遂行を阻害するものとす。これ吾人をして辞職の已む無きに至らしめたる理由の一なり。

 大学における研究の自由を確保するは、大学制度の運用に当たりて、研究の自由を脅かすの結果を生ずる事を防ぐを肝要とす。これが方法中、最も根本的のものは、政治が任意に教授の地位を左右するの余地なからしむ事に存す。……これがためには、教授の進退は総長の具状を得てこれを行い、且つ総長が教授の進退につき具状せんとする時、必ず予め教授会の同意を得るを要すとする事を必要とす。これいわゆる大学の自治と称するものの一端なり。……然るに、今回の滝川教授の休職は、総長の具状なく、且つ毫も教授会の同意を得るの手続き存する事なくして、行われたり。此の如きは実に、我が京都帝国大学にありて、研究の自由を確保する方法として、つとに公に認められ、且つ久しく遵守し来れる規律を破壊し、もって大学の使命の遂行を阻害するものとす。これ吾人をして辞職するの已む無きに至らしめたる理由の二なり。」以上。(2020年10月12日投稿)

 

 

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大阪維新の会の傍若無人:この手法を合法化し正当化して独裁体制を樹立したナチス・ヒトラー

2020-11-17 16:54:35 | おおさか維新の会

 2020年11月1日、大阪維新の会の松井大阪市長、吉村大阪知事は、大阪市民から要望した事ではない「大阪都構想(大阪市廃止4特別区設置)」の住民投票を、コロナ禍の渦中でもある事を不安視した市民が「投票延期」の要望を訴えたにもかかわらず、耳を傾ける事もなく実施を強行したが、反対の立場が勝利し目論見は潰えた。しかしそれに対し、数日後に次は、住民投票を必要とせずに、条例だけで彼らの目的を達成できると考えた「広域行政の一元化条例案」と「8つの総合区設置案」を21年2月の定例議会に提出する事を表明した。しかし、この条例による手法は「大都市地域特別区設置法」に基づく「住民投票結果」の「拘束」に違反(「設置法」自体も憲法に違反している法律であるが)する手法であり、非合法的手法である。しかし、それを無視して強行し、条例を制定してしまおうという魂胆なのである。条例を制定してしまえば、市民が「悪法」だと考え批判しても、彼らは「法治主義」(彼らにとって都合の良い法律をつくりそれに基づいて権力を行使する事)を「根拠」に市民に押し付けようと考えているのである。この手法は詐欺手法であり、民主的ではない。このような手法はかつてナチス・ヒトラーが当時世界一民主的であったワイマール憲法を形骸化し全体主義(ファシズム)の第3帝国を樹立し動かした手法そのものなのである。ちなみに、「悪法も法なり」という理屈により「法は守らなければならない」とする法治主義の考え方は、ドイツを淵源としナチス・ヒトラーを生み出したもの(英・米国では「法の支配」)で、神聖天皇主権大日本帝国政府(伊藤博文)はそれをテキストとして受け入れ、臣民(国民)を教化(洗脳)し浸透定着させ支配した。「悪法も法なり」の典型的な例が「治安維持法」である。「法治主義」は敗戦後の日本国憲法のもとにおいても未だに生き続けており、帝国政府への回帰をめざす政治団体・日本会議や、その勢力を基盤とする安倍自公政権菅自公政権が、法律を権力行使のために手前勝手に作り解釈し、民主主義を破壊し尽くし国と国民を私物化いるのである。その別動隊・補完勢力が「大阪維新の会」「日本維新の会」なのである。

【ナチス・ヒトラー略史】

1928年5月、国会選挙で、ナチス12名当選(全議席数の2.4%

1930年9月、国会選挙で、ナチス107名当選(全議席数の19%、社民党に次ぐ2位)ヒンデンブルク大統領は、ブリューニング大統領緊急令により首相に任命(議院内閣制の停止、憲法に従い憲法の一部を停止)

1932年4月、ヒトラーが大統領選に出馬。しかし、ヒンデンブルク大統領再選。

1932年7月、国会選挙で、ナチス第1党となる(全議席数の38%)。ヒンデンブルク大統領はパーペン内閣を命じた。

1932年11月、国会選挙で、ナチス第1党となる(全議席数の34%)。ヒンデンブルク大統領はシュライヒャー内閣を命じた。共産党の進出に怯えた大資本はナチス支援を決意。シュライヒャー内閣は2カ月で倒壊した。

1933年1月、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に指名し、ヒトラーが政権獲得。軍部・大資本家の支援で国民的協力内閣の名で発足し、直ちに議会を解散した。

1933年2月、国会議事堂炎上事件でヒトラー内閣は大統領に「人民と国家防衛のための」緊急令を公布させ、炎上犯人を共産党員と決めつけ4000名以上を逮捕するとともに、憲法が定める集会・出版の自由など基本的人権を停止し、ワイマール憲法を空洞化した。

1933年3月、国会選挙で全議席数の45%を獲得し、第1党。その際、共産党の当選者81名(13%)を無効として逮捕し、ダッハウやオラニンブルクの強制収容所へ送った。加えて共産党を非合法組織とした。

同年3月末、ヒトラーは会場オペラハウスをナチス親衛隊SAに包囲させたうえで、全権委任(向こう4年間)法(「民族と国家の困難を除去するため」政府に立法権を委ねる法)を数の力で可決した。この法は、議会政治を廃止する決議をするという形で成立させた。この法律は憲法を変更するものであったから、3分の2の賛成が必要であった。出席議員535人、社民党94人全員が反対したが、賛成441名で可決された。共産党の出席は認めなかった。この背景には、ナチス・ヒトラーによる議会に対する破壊行為反ナチス議員に対するテロ・脅迫などの非合法行為が存在し議員活動をできなくした事とカトリック政党である「中央党」がヒトラーの弾圧を恐れて「賛成」に回ったという事があった。これにより、ヒトラー内閣は憲法に縛られない立法権を掌握し、憲法の機能を停止した。議会政治・議会制民主主義も廃止し、ナチスの1党独裁へ向かう。

同年6月、社民党を非合法組織とした。

同年7月、政党新設禁止令を発令しナチスは1党独裁体制を樹立した。

同年11月、国会選挙で全議席数の99.7%を独占した。

1934年8月、ヒンデンブルク大統領が死去し、ヒトラーは総統に就任し、首相と大統領を兼ね、大統領制を消滅させた。国防軍もヒトラーに忠誠を誓い、独裁体制に移行した。

(2020年11月17日投稿)

 

 

 

 

 

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