2020年10月に入り、日本学術会議に対する菅自公政権の対応が問題となっている。学術会議が新会員として推薦した105人のうち6人を、菅首相が任命しなかったからである。学術会議の会員らは憲法第23条「学問の自由」を踏みにじる行為であるとして批判を強めている。
日本国憲法23条「学問の自由はこれを保障する」は、京大法学部教授・滝川幸辰が文部省鳩山一郎大臣に休職処分に処された神聖天皇主権大日本帝国時代の1933年「滝川事件(京大事件)」、1935年「天皇機関説事件」、1937年「矢内原事件」、1939年「河合栄治郎事件」、1940年「津田左右吉事件」など、大日本帝国政府が学問研究を弾圧した歴史を踏まえて定められたものである。
滝川事件(京大事件)は滝川幸辰を文部省(鳩山一郎文相)が罷免しようとした事がきっかけで起きた。文部省は滝川の著書「刑法読本」「刑法講座」や講演内容が、内乱を扇動し、姦通を奨励するもの(刑法は家制度維持のため妻に対する姦通罪・堕胎罪を規定)とみなし(文部省が理由としてあげた点はひじょうに薄弱で、難癖というべきものであった)、大学教授として適当ではないという理由で小西重直総長を通じて罷免を要求した。そのため、特に法学部教授会は、教授の学問上の見解の当否は文部当局の判断によって決めるものではなく、その時々の政府の都合で教授の地位を動かすべきではない、という立場からこれを拒否し、総長も滝川教授の処分を拒否した。そこで文部大臣は急速に高まりつつあったファシズムの風潮を利用し「文官分限令」(1899年公布)により滝川教授を一方的に休職処分にした。
この事は、教授の進退は総長の具申によるという大学自治の慣行を蹂躙したものであったので、京大法学部はこれに抗議するため教授全員が辞表を提出して抵抗し、学生たちも教授会を支持し総退学運動を展開した。しかし、小西総長が文部省の処置を承認して辞職し、松井新総長が、法学部教授会を退官組と残留組とに分裂させて事態の収拾をした。
この事件は「大学の自治」「学問の自由」が失われる契機となり、以後学問教育の場はもちろん国民生活のすべてがファシズム(全体主義・国家主義・軍国主義)に蹂躙されていったのである。
法学部教授会が辞表を提出した際の声明書を紹介しておこう。
「政府が今回、滝川教授辞職の事あらしめたるの措置は、甚だしく不当にして、遂に吾人一同をして辞表を呈出するの已む無きに至らしめたり。……事は実に大学の使命及び大学教授の職責に関す。これをもって滝川氏個人の擁護なりとする人の如きは、吾人初めよりこれと共に本問題を談ずるの意を有せざるなり。
大学の使命はもとより真理の探究にあり。真理の探究は一に教授の自由の研究に待つ。大学教授の研究の自由が思索の自由及び教授の自由を包含する事、論なし。教授が熱心に思索し、思索の結果たる学説を忠実に教授する事を得るにおいて、始めて研究の自由あり。……政府の滝川教授休職に関する措置は、まったく大学教授の職責を無視し、もって大学の使命の遂行を阻害するものとす。これ吾人をして辞職の已む無きに至らしめたる理由の一なり。
大学における研究の自由を確保するは、大学制度の運用に当たりて、研究の自由を脅かすの結果を生ずる事を防ぐを肝要とす。これが方法中、最も根本的のものは、政治が任意に教授の地位を左右するの余地なからしむ事に存す。……これがためには、教授の進退は総長の具状を得てこれを行い、且つ総長が教授の進退につき具状せんとする時、必ず予め教授会の同意を得るを要すとする事を必要とす。これいわゆる大学の自治と称するものの一端なり。……然るに、今回の滝川教授の休職は、総長の具状なく、且つ毫も教授会の同意を得るの手続き存する事なくして、行われたり。此の如きは実に、我が京都帝国大学にありて、研究の自由を確保する方法として、つとに公に認められ、且つ久しく遵守し来れる規律を破壊し、もって大学の使命の遂行を阻害するものとす。これ吾人をして辞職するの已む無きに至らしめたる理由の二なり。」以上。(2020年10月12日投稿)