2021年9月1日、関東大震災直後の警察や軍、自警団による朝鮮人虐殺犠牲者を追悼する式典が東京都墨田区横網町公園で行われた。日朝協会などの実行委員会が主催し1974年から行われてきた。宮川泰彦実行委員長は「98年前の悲惨な歴史的事実を忘れず、世代を超えて伝承する事が私たちの責務」と挨拶したが、小池百合子氏が都知事になってからは5年連続で追悼文送付をしなかった。実行委員会の要請に対しては「都慰霊堂(同じ公園内)での大法要で犠牲者すべてに哀悼の意を表している。個々の行事への送付は行わない。昨年と同様の対応にご理解を」と回答していた。また、別の慰霊碑(同じ公園内)前では、政府の中央防災会議報告書を無視し虐殺を否定する「日本女性の会 そよ風」(日本会議)が集会(2017年から)を行ない「朝鮮人6千人虐殺はぬれぎぬ。朝鮮人追悼碑を撤去に追い込みましょう」と主張した。「そよ風」は2019年集会での主張について、都は人権尊重条例「都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例」に基づき「不当な差別的言動(ヘイトスピーチ)」と認定していたが、都はその後も公園での同様の集会利用を許可してきた。(以上は2021年9月5日投稿)
※以下は2020年5月8日に投稿したものを改めて投稿したものです。
読売新聞は、1923年9月1日に発生した関東大震災の混乱を利用して陸軍が起こした「王希天事件」など中国人虐殺について、同年11月7日に第2次山本権兵衛政府を糾弾する「社説」を掲載しようとしたが、政府は検閲強化による削除とともに、削除前の発送済分については配達前に押収し、事件の隠蔽を試みた。
政府は検閲体制について、震災後の9月3日には「朝鮮人関係記事の一切差止」を命令し、同月16日には「原稿または校正刷を官房検閲係に提出し内検閲を経たる後発行すべし」と強化した。理由は「日支国交上の問題のため」との事であるが、政府は「中国人虐殺」が暴露される事をひじょうに恐れていたのである。ちなみに、この事実を読売新聞は1976年に発行した『読売新聞百年史』には記載していない。
ところで、その「論説」には、どのような内容が書かれているのか紹介しよう。
「 支那人惨害事件
一、朝鮮人虐殺及びこれに伴うて我が日本人まで殺傷を被るものがあった事件は、大杉其の他の暴殺事件と共に、日本民族の歴史に一大汚点を印すべきものであることは、繰返して此に言うまでもない。然るに朝鮮人以外に多数の支那人が同様の惨害を被っている事実があることは、それよりも大なる遺憾事である。しかもその事件の発生以後二カ月を経る今日まで我が政府は何らこれに関する事実をも将たこれに対する態度をも明かしていない。吾人はなるべく我が政府が自発的に行動をとらん事を希望して今日に至ったが、国民の立場として何時までもこれを黙止するわけにはゆかぬ。
二、大地震の当時及びその以後、京浜地方に於て日本人のために惨害を被った支那人は、総数三百人くらいにのぼるであろうとの事である。就中最も著大に最も残虐な事実は、九月五日府下南葛飾郡大島町の支那人労働者合宿所において多数の支那人が何者にかおう殺され、また同月九日右支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天氏も亀戸署に留置された以後生死不明となったという事実である。これらの事実は主として支那人側、就中我が政府の保護を受けて上海に送還された被害者中の生存者から漏泄されたものである。したがってその内、どの点までが事実であるかはなお明確ではないが、とにかく多数の支那人が惨害を被って生死不明である事は事実である。
三、しかして右大島町の惨事は九月五日から九日前後までの間に起り、今日に至るまで既に二カ月を経過している。右の事実はこれを人道上、国際上より観、就中我と善隣の誼みある支那との関係であるだけ、重大なる外交問題であることは言を俟たぬ所であるが、退いてこれを我が国内における司法警察の眼より観ても、同様に否むしろそれ以上に重大なる内政問題である。しかるに右重大な事件が先ず相手国の支那において問題とせられるまで、我が内務及び司法の官憲は果してその知識を有していたか否かをも疑われ、乃至既に支那において問題とされた今日までなおその真相をも態度をも明かにしていないという事実のあるのは実に一大失態である。
四、本事件は内政関係は鮮人事件、甘粕事件と同一の原則に依り、あくまで司法権の発動を待ち、もって我が国内の法律秩序を維持回復する意義に於て最も重大である。同時にその外交関係はその事実を事実と認めて男らしくこれに面して立ち、出来得るだけ自ら進んで真相を明かにし、その犯行に対してはあくまで法の厳正なる適用を行い、もって内自らその罪責を糾正し、それによって、対支那政府と国民とに謝するの外はない。幸いに支那政府国民は今回の惨害が天変地異と相伴うて起った不幸の出来事であるのに対し、多少の寛仮と諒恕とをば有し、就中心ある者はこれによって震災以後折角勇起した両国の好感を根本から破壊することのないようにと考えてくれるものすらあるようである。
五、吾人は本事件のため内外に向って困難の間に立たしめられた内務司法並びに外務の当局に対し十分にその苦心を諒とする。蓋しおよそ国民の中に起った事柄は先ずその国民自身が根本の責任を負うべきものであるからである。さりながら政府当局者としては、もちろんその当面の責任をば免れぬ。しかして本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。何となれば、これらの事件は、すべて戒厳令下に起った事柄であるからである。もし陸軍にして司法内務並びに外務の当局者と十分なる協調を保ち、共同の事件調査と共同の責任分担をなさざる限り、司法内務は行きづまりとなり、外務は立往生となるの外はない。しからばその結果、最後の全責任は我が国民自身が直接にこれを負担せねばならぬことになる。故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する。」
※「支那人」という呼び方について……中国を「支那」という呼び方を決めたのは神聖天皇主権大日本帝国政府であった。今日では差別用語となっているが、1913年に帝国政府が「閣議決定」したのである。1911年には辛亥革命により中華民国が成立していたにもかかわらず、その名前を日本国民に使用させたくなかった事がその理由である。中華民国の憲法(臨時約法)には「中華民国は国民を主人公とする国である」とあり、共和制で国民主権の国である事を定めていたため、大日本帝国が天皇主権である事に帝国臣民が疑問を抱かないように、また国民主権が危険な思想であるかのように思わせようとしたのである。上記の「論説」中の「支那人」については、原文のまま使用した事をお断りします。
神聖天皇主権大日本帝国政府では、上記の『読売新聞』の「論説」をきっかけに、1923年11月7日に、後藤内相、山本首相、平沼司法相、田中陸相、伊集院外相による「五大臣会議」を開き、「王希天」を含む「中国人虐殺事件」について、「隠蔽」する事を「閣議決定」したのである。
(2020年5月8日投稿)