つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

教科書国定化を目的とした学習指導要領

2023-03-30 23:36:57 | 教育

 2021年3月30日に菅自公政権文科省が2022年から使用する高校教科書の検定内容を発表した。歴史総合」が来年22年から必修科目となり、すべての高校生が学ばなければならない科目となった。その検定の特徴をあげてみよう。

 1923年9月に起きた関東大震災の際に日本の軍隊・警察や自警団などが犯した朝鮮人や中国人に対する虐殺事件についての記述は、日本政府の責任を明確にしていない曖昧な表現や植民地朝鮮に対する差別意識など虐殺の背景を説明していないものが多い。犠牲者の規模についても「多く」または「多数」という表現で、「虐殺」という表現も使わず「殺害」や「殺傷」と表現しているため、さも一部の人々の逸脱行為により起きた事件であるかのように誤解する恐れがある。

 山川出版社第一学習社の「歴史総合」は神聖天皇主権大日本帝国政府による韓国併合を扱う際、そのタイトルを「日本のアジア進出」と表現している。ここには、1982年に中曽根内閣が起こした歴史歪曲事件での『侵略』を『進出』へ書き換えたり、『外交権剥奪』を『接受』へと書き換えたのと同様の状況への回帰が見られる。 

竹島」については、安倍菅自公政権の「日本の領土」「韓国の不法占拠」という政府見解を「地理総合」や「公共」にそのまま記載させており、「歴史総合」には日本政府(神聖天皇主権大日本帝国政府とするべき)が1905年1月に閣議決定で「独島は日本領」としたと記載している。

 これらに一貫してみられる菅自公政権歴史認識は「神聖天皇主権大日本帝国政府の侵略植民地支配という事実を欺き隠蔽しようとするもの」という事になろう。

 今回の検定で合格した「新しい歴史教科書をつくる会」(つくる会)執筆、自由社の「新しい歴史教科書」についても触れておこう。

 関東大震災については、「朝鮮人虐殺」に関する記述は全くなされていない。神聖天皇主権大日本帝国政府による「朝鮮人強制動員被害者」や日本軍「慰安婦」についてもまったく記述はなされていない。

 神聖天皇主権大日本帝国政府の「国定」歴史教科書の編集方針はどのようなものであったかについて、文部省の図書編集官として「国定」日本史教科書の編纂に当たっていた喜田貞吉(1871~1939)の『国史之教育』(1910年)により紹介しておこう。それには、

歴史とは、➀学問として研究する歴史と、②一般世間の人の目に映ずる歴史と、③普通教育に応用する場合の3つがある。この間には余程の区別が必要である。➀の学問としての歴史は、遠慮会釈なく過去の真相を明らかにするのである。歴史の真実を隠し、美化する事があってはならないとしている。②の世俗の目に映ずる歴史は、この歴史は学問としての歴史を研究した人の目からすると、偏っている。一般世間の人には真相が分からないので、過去の人物や事件の像を、自分の考えを加味して勝手に描いているものであるとしている。③の普通教育向けの歴史は、歴史学からみると間違っていても、普通教育ではかえって利用できる事がある。日本の歴史は「大体において善美」であり、普通教育においては、この「大体」という事が何より大事である」としているのである。

 つまり、「国定」歴史教科書とは、文部省が定めていた「国体の大要」を知らせ「国民たるの志操」を養うものとする日本史教育の指針からはずれる内容を子どもたちに教えてはならない、とするものであったのである。

 喜田はまた教師が色々な歴史研究の成果を知っている場合に起こす「誤り」についても示しており、歴史学の専門誌や著作を読んで、それを子どもに話す教師の事を、「不心得な教師」と言っており、教師は研究をしてはいけないとしていたのである。神聖天皇主権大日本帝国の教育は政府の「意図」に沿った偏向した内容であったという事である。そして、菅自公政権学習指導要領私物化して実質的に国定による教科書編集制度への回帰を果たしたという事である。

(2021年4月4日投稿)

 

 

 

 

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「パン屋に特定した検定意見ではない」閣議決定は指導要領と教科書検定の私物化を隠蔽し公正を装うもの

2023-03-30 23:25:07 | 教育

 安倍政権は「学習指導要領(伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度)に照らして、扱いが不適切である、との意見を付したが、パン屋に特定した意見ではなかった」とする閣議決定をしたが、これは、政権が学習指導要領と教科書検定制度を私物化し、自己の偏向した政治目的を達成するために使った陰険狡猾な検定手法を隠蔽し、公正に実施したように装い、国民を欺く事を目的としたものである。

 安倍政権は、道徳教科書の検定結果(パンを和菓子に、アスレチックを和楽器になどに修正)に対して、国民から批判(安倍政権文科省が修正を強要した)を受け、慌てて?答弁書を閣議決定し弁明?したが、その弁明の内容自体に、安倍政権の陰険狡猾さがあらわれている。それは、安倍政権が自己の偏向した政治目的(大日本帝国への回帰)を達成するために学習指導要領制度と教科書検定制度を私物化し、政権に都合の良い教材を整備するため、教科書会社に対し、政権の意向に沿った修正をせざるを得ないように誘導する手法で修正をさせておきながら、その修正は教科書会社の自主的なものであるとして責任転嫁し、政権の指示強制である事を隠蔽したものであるからである。

 検定の手法は、安倍政権文科相の意向に沿わない教材内容である場合、検定担当者が教科書会社に指導要領を示し、政権の意向を暗示し(忖度させる、敗戦までは内面指導するという)その意向を読み取らせる(解釈)ようにし、その後どうするかは教科書会社の判断に委ねているのである。ただし、修正しなければ合格させないのである。たとえば、尊重すべき伝統・文化の内容や、愛すべき国や郷土の姿については、政権が大日本帝国(憲法)下の内容や姿を記述する事を求めている事を暗示し、それを教科書会社にそれを読み取らせるという手法をとっているのである。

 教科書会社が、敗戦後の日本国(憲法)下の内容や姿を読み取った(解釈)としてもなんら問題はないのであるが、また、本来そのようにすべきであるにもかかわらず、政権が、自己の一定の(偏向した)意向に反した解釈をしていると判断した教材は、不合格とし認めないのである。教科書会社は合格しようとすれば、政権の一定の(偏向した)意向に沿うしか道はないのである。そして、その間の教科書会社の修正行為については、安倍政権文科省は、教科書会社の自主的な判断に基づくものであって、指示強制したものではない、とうそぶく事ができるようにしてあるのである。自己の責任(指示強要)を問われても否定できるように逃げ道を作ってあるのである。

 閣議決定答弁書は上記の検定の手法を隠蔽して、「(文科省が)パン屋に関する記述に特定して検定意見を付した事実はない」とし、その指摘事由は「学習指導要領に示す内容(伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度)に照らして、不適切である」との意見を付した、としているのである。そして、「教科書会社が自主的にパン屋を和菓子屋に修正した」(文科省担当者は「文科省が書き直しを指示していない。誤解だ」)としているのである。つまり、検定は公正に実施しているという事を主張しているのである。しかし、それは事実ではなく公正を装って国民を欺くためのアピールなのである。この手法は、教科書会社は経営上政府を敵に回したくないと考えているため、自らは抜本的な解決を求めにくいという、教科書会社の足元を見た手法でもあるのである。これが安倍政権の陰険狡猾さなのである。

 安倍政権は自己の政治目的を達成するために学習指導要領や教科書検定制度を私物化し上記の手法を使って悪用しているのであるから、検定で「不適切」を指摘する際に、「どこがどのように」などの丁寧な対応説明を教科書会社に対してするつもりは毛頭ないし、「修正変更も教科書会社の自主的判断である」とうそぶくつもりであるから、閣議決定した答弁も、それ以上の内容ではなく、自己の手法については一切触れず隠蔽し、検定の公正を主張するののみである。

 安倍政権が、教科書検定で自己の意向に沿った教材を強制している事が公けになれば、国内外で「安倍政権は全体主義」(実質はその通りであるが)と、それこそ即座に大問題となり、民主政治を装っている政権にとっては取り返しのつかないダメージとなる事を恐れているので自己の検定手法は国民に対し隠蔽し知られてはならないのである。

最後に、道徳の授業は、現実の人間関係や現実の生活を無視して紋切り型に画一的に内容(徳目)を押し付け刷り込む事にしかならない。大日本帝国下の「修身科」の現代版である。つまり、安倍政権は教師と生徒に徳目に基づく「しつけ」をしたいのである。生き方を画一的に統制したいのである。道徳は国民を「支配している」と言ってよい安倍政権にだけ都合が良いのだ。教える教師も教えられる生徒もともに現実との違和感を抱きしらけた退屈な無意味な授業になるだろう。そして、建前と本音を使い分けて生きる人間を増産する事になるだろう。

人間は現実の個々の人間との関わりや生活の中で様々な経験体験をしていく事によって自分にとって本当に役に立つ生きる知恵を生き方を身につけていく事ができるのである。

安倍政権だけに都合の良い道徳は廃止すべきだ。

そして、人権意識を育む教育を、民主主義を育む教育をすべきである。道徳にはその言葉はもちろん内容もない。

※カテゴリー「教育」の中の別稿「道徳の教科化の狙いは立憲主義の否定の自民改憲草案イデオロギーの注入(洗脳)、人権侵害であり憲法違反」も読んでください。

(2017年4月11日投稿)

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八木秀次(教育再生会議)の道徳教育必要論は神聖天皇主権大日本帝国政府の国体護持の手法と同じだ

2023-03-30 07:00:39 | 教育

 数年前に安倍自公政権を支える八木秀次(教育再生会議)道徳教育の必要性について述べた事がある。それは、

 人口減少の打開策として生産に参加していない人やリタイアした人を活用する事、それが一億総活躍社会だ。同時に現在の国民の質を上げ、何倍もの生産性を上げる必要がある。文科省のデータに、労働市場に影響を与える4つのモラルがある。

①嘘をついてはいけない。②他人に親切にする。③ルールを守る。④勉強する。

 これをすべて満たした者は、一つでも欠けた者より年収が57万円も多い。すべて満たした者は、すべて欠けている者より86万円所得が多い。年収が多ければ税収も増え、国家全体の活力を生み、利益を上げる。このように、道徳向上によって経済的効果を上げる事ができる。だから、道徳教育を国家戦略に結びつけなければならない。道徳は金儲けになる生産性を上げるための道徳だ、と。

 これが八木秀次氏の道徳教育必要論である。そして、安倍自公政権は近年、小中学校において道徳を教科化した。ところでこのテキストをどこに見つけたのか。それこそ、安倍自公政権が回帰を目指す、神聖天皇主権大日本帝国政府の手法に見つけたのである。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、その国家体制=国体神聖天皇主権政治、資本主義経済の発展)を守るために、学校教育で、宗教(国家神道)的道徳教育の基本として教育勅語を定め、修身科教科書で具体化し子どもたちに刷り込(洗脳)んだ。天皇の兵士軍人に対する道徳としては軍人勅諭により刷り込んだのである。

そして、それを否定拒否し変革しようとする者に対しては治安警察法や大逆罪、治安維持法(国体変革、私有財産制の否定は最高刑死刑などと制定)などで締め上げ生命をも奪ったのである。

 主権者国民に憲法で保障している自由などの天賦の人権はその実質を奪われ、今、言葉だけ看板だけのものにされつつあり、安倍自公政権が準備している憲法に改正(国民にとっては改悪である)する事により明治維新につくられた神聖天皇主権大日本帝国への回帰を達成しようとしているのである。選択的夫婦別姓制度(男女平等、個人の尊重)を認めない理由もそこに根拠があるのである。

(2020年2月26日投稿)

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道徳の教科化の狙いは、立憲主義否定の自民改憲草案イデオロギーの注入(洗脳)、基本的人権の侵害であり憲法違反。生き方は自分で悩み苦しみ見つけていくもの。政府教師の押し付けは敗戦前に逆戻り。

2023-03-30 06:56:45 | 教育

※下記は2016年7月26日投稿の内容であるが、改めて投稿する事にしたものである。

 安倍自民党政権による「道徳の教科化」の真の狙いは、立憲主義を否定した大日本帝国憲法回帰の「改憲草案」の基礎イデオロギーを学校教育において「子どもたち」に注入(洗脳)しようとする事である。教科化する「道徳科」は「改憲草案」のイデオロギーを学校教育の場を利用し「教員」に有無を言わせず従わせて「子どもたち」に「保護者」に浸透させる事なのである。その内容は他でもなく「教育勅語」やその具体化である「修身科」の教科書で取り上げていた内容とほぼ同一で、装いを新たにして使用するだけなのである。また、記述式であろうが、「どれだけ成長したかを評価する」という事は、「道徳的に模範とすべき人間像」「身につけるべき徳目」を安倍政権が規定し押し付ける(「国定教科」であり、「国定教科書」使用と言ってもよい、「改憲草案」を具体化する教科という事で「立憲主義の否定」である)という意味である。その内容や評価が子どもたちにとって(人間にとってと言っても良い)非実態的非現実的で多様性を認めない画一的なものであるにもかかわらず。

 メディアは、「道徳教育の教科化」のきっかけについて、「大津市のいじめ事件」を受けて安倍自民党政府の「教育再生実行会議」が子どもの規範意識などを育てる、という名目で提言したとしている。しかし、これは真実ではない。メディアが情報操作をしているとみなすべきである。なぜなら、自民党にとって、「道徳教育の教科化」は戦後一貫した宿願であったからだ(1958年に「道徳の時間」を特設)。そして、第1次安倍政権時には、教育基本法を否定し全面改訂するとともに、それまでの「道徳教育」のあり方を否定して、すでに、「教育再生会議」が「第3次報告」の中で「徳育(道徳)の教科化」を提言していたからだ。しかし、中教審では見送られたのである。だから、前述の「いじめ事件」は安倍政権にとっては予期せぬ出来事であったが、彼らは「教科化」実現には都合のよい口実として利用したのである。

 「修身科」と「道徳科」の教科書内容を比べてみよう。「修身科」は1920(大正9)年発行の『尋常小学修身書 巻四』を見ると、27項目あり、第1明治天皇、第2能久親王、第3靖国神社、第4志を立てよ、第5皇室を尊べ、第6孝行、第7兄弟、第8勉強、第9規律、第10克己、第11忠実、第12身体、第13と第14自立自営、第15志を堅くせよ、第16仕事にはげめ、第16迷信におちいるな、第18礼儀、第19よい習慣を造れ、第20生き物をあはれめ、第21博愛、第22国旗、第23祝日大祭日、第24法令を重んぜよ、第25公益、第26人の名誉を重んぜよ、第27よい日本人、となっている。

 「道徳科」の内容項目は小学校5学年及び6学年で22項目を規定し、

A 主として自分自身に関する事として、(1)自主、自立、(2)自由と責任、(3)節度、節制、(4)向上心、個性の伸長、(5)希望と勇気、克己と強い意志、(6)真理の探究、創造、

B 主として人とのかかわりに関する事として、(7)思いやり、(8)感謝、(9)礼儀、(10)友情、信頼、(11)相互理解、寛容、

C 主として集団や社会とのかかわりに関する事として、(12)遵法精神、公徳心、(13)公正、公平、社会正義、(14)社会参画、公共の精神、勤労、(15)家族愛、家族生活の充実、(16)よりよい学校生活、集団生活の充実、(17)郷土の伝統と文化の尊重、郷土を愛する態度、我が国の伝統と文化の尊重、国を愛する態度、(18)国際理解、国際貢献、

D 主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関する事として、(19)生命の尊さ、(20)自然愛護、(21)感動、畏敬の念、(22)よりよく生きる喜び、

としている。このようにほぼ同一内容項目である。

 このような紋切り型の内容項目で「子どもたち」が評価される事自体、無意味である。教師や文科省や安倍政権にとって「洗脳」の効果を確認できるという意味があっても、「子どもたち」にとっては「本人の真の心の状態とはかけ離れた」何の意味も持たないものである。子どもたちがそれをもとに自らを育むものとはなっていないのである。安倍政権の「道徳の教科化」は子どもたちのために行われるのではない。安倍政権にとって統治支配しやすい人間を育てるためなのである。

 文科相専門家会議の報告によると、「授業法」はグループで話し合い、役割演技をして考える方法などをあげている。しかし、信頼関係ができていない子どもたちの間で、「なぜ役割演技をさせられなければならないのか」とか、「なぜ感想文を書かされなければならないのか」という疑問や思いを生徒や保護者が抱く事をまったく考慮しておらず、当然である事としてまったく無視しているといえる。この姿勢行為は、憲法が子どもにも保障する思想信条の自由などの人権を侵害する行為であり、安倍政府による、生徒に対する思想調査につながる行為であり、憲法に照らして行ってはならない行為である。評価を入試の合否判定には使わない方針を示したというが、当然の事であり、文科相の専門家会議が「了承した」というのも人権を軽視無視否定した傲慢な態度を表しており、本来審議するまでもない事である。

 安倍政権、文科省などは、保護者の子どもに対する「教育権」を否定しようとしているのである。子どもたちの教育は「政府」が行うものという「認識」に立っているのである。立憲主義を否定し、三権分立を否定し、行政権絶対政治(天皇制絶対政治)の政治体制を作り上げようとしているのである。

 三権分立 モンテスキュー「法の精神」1748年

「……権力を持つ者はすべて、それを濫用する傾向がある事は、永遠の体験である。……人が権力を濫用しえないためには、事物の配列によって権力が権力を阻止するのでなければならぬ。……同一人、又は同一人の執政官団体の掌中に立法権と執行権(行政権)が結合されている時には、自由はない。なぜなら、同じ君主あるいは同じ元老院が暴政的な法律を定め、それを暴政的に執行するおそれがあり得るからである。

 裁判官が、立法権と執行権から分離されていない時にもまた、自由はない。もしそれが、立法権に結合されていれば、市民の生命と自由を支配する権力は恣意的であろう。なぜならば、裁判官が立法者なのだから。もしそれが執行権に結合されていれば、裁判官は圧制者の力を持ちうる事になろう。

 もし同一の人間、又は……同一団体がこれら3つの権力、すなわち法律を定める権力、公共の決定を実行する権力、罪や私人間の係争を裁く権力を行使するならば、すべては失われるであろう。」

 現在の安倍政権は三権分立を形骸化させのである。

東京都民は、東京都はもちろん日本を安倍政権に蹂躙させないために、安倍政権とともに「日本会議」の有力メンバーである「小池百合子」を都知事にしてはいけない。

かつてドイツ国民が、騙されていると知らず「ヒトラー」に未来を託したように。

(2020年9月8日投稿)

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道徳教育は学校の教育活動全体を通じて行う:神聖天皇主権大日本帝国国民学校の教育手法に倣う

2023-03-30 06:52:13 | 教育

 道徳教育新学習要領の総則で「学校の教育活動全体を通じて行うもの」とし、解説でも他教科との関連を明示させるようにしている。教科教育を含む学校教育全体で道徳を教える、全教科の『道徳化』を行ったのである。そして、親や家庭や地域を巻き込んで推進していこうとしている。この教育手法は神聖天皇主権大日本帝国政府が実施した国民学校の教育手法に倣ったものであり、安倍自公政府が、敗戦までの大日本帝国政府が最重要視していたウルトラナショナリズムをその内容とした「修身」の内容を、再び現在の子どもたちに強制し洗脳するための教育体制である。本来、道徳教育自体が思想教育であり憲法違反である上に、さらに上記のような偏向した思想に基づく教育手法を推進する安倍自公政府の姿勢を主権者国民は断じて許してはならない

 国民学校は、帝国日本が米英に対して宣戦布告する年である1941年の3月1日、神聖天皇主権大日本帝国政府がそれまでの小学校令を廃して、国民学校令(勅令第148号)を公布し、4月1日から実施した。

 国民学校令第1条は「国民学校は皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を為すを以て目的とす」とある。「皇国」とは、皇国史観による「天照大神の神勅」が定めた「神の子孫である万世一系の天皇のしろしめし給う国」であり、「皇国の道」とは教育勅語の中の「斯の道」、つまり「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」という勅命に従う生き方である。「普通教育」は小学校令の「生活に必須なる普通の知識技能」ではなく、政府国家が要求する皇国民としての必須の条件を満たすだけの教育を意味する。つまり、国民学校は、国民を育成するのではなく、皇国民を錬成する事だけを目的としていた。

 国民学校は、『国体の本義』に盛り込まれた皇国史観ナチス・ドイツの教育制度を参考として作ったものであった。従来分立していた教科は4つの教科に統合した。例えば国民科修身、国語、国史、地理の教科を統合したもので、国体(神聖天皇主権)の精華を明らかにし国民精神を涵養し忠君愛国の志気を養うべき科目とし、「皇国に生まれた喜びを感ぜしめ敬神奉公の真義を体得せしむる事」を第一とし、その教育手法としては「それぞれの教科が、さらに式典などの学校行事とも関連をもたせ、多角的に教育する事」としていた。施行規則には、各教科並びに科目はその特色を発揮せしむると共に相互の関連を緊密ならしめこれを国民錬成の一途に帰せしむべし、儀式、学校行事等を重んじこれを教化と併せ一体として教育の実を挙げるにつとむべし、家庭及び社会との連絡を緊密にし児童の教育を全からしむるにつとむべし、と定めている。上記の道徳教育に関する新学習指導要領の総則や解説はこの手法と価値観をテキストにしているのである

 この学制改革について、教育審議会の整理委員長であった林博太郎は、雑誌『国民学校』創刊号の座談会で、「小学校令で道徳教育と国民教育の二つを挙げたのは、一は個人の人格を、一はその個人を国民として完成させようとする意味であった。しかし、今度は、個人だ国民だなどとそんな区別はしておらんよ。皆皇国民にするのだこれこそ日本独自の条文」とし、それを受けて、東京高等師範教授、付属小学校主事、文部省教科調査委員会芸能科主査佐々木秀一は「小学校令はどこの国の国民を教育するのに当てはめても差し支えない。大体あれは翻訳だったんです。国民学校令はわが国独自の令である」と述べ、小学校令は普遍的な価値観に基づいているが、国民学校令は帝国日本独自の価値観に基づいているとして誇っている。

 国民学校の教育は、天皇と政府国家の命令にだけ従う思考しない人間、判断しない人間、心身ともに「天皇に帰一」する人的資源としての人間を作り出すための「鋳型にはめる」教育であった。また、「日本古来の教育道は我流を否定し、我儘を打ち破り正しき型に入れて人間を作る。武道の指南、徒弟の躾、丁稚の修行みな然りである。一言にして躾の教育である。心身の使続を正しき型に入れて癖を矯め一定の規矩準縄に入れる事である。学問・道徳・技能・礼儀・作法・芸能すべてこの途によって、打っては灼き灼ては水につけ、つけては打つ。あたかも鍛工のそれに比し得られる。これ人間を仕上げる唯一の方法である。国民学校の教育は、皇国臣民とはかくあらねばならぬという理会の下に、被教育者は教育されねばならぬ指示する規範に従わねばならぬのでその自由意思にまかせるのではない」という。

 東京市視学・野口彰によると、理想の教師像とは「教師の持ち合わせの観念的な知識を生徒に伝達し注入するのが教育ではなくて、……皇国の道を体得する事が教育なのである。これこそ総合の教育であり、日本文化の地盤に生い立てる教育なのである」としている。

 東京高等師範教授・石山脩平は国民学校最初の新入生を迎える教師の心構えを、「唯漠然たる人間の子を迎えるのではなく、また街や村の誰彼の子を迎えるのではなくて、実に『すめらみくに』の『おおみたから』を迎えるのであり、皇国民の若い民草をむかえるのである。入学第一日は先ず以て御真影奉安殿に最敬礼させたい、皇居と神宮の遥拝もさせたい。護国の英霊と前線の兵士への感謝の黙祷もさせたい。皇国民の民草は最初から皇国の空気を吸って生い立たせるようにしたいのである。学級経営についても精神は同じである。担任教師を父とも仰ぎ、母とも懐いて、それを中心に全級が融和する姿は、やがて大にしては天皇を中心として億兆一心に相和する皇国の姿に連なるものであらねばならない」と説いている。

 国民学校制度では、教師用の指導書を発行して教師の自由な発想による説明を禁じ、授業を政府国家の管理下に置き統一した。自由主義教育が推進した教師個人が創意工夫する授業は「恣意的」とみなし、授業も政府国家の権力により鋳型にはめ込んだ。2020年度から使用される小学校教科書は、「若手教員の増加に対応して、その記述が詳しくなっている」といわれるが、それは的を射ていない。それは教師の自由な発想に基づく授業を封じ、政府国家の意図や価値観に沿った授業を強制する事を目的としているのであり、国民学校制度がテキストとなっているのである。国民学校の教科書は、終始神代からの「歴史」による天皇の「御稜威」なるものを説き、その天皇をいただく日本国民の幸福を説き、同じ恩恵を「これを中外に施してはばからず」の教育勅語の一説を支えとして「大東亜共栄圏」の人々に施そうとしたものである。しかし、この「理想」の裏には、「社会主義思想から天皇制を護る」という、教科書では触れない隠された動機が存在した。社会革命が日本に波及する事を怖れて、その温床と信じた自由主義思想の根絶に目標があったのである 

 安倍自公政権の姿勢をこのまま許しておくならば、今後、神聖天皇主権大日本帝国政府が行った教育政策のように教師に対する思想的チェックと圧力はさらに増すであろう。国民学校時代の教師採用は警察官の採用のように思想調査が重視され、その任務は大日本帝国社会の安寧の維持のための非国民の監視であった。そして、綴り方教育運動など自由主義教育に取り組んでいた教師は治安維持法によって思想弾圧を受け追放されたり辞めざるを得なくされた。

 つまり、安倍自公政府の教育方針目的に沿わないものは、教師として採用される事はなく、すでに教師である者で安倍自公政権に沿わない者従わない者には、己のポリシーや理念を捨て政府に沿うように転向」をするか、そうでなければ「引退」をせざるを得ない状態に追い込もうとしているのである。この政府の圧力は、教師だけにかけられているのではなく、同時に親や保護者やそれを含む主権者国民全体にかけられているのであり、どの立場に立つかの「選択」を迫っているのである。

(2019年5月25日投稿)

 

 

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