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相撲の女性見物についての明治維新におけるある事実と公益財団法人としての「大相撲」の隠れた問題

2024-04-03 23:53:24 | 相撲

 江戸時代の相撲は晴天十日間で行われていたが、女性はそのうち十日目の千秋楽にしか見物を許さなかったようである。また、この日は幕内力士は出場せず、幕下以下の取り組みだけであったが、この日以外はいかなる身分の女性であっても、見物は許さなかった。

 しかし、明治維新となり、各大名がそれまで抱えていた力士の抱え止めるようになった事もあり、相撲の衰微が見え始めた。そのためそれに不安を感じた当時の相撲会所筆頭(現在の日本相撲協会理事長)の玉垣額之助と同筆脇(現在の同理事)の伊勢ノ海五太夫が相撲を愛好していた前土佐藩主であった山内豊信(容堂)に相談をした。そしてその容堂の意見にもとづき、1872(明治5)年11月22日からの回向院本場所において、その二日目から女性の見物を認める事となり、以後この例にならう事となったという。

 ついでながら、「相撲」はモンゴルや朝鮮でも古くから行われており、日本の相撲の源流はその地域にあると考えるべきであろう。

 朝鮮の相撲はシルムといわれるもので、その原形は高句麗の古都輯安(集安)にある角抵塚古墳(鴨緑江対岸、現在の中国側)の壁画に描かれており、中国の後漢書にも記述があり、その起源は2~7世紀の間であると見られている。

 日本の相撲に話を戻します。日本の相撲は明治維新までは多様な形で行われていた。たとえば「男女の相撲」や「女どうしの相撲」「座頭相撲」などであるが、神聖天皇主権大日本帝国が確立していくなかで政府はそれらを「野蛮」であると見なして廃止し現在の「大相撲」化を主導した。

 そしてその後、政府が帝国主義化や軍国主義・侵略主義化・ファシズム化する中で、政府の政策として、「大相撲」の「土俵」が「神聖なるところ」に捏造され、原形がつくられ戦後も大きく変化しないまま現在に至るのである。そして大相撲自体が、日本相撲協会もその構成員も、力士一人一人も、目的(建前)と実態(本音)が大きく乖離しており、「伝統」と称するものも「中身のない」「屁理屈」の「綺麗事」に過ぎなくなっており、当事者自身も論理的になっとくできる説明と行動ができない状態となっている。さらに言えば、この「大相撲」(興行)での飲食物業で独占的に暴利をむさぼっている(ぼったくり)連中と結託し彼らに旧態依然のままの商売手法を続けさせている事は公益財団法人として問題である。その面での透明化をすべきである。それでこそ公益財団法人と見做せるのではないか。

(2018年4月19日投稿)

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日本相撲協会は偏執狂;白鵬は親方になるため日本国籍を取得

2024-04-03 23:50:33 | 相撲

 公益法人日本相撲協会は、親方になる条件に「日本国籍を有する者」としたのは1976年であった。その理由は「明らかではない」というが、なんと奇妙で無責任な組織というべきだろう。きちんと説明できないというのである。しかし、漏れ伝わる事としては「伝統文化やしきたりを継承する際、外国出身の親方では指導がおろそかになると懸念したのではないか」と言われたりしているようだ。ところで、その理屈によれば、日本国籍を有する人間はすでにそれだけで、親方になる条件を具えている事になるが、それは誰もを納得させる説明とはいえないと思うけれどどうだろう。生れながらに自分自身の意思でなくとも日本国籍を有すれば、それだけですでにその人間に何かが備わっているというのであろうか。現代の日本人の価値観は多様化している。日本国籍を有しておれば、すべての人間が共通の何かを有していると言うのは幻想であり誤解している。であれば、親方になる条件を具えていると単純に決めつけて良いものだろうか。もし決めつけて良いというのであれば、理路整然と公けに説明できるだろうしすべきであろう。しかし、そうしようともしない。なぜだろう。また、これまで誕生した外国出身の親方がそれぞれの時点で日本国籍を取得した事によって、それまでと一転して、なぜ親方になる条件を有する事になったといえるのかを説明すべきであろう。

 また、伝統文化というが、伝統とは単に長い年月を受け継いできているという事だけではなく、それ以上に大切な事は、非常に多くの人間が「尊重」し「継承」してきたという状況が存在する事なのである。たとえどれほど長い年月、何らかの形で継承してきても、多くの人が重要視していなかったり、否定的に見ていたり、無関心になってしまっている場合は「伝統」と言うべきではない。それをなお「伝統」と言おうとする人間が存在するならば、その人間たちは「偏執(者)」、つまり「偏見を固執して他人の言説を受け入れない(だけの人間である)」と言うべきである。また、「偏執狂」、つまり「ある物事に執着し、その事では異常な行動まで行う精神病状(にある人間)」と言うべきであり、普遍性のない価値を偏執する、独善的で傲慢な人間そのものであると言うべきである。当然、主権者国民の納める税金との関係で公益法人として認めるわけにはいかない。

 それに比べて白鵬は、なんと普遍的に支持される国際的な感覚や理解を有している国際人である事だろう。不明朗で無責任な姿勢を続ける公益財団・日本相撲協会(おそらく安倍自公政権を翼賛、忖度する価値観を有する人間集団であろう)は誰からも世界からも認められないものであり恥じ入るべきものである。彼はモンゴル国籍離脱と日本国籍取得(帰化という言葉を使用するのは誤りである)について述べている。「人間そのものが変わったわけではない。自分の国を愛しているから、日本という国を愛せる。また、両親、きょうだいを愛しているからこそ、この国の人々も愛せる」と。

(2019年9月9日投稿)

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大相撲のNHK・TV放送ではなぜ「東方」が「左」側なのか?

2021-05-24 18:00:46 | 相撲

 NHKの大相撲TV放送では「東方」が「左側」に、「西方」が「右側」に映し出されているが、この事に気づいている人はどれほどいるだろうか。恐らく意識して見ている人はあまりいないだろうから気づいていない人の方が多いかもしれない。また気づいている人でも、なぜこのようになっているのかという理由となると、それをご存知の方はほとんどいないだろうと思う。日本相撲協会はこれを当然の事としているようであるし、政府もNHKもこれまで、この事について取り立てて自ら進んで改革しようとしてきていないし、国民も主権者でありながら、ほとんどの人が気づいていないため、また気にかけていないために取り立てて問題提起してきていないまま当たり前のように今日に至っていると言ってよい。しかし、この理由は、最近たまたま表面化し、日本相撲協会がその姿勢を問われ改革を求められている、土俵の「女人禁制」の認識価値観と根っこを同じくする問題と言ってよいものなのである。

 この発端は、テレビ放送が開始される以前にすでにあったのである。

 1908年に東京相撲(1927年、東京相撲協会と大阪相撲協会が統一され大日本相撲協会となる。)が九州で地方巡業を行った際、相撲司の吉田追風が「行司溜まり」(行司が控える場所)が北方角にあるのはおかしいと指摘した事が始まりであった。つまり、彼が故事の「君子は南面す」に基づいて、「北」は天皇(天子)が観覧する位置であるから、そこに「行司」が控えるのは良くないと主張したのが発端なのである。

 1909年に竣工した旧国技館においてもその指摘に基づいて、行司が天皇に背を向けないように、天覧用の玉座を「北側」に、行司溜まりを「南側」に設置したのである。そして、天皇から見ると、左側は「東」となり、右側は「西」という事になるのである。 

 そして、新憲法制定後のNHKTV放送は、中継を開始する際にもこの認識価値観を踏襲し、天覧席貴賓席の方角(北)からの天皇皇族主体の目線で放送を続けているという事なのである。ちなみに、今日の両国国技館における「東」は、実際は「北」の方角である。

 それを主権者国民は疑問を感じる事なく受け入れているという事なのである。

(2021年5月24日投稿)

 

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もっと教えて!ドラえもん「相撲……世界中に」:ルーツは朝鮮半島、紙面の無駄、購読料のぼったくり

2020-10-05 12:36:04 | 相撲

 2020年10月4日朝日新聞朝刊の「もっと教えて! ドラえもん」で「相撲に似た国技 世界中に」と題して、「相撲」を取り上げた。しかし、この記事は、それなりに「相撲」についての雑多な「ものしり」的知識にはなるが、日本の「相撲」(記事は曖昧にしているが、他国においては法律で定めている場合が一般的であるが、日本の場合は法的に「国技」として定められたものではなく日本相撲協会が手前勝手に主張しているだけである、また国民がそう思っているだけである)のルーツについて伝えていない点で、「歴史認識」を培ううえでは浅薄な内容でしかなく、極端に広い紙面を割いている割には記事の価値は低く、購読料の「ぼったくり」と言って良いものだ。

 ところで、日本の「相撲」のルーツについてであるが、端的に言えば「朝鮮半島」にあると言って良い。三国時代の高句麗国の古都集安(広開土王碑も建てられている)にある角抵塚(かくていづか)古墳(鴨緑江の現在の中国側)の壁画裸(李朝時代には着衣のまま。現代は上半身裸)で「相撲」が行われているのが描かれているからだ。中国の『後漢書』にも記されている朝鮮相撲で「シルム」というものだ。起源は2~7世紀の間とみられている。その姿は、腰から右ひざに日本の相撲の「まわし」に当たる布を巻き、互いに利き腕をかけて組み合ったまま競技をはじめ、左足で全身を支えながら倒し合う。日本の相撲のような「土俵」はない。両足の強靭さを競い合う点では「モンゴル相撲」に似ているようだ。

 今日韓国では、旧暦5月5日に「端午の節供」を祝う行事として行われているようだ。また、国民体育大会で実施され、プロ組織もあるようだ。

(2020年10月5日投稿)

 

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公益法人日本相撲協会:宝塚市長の穏やかにして公然たる抗議に屁理屈抜きの待ったなしの回答を。

2018-04-09 11:18:43 | 相撲

 大相撲春巡業の舞鶴場所での「女人禁制」問題が、国内、世界で大問題となっているにもかかわらず、次の6日の宝塚場所においても公益財団法人・日本相撲協会のその姿勢には何らの変化も見せなかった事が残念である。主権者である宝塚市民や国民の人権を無視し、侵害したという事を認識できないようである。国民とは異なる協会の意識、価値観に違和感を感じた。

 中川宝塚市長は前日の5日、土俵上の挨拶について、企業などでつくる巡業の実行委員会を通じて日本相撲協会に「土俵上で挨拶したい」と要請したが、協会と実行委は「伝統に配慮して昨年同様に土俵下で挨拶してほしい」と断ったため、市長は土俵下の台上から挨拶をした。しかし、その内容は日本相撲協会に対する、穏やかな口調ではあるが公衆に直接訴えかけた厳しい抗議であり、その勇気は称賛に値し、その意義は大きい。

 主権者国民の支持を得られない「大相撲」は「国技」という言葉に値しないし、「国技」という言葉を使うべきではない。それでもなお「女人禁制」を「伝統」として固執する事は、それは単なる「偏狭」な価値観に固執しているだけであるとしか言えないもので、日本相撲協会はマニアックな独善的組織に過ぎないという事であり、公益財団法人としての資格を有しているとはいえず、剥奪すべきである。

 以下に、宝塚中川智子市長の挨拶を紹介しよう。

「私も小さい時から相撲が大好きで、いつも相撲を楽しみに見ていました。そして今、開催地の市長として、挨拶させて頂きます。私は女性市長ですけども人間です。当たり前の事です。実は開催地の男性市長さんは土俵の上に立って、挨拶します。私は土俵の外で、挨拶させて頂いています。でも皆さん、そして相撲協会の方に聞いて頂きたい女性であるという理由で、この宝塚市の市長でありながら、土俵の上で挨拶できない、これは悔しいです。辛いです。私は考えてもらいたい。相撲協会は伝統を大事にし、国技である相撲をずっと守ってらっしゃいました。伝統は大事にすべきです。でも今、時代はどんどん変わり、女性の知事、市長も増えています。その時に女性は、絶対に土俵の上に上ってはいけないのでしょうか。いけないという意見もあるでしょう。でも、相撲協会の皆さん、そして皆さんに考えてもらいたい。伝統を守りながら、変えるべきものは変えていく。変革する勇気も大事ではないでしょうか。皆さん、思いっきり私の心のうちを聞いて頂いて感激です。来年も宝塚場所があると思います。その時はこの上から挨拶できるように、共に力を貸して下さい。」

思考停止に陥るところに進歩発展はなく、堕落腐敗を深め独善に陥るだけである。

※望ましい伝統基本的人権の尊重をうたう憲法を無視したものであってはいけない。 

 

 

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