江戸時代の相撲は晴天十日間で行われていたが、女性はそのうち十日目の千秋楽にしか見物を許さなかったようである。また、この日は幕内力士は出場せず、幕下以下の取り組みだけであったが、この日以外はいかなる身分の女性であっても、見物は許さなかった。
しかし、明治維新となり、各大名がそれまで抱えていた力士の抱えを止めるようになった事もあり、相撲の衰微が見え始めた。そのためそれに不安を感じた当時の相撲会所筆頭(現在の日本相撲協会理事長)の玉垣額之助と同筆脇(現在の同理事)の伊勢ノ海五太夫が相撲を愛好していた前土佐藩主であった山内豊信(容堂)に相談をした。そしてその容堂の意見にもとづき、1872(明治5)年11月22日からの回向院本場所において、その二日目から女性の見物を認める事となり、以後この例にならう事となったという。
ついでながら、「相撲」はモンゴルや朝鮮でも古くから行われており、日本の相撲の源流はその地域にあると考えるべきであろう。
朝鮮の相撲はシルムといわれるもので、その原形は高句麗の古都輯安(集安)にある角抵塚古墳(鴨緑江対岸、現在の中国側)の壁画に描かれており、中国の後漢書にも記述があり、その起源は2~7世紀の間であると見られている。
日本の相撲に話を戻します。日本の相撲は明治維新までは多様な形で行われていた。たとえば「男女の相撲」や「女どうしの相撲」「座頭相撲」などであるが、神聖天皇主権大日本帝国が確立していくなかで政府はそれらを「野蛮」であると見なして廃止し現在の「大相撲」化を主導した。
そしてその後、政府が帝国主義化や軍国主義・侵略主義化・ファシズム化する中で、政府の政策として、「大相撲」の「土俵」が「神聖なるところ」に捏造され、原形がつくられ戦後も大きく変化しないまま現在に至るのである。そして大相撲自体が、日本相撲協会もその構成員も、力士一人一人も、目的(建前)と実態(本音)が大きく乖離しており、「伝統」と称するものも「中身のない」「屁理屈」の「綺麗事」に過ぎなくなっており、当事者自身も論理的になっとくできる説明と行動ができない状態となっている。さらに言えば、この「大相撲」(興行)での飲食物業で独占的に暴利をむさぼっている(ぼったくり)連中と結託し彼らに旧態依然のままの商売手法を続けさせている事は公益財団法人として問題である。その面での透明化をすべきである。それでこそ公益財団法人と見做せるのではないか。
(2018年4月19日投稿)