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ふげん廃炉7年先送り。もんじゅ・ふげんの電気代はいくらかかっているか?萩生田経産相が核燃料サイクル推進堅持

2024-10-31 22:06:19 | 原発

※2022年8月8日、文科省と日本原子力研究開発機構は、2033年度に完了予定の新型転換炉ふげん廃炉作業7年間延長すると明らかにした。現在の工法では放射性廃棄物が建屋内で漏洩する危険性がある事が判明したため、より安全な工法に切り替えるための研究開発に期間を要すると説明している。

 2021年11月8日、萩生田光一経産相が、青森県三田村申吾知事六ケ所村戸田衛村長と会談し、今年10月閣議決定したエネルギー基本計画どおり、核燃料サイクル引き続き推進する方針を堅持する事を確約した。自民党総裁選で見直しの是非が議論になったが放擲した。

 日本原子力研究開発機構廃止措置中の高速増殖原型炉もんじゅと新型転換原型炉ふげんについての2021年度の特別高圧電力入札結果が明らかになった。落札者はともに北陸電力である。ほかの応札者は非公表とされている。

 もんじゅ契約電力量は1.1万kW、予定使用量は6,119.8万kWh、落札額は6億1,791.7万円。ふげんはそれぞれ3,700kW、3,092.6万kWh、2億9,962.3万円。

 同じ福井県敦賀市内の日本原子力研究開発機構の施設(敦賀事業本部事務所、敦賀総合研究センターなど)では高圧電力で、落札者はホープ、ほかの応札者は非公表。7か所の合計で1,125kW、288.8万kWh、3,707.8万円。

 もんじゅ・ふげんの電力使用は極めて大きい事が分かる。もんじゅは、ナトリウムが固まらないよう高温維持が必要である。また、もんじゅ・ふげんともに、使用済み燃料プールの冷却にも使われる。

(2022年8月10日投稿)

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大日本帝国議会では、「民族優性保護法案」が5度提出されていた

2024-10-30 23:19:43 | ハンセン病

 1996年6月18日国会は、1948年9月から実施された「優生保護法」の一部「不良な子孫の出生を防止する」を「削除」し、法律名称を「改称」した「母体保護法」を成立させた。ところで「優生思想」に関連して神聖天皇主権大日本帝国政府では、1931年には日本医師会が「遺伝の濃厚な疾患について断種の法的規制を」とする答申を政府に出していた。そして、その3年後の1933年第65回帝国議会からは、34年第67回帝国議会、36年第70回帝国議会、37年第73回帝国議会、38年第74回帝国議会と帝国議会に「民族優生保護法案」が提出されていたが、いずれも成立しなかったという歴史が存在した事を紹介したい。

第65回第67回議会での法案内容は以下の通りであった。

目的」は、「民族の優生を保護助長し、悪種遺伝を防止根絶する」とし、

対象」は、➀殺人、強盗その他狂暴な犯罪者で、その悪質を遺伝すべきと認められる者 ➁精神狂症、遺伝的脳脊髄病、早発性痴呆症等で、その症状により、これら悪疾を遺伝すべきと認められる者 ③諸種の中毒症、ヒステリー、遺伝性不具、結核病、頼病等の重症者その他優生学上不正常児以外は産めないと認められる者

手術方法」は、「保性断種

人口妊娠中絶」は、「断種対象者の悪種を懐妊した者に対しては、法医審判を経て堕胎させる」

結婚制限」は、「断種対象者で断種法の施術を受けない者又は梅毒淋疾の帯患者で完全に治癒していない者は婚姻できない。全て婚姻しようとする者は、法律上の条件を具備した旨の当該官公吏の証明書及び医師の健康診断書を提出して婚姻許可証を受けなければならない」

罰則」は、「以下の各号に該当する者は、1年以下の禁固又は500円以下の罰金に処す。➀本人が欺罔して結婚したとき ➁本人又は家族が虚偽の申立をしたとき ③故なく本法の手術を拒んだとき ④許可証なく婚姻したとき

施行日」は、「勅令をもって定める」

第70回第73回第74回議会での法案内容は以下の通りであった。

目的」は、我が民族の優秀なる素質を保護し、悪質遺伝を防遏する」

対象」は、「精神薄弱者、癲癇者、精神乖離症者、躁鬱病者、ハンチントン氏舞踏病者、強度な病的人格者、遺伝性盲者、聾者又は強度な身体的畸形者で、これら劣等な素質を遺伝するおそれ顕著なる者」

手術方法」は、「断種(精子又は卵の輸精管又は輸卵管を通過することを不可能ならしめる手術」

申請者」は、「➀本人 ➁戸主、法定代理人又は保佐人、官公立の精神病院、刑務所、矯正院又は教護院の長戸主、官公立の精神病院等の長の場合は本人の同意を要す、ただし本人が無能力者のときはその配偶者、法定代理人又は保佐人の同意で可」

審査機関」は、「優生診定委員会(保健衛生に従事する官吏及び医師若干名で組織、厚生大臣※が任命又は嘱託)」(※第70回議会提出法案では内務大臣)

手続」は、「地方長官は、申請を受けたときは、優生診定委員会の議に付し、優生診定委員会は3月内に断種の適否に関する協議をなし、その結果を厚生大臣※に具申しなければならない。厚生大臣※は、断種を適当とする旨の具申を受けたときは、1月以内に指定する場所において、任命された医師に断種手術を行わせなければならない」(※第70回議会提出法案では内務大臣)

報告」は、「断種の手術をした医師は、手術後30日以内に手術の結果及び経過を厚生大臣※及び優生診定委員会に報告しなければならない」(※第70回議会提出法案はでは内務大臣)

罰則」は、「秘密を守る義務に違反した者は、6月以下の懲役又は500円以下の罰金に処す」

施行日」は、「勅令をもって定める」

以上である。

これより後、神聖天皇主権大日本帝国政府は、1940年に「国民優生法」を成立させ、1941年7月1日には「国民優生法」を施行する。

(2024年10月30日投稿)

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皇室典範内容は憲法原則違反、差別の元締め的特徴、玉音放送、東京大空襲、メディア

2024-10-30 09:37:35 | 皇室

 天皇家が最近よくメディアに登場している。天皇家の存在を国民の意識に定着させる事が目的である。また、近い将来において、日本の「元首」の地位に就く上でのムード作りである。『自民党憲法改正草案』第1章第1条には、「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とある。草案解説では、「明治憲法には、天皇が元首であるとの規定が存在していた。また、外交儀礼上でも、天皇は元首として扱われています。我が国において、天皇が元首である事は紛れもない事実ですが、……元首として規定する事の賛成論が大多数でした」とある事が背景にあり、それをメディアが翼賛化して報道しているのである。そういう視点が必要である。

◎現皇室典範に見る天皇家の差別的体質

天皇家は人権侵害(差別)の総元締めである。

皇室典範第1条「皇位継承の資格」では「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」とあり、日本国憲法の男女平等の原則に基づかない男尊女卑思想(女性差別に基づく憲法違反である。2016年3月に国連女子差別撤廃委員会勧告で女性天皇を認めない皇室典範を問題視し、見直し(改正)を求めたが、安倍自公政権は抗議をし削除させた。国会でも岸田外相は「我が国の皇室制度は歴史や伝統が背景にある。女子に対する差別目的とは全く別の事柄である」と説明。菅官房長官も「国民の支持を得て今日に至っている。女子に対する差別を目的としていない」と述べている。安倍自公政権は世界で普遍的な考え方や価値観を認めようとしないのである。この姿勢は選択的夫婦別姓制度においても同根である。

第3条「継承順序の変更」では、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、……皇室会議の議により、前条に定める順序に従って、皇位継承の順序を変えることができる」とあり、身体障害を持つ場合には、皇位継承から除く事ができるとしている身体障害者に対する差別人権侵害であり、憲法違反である。

第22条「成年」では「天皇、皇太子及び皇太孫の成年は、18年とする」とあるが、国民の成人年齢は未だに20歳であるのはどういうことか。世界のほとんどの国が18歳となっているにもかかわらずである。天皇家は日本国民ではないのか、国民とは別格の別世界の人間である事を表している

第26条「陵墓」では「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を、その他の皇族を葬る所をとする」とあるが、墓所の呼び名を変えて差別化しているが、今日その必要はまったくないと思う。憲法違反である。外国ではありえない

以上のような日本国憲法の原則に反した(憲法違反)、人権を認めない内容が定められている事は問題であると思う。このような規則で天皇家を存在させておく事は問題である。

日本国憲法第1条「天皇の地位・国民主権」では「……、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とある事に基づいて、少なくとも改善すべきである。また、天皇制自体を「廃止」すべきである

 『憲法改正草案』第6条「天皇の国事行為等」5項では、「第1項及び第2項に掲げるもののほか、天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う」とあるが、これは「靖国神社」の国営化、天皇の靖国参拝を狙っている事をうかがわせるものであるので注意すべきである。

◎「玉音放送」

 今年8月1日付で、「玉音放送」を宮内庁が録音原盤から再生し公表した。「玉音放送」とは、1945年8月15日正午に臣民に向けてラジオ放送された、昭和天皇が自ら「大東亜戦争終結に関する詔書」を読み上げた録音の放送の事である。

 以下、天皇が臣民に訴えた言葉の抜粋(朝日新聞の記事を基にしたが、原本により近い形に修正した)と、矢印(→)以下は私の注釈である。

 「帝国臣民の平穏無事を確保し、すべての国々が共に繁栄する喜びを分かち合う事は、皇祖皇宗(歴代天皇)が大切にしてきた教えであり、朕が常々心中強く抱き続けているものである。」→臣民とは天皇皇族の家来を指し、国民の事。家来は主人の主君のために命をかけて奉公するのが原則。

 「英米2国に宣戦したのも、まさに帝国の自存と東亜(東アジア諸国)の安定とを心から願っての事であり、他国の主権を排除して領土を侵すような事は、もとより朕の本意ではない。」→満州事変以来の中国などとの戦争を日本による侵略戦争であると認識していない。戦争最高責任者である事の無自覚と責任回避。

 「敵国は新たに残虐な爆弾を使い、……」→新たな残虐な爆弾とは、原子爆弾の事でその使用を非難している。天皇制大日本帝国でも、東大と京大で原爆製造の研究が行われていた事には口を閉ざしている。

 「朕はいかなる手段で赤子を守り、歴代天皇の御霊にわびる事ができようか。」→赤子とは臣民の事で家来の意味。家来は主人のために命を捧げるのが原則。

 「東亜(アジア諸国)の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。」→1943年11月に「大東亜共栄圏」の結束を図るため開催された「大東亜会議」に参加したアジア諸国の協力にもかかわらず、アジア諸国の解放ができなかった事が残念であるとの事。「大東亜共同宣言」では「共存共栄・独立尊重・互恵提携・文化高揚などが採択された。ビルマ、満州国、中華民国、日本、タイ、フィリピン、自由インドの7カ国。

 「朕は、ここに国体を護持する事ができ、忠義で善良な臣民の真心を信頼し、常に臣民とともに過ごす事ができる。」→国体とは敗戦までの神聖天皇主権国家を指し、天皇に対する臣民の対応の在り方を護持できた事を喜び、改めて一方的に押し付けている。

 「感情の高ぶりから節度なく争い事を繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである」→戦争終結の御前会議では「戦争を続ける事はかえって国内治安の乱れる事が考えられる」(保科善四郎手記)との発言があり、神聖天皇主権体制そのものを脅かすような国内危機の出現を予想した。敗戦よりも敗戦によって起こる混乱と国体変革を恐れた天皇を中心とする支配階級は、国民と軍隊が起こすかも知れない動揺を抑えるために、最後の切り札として天皇の権威を利用(聖断)したのである。戦争終結が「聖断」によってもたらされたという物語をつくり最大限に活用し、翼賛体制化しているメディアは、「玉音を拝して感泣嗚咽」「朝夕詔書を奉戴して再建へ」と「天皇の慈悲深さ」を宣伝した。

 「国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、……総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、……揺るぎない志をしっかりと持ち、誓って国体の精華を発揚し……」→日本は神国であり、不滅である事を信じ、その国体の精華を発揚すべき事を誓いなさいとしている。

つまり、この詔書は、天皇を中心とする支配階級が、「天皇制護持」だけが重要事であって、それを将来の日本国においても不変のものとして臣民に対し念押しをしたものであり、それ以外は何も考えていなかったという事を示している。国民の犠牲も、アジア諸国に与えた苦難や被害や損失なども。この事は、この戦争の本質を如実に現わしている。

 朝日新聞は、記事の最後に「総力戦の行き着いた果てに防空壕で起きた事を、世代を超えて記憶し、風化に抗し語り継いでほしいとの願いを感じる」としているが、余程の「お人よし」である。手前勝手な解釈をしてはいけない。歴史は事実をきちんと押さえなければただの恣意的な作り話となり、誤った評価判断を生む。語り継ぐ価値のあるものとするために、メディアがやるべき使命は、国民が歴史の真実に、より以上近づくための正しい情報を提供する事である。

◎御文庫付属室(防空壕)と東京大空襲について

 戦争終結を決めた御前会議の場となった「御文庫付属室」も「玉音原盤」と同時に公表した。「御文庫付属室」は1943年1月から天皇皇后が生活していた場所である。1945年3月10日の「東京大空襲」時、天皇皇后はどのような行動をしていたのか。渡辺清氏『私の天皇観』によれば、

「1945年3月10日の東京大空襲で奇怪な事実がある。B29が大挙、爆撃を開始したのが午前0時8分、それから7分も経過した0時15分に空襲警報が発令された。その理由は、床の中ですでに安らかに眠っている天皇を起こすのは誠に恐れ多い、という東部軍司令部参謀の配慮から、一秒一刻を争う状況の中で、あたら7分間も空襲警報を遅らせたのである。その7分はたった一人の天皇、45万坪の広大な屋敷の中に広さ500坪余、500㌔爆弾もはね返すという厚さ3㍍のコンクリート、配電、除湿、防音装置に調理室までついていたという堅牢な大防空壕を有していた天皇一人の安眠を妨げないようにという事だったとは、心の煮える思いがする」とある。

朝日新聞1945年3月19日付では、

畏し、天皇陛下戦災地を御巡幸 焦土に立たせ給い御仁慈の大御心 九重の奥深くまで醜翼の羽搏き伝わり、高射砲の轟音響き渡る皇国の危局、朝に夕に一億国民ひとしく忠誠の心いまだ足らざるを嘆き悲しむ、今はただ伏して不忠を詫び奉り、立っては醜の御楯となり、皇国三千年の歴史を太しく護り抜かんことを、誓うのみである。ああ、しかもこの不忠の民を不忠とも思し召されず、民草哀れと思し召し、垂れさせ給う大御心の畏さよ。18日、天皇陛下は帝都の空襲戦災地の御巡幸を仰せ出だされたのである。」→天皇の本心はいかなるものであったか、翼賛体制化した新聞による、「天皇の行為を賛美する」記事はどういう効果を生んだであろうか。言をまたない。

 1964(昭和39)年には、来日した「東京大空襲」の総指揮官カーチス・ルメイ天皇や自民党日本政府は最高の栄誉「勲一等旭日大綬章」を贈った。主戦派のルメイは、太平洋戦争末期のトルーマン政権下で、都市全面爆撃に反対したハンセルに代わって司令官となり、一夜にして10数万の死者をだした「東京大空襲」を含む日本無差別爆撃の張本人である。ルメイは後にヴェトナム戦争下の米空軍参謀総長にもなった。昭和天皇や自民党日本政府が、自らが起こした侵略戦争を、米政府を、どのように位置づけていたのかが分かる。

(2017年3月14日投稿)

 

 

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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は死直前、大日本帝国の将来について悲観

2024-10-29 19:03:42 | メディア

 ラフカディオ・ハーンは大日本帝国の国籍を取得するため日本人名を「小泉八雲」とした。彼は1904年4月に出版した『怪談』で日本国民に知られた人物であるが、彼の死の直前の大日本帝国の将来についての、今日の国民にほとんど知られていない「言葉」を紹介したい。

○1850年6月、ギリシャで生まれた。父はアイルランド人、母はギリシャ人。

○少年時代には不幸が相次いだ。両親の離婚、事故による左眼失明(16歳)、父の旅先での死、経済上の理由での退学。

○ロンドンに出て造船所で働き、華々しい産業革命の陰で陽の当たらない生活を送る人々の中で成長。

○1869年、ロンドン又はフランスのル・アーブルから移民船「セラ号」に乗って、無一文でアメリカへ渡り、移民列車で、多くのアイルランド人が住んでいたオハイオ州のシンシナティへ行く。19歳。そこで、給仕、廃品回収業、行商、電報配達員、ビルのガラス磨きなどの職を転々とした。

○産業革命後の資本主義経済に抑圧された立場から、資本主義の暗黒面への批判や文明化への疑問を持つようになる。

○1877年、ニューオリンズへ移り(27歳~37歳までの10年間)、文才を認められ新聞記者(1878~1881年)となる。『デイリー・シティ・アイテム』新聞社で准編集者となった。挿絵を入れた、アメリカで最初の新聞風刺漫画も書いた。仏文学の翻訳もし、ゾラ(仏の自然主義作家、94~99年ドレフュス事件)やモーパッサンの作品を通じ、益々文明社会への批判を強めた。『タイムズ・デモクラット』紙の文芸部長となり、評論と翻訳を中心とする文学的な記者として活躍。

○同時に素朴な民族や国へのあこがれを抱く。ニューオリンズで開かれた博覧会(1884~85年)で日本館の出品物に触れ、日本へ強い関心を寄せた。ニューオリンズと松江市とは友好都市提携している。

○1890年(40歳)、来日(米新聞記者として日本を紹介するため)。

○島根県松江の中学校の英語教師となる。

○1891年、松江の「小泉セツ」と結婚。セツは没落武家の娘でハーンのところへ奉公に来た。父母の反対で入籍せず。

○1892年、熊本へ、その後神戸、東京へ。東京帝大や早稲田専門学校(1902)にも出講。神戸ではジャーナリストとなり、英字新聞「神戸クロニクル」を発行し、大日本帝国政府に警鐘。1894年12月(日清戦争開始後)の論説では日本軍の戦闘について、「女性や子どもに対する不必要な残虐行為である。大日本帝国政府の報復行為は言い訳できない」と論じた。熊本では第五高等中学校で英文学を教授。熊本市内の「富岡写真館」で夫婦の写真を撮影。東京帝大時代に『怪談』出版(1904年4月)。

○1896年、子どもも生まれ、大日本帝国の国籍取得。長男一雄誕生。ラフカディオの「カディオ」からとった。小泉家に婿入り。大日本帝国の国籍取得のため日本人名を「小泉八雲」とした。「八雲」は古事記からとった。

○1904年、日露戦争(04年2月開戦)中に54歳で急死。

 死の直前の論文『産業の危機』で大日本帝国の将来を悲観した。

 「この調子では大日本帝国はもはや、果てしない戦争に突入していって、最後には破滅するのではないか……」と。

○彼は、出雲大社よりも、松江藩主の守り神であった「城山稲荷神社」(1638年、松平直政が火難除けとして城内に建設)の「石きつね」を好んだ。

(2024年6月22日投稿)

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核廃絶の本気度が疑われる広島平和記念館:リニューアルとは帝国日本政府のアジア諸国への「侵略」「加害」責任と自国民を被曝させた責任を不問にする事なのか?

2024-10-29 10:11:52 | 核兵器

  今回の改装は3回目である。2回目の改装を行った1994年からは、アジア侵略の拠点であった広島の「加害」の歴史も展示するようになった。しかし、それが、今回の改装は、これまでの取り組みの成果を、意図的に認めず、触れない内容になってしまった。それは「被害」だけの強調、原爆の悲惨だけを訴えるものに逆戻りしており、またポツダム宣言が発表されてから、投下された前後、宣言受諾にいたるまでの、日本の戦争指導者がどのような対応をしたのかについて触れない内容に変えてしまったという事である。一見「科学的」な装いを持たせながらも、実は「非科学的」な内容に変えてしまったという事である。「被害」や「悲惨」だけからは十分な「教訓」は学べないのであるが、それを巧妙に行った展示というべきである。

 「加害」についていえば、広島平岡敬元市長は次のように語っていた。「50年たった今、加害の側面を広島が理解していなければ、アジアを始めとする世界の人々に、人類が破滅するという歴史の教訓は伝えられない。被爆の惨状を訴えると、米国からは「パール・ハーバー」、アジアの国々からは「私たちは、もっとひどい目にあった」という反論が出る。戦争を遂行してきた日本の歩みをきちんと位置づける事なしには、その意識のズレを埋める事はできない」と。また、「加害の過去を語れば、死んでいった人は立つ瀬がない、という意見もあります。でも、それは国家の次元に立った見方ではないか。国のレベルを超えて、人類の立場から見るのでなければ、核廃絶の視点は出てこないと思う。現実は違う、と人は言うが、理想を失ってはいけないと私は思う」と。

 長崎本島等元市長も同様の事を話していた。「アジアの国は原爆を神の救いと言い、フランスの新聞は、原爆投下に欣喜雀躍した。世界の人たちの少なくとも半分以上は喜んだという現実を忘れてはならないと思う。そこに日本の悲劇があった。あの戦争で、アメリカが犯した唯一の犯罪は原爆投下だったと思う。光で完璧に焼かれ、さらに爆風で体がちぎり取られる。しかもその後も放射線で細胞はずっと蝕まれ続ける。やはりそれは、戦争犯罪だと言い切っていいと思う。核兵器使用の違法性について、日本は核の傘の下にあるから適当に逃げてきたが、そこのところをごまかしてはいけないだろう」と。

 二人が語っている事は、被害について真正面から語り原爆の違法性を告発するためには、自らの加害の歴史を直視すべきである、という事である。この考え方こそ国民が戦後長い月日を経なければたどり着けなかった忘れてはならない大切な考え方なのである。

 「加害」について、さらに忘れてはならない重要な事は、投下前後の神聖天皇主権大日本帝国政府の最高戦争指導会議や御前会議の動向を国民が詳細に正しく知り、その責任の所在を明確に知り、教訓を学ぶ事である。ポツダム宣言の受諾を一旦8月10日の御前会議で決定し、ラジオと中立国を通じて連合国側に伝えられたにもかかわらず、なぜ結局8月14日になったのか、その原因は何なのか。メディアが8月15日になぜ「聖断」という言葉を使用して国民に終戦(敗戦)を伝えたのか、についてである。

 7月26日、米・英・中三国は、日本に戦争終結の最後の機会を与えるためにポツダム宣言を発表した。しかし、天皇を中心とする最高戦争指導者たち日本の支配者は、戦争を続けながら、神聖天皇主権国家(国体)を維持し何とか彼らの地位と面目を維持する形で戦争を終わらせようとしていた。そのため、宣言の前半に、

(1)われら合衆国大統領、中華民国政府主席およびグレート、ブリテン国総理大臣はわれらの数億の国民を代表し協議の上日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与える事に違憲一致せり。(2)合衆国、英帝国及び中華民国の巨大なる陸、海、空軍は西方より自国の陸軍及び空軍による数倍の増強を受け日本国に対し最後的打撃を加えるの態勢を整えたり。右軍事力は日本が抵抗を終止するに至るまで同国に対し戦争を遂行するの一切の連合国の決意により支持せられかつ鼓舞せられおるものなり。(3)蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益かつ無意義なる抵抗の結果は日本国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。現在日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用せられたる場合において全ドイツ国人民の土地、産業及び生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し、計り知れざるほど更に強大なるものなり。われらの決意に支持せらるるわれらの軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避かつ完全なる壊滅を意味すべく、また同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。(4)無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言者により日本国が引き続き統御せらるべきか又は理性の経路を日本国が履むべきかを日本国が決定すべき時期は到来せり。  

との内容が存在したが、戦争指導者はこれを国民に発表せず、「本土決戦」「一億総特攻」「一億玉砕」のスローガンを掲げ、狂気の戦術を指示し続けた。それは大本営陸軍部編纂『国民抗戦必携』によると、敵が上陸したら国民は「敵陣に挺身斬り込みを敢行」せよ。又敵との「白兵戦の場合は竹槍で敵の腹部を狙ってひと突きにし、又鎌、鉈、玄能、出刃包丁、鳶口その他手頃のもので背後から奇襲の一撃を加えて殺す事、格闘の際は水落を突いたり睾丸を蹴り上げて敵兵を倒すよう訓練を積んで置かなければならない」というものである。そして7月28日、鈴木貫太郎首相は「ただ黙殺するのみである。我々は戦争完遂に邁進する」との談話を発表しているのである。

  その結果、8月6日8時15分、広島に原子爆弾が投下されたのである。その際、米大統領トルーマンは、原子爆弾である事を明らかにしたうえでポツダム宣言を受諾しなければ、今後相次いで原爆攻撃を行う事を予告している。これに対し大本営はこの真相を国民に知らせず「新型爆弾」と発表しただけで、最高戦争指導会議も閣議もこの問題について特別には開かなかったのである。8日にはソ連が日本に宣戦布告し、9日未明に参戦した。そこでやっと午前10時30分から最高戦争指導会議が開かれ、午後には閣議、そして、深夜に皇居内の防空壕(お文庫の事。1941年4月着工。建設に当たって防空壕とは言えなかった)で御前会議が開かれたのである。その間、9日11時02分には長崎にも原爆が投下されたのである。指導会議では天皇の地位の保障(国体護持)のみ条件をつけようとする外相案とその他に、自主的な武装解除、日本の手による戦争犯罪人の処罰、連合軍の日本占領に対する制限などの3条件をつけようとする軍部案が対立する状況であった。しかし、枢密院議長や鈴木首相などが、食糧事情の悪化などからも、戦争を続ける事は天皇制支配体制を脅かすような国内危機を招くとの発言があり、天皇は国体護持の条件だけ(外相案)でポツダム宣言を受諾する事を決定した。10日「天皇の国家統治の大権に変更を加えるいかなる要求をも包含していないという了解のもとに」という条件を付けて、ラジオと中立国政府を通じて連合国側に伝えた。それに対し11日、米国バーンズ国務長官が、「降伏の瞬間から天皇及び日本政府の国を統治する権限は連合国最高司令官に従属するものとする。最終の日本国の形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されるべきである。天皇は一切の日本国陸、海、空軍官憲及びいずれの地域にあるを問わず、右官憲の指揮下にある一切の軍隊に対し戦闘行為を終止し、武器を引き渡し、降伏条項実施のため、最高司令官の要求する事あるべき命令を発する事を命ずべきものとす」と回答した。12日、軍部はこれでは国体護持の保障がないとして再紹介を求めるとともに、それでも保障が得られない場合は戦争を継続すべきだと主張し、対立を蒸し返した。しかし、米国の新聞情報から、連合国の回答は日本の申し入れ(国体護持)を認めたものだという事を知り、日本は14日、再び御前会議を開き、天皇が「敵は国体を認めると思う。これについては不安は毛頭ない」と述べて、受諾を決定したのである。

 上記から分かるように、天皇もそれを取り巻く支配階級も、明治維新に樹立した神聖天皇主権国家という国家体制(政治体制)によってこそその権力を掌握し続ける事ができたその体制を連合国側に認めさせる事=「国体護持」こそが最重要課題だったのである。

 そして、天皇はもちろん、天皇制によって自己の地位を保障されている支配階級は、国民に対しても敗戦後も引き続き「神聖天皇主権国家体制」=国体を認めさせるための工作をするのである。メディアももちろんこれまで同じ穴の狢であった関係から加担した。それが「聖断」という一大演劇イベントの実行であった。敗戦によって生じる可能性のある混乱と革命(神聖天皇主権大日本帝国政府は社会主義やソ連をずっと恐れてきた)を恐れた天皇と支配階級は、天皇の権威を最大限に利用して国民を欺き乗り切ろうとしたのである。それは見事に成功した。明治憲法によれば、戦争についての宣戦や講和は天皇大権として定めているのであるから、宣戦(中国に対して布告はしていない)をした天皇が終結講和を主導するのは当然の事なのである。ポツダム宣言を受諾するかどうかは天皇の決断によるべきなのである。(ついでながら、「聖〇」という表現は「聖旨」「聖慮」など天皇を表す言葉としては特別な言葉ではなかった。)しかし、支配階級は、その天皇を、戦争責任を有する当事者でない第三者であるかのように変装偽装させ、天皇自らも「慈悲深い天皇」であるかのように演じ、「平和をもたらした」とアピールしたのである。その事によって支配階級も戦争責任を回避しようと試みたのである。新聞・ラジオのメディアも玉音(放送)を拝して感泣嗚咽」「朝夕詔書を奉戴して再建へ」と「天皇の御仁慈」を強調し自らを正当化しようとしたのである。

 8月17日に、天皇と支配階級は、戦争処理内閣として皇室が「平和主義」であるかのようにアピールするために史上初の皇族内閣である東久邇宮内閣を成立させた。この皇族内閣は、9月4日、戦後初の帝国議会(帝国議会は92回の1947年3月31日まで)である第88臨時帝国議会において、敗戦の原因につき国民は総懺悔せよと述べ、「天皇に絶対帰一」してポツダム宣言を誠実に履行し、「平和的、文化的日本の建設」に向かって邁進しなければならぬと説いた。そして、貴族院では「聖旨奉戴に関する決議」、衆議院では「承詔必謹決議」を可決した。9月27日には、天皇が、自らの地位について了解を得るためマッカーサーを訪問し、二人が並んだ写真を撮影した。

 平和教育において最も重要な事は上記のような事を教訓として学ぶ事なのである。だから、以上の点から目を反らし、反らさせようとする展示からは、教訓を得る事はできず、誠実な平和教育をしようとする意志はうかがえない。

(2020年3月12日投稿)

 

 

 

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