つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

永井隆医師の遺言に誓い、憲法違反の安保法を廃止しよう。

2024-12-10 16:26:23 | 核兵器

 安倍政権自民党が憲法違反である「安保法」を強行成立させてから1年後の2016年9月19日、大阪の西区にある靭公園で「廃止」を求める集会があった。

 長崎医大の医師であった永井先生は、妻を原爆による被曝によって亡くされた。そして、自らも被爆によって43歳で亡くなった。

 永井先生が我が子への「遺言」に込められた願いは、今を生きる国民に対する願いでもあり、我々こそ継承しなければならないものだと確信し、「安保法」廃止のための闘いを続ける決意を新たにした。

 永井先生の子どもたちへの遺言を紹介します。

「いとし子よ。

あの日イチビの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一(まこと)よ、かやのよ、

お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世にとどめて、ついにこの世から姿を消してしまった。

そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものはなんであるか。

原子爆弾。いいえ、それは原子の塊である。そなたたちの母を殺すために原子が浦上にやってきたわけではない。そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。

戦争が長引くうちには、はじめ戦争をやり出した時の名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだころには、勝った方も、負けた方も、何の目的でこんな大騒ぎをしたのか、わからぬことさえある。

そして生き残った人々はむごたらしい戦争の跡を眺め、口を揃えて『戦争はもうこりごりだ。これきり戦争を永久にやめることにしよう』

……そう叫んでおきながら、何年か経つうちに、いつしか心が変わり、何となくもやもやと戦争がしたくなってくるのである。

私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。

我が子よ。憲法で決めるだけならどんな事でもきめられる。憲法はその条文通りに実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ

どんなに難しくても、これは良い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。これこそ戦争の惨禍に目覚めた本当の日本人の声なのだよ。

しかし、理屈は何とでも付き、世論はどちらへもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、「憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ」と叫ぶ声がでないとも限らない。そしてその叫びにいかにももっともらしい理屈を付けて、世論を日本の再武装に引き付けるかもしれない

もしも日本が再武装するような時代になったら、その時こそ、誠一よ、かやのよ。たとえ最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと戦争絶対反対を叫び続け、叫び通しておくれ

敵が攻めだした時、武器が無かったら、みすみす皆殺しされてしまうではないか、と言う人が多いだろう。しかし、武器を持っている方が果たして生き残るだろうか。武器を持たぬ無抵抗の者の方が生き残るだろうか。

オオカミは鋭い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。ところが鳩は何一つ武器を持っていない。そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる。

愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。」        以上

(2016年9月28日投稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

核廃絶の本気度が疑われる広島平和記念館:リニューアルとは帝国日本政府のアジア諸国への「侵略」「加害」責任と自国民を被曝させた責任を不問にする事なのか?

2024-10-29 10:11:52 | 核兵器

  今回の改装は3回目である。2回目の改装を行った1994年からは、アジア侵略の拠点であった広島の「加害」の歴史も展示するようになった。しかし、それが、今回の改装は、これまでの取り組みの成果を、意図的に認めず、触れない内容になってしまった。それは「被害」だけの強調、原爆の悲惨だけを訴えるものに逆戻りしており、またポツダム宣言が発表されてから、投下された前後、宣言受諾にいたるまでの、日本の戦争指導者がどのような対応をしたのかについて触れない内容に変えてしまったという事である。一見「科学的」な装いを持たせながらも、実は「非科学的」な内容に変えてしまったという事である。「被害」や「悲惨」だけからは十分な「教訓」は学べないのであるが、それを巧妙に行った展示というべきである。

 「加害」についていえば、広島平岡敬元市長は次のように語っていた。「50年たった今、加害の側面を広島が理解していなければ、アジアを始めとする世界の人々に、人類が破滅するという歴史の教訓は伝えられない。被爆の惨状を訴えると、米国からは「パール・ハーバー」、アジアの国々からは「私たちは、もっとひどい目にあった」という反論が出る。戦争を遂行してきた日本の歩みをきちんと位置づける事なしには、その意識のズレを埋める事はできない」と。また、「加害の過去を語れば、死んでいった人は立つ瀬がない、という意見もあります。でも、それは国家の次元に立った見方ではないか。国のレベルを超えて、人類の立場から見るのでなければ、核廃絶の視点は出てこないと思う。現実は違う、と人は言うが、理想を失ってはいけないと私は思う」と。

 長崎本島等元市長も同様の事を話していた。「アジアの国は原爆を神の救いと言い、フランスの新聞は、原爆投下に欣喜雀躍した。世界の人たちの少なくとも半分以上は喜んだという現実を忘れてはならないと思う。そこに日本の悲劇があった。あの戦争で、アメリカが犯した唯一の犯罪は原爆投下だったと思う。光で完璧に焼かれ、さらに爆風で体がちぎり取られる。しかもその後も放射線で細胞はずっと蝕まれ続ける。やはりそれは、戦争犯罪だと言い切っていいと思う。核兵器使用の違法性について、日本は核の傘の下にあるから適当に逃げてきたが、そこのところをごまかしてはいけないだろう」と。

 二人が語っている事は、被害について真正面から語り原爆の違法性を告発するためには、自らの加害の歴史を直視すべきである、という事である。この考え方こそ国民が戦後長い月日を経なければたどり着けなかった忘れてはならない大切な考え方なのである。

 「加害」について、さらに忘れてはならない重要な事は、投下前後の神聖天皇主権大日本帝国政府の最高戦争指導会議や御前会議の動向を国民が詳細に正しく知り、その責任の所在を明確に知り、教訓を学ぶ事である。ポツダム宣言の受諾を一旦8月10日の御前会議で決定し、ラジオと中立国を通じて連合国側に伝えられたにもかかわらず、なぜ結局8月14日になったのか、その原因は何なのか。メディアが8月15日になぜ「聖断」という言葉を使用して国民に終戦(敗戦)を伝えたのか、についてである。

 7月26日、米・英・中三国は、日本に戦争終結の最後の機会を与えるためにポツダム宣言を発表した。しかし、天皇を中心とする最高戦争指導者たち日本の支配者は、戦争を続けながら、神聖天皇主権国家(国体)を維持し何とか彼らの地位と面目を維持する形で戦争を終わらせようとしていた。そのため、宣言の前半に、

(1)われら合衆国大統領、中華民国政府主席およびグレート、ブリテン国総理大臣はわれらの数億の国民を代表し協議の上日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与える事に違憲一致せり。(2)合衆国、英帝国及び中華民国の巨大なる陸、海、空軍は西方より自国の陸軍及び空軍による数倍の増強を受け日本国に対し最後的打撃を加えるの態勢を整えたり。右軍事力は日本が抵抗を終止するに至るまで同国に対し戦争を遂行するの一切の連合国の決意により支持せられかつ鼓舞せられおるものなり。(3)蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益かつ無意義なる抵抗の結果は日本国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。現在日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用せられたる場合において全ドイツ国人民の土地、産業及び生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し、計り知れざるほど更に強大なるものなり。われらの決意に支持せらるるわれらの軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避かつ完全なる壊滅を意味すべく、また同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。(4)無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言者により日本国が引き続き統御せらるべきか又は理性の経路を日本国が履むべきかを日本国が決定すべき時期は到来せり。  

との内容が存在したが、戦争指導者はこれを国民に発表せず、「本土決戦」「一億総特攻」「一億玉砕」のスローガンを掲げ、狂気の戦術を指示し続けた。それは大本営陸軍部編纂『国民抗戦必携』によると、敵が上陸したら国民は「敵陣に挺身斬り込みを敢行」せよ。又敵との「白兵戦の場合は竹槍で敵の腹部を狙ってひと突きにし、又鎌、鉈、玄能、出刃包丁、鳶口その他手頃のもので背後から奇襲の一撃を加えて殺す事、格闘の際は水落を突いたり睾丸を蹴り上げて敵兵を倒すよう訓練を積んで置かなければならない」というものである。そして7月28日、鈴木貫太郎首相は「ただ黙殺するのみである。我々は戦争完遂に邁進する」との談話を発表しているのである。

  その結果、8月6日8時15分、広島に原子爆弾が投下されたのである。その際、米大統領トルーマンは、原子爆弾である事を明らかにしたうえでポツダム宣言を受諾しなければ、今後相次いで原爆攻撃を行う事を予告している。これに対し大本営はこの真相を国民に知らせず「新型爆弾」と発表しただけで、最高戦争指導会議も閣議もこの問題について特別には開かなかったのである。8日にはソ連が日本に宣戦布告し、9日未明に参戦した。そこでやっと午前10時30分から最高戦争指導会議が開かれ、午後には閣議、そして、深夜に皇居内の防空壕(お文庫の事。1941年4月着工。建設に当たって防空壕とは言えなかった)で御前会議が開かれたのである。その間、9日11時02分には長崎にも原爆が投下されたのである。指導会議では天皇の地位の保障(国体護持)のみ条件をつけようとする外相案とその他に、自主的な武装解除、日本の手による戦争犯罪人の処罰、連合軍の日本占領に対する制限などの3条件をつけようとする軍部案が対立する状況であった。しかし、枢密院議長や鈴木首相などが、食糧事情の悪化などからも、戦争を続ける事は天皇制支配体制を脅かすような国内危機を招くとの発言があり、天皇は国体護持の条件だけ(外相案)でポツダム宣言を受諾する事を決定した。10日「天皇の国家統治の大権に変更を加えるいかなる要求をも包含していないという了解のもとに」という条件を付けて、ラジオと中立国政府を通じて連合国側に伝えた。それに対し11日、米国バーンズ国務長官が、「降伏の瞬間から天皇及び日本政府の国を統治する権限は連合国最高司令官に従属するものとする。最終の日本国の形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されるべきである。天皇は一切の日本国陸、海、空軍官憲及びいずれの地域にあるを問わず、右官憲の指揮下にある一切の軍隊に対し戦闘行為を終止し、武器を引き渡し、降伏条項実施のため、最高司令官の要求する事あるべき命令を発する事を命ずべきものとす」と回答した。12日、軍部はこれでは国体護持の保障がないとして再紹介を求めるとともに、それでも保障が得られない場合は戦争を継続すべきだと主張し、対立を蒸し返した。しかし、米国の新聞情報から、連合国の回答は日本の申し入れ(国体護持)を認めたものだという事を知り、日本は14日、再び御前会議を開き、天皇が「敵は国体を認めると思う。これについては不安は毛頭ない」と述べて、受諾を決定したのである。

 上記から分かるように、天皇もそれを取り巻く支配階級も、明治維新に樹立した神聖天皇主権国家という国家体制(政治体制)によってこそその権力を掌握し続ける事ができたその体制を連合国側に認めさせる事=「国体護持」こそが最重要課題だったのである。

 そして、天皇はもちろん、天皇制によって自己の地位を保障されている支配階級は、国民に対しても敗戦後も引き続き「神聖天皇主権国家体制」=国体を認めさせるための工作をするのである。メディアももちろんこれまで同じ穴の狢であった関係から加担した。それが「聖断」という一大演劇イベントの実行であった。敗戦によって生じる可能性のある混乱と革命(神聖天皇主権大日本帝国政府は社会主義やソ連をずっと恐れてきた)を恐れた天皇と支配階級は、天皇の権威を最大限に利用して国民を欺き乗り切ろうとしたのである。それは見事に成功した。明治憲法によれば、戦争についての宣戦や講和は天皇大権として定めているのであるから、宣戦(中国に対して布告はしていない)をした天皇が終結講和を主導するのは当然の事なのである。ポツダム宣言を受諾するかどうかは天皇の決断によるべきなのである。(ついでながら、「聖〇」という表現は「聖旨」「聖慮」など天皇を表す言葉としては特別な言葉ではなかった。)しかし、支配階級は、その天皇を、戦争責任を有する当事者でない第三者であるかのように変装偽装させ、天皇自らも「慈悲深い天皇」であるかのように演じ、「平和をもたらした」とアピールしたのである。その事によって支配階級も戦争責任を回避しようと試みたのである。新聞・ラジオのメディアも玉音(放送)を拝して感泣嗚咽」「朝夕詔書を奉戴して再建へ」と「天皇の御仁慈」を強調し自らを正当化しようとしたのである。

 8月17日に、天皇と支配階級は、戦争処理内閣として皇室が「平和主義」であるかのようにアピールするために史上初の皇族内閣である東久邇宮内閣を成立させた。この皇族内閣は、9月4日、戦後初の帝国議会(帝国議会は92回の1947年3月31日まで)である第88臨時帝国議会において、敗戦の原因につき国民は総懺悔せよと述べ、「天皇に絶対帰一」してポツダム宣言を誠実に履行し、「平和的、文化的日本の建設」に向かって邁進しなければならぬと説いた。そして、貴族院では「聖旨奉戴に関する決議」、衆議院では「承詔必謹決議」を可決した。9月27日には、天皇が、自らの地位について了解を得るためマッカーサーを訪問し、二人が並んだ写真を撮影した。

 平和教育において最も重要な事は上記のような事を教訓として学ぶ事なのである。だから、以上の点から目を反らし、反らさせようとする展示からは、教訓を得る事はできず、誠実な平和教育をしようとする意志はうかがえない。

(2020年3月12日投稿)

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米国政府の核兵器先制不使用に対する自公政権の不見識な見解

2024-10-27 11:07:21 | 核兵器

 米バイデン政権では「核体制の見直し(NPR)」が進行中である。今回注目すべき点は、「核兵器の先制不使用/唯一の目的」を採用するか否かである。オバマ政権は2016年夏に見送った

 最近の自公政権の発言をみると、

加藤勝信官房長官(2021年4月6日記者会見)は「我が国周辺には質、量ともに優れた軍事力を有する国家が集中し、軍事力の更なる強化や軍事活動の活発化の傾向も顕著(中略)現実に核兵器などの我が国に対する安全保障上の脅威が存在する以上、日米安全保障体制のもと、核抑止力を含む米国の拡大抑止というものが不可欠」と述べている。

茂木敏充外務大臣(2021年4月21日衆議院外務委員会)は[核の先制不使用宣言は]「すべての核兵器国が憲章が可能な形で同時に行わなければ、実際には機能しないんじゃないか(中略)現時点でですね、当事国の意図に関して何らかの検証の方途のない、核の先制不使用の考え方に依存して、我が国の安全保障に万全を期す事は困難だと考えております。あのこういった考え方については、概ね日米間で齟齬はない、こう考えています。」と述べている。

松野博一官房長官(2021年11月10日記者会見)「すべての核兵器国が検証可能な形で同時に行わなければ有意義ではない」と述べている。ちなみに、日本や英国などが米国側に先制不使用宣言をしないように働きかけたとする報道については回答を避けた

 つまり、自公政権の見解は、➀核抑止力を含む拡大抑止は核兵器など(つまり通常兵器や生物化学兵器も含む)を対象としており、②先制不使用宣言では日本の安全保障に万全を期せない。③先制不使用は「すべての核兵器国が検証可能な形で同時に」行われなければならず、④日米間でこうした認識に齟齬はない、というものである。

 松野官房長官は、米国側に先制不使用宣言をしないよう働きかけたか否かについて回答を避けたが、オバマ政権時、ニューヨーク・タイムズは、ケリー国務長官らが、日本や韓国を名指しして、核抑止力に不安を持った両国が核武装する可能性を示唆したと報じた。また、ワシントン・ポスト日本政府は宣言に反対する意向を伝えたと報じた。

 2021年8月9日、米国の21人の核問題専門家と5団体日本の主要政党代表あてに、「先制不使用・唯一の目的政策を宣言する事に反対しない事、この政策が日本の核武装の可能性を高める事はないと確約する事」を求める書簡を送付している。

 同年9月7日には、日本の22団体44人(原子力資料情報室など5団体5個人の呼びかけ、17団体39人賛同)が、上記と同様の内容を要求する書簡各政党代表者に送付している。

※「先制不使用」……核兵器を先には使わないが、核兵器での攻撃に対しては、核兵器で報復する選択肢を留保するの意。通常兵器や生物化学兵器などでの攻撃に対しては核兵器の報復はしない。中国・インドが採用。

※「唯一の目的」……保有する核兵器の唯一の目的を「相手国の核兵器の使用の抑止に限定する」の意。

※「先制使用(ファースト・ユース)」……紛争中、相手国より先に核兵器で攻撃するの意。通常兵器や生物化学兵器への対抗措置としての核兵器の使用も選択肢に含む。

※「第一撃(ファースト・ストライク)」……先制核兵器攻撃で相手国の(戦略)核戦力に壊滅的な損害を与え、核兵器で報復できないようにするの意。

 米国政府が、自公政権の核武装の可能性を懸念する背景には「核燃料サイクル」の存在がある。自公政権は非核保有国の中で唯一使用済み核燃料再処理技術ウラン濃縮技術の両方を有する事を認められている。再処理技術は使用済み核燃料から核兵器に転用可能なプルトニウムの分離が可能である。低濃縮ウラン製造技術は核兵器に利用できる高濃縮ウランの製造も可能である。

(2021年11月21日投稿)

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原爆投下の損害賠償をアメリカ政府に訴えさせなかった吉田茂と池田内閣下で国家賠償請求を棄却した三淵嘉子

2024-10-25 14:57:00 | 核兵器

 原爆投下の犯罪性について法廷で初めて提起されたのは、極東国際軍事裁判(東京裁判。1946年5月~48年11月)においてであった。A級戦犯の弁護人であったアメリカ人弁護士ブレークニーが「真珠湾攻撃が殺人罪に問われるならば、原子爆弾での殺人はどうなるのか」と提起したのであった。しかし、極東委員会を構成していた11カ国から各一人が任命されていた裁判官たちは合議の結果、却下している。

 原爆投下による被害に対する損害賠償請求訴訟の動きは、1952年4月28日のサンフランシスコ講和(平和)条約発効(1952年4月28日)後に起ってきた。それを提唱したのは岡本尚一という弁護士であった。彼は『原爆民訴惑問』というパンフレットを発行し、「原爆投下は国際法違反であり、被爆者やその遺族はアメリカ政府に対し損害賠償請求訴訟を起こすべきである。そして、悲惨な状態に置かれている被爆者を救済し、今後原爆の使用を禁止させよう」と訴えた。しかし、日本政府(第3次吉田茂内閣)が講和条約の第19条で「日本国及び日本国民被爆者を含む)による連合国及び連合国民(アメリカ国及びその国民)への賠償請求権を放棄」したという事で、アメリカ政府を訴える事ができないと理解した。そこで1955年4月に、広島、長崎の被爆者5人が後遺障害や家族を失った被害の賠償を日本政府に求めるため東京地裁に提訴(国家賠償請求訴訟)した。判決(裁判長古閑敏正、三淵嘉子、高桑昭)は1963年12月に下った。内容は「残虐な爆弾を投下した行為は、不必要な苦痛を与えてはならないという国際法(戦争法)の基本原則に違反している」事を詳細に指摘して認定した。また、判決では「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだ。被告(国家=政府)がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しない」とした。しかし、「現行国際法の下では被害を受けた個人には賠償請求の権利は認められない」と日本政府に対する(米国政府に対してでないにもかかわらず)損害賠償請求については「棄却する」とした、棄却を求めた「国家=政府」の「敗訴」の明確な判断を避けた曖昧で矛盾した内容であった。この判決内容は日本政府はもちろん米国政府に対しても忖度したものであったため内容が矛盾した判決であった。この時訴訟代理人の一人であった岡本弁護士はすでに亡くなっていた。判決は、今日まで世界で「唯一」原爆投下を違法としたものとなり、この後訴訟の原告の名前から「シモダ・ケース」と呼ばれ海外でも知られていった。

 1996年に国際司法裁判所が示した「核兵器の威嚇使用は一般的には国際法に違反する」という勧告にも影響を与えたといわれている。

※「原爆裁判」判決での主な言及……「広島、長崎両市に対する原子爆弾の投下により、多数の市民の生命が失われ、生き残った者でも、放射線の影響により18年後の現在においてすら、生命をおびやかされている者のあることは、まことに悲しむべき現実である。(中略)このような残虐な爆弾を投下した行為は、不必要な苦痛を与えてはならないという戦争法の基本原則に違反しているということができよう。「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。(中略)被告がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう」「高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これが不可能であるとはとうてい考えられない。われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおれないのである」

※「日本国憲法前文」におけるアジア太平洋戦争についての定義……「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」

(2024年5月21日投稿)

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「原子爆弾」の名称を禁止した神聖天皇主権大日本帝国鈴木貫太郎内閣の国民欺瞞政治

2024-10-15 11:10:59 | 核兵器

 「原子爆弾」を投下された際、神聖天皇主権大日本帝国政府は、「報道」に関して「原子爆弾」の名称の使用を禁止したため、新聞等のメディアは「原子爆弾」の名称の使用を禁止され、「新型爆弾」と呼ぶ事となった。8月11日、新聞紙等のメディアに初めて「原子爆弾」という名称が現れたが、それは外電が、米国大統領トルーマンが米国民に対して行った演説の中の「原子爆弾」という名称を報じたものであった。神聖天皇主権大日本帝国政府は、臣民(国民)には、被爆国民であるにもかかわらず、敗戦まで「原子爆弾」である事を知らせなかった。

 ではなぜ臣民(国民)に「原子爆弾」である事を知らせず、「新型爆弾」の名称を使用する事になったのか。新聞社等メディアは、外国のラジオが「英国首相は、米国大統領が原子爆弾を投下したと声明した」と放送したのを知った。そして、海外情勢を知っていた大日本帝国政府情報局は広島に投下された爆弾が「原子爆弾」である事を信じ、国民に発表しようとし、敗戦が近い事を分かっていた外務省もこの方針に賛成した。ところが科学技術の進歩について理解能力を有していなかった軍部は「原子爆弾」である事を認める事を拒み、「敵側は原爆使用の声明を発表したが、これは虚構の謀略宣伝かも知れない。従って原爆とは即断できない。」と主張した。そこで情報局は「敵側は原子爆弾であると称して発表した」と報道するという妥協案を出したが、軍部はそれにも反対し、内務省も同調した。軍隊警察は「原子爆弾」という事実を国民に対し隠蔽したのである。軍部は戦意低下喪失を恐れ、内務省は民心の動揺で治安維持が出来なくなる事を恐れたのである。

(2024年7月5日投稿) 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする