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神社(神道)参拝の作法:神聖天皇主権大日本帝国政府が学校でしつけ、昨今はテレビ(NHKも)が刷り込み洗脳教育。かつての国家神道の国民への押し付けの地ならし

2020-03-28 11:20:48 | 宗教

※以下は2019年11月30日に投稿したものを修正加筆し再投稿した内容です。

 昨今、安倍自公政権を支える「日本会議」(神道系右翼政治団体)が政界を圧倒しているため、テレビ放送において「神社」を扱った内容の番組がやたらと多くなっている。そして、出演者を通して、「神社参拝の作法」(2礼2拍手1礼)を馬鹿丁寧に視聴者(国民)に指導するようになった。そのためか、どこの神社でも参拝者は誰でも彼でもその作法に忠実に、また、「無知」と評され恥をかかない事を意識したり、知識を有している事を示すかのように、見事に判を押したように参拝している。

ところで、この「神社参拝の作法」は、敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国では、国家神道を教育精神(教育勅語)とする学校教育で子どもたちにしつけられていた内容である。それを以下に挙げておこう。

国民学校一年生に教え込まれた国民科のなかの国語教科書『ヨミカタ(一)』には、

「二十五ダン(段)デ、ゴシンゼン(御神前)。

 二ド(二度) オジギ(お辞儀)シテ、手ヲ ウッテ(打って)、

 モ一ツ(もひとつ) ウッテ、オジギシテ、

 ワタクシタチハ ゲンキデス。」

とある。

 

 

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国立歴史民俗博物館の展示は歴史を書き変える意図:士農工商は序列ではない、は修正主義

2020-03-26 22:26:16 | 教育

 2020年3月23日の朝日新聞は、国立歴史民俗博物館は、新しい研究成果を積極的に展示に取り入れていると伝えている。それは、

 徳川幕府が支配した時代の身分制度であるとして学校教育で教えている「士農工商」について、固定的な身分としてあったのではなく、武士以外は百姓・職人・家持町人などは社会的序列は存在せず、対等であった。また、徳川時代中期の町人たちは「職分」=社会的分業と考えていた事が明らかになっていると。さらに、神聖天皇主権大日本帝国政府が、「四民平等」政策を強調するために、「士農工商」を「社会的序列」とする見方が定着したというものである。

 しかし、この説はいわゆる歴史修正主義者(安倍自公政権)の主張であり、これまでのきちんとした科学的な研究成果を認めず、自己に都合よく歴史を偽造し書き換えようとするものと言って良く、政治的な意図をもって行われていると考えるべきで、主権者国民にとっては極めて危険な動き(歴史を国民洗脳のために利用する事)がひそかに進行しているという事を示すものと考えて良い。

 徳川幕府は、それまで(織豊政権時代)に形成されてきた身分社会の崩壊を避け「士農工商」(正確には穢多非人も)として再編固定化しようとした。そのために、「士農工商」各身分=職分のあり方について細かく規制する様々な法典を制定するとともに、儒教による教化を行ったのである。儒教では、貴賤富貴をすべて天命として、先天的に受け入れて固定させる。天は尊く高く、地は卑しく低いように、上下差別があるのが人間世界であるとする。人においても君は尊く、臣は卑しい。この上下の区別をつける事が大事で「」であるとしたのである。

 徳川中期の思想家・三浦梅園の『價原には、は「上に仕え、下を教え、礼儀を道とし、政刑を権とし、社稷を守り、国土を安んずる者」、は「黍稲桑麻を作り出して自他を養い、筋力を以て徭役を務め、余算を得て工商と相通ずる者」、は「天下に色々の器財なくてかなわぬもの故に、朝夕その道を鍛錬し、百の器物を作り出し、民生の用に不自由なき様にする者」、は「此にあり彼に無きを通用させて、天下の用をなす者」とみ、「この四者は一つ欠けても天下の用をなし難いから、それぞれの職分を務め怠らないようにすべきで、これにより共存共栄、以て国を富まし、国を興すべきである」としている。この職分意識が、農民に生産にだけ励ませ、年貢を納入させる拠り所とされていた。

 「士農工商」という身分は、それぞれの職能に基づいて国家社会における役割を分担させた「職分」なのである。そして、「職分」=「身分」はいずれも相互に上下や貴賤といった格付けをし、平等に取り扱わず差別待遇を定めたのである。

 ヨーロッパ中世では、「農民は僧侶と騎士とのために耕さねばならず、僧侶は騎士と農民を地獄から救わねばならず、尊敬すべき騎士はすべて僧侶と農民とに悪事を働こうとする者を退けねばならぬ」と考えられ、農民・僧侶・騎士のそれぞれが特有の職能を持っていた。しかし、これらの各身分は決して平等に評価されたのではなく、上下貴賤の別があったのであり、農民身分は最下層の者として他より賤視された。

 しかし、最下層に置かれた商身分はその身分秩序に変更を迫る動きを見せた。ヨーロッパではピューリタニズムであるが、日本では石田梅岩石門心学がある。そこには商売の利益を武士の禄と同等の道徳的地位に引き上げ、の職分を天命にしたがうべき天職とみなす考え方が見られる。

 「四民平等」政策というのは、「士農工商」を平等にしたという事を示す政策ではなかった。神聖天皇主権大日本帝国政府は、徳川時代の身分秩序を廃止したが、それは平等としたという事を意味するものではなく、新たにそれに代って華族・士族・平民という身分秩序(差別待遇)を設け国民を再編成し利用しようとしたものなのである。資本主義を発展させるために、前近代的身分秩序を競争の条件として利用するために意図的に残したのである。

(2020年3月26日投稿)

 

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伊勢神宮は神聖天皇主権大日本帝国政府による国家神道樹立とともに作り変えられた

2020-03-26 18:42:34 | 皇室

 伊勢神宮は、元々伊勢の地方神を祀った神社で、その祭神は、後の外宮の祭神となった土着の農業神であった。大和朝廷の伊勢への進出とともに、5世紀頃から、大王の祖先神を、在来の神社とあわせて祀る事になり、伊勢の内外の両宮が成立した。朝廷は、天照大神を鎮座させるとともに、在来の土地神を優遇して外宮に祀ったのである。内宮の天照大神と、その御饌神であった外宮のトヨウケノオオミカミを同格で祀ったのである。

 平安時代中期には、神道と陰陽道との習合も進み、伊勢神宮の神明造の正殿(社殿)も、内宮を陰外宮を陽とする陰陽道の影響を受け、それぞれ堅魚木が10本と9本、千木の切端が水平と垂直、風穴が3個と2個と定型化された。

 1871(明治4)年、神聖天皇主権大日本帝国政府により、伊勢神宮は国家神道の本宗として、内宮を主体に作り変え、「神宮」と称するようにした。1874(明治7)年には、『神宮祭式』19巻が成立させ、1914(大正3)年1月には、神宮祭祀(大祭、中祭、小祭)令を勅令で公布し、祭祀制度を確立させた。

 神宮祭祀は、伊勢神宮の伝統を一定の範囲で生かしながら、さらに宮中祭祀(皇室神道)に見合った大祭、中祭を付け加えたものである。

 ちなみに大祭は、祈年祭、神御衣祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭、遷宮祭、臨時奉幣祭。中祭は、日別朝夕大御饌祭、歳旦祭、元始祭、紀元節祭、風日祈祭、天長節祭、明治節祭など。小祭は摂社末社関係の祭祀。

 

 

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三島由紀夫の小説『英霊の聲』は昭和天皇の「人間宣言」を誤解したもの

2020-03-24 19:35:08 | 皇室

 三島由紀夫は「天皇バンザイ」で割腹自殺した。彼の著『英霊の聲』は、2・26事件で銃殺刑に処せられた将校や神風特攻隊員で死んだ人たち、つまり、彼にとっての英霊たちが、「自分たちは『天皇』を神と思って死んだのに、何で人間になったのだ」との昭和天皇の「人間宣言」に対する怨嗟をテーマにした小説である。三島は「人間宣言」について、『英霊の聲』の「あとがき」に「憲法よりも『人間宣言』の方が自分にとって重かった」と書いている。

 しかし、三島は「人間宣言」を誤解していたのである。三島にとって「人間宣言」は、昭和天皇が自ら「神格」を否定したとだけ理解したからである。しかし実は、昭和天皇は「天皇の権威」に重要な事は、個々の天皇の「神格化」にあるのではなく、天照大神の嫡流子孫=神の裔である事だと考えていたのである。だから、昭和天皇にとって現御神である事を否定する事はそれほど重要ではなかったので現御神である事を否定するという形でGHQごまかし天照大神の子孫=裔であるとする家系(記紀神話)を否定される事態に陥ったが守り抜いたのである。そして、その後の平成天皇も現天皇も、象徴天皇と位置づけられていても、天皇としての地位と権威の拠り所として記紀神話を継承しているのが実態である。 

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天皇制研究のタブーの始まり:歴史学者・久米邦武への弾圧

2020-03-22 11:44:40 | 皇室

 1892(明治25)年3月、帝国大学教授・久米邦武は、神道家に彼の日本古代史に関する論文『神道は祭天の古俗』(91年)を攻撃され、大学を辞職に追い込まれた。この論文は、日本の神道は宗教ではなく、東洋祭天の古俗の一つであるとするもので、「蓋し神道は宗教に非ず。故に誘善利生の旨なし。只天を祭り、攘災招福の祓を為すまでなれば、仏教と並び行われて少しも相戻らず」と皇室と結びついた神道を絶対的な地位から引き下ろすとともに、「神の事には、迷溺したる謬説の多きものなれば、神道仏教儒学に偏信の意念を去りて公正に考えるは、史学の責任なるべし」と 名分論から自由な実証的な史学研究を主張するものであった。

 論文は『史学会雑誌』第23~25号(1891年)に掲載された。それを田口卯吉が自分の主宰する雑誌『史海』第8巻(1892年)に転載し、「若し彼等(神道家)にして尚緘黙せば、余は彼等は全く閉口したるものと見做さざるべからず」と、挑発した事により、神道家や国家主義者が久米に論文取り消しを強要するとともに、宮内省や内閣に対して久米排撃運動を行った。久米は譲歩して論文を取り消したが辞職に追い込まれた。『史学会雑誌』と『史海』も発売禁止を命じられた。田口についてはその後も屈する事なく、都下各紙に「神道家諸氏に告ぐ」を投稿し、科学的・合理的・実証的歴史学を訴えた。

 久米事件は、天皇制の確立に伴う学問・研究の自由への弾圧を象徴するもので、この後、天皇・皇室についての科学的研究はタブーとなったのである。

 つまり、国民の間に「触らぬ神に祟りなし」というタブー意識が培われていったのである。

 この国民のタブー意識は、戦後の今日までの日本国憲法の下においても、払拭できていない。それどころか、天皇・皇族に対する尊崇の意識の度合いを強め、敗戦前の神聖天皇主権大日本帝国政府下の臣民意識状況へ回帰していると言って良い

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