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名古屋市長・河村たかしの「表現の不自由展」妨害座り込み:朝日新聞はなぜ憲法第99条違反である事を大きく取り上げその責を問わないのか

2024-04-05 14:36:14 | 芸術

 2020年5月21日、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の実行委員会(会長=大村秀章・愛知県知事)が負担金を一部払わない名古屋市(市長=河村たかし)に残り約3400万円の支払いを求めて名古屋地裁に提訴した。訴状では19年4月、実行委の求めに応じ、名古屋市が負担金1億7100万円の交付を決定。しかし、名古屋市は「事情の変更で特別の必要が生じた」として1億3700万円の交付にとどめ、残る約3400万円を支払っていないとの事。河村たかし市長(実行委会長代行)は同日、「大村氏の独断、独裁、暴力で『払え』と訴えた。新型コロナウイルス対策の最中にとんでもない。徹底的に闘う」と述べている。

 2024年3月7日最高裁は市(河村市長)の上告退け(一審二審とも市に支払い命じる判決)、市に3380万円余りの支払いを命じた。河村市長は「残念を通り越している。市長は税金が公平に使われるための裁量権を持っていて、とてもこの展示内容に税金は使えないと主張してきたが、市長の税金の使い道に対する裁量権について最高裁が判断を下さずに棄却してしまうという事は大変な問題だ」と主張した。愛知県大村知事は、「もう少し早く結論が出るものと思っていた。私どもの主張がすべて取り入れられたという事であり、トータルで見て妥当な判決で当然の判決だと思っている。」と述べた。

※以下は2019年10月21日に投稿したものに修正加筆しを再投稿したものです。河村氏がいかに偏向した思想=神聖天皇主権大日本帝国政府の全体主義思想に固執しているかと言う事と、それは公務員として憲法第99条の定める「憲法尊重擁護義務」を蹂躙する言動行為であるがゆえに市長を続ける資格を有していないという事を理解していただけると思います。

 企画展「表現の自由展・その後」が一時中止を余儀なくされた大きな原因として、名古屋市長である河村たかし氏の言動行為を厳しく糾弾し免職させるべきである。それは端的に言えば、彼の言動行為は基本的人権を認めず侵害する暴力的妨害行為そのものであるからだ。憲法第11条には「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」と定めており、第21条1項には「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定め、2項には「検閲はこれをしてはならない」と定めている。国民にこのような権利を保障するために憲法はさらに、天皇であろうと大臣であろうとすべての公務員(河村氏は公務員である)に対し、憲法第99条で「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と定めこれを蹂躙する言動行為を拘束しているのである。川村氏の言動行為は、この定めに故意に背いたものであると言って良い。

 それは彼が、企画展を取り止めさせるため、「日本国民に問う! 陛下への侮辱を許すのか!」と大書した看板を両手でもち頭上に掲げて座り込み行為までも行い、企画展を妨害し企画展の継続を妨害したからである

 主権者国民は、彼のこの言動行為をどのように評価すべきであろうか。彼は、企画展の一部の作品を手前勝手な偏向した思想価値観(神聖天皇主権大日本帝国政府の全体主義思想)に基づいて解釈し言いがかり何ぐせをつけ妨害行為(犯罪に値する一種の暴力)により中止に追い込んだと見なすべきである。そして、その言動行為に底流する、憲法に対する認識はどのようなものかを考えると、彼は市長(公務員)として、憲法第13条が保障しているように、主権者国民を「個人として尊重」すべきであるにもかかわらず、自己の偏向した思想価値観独善的に正当なものと位置づけ、企画展を実施する人々やその企画展に興味関心好感を持ち鑑賞しようとする人々の思想価値観を一方的に否定すべきものとみなし、企画展を取り止めさせる事によって自己の思想価値観を正当なものとして位置づけ、主権者国民に同調圧力をかけ、自己と異なる思想価値観を排除しようとするもので、憲法尊重擁護義務に則って職責を果たす意志はまったく有していないと見なすべきである。その言動行為は一人の国民としても、憲法を故意に曲解し、憲法第12条の「国民は、(国民に保障する自由及び権利)を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」とする定めをも無視(違反)したもので、企画展「表現の不自由・その後」に対する妨害行為以外の何ものでもないのである。

 このように主権者国民を守る憲法を故意に無視し、自己の思想価値観しか認めず、それ以外を排除する人物は、現憲法下においては、公職に就く資格を有していない。このような自己の思想価値観を絶対視し、異なる思想価値観を許さず排除し、どんな手を使ってでも異なる思想価値観を持つ他者に強要しようとする言動行為、これは全体主義(ファシズム)であるが、敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国政府の傲慢な体質そのものであり、河村氏はそれを信奉継承していると思われ、ただちに免職させるべきである。メディアが彼の責任を追及しないとすれば、それは河村氏を支持し彼の思想価値観に賛同する事を意味し、彼や彼のような言動行為をする人間の自己正当化を勢いづかせるだろう。そうさせないようにするのがメディアの役割であろう。また、彼のような人間は組織のつながりをもって動いている事を頭に置いて社会の変化に敏感に目を配り、彼らのような人間があのような活動をできないように対処すべきである。

 おそらく、かつてのファシズム神聖天皇主権大日本帝国は彼らのような手法で作られていったのだろうから。

 

 

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高須克弥クリニック院長「アウシュビッツも捏造」発言:無知で独善的な人間である事を自ら世界中に名を広めた

2024-04-05 14:35:30 | 芸術

 2019年3月17日、高須クリニックの院長である高須克弥氏がツイッターで「アウシュヴィッツも捏造云々」というナチス・ドイツが行ったユダヤ人虐殺を否定する内容を流したという。それに対して、ポーランドのアウシュヴィッツ記念館は「史実である」と反論したという。高須氏は安倍首相とお友達で日本会議に所属していたね。

 ほとんどすべての閣僚が日本会議に所属している安倍自公政権はもちろんであるが、日本維新の会の人間にも、共通しているのは無知で独善的な文化体質を有している事ですね。

※アウシュビッツという地名は、元々は「オフィシエンチム」であったのをナチス・ドイツがドイツ風に改名したものであった。

※神聖天皇主権大日本帝国陸軍もアジアの占領地域や町を「日本風」に改名した。

 2020年7月、高須克弥「高須クリニック」院長は、愛知県知事・大村氏のリコール署名活動を行い、県議会に「大村県知事不信任決議を求める請願書」を提出(県議会は不採択)している。

 名古屋市長河村たかし氏も2020年9月25日、県議会に対し、愛知県知事・大村秀章氏の「辞職勧告決議」を求める請願書を提出した。

(2020年9月26日投稿)

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ラッドウィンプスやデュオゆずの歌詞は国民洗脳の役割を担い大日本帝国の国家神道国家主義軍国主義を賛美

2024-01-17 14:09:23 | 芸術

 映画「君の名は。」の主題歌であったロックバンド「RADWINPS」の「HINOMARU」の歌詞が問題視された。フジテレビのサッカーワールドカップのテーマソング「カタルシスト」のカップリング曲として2018年6月6日に発売したものだ。「さあいざゆかん 日出づる国の 御名の下に」「気高きこの御国の御霊」「たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代にさあ咲き誇れ」などというものだ。

 批判を浴びてボーカルの野田洋次郎氏がインスタグラムで見解発表した。それは「日本は自分たちの国のことを声を大にして歌ったりすることが少ない国に感じます」「純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました」というものであったため、批判抗議はさらに激しくなり、「軍歌のようだ」との指摘に対し、野田氏はツイッターで「そのような意図は書いていた時も書き終わった今も1ミリもありません」と否定した。しかし同時に、「戦時中のことと結びつけて考えられる可能性があるかと腑に落ちる部分もありました。傷ついた人達、すみませんでした」と謝罪した。

 上記のような「歌詞」の歌を発表したり、それへの批判に対して「意図したものではない」とする「弁明」「謝罪」をするこの手法は、人気を手っ取り早く手にしたい歌手や、人気が堕ちた歌手や自分を(歌う意味を)見失った歌手が、それにもかかわらず再び自分に光が当たり注目されようとして、つまり、故意に計算づくでよく使う手法である。上記の野田氏の見解や弁明は、本来「歌う」という行為自体が、自己の価値観宗教観人生観世界観思想信条などを人に「訴える」という事であるにもかかわらずそれを否定し認めていないのは国民を欺くためである。彼の「歌詞」は自己の価値観宗教観人生観世界観思想信条などを明確に訴えている。そして、このような「歌詞」は戦前の軍歌や「神道」を国教とした神聖天皇主権大日本帝国政府が子どもや大人に国家主義や軍国主義侵略主義を植え付け洗脳するために強制した、国民学校音楽科の「歌」や他の色々な「歌詞」を知らずしては作れない代物である事も明白である。

 例えば、国民学校初等科音楽二(昭和17年)で教えられた『靖国神社』(作詞不詳)の「歌詞」は、

 1、ああ たふとし(尊し)や 大君に   命ささげて 國のため

   たてし勲は とこしえ(永久)に   光りかがやく 靖國の神

  ※靖國の神…天皇の命令で戦場に送られ戦死した国民の事。

 2、ああ かしこし(畏し)や 櫻木の   花と散りても 忠と義の

   猛き御霊は とこしえに   國をまもりの 靖國の神

というものであり、意味する内容は「HINOMARU」とほとんど同様である。

 

 『進め一億火の玉だ』(作詞 大政翼賛会 昭和17年)の「歌詞」は、

 1、行くぞ行かうぞ ぐゎんとやるぞ 大和魂だてじゃない

   見たか知ったか底力 こらへこらへた一億の

   かんにん袋の 緒が切れた

 2、靖国神社の 御前に 拍手打ってぬかづけば

   親子兄弟夫らが 今だたのむと声がする

   おいらの胸にゃ ぐっときた

 3、さうだ一億 火の玉だ 一人一人が決死隊

   がっちり組んだこの腕で 守る銃後は鉄壁だ

   何がなんでも やり抜くぞ 

   進め一億火の玉だ 行くぞ一億どんと行くぞ

というもので、これも意味する内容は「HINOMARU」とほとんど同様である。

 また、該当する人が国民の一部であるかのような「傷ついた人たち、すみませんでした」という「謝罪」の言葉も、「HINOMARU」の「歌詞」は野田氏にとっては傷つくものではなく(それとは正反対に「誇り」を表現している)、彼が事実と異なる大日本帝国の歴史を理解をしている事や思考が浅薄である事を表している。そのため、この手法が良いか悪いか罪であるか罪でないか、また、上のような「歌詞」が意味する価値観が国民に良い影響を与えるか悪い影響を与えるかなど、つまり、彼の「国家神道」を賛美する「歌詞」による洗脳の影響をまったく考慮せず、その「歌詞」を発表した自らの責任の重大さも自覚していないのである。その「歌詞」は、ただ上記のような歌手としての自分(たち)の事情のためだけに作り(もちろんその裏に政治的な力が働いていると考えるのは常識である)、「売れる」事だけを考え願った結果の代物だと言って良い。それは、「傷つけた人」と表現せず、加害者意識に欠け「謝罪意識」を感じさせない「傷ついた人たち」という表現に表れている。

 デュオゆずの「ガイコクジンノトモダチ」の「歌詞」の「TVじゃ深刻そうに 右だの左だのって だけど君と見た靖国の桜はキレイでした」という内容も「HINOMARU」と同様の批判を受けたが、これは「」を「美しい」と表現するのにあえてなぜ「靖国神社」の「桜」を取り上げたのかという点が問題であり、靖国神社の存続(国営化)閣僚(安倍自公政権)の公式参拝を問題視するメディアや国民の批判を他人事のように関係のない不可解な事として軽視し愚弄し、靖国神社に対する国民の否定的な理解やこだわりを変えさせよう捨てさせようとする役割を担っている点が問題である。

 彼らの考え方や「歌詞」は安倍自公政権と同質であり、政権を支えるものであるとともに国民の意識を「安倍政権支持」の方向へ誘導洗脳する役割を果たすものである

 89歳の朝日新聞「オピニオン」の投稿者(2018年6月25日分)は、彼の特攻隊であった経験体験をもとに訴えている。その言葉こそ大切にしたい。

「これは愛国の歌ではない。滅びる国と共に死ぬ事を美しいとしている陶酔する者の死の歌である。本来、国が栄えゆく時、このような不吉な死の歌は生まれない。生命の歌を歌え!平和の歌、憲法の歌を……」

(2018年8月4日投稿)

 

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「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」への発言が暴露する松井大阪市長と吉村府知事のファッショ体質

2021-06-19 21:43:34 | 芸術

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が開幕3日目のの8月3日に中止された。その際の松井大阪市長や吉村府知事の発言は「日本維新の会」が思想ベースとしている「ファッショ体質」(民主主義や基本的人権を認めない)を改めて明確に露わにするものであった。大阪府市民は彼らに利用されており、彼らこそ知事や市長の資格がない事に気づかなければならない。彼らが発した言葉を以下に挙げておこう。

 松井市長は8月2日、市役所内で「我々は先祖がけだもの的に取り扱われるような展示物を、国民の税で展示されるのは違う」と述べている。8月5日の会見では、展示内容について「事実ではない、デマの象徴の慰安婦像」「日本人をさげすみ、陥れる展示はふさわしくない。内容についてもっと精査すべきだった。同じような展示物がある展覧会を、大阪市として主催する事はない」「表現の自由とは言え、事実とかけ離れた単なる誹謗中傷的な作品」と述べている。

 慰安婦問題については「完全なデマ」「朝日新聞が誤報だったと謝罪した」「軍の関与で強制連行された慰安婦はいない」「あの慰安婦像は強制連行され、拉致・監禁されて性奴隷として扱われた慰安婦を象徴するものだからデマだ」とこれこそ事実ではないウソの言いたい放題であった。「平和の少女像」についても「名称を変えただけ。何とでも言える」「日本人を侮蔑する像の一つであり、日本人が拉致・監禁して性奴隷にしたというデマを象徴する像に変わりはない」と述べている。

 吉村府知事は、少女像などの展示について「反日プロパガンダだ。愛知県がこの表現行為をしているととられても仕方ない」「愛知県議会がこのまま知事として認めるのかなと思う。知事として不適格じゃないか」「実行委員会会長の大村愛知県知事は辞職相当だと思う」と述べている。

 維新の会と気脈を通じる川村名古屋市長は2日、「表現の不自由という領域ではなく、日本国民の心を踏みにじる行為であり許されない」「税金を使ってやるべきものではない」と展示中止を要求した。

 8月3日には杉本和巳衆院議員(日本維新の会)が「公的な施設が公的支援に支えられて行う催事として極めて不適切」と述べ、展示中止を要求した。

 彼らの発言行為は、大日本帝国下の自由な言論封殺の手口(非国民よばわりによる弾圧)とまったく同じである。彼らをこのまま放置する事は、彼らが正当とされ、国民の多数の意思がどうであれ、有無を言わせず彼らに同調する圧力を国民の間に強め、国民が再び「いつか来た道」へ向かわざるを得ない状況を生み出すのである。

(2019年8月28日投稿)

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企画展「表現の不自由展・その後」への安倍自公政府の姿勢は「天皇機関説事件」の狙いと同じ自由主義への弾圧だ。その2

2019-09-28 21:13:53 | 芸術

 天皇機関説事件の発端は1935年2月18日の第67帝国議会貴族院本会議で、菊池武夫など在郷軍人(元陸軍中将、右翼機関「国本社」所属)議員が東京帝国大学教授美濃部達吉を、国体に反する学説を説く「学匪」であり、「緩慢なる謀反人」であり、「学説を超越した日本観の問題」であると攻撃した事にある。衆議院でも江藤源九郎が、美濃部の『逐条憲法精義』を発禁にするように政府に要求した事にある。

 美濃部は貴族院本会議で天皇機関説の正当性を説明した。貴族院では「支持」「同意」を示す拍手が起こり、新聞メディアも好意的に報道した。しかし、この動きに右翼勢力(天皇主権絶対主義擁護勢力)は危機感を抱いた。2月28日、衆議院の江藤源九郎は美濃部を「不敬罪」で告発した。右翼団体は「機関説撲滅同盟」を結成し、天皇機関説の発表の禁止と美濃部の自決を運動目標とし政府に要求する。帝国議会でも貴衆両院の有志議員が「機関説」排撃を申し合わせ、野党政友会も岡田啓介内閣を倒す運動に利用しようと積極的に関わり出す。

 このため岡田内閣も動揺し、3月4日、岡田首相は、「天皇機関説に反対する」と表明した。12日には林銑十郎陸相も以前の答弁を翻し、「天皇機関説がなくなる事を希望する」と述べた。帝国議会の貴族院は20日、政教刷新決議を採択し、衆議院鈴木喜三郎政友会総裁が提案した「国体明徴決議」を全会一致で可決し、政府に「天皇機関説」に対する断乎たる処置を要求した。この事は政党が議会政治の理論的根拠を自ら否定したという事である。

 機関説排撃運動は議会閉会後も4月から7月にかけ全国的運動に発展した。岡田内閣は倒閣運動に発展するのを抑えるため4月9日、内務省は美濃部の『逐条憲法精義』『憲法撮要』『日本憲法の基本主義』を発禁処分とし、『現代憲政評論』『議会政治の検討』に次版改訂命令処分を出した。文部省全国各学校に「国体明徴訓令」を出した。軍部真崎甚三郎教育総監が「天皇機関説は国体に反する」との訓示を全陸軍に出した。在郷軍人会天皇機関説排撃パンフレット15万部を全国に配り、各地の在郷軍人会支部は機関説排撃大会を開催した。右翼も美濃部処分と岡田内閣打倒を目標に運動。平沼騏一郎枢密院副議長の一木喜徳郎枢密院議長の失脚策動もあった。

 そして岡田内閣は8月3日、「国体明徴に関する声明」(大日本帝国統治の大権はげんとして天皇に存すること明らかなり)を出し、「機関説は我が国体の本義をあやまるもの」とした。9月には司法当局は美濃部を再び取り調べ、美濃部の貴族院議員辞任(9月18日辞任)を条件に、美濃部の学説は出版法中の「安寧秩序の妨害」「皇室の尊厳の冒瀆」に抵触する疑いがあるが、情状を酌量し「起訴猶予」とした。10月15日、岡田内閣は右翼の激しい要求で第2次「国体明徴に関する声明」を出した。

「政府は国体の本義に関し所信を披瀝し以て国民の嚮う所を明にし愈々その精華を発揚せんことを期したり。抑々我国に於ける統治権の主体が、天皇にましますことは我国体の本義にして帝国臣民の絶対不動の信念なり、……然るにみだりに外国の事例学説を援いで我国体に擬し、統治権の主体は天皇にましまさずして国家なりとし、天皇は国家の機関なりとなすが如き所謂天皇機関説は、神聖なる我国体に戻り其本義をあやまるの甚だしきものにして厳に之を芟徐せざるべからず。……政府は右の信念に基づき茲に重ねて意のあるところを闡明し、以て国体観念を愈々明徴ならしめ其実績を収る為全幅の力を尽さんことを期す」以上

 国体明徴声明」によって、「機関説的天皇解釈」、換言すれば「立憲主義的議会主義的憲法解釈」はまったく認められないものと位置づけられ、軍部ファシストの主張する「神聖天皇主権絶対主義的憲法解釈」こそが公認正統な解釈(思想)であるとされる事となったのである。それは議会政治の否定であり自由主義思想の否定を意味した。この後、神聖大日本帝国政府はファシズムを益々強化し、国民に対し天皇や国体を楯に非合理的な思想宣伝を押し付け、それを批判する国民は「反国体」「非国民」として弾圧し、同調圧力を加え、沈黙し服従せざるを得ないようにしていったのである。

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