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大日本帝国政府敗戦直後の植民地朝鮮の動き「4・3事件」と日本人官僚と進駐アメリカ軍

2025-01-15 23:02:16 | 朝鮮問題

 朝鮮民族は1945年8月15日(神聖天皇主権大日本帝国政府昭和天皇の臣民への敗戦放送日)、朝鮮建国準備委員会を結成し、9月6日には朝鮮人民共和国(主席:李承晩、副主席:呂運亮、内務部長:金九)を発足した。それに対し米国北緯38度線で分割占領する事をソ連に提案し、米軍を9月7日に南朝鮮に進駐させ、9月9日に朝鮮総督府を解体し軍政を開始した。日の丸を降ろし星条旗を掲揚した。南朝鮮の民衆は米軍を解放軍だと思ったが、占領軍でしかなかった。アーノルド軍政長官は朝鮮民族が独立のために準備した自治組織を認めず、建国準備委員会などすべて解散させ、10月10日には人民共和国を否認し弾圧した。上海臨時政府も認めなかった。米国の軍政は占領支配であり、大日本帝国による植民地支配の延長に他ならなかった。米軍は公用語を英語とし、朝鮮総督府に仕えていた日本人官僚たちを顧問として使った。官僚たちは日本へ帰るまで米軍の支配機構で服務し、それなりの処遇を受けた。その末端で、警察官教師を引き受けたのは、「親日派」と呼ばれる、大日本帝国の植民地支配に服務した朝鮮人たちであった。そして、米軍にとって頼りにできたのは、植民地支配をしていた日本人官僚であり、その下で服務していた朝鮮人であった。今日の韓国社会で「親日派」が影響力をもつのは米軍政(米国政府)が原因なのである。

 45年12月、米英ソ3国外相会議で、米ソ合同委員会管理下で臨時政権を具体化し、同政権を米英ソ中4カ国による5カ年間の信託統治下に置く事に合意(モスクワ協定)し、同月28日に発表した。それに対し、即時独立を求める朝鮮民族は信託反対運動を開始した。金九らは「信託統治反対国民総動員運動委員会」を結成。46年1月に朝鮮共産党が信託賛成方針を打ち出し、モスクワ協定支持集会を開催すると、呂運亮・許憲朴憲永らは「民主主義民族戦線」を結成。朝鮮民族は信託統治の賛成・反対で分裂した。米軍政庁はこの分裂を利用し、金九・李承晩・李奎植らに大韓民国代表民主議院を構成させ、米軍政の最高諮問機関とした。46年3月20日、米ソ合同委員会が開催されるが、朝鮮臨時政府樹立のための「協議対象団体」選定基準で対立。5月21日にも再開されるが10月20日再び対立した。

 1947年9月23日、米国政府はモスクワ協定を無視し、一方的に朝鮮独立問題を国連総会に持ち込んだ。ソ連は朝鮮問題の国連討議はモスクワ協定に違反している事、戦後処理問題を国連で討議するのは国連憲章違反である事などを理由として反対した。しかし、第2回国連総会は、国連の監視下で48年3月31日までに朝鮮で総選挙をする事、選挙後できる限り速やかに国民政府を樹立する事などを決議した。

 48年2月26日、米国は国連総会開催を提案し、国連臨時朝鮮委員会が接近できる地域(南朝鮮)だけでも選挙を実施する事(南朝鮮単独選挙)を決議した。3月1日には米国占領軍司令官ホッジは単独選挙を5月10日に実施する事を発表した。そのため、単独選挙に反対する朝鮮民族は4月3日、4・3済州島蜂起を起こした。また、4月20日には全朝鮮政党社会団体代表連席会議(平壌)を開催し、全朝鮮の56の政党社会団体の695人の代表者(うち南朝鮮から40団体、395人)が参加し共同声明を発表した。その内容は、

一、外国軍隊の即時・同時撤退

二、その後に民主主義臨時政府を樹立する事

三、同政府は秘密投票によって、統一的朝鮮立法機関選挙を実施する事

四、朝鮮憲法を制定し、統一的民主政府を樹立する事

五、南朝鮮の単独選挙に断固反対する、というものであった。

しかし、選挙は李承晩の大韓独立促成国民会ら一部の団体と無所属だけで強行した。

 48年5月31日、制憲国会を開催し、7月12日、憲法承認、20日李承晩を大統領に選出し、8月15日、大韓民国を成立させた。しかし、10月には麗水・順天で軍隊が反乱を起こし、智異山一帯でパルチザン闘争が起こり、民国政府は11月16日には国家保安法を制定してこれに応じた。

 北朝鮮では1948年6月、「南北朝鮮諸政党・社会団体指導者協議会」を開催し、「南北朝鮮代表者による朝鮮中央政府樹立」を決定した。7月10日、北朝鮮人民会議第5次会議で朝鮮民主主義人民共和国憲法の実施と全朝鮮朝鮮最高人民会議選挙の実施(8月25日)を決定し、572人(南朝鮮360人、北朝鮮212人)を選出した。9月2日、第一回朝鮮最高人民会議を開催し、8日憲法承認、9日朝鮮民主主義人民共和国を樹立した。

 最高人民会議議長  許憲(南朝鮮代表)

 内閣首相      金日成

 副首相       朴憲永(南朝鮮代表)

 

 上記のように、米国政府の戦後の冷戦の世界戦略により、朝鮮民族の即時独立の意志は大日本帝国の敗戦直後からすでに否定され、統一国家樹立の希望も狡猾で卑劣で残虐な暴力により粉砕されたのである。米国ははじめから朝鮮民族の解放者になるつもりはなく、新たな支配者となるために南朝鮮を占領したのであり、大韓民国政府とその国民は米国というくびきから抜け出せていないのである。日本政府とその国民も同様であるが。

(2019年10月14日投稿)

 

 

 

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国連人種差別撤廃委員会勧告:安倍自公政権は朝鮮高校に就学支援金適用を自治体は補助金支給を。

2025-01-15 13:20:08 | 朝鮮問題

 国連人種差別撤廃委員会は2018年8月30日、安倍自公政権下の人権状況と政府の取り組みへの見解をまとめた報告を公表し、朝鮮高校にも高校就学支援金制度を適用するよう勧告した。

 審査では、在日朝鮮人の権利課題についての発言が相次いだが、朝鮮学校への安倍自公政権の対応や取り組みについてどのように評価しているのかを少し紹介したい。

 ボス―ト委員(ベルギー)は、「平等権及び子どもの教育権を鑑み、朝鮮学校にも高校就学支援金制度が適用される事、また地方自治体が朝鮮学校に補助金を支給する事を求める」と述べた。さらに「朝鮮学校に通う子どもたちと拉致問題とは、何の関係もない。朝鮮学校は支援金を受け取っていないのに、他の学校が受け取っている事に留意し、そのような区別に妥当な理由はないと考える。朝鮮学校は支援金を当然受け取れるべきであり、私たちはこの問題を歴史的な文脈で見るべきだ歴史的な文脈こそ、朝鮮学校に通いたいと願う子どもたちから、いかなる支援金も奪われてはならないという事の十分な根拠である」と述べた。彼の在日朝鮮人の状況説明のほとんどの時間は朝鮮学校差別問題に充てられた。

安倍自公政権は、朝鮮学校を高校無償化の対象外とする方針を表明した理由を、「北朝鮮による拉致問題に進展がなく、国民の理解が得られない」とした。

 鄭鎮星委員(韓国)は、「2016年3月29日馳浩文科大臣の名で朝鮮学校が所在する都道府県に対して出した『朝鮮学校に係る補助金交付に関する留意点について』で文科大臣は、朝鮮学校が朝鮮総連及び北朝鮮と関係していると指摘し、朝鮮学校に関する補助金の公益性を見直すよう地方自治体に求めたが、日本政府(安倍自公政権)は政治的理由に基づき、朝鮮学校への補助金を中止する事を各知事に促したように見える。実際、朝鮮学校への補助金を中止した都道府県の数は、2017年時点で14自治体にまで増えた。中央政府が地方自治体に対して、そのような命令をしてはならないと考える」と述べた。

 安倍自公政権は、在日朝鮮人に対してだけでなく、沖縄県民(琉球民族)に対しても同様に(正しくは安倍自公政権ワールド以外のすべての人間に)、差別政策(人権侵害政策)を続けてきており、差別主義(人権侵害)を基本にした政治を行う差別主義(人権侵害主義)政権といえる。そして、この朝鮮学校の適用除外政策は、主権者国民に対して、在日朝鮮人と朝鮮民族への偏見や憎悪をこれまで以上に植え付け煽り(洗脳)、ヘイトスピーチを含む人権侵害行為を正当化させ助長する結果を導いているのである。

 つまり安倍自公政権は、主権者国民の意識精神の健全な発展を故意に妨害しているのである。

(2018年10月13日投稿)

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甲午農民戦争のブルジョア新聞『毎日』『報知』報道、伊藤内閣がクーデターで始めた日清戦争

2024-11-10 14:34:51 | 朝鮮問題

 甲午農民戦争は1894年2月に朝鮮南部で起こった。「斥倭洋倡義」(排日と減税を要求するの意)のスローガンを掲げた、反封建反侵略の農民軍による閔妃政権と大日本帝国政府の傀儡大院君政権に対する闘いであった。日本軍によって農民軍には3万以上の死者が出た。

 5月末に農民軍が全羅北道全州(道庁所在地)を占領すると、朝鮮閔妃政権は清国に救援を求めた。甲申事変(1884年12月。日本政府日本公使日本知識人が朝鮮親日改革派金玉均らを援助して起こしたクーデター。閔妃の救援要請を受けた清国軍に敗れ失敗)後、日本政府が強引に清国に結ばせた天津条約(1885年4月18日)を理由に第2次伊藤(元勲)内閣も出兵の動きを見せた。

 甲申事変について、日本の一般国民はまったく真相を知らされなかった。メディアも記事は厳しく管制されており清国排斥感情を煽る日本の被害記事のみを伝えたため、世論は反清国感情一色となった。政府系の『報知』『毎日』の論調は、事変の責任は朝鮮にはなく清国にあるとみなし、清国兵の朝鮮撤退、内政不干渉、朝鮮の独立の承認および日本への賠償と謝罪を一致して要求していた。『毎日』が戦争回避論を述べるのに対し、『報知』は強硬で、もし要求が拒絶されるなら、太沽・天津を陥れ、北京城下の盟を結べと武力解決論を主張していた。旧自由党員の動きはさらに過激で、『自由党史』には、高知では板垣・片岡が先頭に立ち、義勇兵を編成して昼夜猛特訓をし、鹿児島・長野・福島・富山・宮城などにも従軍を願い出る者や献金をする者が続出した。大井憲太郎は日本人の手で朝鮮改革を断行し、再び日清両国間に緊張を作り出す事が日本の国内改革に有益であるとし、閔妃派を爆弾で倒し親日派に政権を取らせ、清国からの独立と民主改革をやらせるという計画を立てたが事前に発覚した(大阪事件。1885年1月23日)。甲申事変にも関わった福沢諭吉は同年、「脱亜論」で「西洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接する法も隣国なる故にとて特別の会釈に及ばず」と訴えていた。

 帝国議会においては、1890年第1議会で第3代首相山県有朋が「主権線(国境)」と「利益線(朝鮮)」の防衛のため陸海軍増強が必要であると演説した。93年第4議会では第2次伊藤元勲内閣による「和協の詔勅」(建艦費として宮廷費の節約・文武官の俸給の1割を出すから議会も政府に協力せよ)利用により、対外強硬策が優位となった。第6議会では同内閣が93年6月2日、甲午農民戦争に対し出兵を決定した。清国に宣戦布告後の広島(大本営設置)での第7議会(1894年10月、伊藤内閣)ではそれまで紛糾していた議会は全会一致で戦争関係の予算・法律を可決した。

 話を戻そう。上記のような状況下の農民軍は両国に武力介入の口実を与えないため、閔妃政権に対し、悪質官吏の処罰や身分の平等などを求める弊政改革を条件として全州和約を結び休戦した。そして、執綱所という自治機関を置き農民自身の手で弊政改革を推進し、全羅道一円には二重権力的状況を生み出した。

 これに対する第2次伊藤内閣の動きは、同年6月2日、杉村朝鮮代理公使から閣議中に「朝鮮政府が東学党(農民軍)鎮圧のため清国に出兵を求めた」と電報で伝えてきた。同年6月5日、戦時大本営条例により東京に大本営が開かれ動員令を発令した。6月9日には広島第5師団混成旅団の戦闘部隊が広島県宇品港を出港し、12日に仁川へ上陸した。

 しかし、閔妃政権と農民軍は和約を結んでいたので出兵理由を失っていた。しかし、伊藤内閣と日本軍の狙いはとにかく清国を討つ事であったので、清国が拒否するのを計算ずくで「日清両国による朝鮮内政の改革」を提案した。清国は「それは朝鮮に対する内政干渉」「日清共同撤兵」を主張した。

 伊藤内閣はその後、清国に対しては「将来不測の変が生じても日本政府はその責任はない」と伝え、朝鮮国に対しては「7月22日までに清国の宗主権を認めた条約を破棄せよ」との最後通牒を突きつけ、期限切れを待って実力行使に至った。

 伊藤内閣下の日本軍は1894年7月23日未明にクーデターを起こし、「朝鮮王宮を占領」し、親清派の閔妃から政権を奪い、親日派の大院君を国王にすえ新政府を樹立し、同25日に大院君に「朝鮮は清国の属国ではない。清国は即時退去せよ」と宣言させた。

 そして、日本軍は(イギリスの支持を得て)、大院君から駆逐を依頼されたとして清国軍を奇襲攻撃したのである。1894年7月25日の豊島沖海戦(日清戦争開戦。宣戦布告は8月1日)である。

 この間、政府系ブルジョア新聞は朝鮮国をどのように報道しているだろう。日清戦争が開始される前の報知』94年6月11日は、朝鮮の独立に欠かせない内政改革を助けるのは、「先進国の後進国に対する義務にして、彼の名を独立に籍りてその内政に干渉するものとその撰を異にす」とする文明と独立の援助という名の下に朝鮮に対する内政干渉を正当化していた。『毎日』94年6月15日は、「維新以来日本の国是は暗黒なる朝鮮を開明の一方に導くにあり、軟弱なる朝鮮を助けて独立せしむるにあり」とし、同年7月10日には「日清戦争は文明と蛮風の軋轢」であるとしていた。

 第2次伊藤内閣はクーデターによって閔妃政権を追放し、親日派の大院君政権を成立させ、1894年7月25日、日清戦争に突入したが、全州和約を結んでいた農民軍は、9月以降、改めて日本軍の朝鮮侵略に対する反抗を開始した。その農民軍に対して『毎日』『報知』両紙は、「無頼漢」「烏合の草賊」「山賊、強盗と同じ」「流賊」などの罵声を浴びせ、『毎日』は10月30日には「警察の設備と権力の一致」、『報知』は9月4日、10月2日には「偽称東学党」「偽東学党」と呼び、11月2日には「速やかに之を討滅」など日本軍による弾圧の正当性を報道した。『毎日』11月7日社説では「閔族が韓廷から一掃され、農民の不満の原因は消滅したにもかかわらず、尚且つ紛々蜂起して日韓両国の累を為すは何の心ぞや」「今の東学党はその性質再変して流賊となりしのみ」とした。

 甲午農民戦争の真実の姿はつい最近まで、神聖天皇主権大日本帝国政府による朝鮮侵略が進行する過程で日本政府の暴虐を隠蔽し正当化するために都合良く歪められていたのである。今日の安倍自公政権と同様の「歴史修正主義」にもとづいて。国民は真実を知る権利があり、真実を知る労を惜しんではならず、真実を知る事を阻む者と闘う事から逃げてはならない。

(2019年1月18日投稿)   

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不二越資産差し押さえと少女強制連行被害者の証言

2024-10-18 07:30:10 | 朝鮮問題

 日本の植民地支配下での朝鮮人の労働動員に関する韓国での訴訟で、ソウル高裁などが日本の機械メーカー・不二越に対し、韓国人の元女子勤労挺身隊員らへの賠償を命じる判決を出していたが、その判決をめぐり蔚山地裁が同社の韓国内資産の差し押さえを認めた事を原告側支援団体が2019年3月26日に公表した。上記の訴訟で資産を差し押さえられた不二越は、新日鉄住金、三菱重工業につづいて3社目であった。

 以下に、不二越へ強制連行された被害者・金正珠さんの2011年10月29日の石川県教育会館での証言内容を紹介したい。

「彼女は1931年生まれ。1945年3月、担任の先生に、母のように慕っていた姉(名古屋三菱工場に強制連行)に会えると騙され不二越へ強制連行された。強制労働で足を痛めた。帰国後は夫に軍「慰安婦」と思われ離婚された。『日本は何も補償せずに私たちが死ぬのを待っているとしか思えない』と訴訟を決意した。太平洋戦争末期、韓国から1090名もの少女たちが富山の軍需工場・不二越へ強制連行され強制労働させられていた。彼女たちは当時、小学校を卒業するかしないかの12~15歳日本人教師に「不二越に行けば女学校に行ける」「習い事もできる」などと騙された。日本の植民地下で徹底的な皇国臣民化教育を受けさせられていた彼女たちにとって、日本人教師の言葉は絶対で、進学は夢のような事だった。しかし、不二越では厳重な監視下に置かれ、毎日旋盤などの重労働を強いられた。粗末な食事で、空腹を抱えながら仕事をした。あまりの空腹で草を食べてお腹をこわしたり、栄養不足で腸チフスやジフテリア、皮膚病を患った。昼夜2交替勤務で、ケガも多発した。亡くなった人や耐えかねて逃亡し行方が分からなくなった人もいた。原告は社員手帳を持っている。不二越に行った事で心身に傷を負い、戦後ずっと沈黙を強いられてきた彼女たちは現在80歳になった。不二越は強制連行の事実すら認めていない。被害者たちの闘いは、韓国人強制連行訴訟としては現在唯一係争中で、最後になる。原告団は、「判決では決して終わらない」と、不二越に対して、謝罪と補償を求め、不二越の門前に何度も立ち続けている。」

当時、彼女たちが故郷を思い、涙して歌った歌

  富山くるとき嬉しかった   一夜過ごせば悲しさよ

  いつかこの工場去るでしょうか   ああ、ああ、陰で泣く涙は

(2019年12月25日投稿)

 2024年1月韓国大法院で被害者側が勝利した。しかし、韓国政府及び日本自公政府は政治的圧力をかけ、不二越は被害者に対する賠償をしていない。

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甲午農民戦争を理由に対清戦争開始する大日本帝国政府の計略

2024-10-12 17:56:46 | 朝鮮問題

 甲午農民戦争(1894年3月29日~)は、朝鮮国支配を巡って、清国政府と神聖天皇主権大日本帝国第2次伊藤博文政府がしのぎを削り、大日本帝国政府が清国政府に対して戦争行為によって結論を出した日清戦争のきっかけとなった事件である。

 1894年6月2日、外務大臣陸奥宗光、参謀次長川上操六、外務次官林董らが甲午農民戦争を理由にして朝鮮国への軍隊派遣を相談していた。その前月20日には、川上参謀次長は参謀本部員伊地知少佐を朝鮮国へ派遣し、5月下旬には寺内正毅大佐(後に初代朝鮮総督)らに密かに出兵準備を命じ、6月1日には陸軍大演習用を名目に日本郵船会社から船舶を借りていた。5月22日には、ソウルの杉村代理公使が陸奥外務大臣宛に、「農民戦争」の鎮圧のために清国政府が出兵するおそれがあるので、大日本帝国政府も出兵準備をする必要があるという情報を届けた。6月4日大鳥啓介公使をソウルへ戻し、5日大本営設置、第5師団混成旅団に動員令を下した。甲申事変(1884年)後、日清両国政府間で「天津条約」を締結し、「出兵時は相互に通知する」と約したので、6月6日に清国政府から出兵通知が届き、翌7日には大日本帝国政府から出兵通知を届けたのであるが、6月16日には混成旅団が仁川に上陸した。その頃には朝鮮国政府は農民と「全州和約」を結び「農民戦争」は沈静化していた。そこで同日陸奥は清国駐日公使に共同での「朝鮮国内政改革」を提案した。しかし、21日清国政府は拒否した。そのため、大日本帝国政府は22日閣議で「単独改革」を決定し、大鳥公使に訓令「今日の形勢にては行掛り上開戦は避くべからず、依りて曲を我に負わざる限りは、如何なる手段にても執り、開戦の口実を作るべし」を与えた。大鳥公使は朝鮮国政府側と「内政改革」を3回議したが朝鮮国政府は拒否した。そこで7月20日清国朝鮮国両政府の宗属関係の破棄を22日までに宣言するよう朝鮮国政府に要求する最後通牒を出すとともに、大日本帝国政府軍による朝鮮国王宮(閔妃政権)の占領大院君擁立クーデターの計略を立てた。7月23日日本軍は景福宮王宮を占領し、朝鮮国兵士の武装解除を行い、閔妃らを追放、大日本帝国政府傀儡大院君政権を樹立した。7月25日には大院君に「朝鮮国は清国の属国ではない。清国軍は即時退去せよ」と宣言させた。同日大日本帝国政府は、「大院君より清国軍の駆逐を依頼された」として、海軍は「豊島沖」で清国艦隊を、陸軍は「成歓」で清国軍に奇襲攻撃し、8月1日になって大日本帝国政府は宣戦布告し本格的に日清戦争に突入した。英国政府には支持を取りつけていた。

 清国政府と戦争を継続しながら大日本帝国政府はその後、朝鮮国に対しては大院君から政治権力を奪うために軍国機務処を設置し、杉村代理公使が指名した朝鮮人たちの合議体制の政府機関(大日本帝国政府の傀儡)を作り、内治外交の問題を討議し、その決定事項を執行させた多数決を悪用した傀儡親日派による運営をさせた。大鳥啓介公使の後任井上馨は利用価値のなくなった大院君(1898年79歳で死去)を引退させた。

 1894年8月17日の朝鮮政策についての「閣議決定」では、⑴朝鮮国を文字通り自主放任する ⑵名義上独立国とするが、永久もしくは長期にわたり、直接間接「その独立を扶植し以て他の外侮を禦く」 ⑶日清両国政府で朝鮮国の領土を保全する ⑷ベルギー、スイスのような中立国にする、の4案のうち、⑵案を当面の政策と決定した。しかし8月下旬には朝鮮国政府と2つの条約を締結した。「日朝暫定合同条款」(8月20日調印)は、「大日本帝国政府は、京釜・京仁鉄道の敷設権を獲得、7月23日クーデター時の日朝両国軍の衝突責任を不問にする」などを取決め、「大日本大朝鮮両国盟約」(8月26日調印)は、大日本帝国政府側からの一方的攻守同盟で「大日本帝国軍の進退及び食糧準備などのため、一切の便宜を大日本帝国軍に与える事」を約させた。陸奥外相はこの盟約を「一面には、彼等が一個独立の邦国として、公然何れの国とも攻守同盟を為すべき権利あるを表彰すると同時に、他の一面には堅く彼らを我が手中に繫留し、敢えて他顧するところ莫からしむる為め一挙両得の策に出たるに外ならず」とした。これが政府の意図であった。大日本帝国政府はその後、先の2つの条約を発展させた「日朝条約草案」「大日本国大朝鮮国同盟秘密条約」を締結し一層露骨に支配しようとしたが、外務省顧問デ二ソンが批判し実現できなかった。大日本帝国政府のいう「朝鮮国の独立」とは、ロシアなど帝国主義列強国政府清国政府からの独立を意味するものであり、大日本帝国政府の朝鮮国に対する政策の目的は「政治的軍事的制圧」であった。

 大日本帝国政府は、日清戦争に勝利し、井上馨が公使になると、軍国機務処を廃止旧制度に復した。

甲申事変(1884年12月)においても、ソウル公使館駐留軍が朝鮮国王宮を占拠した。清仏戦争(ヴェトナムの支配権を巡るもので清国政府敗北)を機会に、金玉均・朴永孝ら親日派が閔妃親清派をクーデターで打倒し国政改革を目指した(福沢諭吉とも打合せ)。大日本帝国政府(伊藤博文)も壬午事変(1882年7月)による朝鮮国に対する支配力の劣勢を挽回する事を狙って、竹添公使らを通じて援助した。大日本帝国政府のソウル公使館駐留軍王宮を占拠し、金らは一旦大院君政権を樹立したが、大院君は、閔妃の救援依頼によりやってきた清国政府軍に捕らえられ、清国へ檻送された。らは大日本帝国へ亡命。以後閔妃が親清政権として再建された。大日本帝国政府は(クーデターに加担して失敗しておきながら)井上馨外務卿に軍隊をつけて、朝鮮国政府との間で1885年漢城条約を締結し「謝罪」「賠償」を認めさせた。清国政府との間では1885年天津条約締結した。

(2024年10月12日投稿)

 

 

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