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通信放送行政の独立行政委員会化をめざせ

2023-04-30 09:23:57 | メディア

 NHK「クローズアップ現代」の過剰演出問題で、「放送と政治」の関係が問題となっている。総務相の高市早苗氏が「放送法」は「法規範」であるとしてNHKに対し行政指導を行った。それに対してBPO(放送倫理・番組向上機構の2つの委員会が、総務相が「厳重注意」した事や、自民党の調査会がNHK幹部を呼び説明させた事を批判したのがきっかけである。

 今回なぜこのような事態に至ったのか。これは安倍政権の体質と大きな関係がある。安倍政権は「安保法制」を成立させるために、法律解釈を都合よく変更した。それと同じ手法で「放送法」も「解釈変更」したという事である。理由は、先ずは、放送局や放送内容が「政府の統制下」にある事を意識させるためである。そして今後、放送局や放送内容を政府が統制するための意識環境を作るためである。つまり情報の「統制」、極言すれば「一元化」「画一化」、特に政府批判を自己規制させる事が目的なのである。

 今日の欧米では、放送局に対する許認可権を持ち、放送内容について意見を言う機関として、「独立行政委員会」が設置されている。つまり、政府を監視する放送局を政府が監視する矛盾した関係を脱し、政府から独立した規制機関が設置されている。米国では1934年にFCC(米連邦通信委員会)が設置され、欧州でも80年代に相次いで設置され、イギリスではOFCOM(英情報通信庁)が。韓国でもKCC(韓国放送通信委員会)が。

 日本では、戦争中に政府が放送を統制利用した事から、敗戦後の1950年、連合国軍総司令部(GHQ)の強い意向で放送行政独立機関「電波監理委員会」が設置された。しかし、吉田茂内閣がサンフランシスコ講和条約で主権回復した52年、直ちに同委員会を廃止した。それ以後政府(郵政省、総務省)が今日まで規制監督権をもっており、許認可権や放送停止などの処分権限をもっている。

 なぜ、「放送独立行政委員会」の設置を認めないのか。それは自民党が一貫して反対してきたからである。1997年の中央省庁再編の過程で、政府の行政改革会議が「通信放送行政の独立行政委員会化」を提起したが、自民党と郵政省が反対した。また、2008年に経団連が「規制と産業振興を同じ省が行うと、規制が政策的配慮によりゆがめられる恐れがある」として独立行政委の設立を提言したが進展していないのが現状である。

(2016年2月12日投稿)

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池田大作の「緊急提案」発表:池田大作は生きているのか?本当に自身の提言なのか?その狙いは?創価学会は自公政権と絶縁したのか?

2023-04-27 10:57:57 | 宗教

※2023年4月27日、池田大作創価学会名誉会長が、5月に開かれるG7広島サミットに向けた提言を発表するらしい。ウクライナ危機については、戦闘停止に向け交渉を進める際に医師や教育者など市民社会の代表がオブザーバー参加する事などを提唱するという。

※2023年1月11日、池田大作創価学会名誉会長が、ウクライナ危機の早期終結と核兵器の使用防止を求める緊急提言を発表したようだ。現状は核兵器が使われる危険性が冷戦後で最も高まっているとし、核保有国間で「先制不使用」の誓約を確立する重要性などを指摘したという。

※2022年7月26日、創価学会の池田大作名誉会長が8月1日から開催される核不拡散条約再検討会議について、核兵器が再び使用されるリスクが冷戦後最も危険なレベルにあるとし、核兵器を保有する米英仏中露5カ国に対し先制不使用を明確に誓約するよう提案したという。

※2019年1月26日の新聞朝刊に、「創価学会の名誉会長という肩書である池田大作氏が、昨年と同月同日に『平和提言を発表する』」との記事を載せていた。今回の内容は、「核兵器や人工知能兵器の廃絶などを求める内容で、来年の核不拡散条約再検討会議を受ける形で2021年に国連の軍縮特別総会を開き、核兵器の削減を含めた基本方針を定める事などを提案している」との事であるが、この事について、昨年、投稿した内容を改めて下記に再掲したので是非参考にしていただきたい。 

 2018年1月26日の新聞に、予想もしなかった、池田大作氏についての記事が小さく載っていた。なぜ「予想しなかった」かといえば先ず、池田氏については創価学会員の間ではすでに「死亡した」と言われているからである。さらには、記事は小さかったが記事の内容は大きく重要なものであったからである。なぜなら、創価学会の名誉会長である池田大作氏が、安倍自公政権の政策に真っ向から反対する主張をする事になるからである。その内容とは、安倍自公政権に対して、日本が唯一の戦争被爆国として核兵器禁止条約への参加を求める内容の「平和提言」を発表するというものであったからである。

 安倍自公政権は、ご存知の通り核兵器禁止条約については、「反対」の立場で、「賛成」の国々から不信感を持たれている。その公明党を含む安倍自公政権に対して、「翻意」を要求するものだからである。

 この「平和提言」発表の真意はどこにあるのだろう。わたしは1月28日に告示された「名護市長選」に狙いを定めて発表するもので、立ち位置が曖昧(日和見主義)な公明党の印象を良く見せるための「印象操作」をしようとするものであり、自公政権と維新が推薦する渡具知武豊氏への支持者(投票者)を増やそうというのが狙いではないかと考えている。

皆さんはどう考えていますか。

ついでながら、渡具知氏は、在日米軍再編に協力する自治体に安倍政権が交付する「再編交付金」については、「国から受け取れる財源は受け取る」と主張し、普天間移設についてはまったく触れていない

ちなみに、名護市は2010年移設反対の稲嶺氏が当選して以降、「再編交付金」の交付は止まっているが、財政に支障はないとの事である。

伊丹万作の言葉「騙されるという事も一つの罪である

(2019年1月27日投稿)

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原発運転期間40年はどのように決定、岸田政権はそれをどう変えたいのか?

2023-04-18 22:30:48 | 原発

 国際環境NGO「FoE Japan」によると、2012年の東京電力福島第一原発事故を踏まえ、原発の利用と規制の分離や安全規制の強化が議論された。そして、それまで明確な規定がなかった原発の運転期間の上限について、「原則40年、1回に限り、原子力規制委員会が認める場合は20年延長可能」とした原子炉等規制法の改正与野党合意の下に成立した。

 「原則40年」とされたのは、原発を構成する設備や機器の設計寿命が40年とされている事、システム自体が年数がたって古くなっていく事。原子炉等規制法を改正して運転期間ルールを制定した2012年の国会審議において、当時の担当大臣(環境大臣)の細野豪志氏は、「作動するそのそれぞれの機器の耐用年数というものも考慮した中で40年というところの数字を導き出した」「例えば電気製品をとっても、車を見ても、40年前の技術で今そのまま通用ものは、逆に言うとほとんどない」と説明している。また、原子炉圧力容器に中性子が当たって劣化する事に加え、「システム自体の古さ」も挙げ、「そういった事を考えれば、40年の運転制限制度というのは必要である」とした。

 さらに、参考人として招致された田中俊一氏(初代原子力規制委員会委員長、当時は候補)は、「40年運転制限制は、古い原子力発電所の安全性を確保するために必要な制度」「40年を超えた原発は、厳格にチェックし、要件を満たさなければ運転させないという姿勢で臨むべき」と述べた。

 岸田政府はそれを無視し、運転期間ルールを、「原子炉等規制法」から削除し、経済産業省が所管する「電気事業法」に移し、運転停止期間を除外できるようにする規定を盛り込むというもの。除外可能期間は、東日本大震災発生後の新規制基準制定による審査やその準備期間、裁判所による仮処分命令その他事業者が予見し難い事由により生じた運転停止期間などとしている。「電気事業法」に移す事により、原発の運転期間に関する「決定権」は、原子力を規制する立場の原子力規制委員会ではなく、原子力を利用する立場の経済産業省がもつ事になる。

(2023年4月18日投稿)

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満州事変、5・15事件、2・26事件に見られる朝日新聞の論調

2023-04-12 22:58:07 | メディア

 1931(昭和6)年9月18日に満州事変は起こった。その概要は、

➡関東軍が満州(現中国東北部)奉天(現瀋陽)の柳条湖で南満州鉄道(日本の半官半民の国策会社)線路を爆破、それを「中国軍」の仕業とし(謀略)、「自衛」と称して軍事行動を開始。立憲民政党第2次若槻礼次郎内閣(1931年4月~31年12月)は不拡大方針を表明したが、閣内不一致で総辞職。関東軍は不拡大方針を無視し、32年1月までに満州全域を占領、3月には満州国を建国した。立憲政友会犬養毅首相(1931年12月~32年5月)は満州国の建国と承認に反対したが5.15事件で暗殺され、海軍大将斎藤実内閣(1932年5月~34年7月)が満州国を承認した。

 満州事変直前の論調はどのようなものであったか。朝日新聞は「大阪朝日新聞」と「東京朝日新聞」に分れており、特に「大阪朝日」は軍備縮小や軍部批判の論調が強かった。同年4月19日の社説「内閣の決心を示せ 軍備整理の実現につき」では「軍部の一手に軍制改革の大事業を任せて置く事はわが国策のうえに多大の不安が伴生するおそれがある。この上は内閣の方針として軍備整理及びこれに伴う経費節減額を決定し内閣において断然これが実行の決心を示すべきである」と軍縮断行を強く要求

同年8月8日の社説では「軍部が政治や外交に嘴を容れ、これを動かさんとするは、まるで征夷大将軍の勢力を今日において得んとするものではないか。危険これより甚だしきはない。国民はどうしてこれを黙視できようぞ」と主張。

同年9月17日の社説では「故に吾人は若槻首相に望む。昨今満蒙問題の論議、漸く激化せる折柄、軍部の興奮を善導して意外の脱線行為をなからしめ、これを支柱として対支外交に清鮮味を加えてその基礎の上に国際正義に基づく近代的外交の殿堂を築き上げんことを。これが何人かの手に成し遂げられなければ、徒に退嬰の結果による衰退か、または猪突主義による転落か、日本の運命は二者その一つを出でないであろうことを確信する」と中国と外交による解決を要望

そして、1931年9月18日、満州事変起こる。

同年9月20日の社説「日支兵の衝突 事態極めて重大」では、「中国軍の仕業」と断定し、「わが守備隊が直ちにこれが排撃手段に出たことは当然の緊急処置といわねばならぬ」と自衛のための武力行使は当然と主張。

同年10月1日の社説「満蒙の独立 成功せば極東平和の新保障」では「満州に独立国の生まれ出ることについては歓迎こそすれ反対すべき理由はないと信ずるものである」と中国からの満州独立を喜んで認めた

事変を境に論調が変わった。その原因は何か。後藤孝夫著『辛亥革命から満州事変へ 大阪朝日新聞と近代中国』によると、直接の原因は軍部と密接な関係にあった右翼の内田良平からの圧力だという。それ以前から社長や役員に対する襲撃事件や社屋への乱入事件など、右翼がテロの標的としていた。また、在郷軍人や軍部、右翼などが、朝日新聞に対する不買運動を展開した。このような嫌がらせや妨害を受けてきた上での内田の圧力によるものといわれる。

大阪朝日新聞は、同年10月12日には重役会議を開き、軍部批判を中止し軍部を支持する事、東京朝日にも同調させる事を決定(満州事変に対する社論を統一)したといわれる。

朝日新聞は満州事変後、事変の報道を強化して読者を煽り、喜び夢中になるような紙面作りをした。そのため発売部数は拡大し、利益も増大した。報道の特徴はどのようであったか。①軍の発表を受け、事態の変化を追認、②衝撃的な話や写真を好んで掲載、③勧善懲悪型で日本軍を善、中国軍を悪とする、④戦場を誇張、銃後の美談を報道

政府や軍部などの言論統制だけでなく、自ら進んで戦争を肯定し、敵国への憎悪をかきたて国民を戦争へ駆り立てた。満州事変に関する講演会や映画上映も頻繁に実施した。

1931年10月16日には社告「満州に駐屯の我が軍将士を慰問、本社より壱万円、慰問袋二万個を調製して贈る」を載せ、朝日新聞が費用を負担して満州の前線将兵に日用品など様々な品物を詰めた慰問袋を送り直接軍を支援した。同時に読者に対して「慰問金募集」も呼びかけ、巨額の慰問金を集めた。

1932年の5・15事件に対する論調はどうか。東京朝日新聞や読売新聞など他紙が事件参加者に同情的で、政治の無策を批判したのに反して、同年5月16日の社説「帝都大不穏事件 憂うべき現下の世相」では「陸海軍の軍服を着したるものの暴行(警視庁発表)なりというに至りては、言語道断、その乱暴狂態は、わが固有の道徳律に照らしても、立憲治下における極重悪行為と断じなければならぬ」「今回の団体的暴挙は、例えその動機に如何様のもの含まるるも国憲擁護の上からその行為はこれを厳罰に処し、またと再びかくのごとき事の繰り返さざるよう国民一般に戒慎しなければならぬ」と主張。

同5月17日の社説でも「テロ」や「ファシズム」を排撃した。しかし、5・15事件に関連した大阪朝日新聞の軍部批判はこの2回で終わる。

1936年の2・26事件に対する論調はどうか。この事件では東京朝日新聞の社屋なども襲撃されたが、同年2月29日の東京朝日新聞社説「一億臣民一致の義務」では「二十六日早暁、帝都に起こりし大不祥事は、国の内外の驚きであり、今更いう言葉を知らぬのであるが、これを機会に国体を一層安泰にし、政治の刷新にまい進することが、国民全体の負担する第一の義務であると信ずるのである」と主張。同年3月1日の東京朝日新聞社説では、軍部首脳の責任を追及するのでなく、反乱を鎮圧した軍当局に「敬意を表する」というものであった。

朝日新聞は、2・26事件を期して、政府や軍部に対する姿勢を転換し、同調・迎合し、日本の侵略を全面的に支持し、読者や国民に対し戦争への協力を訴え戦意高揚を図る論調を強める。

このような動向は、他紙も大同小異であった。読売新聞社の正力松太郎氏は、満州事変に際して、「戦争は新聞の販売上絶好の機会」と語り、夕刊発行に成功したという。

今日、マス・メディアに携わる者は、この歴史から何を教訓として学んでいるであろうか。

(2015年12月20日投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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