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中国ハルビンの東北烈士記念館:メディアは空襲被害とともに侵略加害の事実も伝えよ

2022-03-15 21:41:51 | 戦争遺跡

※下記は2020年3月14日投稿のものに加筆修正したものです。

 3月10日の東京大空襲や13日の大阪大空襲の事をテレビや新聞が取り上げている。戦後の政府は軍人や軍属に対しては補償をしてきたが、空襲被害を受けた一般人は対象外としてきた事や、政府に謝罪と賠償を求めても最高裁は認めず敗訴し、政府が放置している事も伝えている。しかし、被害者で生存者の方々の訴えの中には、「若い世代に空襲の惨さを知らせられるならうれしい」とか、「戦争が起こればどんな事になるか伝えたい」など、被害についての訴えを目立たせているものが多い。これでは十分ではないと思う。加害侵略の事実も関連させて伝え、国民のアジア太平洋戦争の実相の理解に尽力するために努力すべきである。思考停止し毎年行事的に例年通りの視点で伝えるだけでは害あって益なしである。また、記事の書き方によっては誤解を生むおそれを感じるものも目立っている。

 20年程前に中国東北部(神聖天皇主権大日本帝国時代には満州国)を訪れた事がある。黒竜江省ハルビンにも立ち寄った。その一曼街三号には「東北烈士記念館」がある。外観からして立派なギリシャ神殿風の建物で、日本の関東軍が占領後、関東軍特務機関の本拠とし、多数の反満抗日ゲリラの戦士たちを連行し、残虐な拷問で虐殺したところである。その烈士の中の一人、趙一曼を紹介したい。

 1905年、彼女は四川省の地主の娘として生まれた。1931年、関東軍の謀略による9・18事変(満州事変)の後、彼女は東北入りし、反満抗日ゲリラ部隊に加わった。そしてすぐ、東北人民革命軍(後の東北抗日連軍)第三軍第二師団の政治委員になった。そして戦闘中、重症の身で捕えられ、恐ろしい拷問を受けたが、一言も口を割る事なく病院に移された。しかし、入院中に看護婦を味方に付け脱走した。またまた捕えられ、1936年8月2日、ついに銃殺刑にされた女性である。その時の遺書を紹介しよう。

「寧ちゃんへ。

お母さんは、あなたの教育上のお世話ができないのを、とても心苦しく思います。お母さんはね、命を賭けて反満抗日の闘いに力を尽してきましたが、悲しい事にまもなく処刑されようとしています。お母さんは、二度と、あなたに会う事はできません。私のいとしい寧ちゃん!すくすくと、成長してくださいね。私はあの世から、両手を合わせてお祈りしています。私の、何よりも愛する息子よ。お母さんは、たくさんの言葉で、あなたを教える事はできなかったけれど、私の生きてきた道筋そのものが、あなたへのささやかな贈り物なのですよ。そして、大きくなってからも、母親が祖国のために命を捧げた事を、忘れないでちょうだいね。」

という内容である。

 銃後の臣民(国民)は空襲被害を受けたが、神聖天皇主権大日本帝国政府の為政者職業軍人たちの軍事侵略政策によって臣民(国民)は、徴兵兵士として加害者でもあり、空襲被害を受けた銃後の国民がその加害を支えていた事を頭に刻み込んでおかなければ、物事を正しく思考・判断できない。また、爆弾や焼夷弾の集中投下(空襲)で市民もろとも焼き殺す「皆殺し戦争」は、総力戦といわれた第2次世界大戦から生まれた戦術で、その最初ナチス・ドイツのヒトラーによる1937年4月のゲルニカ爆撃であり、世界中の非難を浴びている事。そして、それを真似たのが大日本帝国政府で、1937年7月の天津爆撃は、抗日運動の中心といわれた南開大学に集中して行ったので、国際的非難は、ゲルニカ爆撃よりもさらに高まった事。国際連盟も「世界を通じて恐怖と義憤との念を生ぜしめる行動に対しては、なんらの弁明の余地なき事と宣言し、ここに右行動を厳粛に非難す」との声明を出している事。しかし、帝国政府は1939年5月からは重慶に対してさらに大規模な無差別爆撃を実施している事。その先で米国が日本各地に対する爆撃や原子爆弾投下を行っている事を理解しておく事も、原子爆弾使用を認めるのでなく、大切な事である。また、東京大空襲や原爆投下を含む日本に対する無差別爆撃の米空軍総司令官はカーチス・ルメイ大将であったが、昭和天皇は敗戦後の1964年に彼が来日した際、最高位の「勲一等旭日大綬章」を贈っている事をどのように理解するのかという事も、日本に対する空襲とその被害を正しく判断認識するうえで重要である。

(2021年3月15日投稿)

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