つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

渋沢栄一は工場労働者を保護する工場法成立に反対した。

2024-08-05 22:33:56 | 渋沢栄一

 神聖天皇主権大日本帝国政府産業革命を推し進める中で、労働者がどのような状態におかれたかについては、横山源之助の『日本の下層社会』(1899年)や農商務省工務局刊『職工事情』(1903年)の中に詳細に明らかにされているが、この労働者を保護する法制定の動きはどのようなものであったのだろうか。また、その動きに対して渋沢栄一はどのような態度を示したのだろうか。

 農商務省工場法をつくろうとしたのは1882年であった。そしてその後の1887年にまとめられたのが職工条例案であった。その内容は「年齢14歳未満の者は1日6時間以上、17歳未満の者は1日10時間以上使役してはならぬ、婦女14歳未満の職工を夜間使用してはならぬなど」としていた。

 これに対し渋沢栄一、益田孝(三井物産)ら政商(大資本家)は、「古来の醇風美俗にもとづく雇用関係、すなわち封建的労使関係がくずれてしまう」と反対し、成立を阻止したのである。また、1896年の農商工高等会議において工場法が提案された時にも、渋沢栄一は「労働時間は長いが、職工が堪えらるる時間と申してよい、又夜業はゆかぬというが、一方からいうと、成るべく間断なく機械を使って行く方が得である、……夜業ということが経済的に適って居る……害があって職工が段々衰弱したという事実は、能く調査は致しませぬが、まだ私共見出さぬのでござります」(渋沢栄一伝記資料第23巻)と発言し、その後も工場法案は提案されても成立しなかった。

 1911年にようやく「工場法」は成立したが、その施行はすぐになされず1916年施行であった。また、紡績女工の深夜業撤廃についてはさらに遅れて1929年施行であった。これらの背景には渋沢栄一ら政商(大資本家)の反対があったのである。

(2021年3月13日投稿)

 

 

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NHK大河ドラマ「青天を衝け」:渋沢栄一を美化し日本資本主義帝国主義の正当化を狙う

2024-07-15 15:13:28 | 渋沢栄一

 2021年年2月14日からNHKの新しい「大河ドラマ」が懲りずに始まった。今回のタイトルは「青天を衝け」というもので、キーワードは「生き抜く」というものらしい。主人公は「渋沢栄一」(1840~1931)で明治時代に登場した大ブルジョアジーである。このドラマは、渋沢栄一のイメージを捏造美化し、神聖天皇主権大日本帝国政府の資本主義政策、さらに帝国主義政策正当化するために偏った解釈を行い賛美するものであり、それを国民に刷り込もうとする(洗脳する)事を目的としたドラマである。同様の目的を持つ「エール」に続く第2弾ともいえる。

 神聖天皇主権大日本帝国政府においては、日清戦争後の1895年3月頃を境に、「戦後経営」という言葉で表現した国策方針を決定した。それは対露戦争(日露戦争)にそなえての日本社会の帝国主義的編成替えの総体を指したが、それは主として軍備拡張、殖産興業、教育、植民地領有の4つから成り立っていた。

 またその基軸は「軍拡」であり、山県有朋を代表とする軍部は、「東洋の盟主」としての地位を確保するためには軍事力増強が必要(軍事力こそ正義である事を強調した。また、政府の大蔵・農商務省軍拡産業育成を同時に進めるべきであるとして、八幡製鉄所の創設、勧業銀行・農工銀行の設立、航海奨励法の制定などにより、軍拡を可能にする経済力の培養を目指した。

 農商務省はまた農商工高等会議を開設し、日本のブルジョアジートップクラスを招き、彼らの意見を政策に反映させる事によって彼らの支持を得ながら進めた。そのトップクラス渋沢栄一や益田孝などであった。

 第2次山県内閣(1898.11.8~1900 .9.26)第13回帝国議会で「地租増徴案」(軍拡費)を提出。その際、反対派地主階級は「地租増徴反対同盟会」を結成し猛反対した。それに対して賛成派であるブルジョアジーは、渋沢栄一会長として「地租増徴期成同盟会」を結成し反地主運動を行った。結局、山県の工作により大差で可決されたのである。

 ちなみに、山県の工作の中には、衆議院歳費を800円から2000円に引き上げる野党議員の買収もあった。このような事がまかり通ったのである。

 渋沢栄一が労働組合にどのように対応したのかについても紹介しておこう。1919年(米騒動)以降労働組合の結成が急増(社会運動も発展)した。そのため帝国政府は、有産階級と無産階級の対立という事態への有産階級の対応策が、もはやこれまでの「専制」では時代遅れで、これからは「協調」の時代であるとの認識を強くする。原敬内閣(1918.9~21.11)の床次竹次郎内相は1919年1月、清浦圭吾、渋沢栄一らとともに「労働に偏せず、資本家に偏せず、純然たる第三者の立場」(労使協調)に立つ、労働問題解決のための民間機関設立を決めた。財界の要望の上に立って、同年8月閣僚・官僚・実業家・学者・宗教家など約230名で発起人会を開き、「協調会」をつくる事となった。

 渋沢は政府の補助金実業界からの寄付金600万円を資金とし、12月12日、財団法人 協調会を発足させた。会長徳川家達副会長は清原圭吾、大岡育造、渋沢栄一であった。設立趣意書には、「資本労働の協調産業発達の第一義にして、又社会の平和を保する所以なり」とあり、社会政策に関する調査研究と政府への社会政策についての提言、労働争議の仲裁・調停などを行い、労使の協同調和の実現を目的とするものであった。

 鉄道国有法制定(1906年3月31日公布)は、日本資本主義の確立期に入り、渋沢栄一ブルジョアジー国有化推進を要求するようになった結果である。この際、衆議院で多数を占めた与党政友会は貴族院修正案を議事省略により強行採決した。この鉄道国有化は、アジア大陸侵略の体制(帝国主義体制)確立(1906年朝鮮京釜鉄道国有化、南満州鉄道株式会社創立)に大きな役割を果たすとともに、日本国内における金融資本支配の体制強化も促進したのである。

(2021年2月15日投稿)

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朝日新聞「明日へのLessn」『渋沢栄一 論語と算盤』で作家守屋淳氏が言わなかった事

2024-07-03 10:00:04 | 渋沢栄一

 守屋淳氏は、朝日新聞2024年4月6日『渋沢栄一 論語と算盤』記事で、渋沢が「論語と算盤」という言葉に共感したのは、英国商業会議所会員との意見交換の際、「日本人は約束を守らない。あなたの力で改善してもらえないか」と言われた事が背景にあるとし、「当時の日本の商人たちの間には『稼いだ者勝ち』という考え方が広がり、拝金主義に陥っていたため、商業道徳が国際的に問題視されていたからだ」と述べている。

 このような件に関係して、「高校日本史教科書」にも朝鮮における日本人商人の横暴」というタイトルで紹介されている『1881(明治14)年度農商務卿報告』(「明治前期産業発達史資料」)を以下に紹介しよう。

 「移住人民の中には無頼の徒も亦少なからず、しばしば韓人侮慢し、売買の際不整の秤量を用い、不理の利を謀るの悪習なきにあらず。……ややもすれば石戦拳闘(けんか)を伝える、恐らくはこの徒中より醸起するにあらざるなきを得んや。是を以て韓人も亦漸く此等の徒を嫌忌するの念を生ぜんとす。」

 上記のような事情から朝鮮では反日感情は高まっていったというのが歴史学では定説となっている

(2024年4月6日投稿)

 

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渋沢栄一と大阪紡績設立と大日本帝国政府

2024-07-03 09:57:18 | 渋沢栄一

 安倍・菅自公政権が圧力をかけた結果であろう、NHKが政権の意に応じるように「大河ドラマ」で「日本資本主義の父」として絶賛し美化すべき人物像に創作して取り上げ国民にそれを植えつけ(洗脳)ようとしていると思われる渋沢栄一という人物ついて少し紹介したい。神聖天皇主権大日本帝国政府は、殖産興業政策において、綿紡績業に対してどのように対処したのだろうか。棉から綿糸をつくる綿紡績業は、1877年に東京上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会臥雲辰致(がうんたつむね)が出品した綿紡機(ガラ紡機)が「本会第一」と評判となり、当時は特許法が制定されていなかった事もあり、各地に模造品が現れ大いに普及した。政府は愛知や広島に官営模範工場をつくるとともに、民間の政商に融資した。渋沢栄一政府から融資を受けるとともに、華族の所有公債や大商人の出資により、1883年には蒸気機関で動く1万500錘の紡績機械英国から輸入し、日本初の採算のとれる大紡績工場「大阪紡績会社」を大阪三軒家に設立したのである。86年以降は三重紡績なども続々と設けられ、90年の綿糸生産量は、輸入綿糸を超え、日清戦争後は中国向け輸出が激増し、97年には輸出量が輸入量を上回り、日本の産業革命の中核となった。しかし、この紡績業は製糸業とともに、年少の女工たちの低賃金で1日10数時間働かされる過酷な労働によって実行された。そして、大量の輸入艦船・機械類や外国人教師(官傭外国人・お雇い外国人)の外貨は、彼女たちにより賄われていたのである。単純に個人を英雄視したり美化すると、歴史を正しく理解できない。そして、渋沢栄一個人を賛美美化する歴史認識は、神聖天皇主権大日本帝国政府やそれに保護され政府を支えた政商や財閥などの側に偏った歴史認識であると言える。

(2021年3月12日投稿)

 

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殖産興業政策と渋沢栄一と大阪紡績会社

2024-07-03 09:54:48 | 渋沢栄一

 1874年末頃、神聖天皇主権大日本帝国政府の大久保利通内務卿は、殖産興業政策を推進していくうえで、三井・三菱を頂点とする「政商」への保護政策を打ち出した。そして、それら民間への融資を推進した。その融資先の状況を見ると、「銀行」については、高額順位第1位は三井銀行、第2位は第2国立銀行であるが、第3位には渋沢栄一頭取である「第1国立銀行」となっている。また、「会社」については、第1位は三菱会社、第3位は三井物産会社である。また、「個人」に対する融資については、第1位は五代友厚、第2位には渋沢栄一となっている。

 渋沢栄一が「大阪紡績会社」を起こした理由についてであるが、渋沢は当時の帝国日本が、綿糸輸入が急増するのを憂えており、綿糸布商・薩摩治兵衛らと相談し、大規模機械紡績工場の設立計画をつくった。そして、たまたまロンドンへ渡り経済学を学んでいた旧津和野藩士・山辺丈夫に紡績技術と経営を習得させた。

 1880年7月に帰国した山辺は、渋沢と相談し水車動力工場設立の適地を探したが見つからないため、1881年末に蒸気動力を利用する事に変更した。そして、渋沢らと同様に大規模機械紡績工場設立を計画していた、大阪の洋反物商・松本重太郎や長州藩奇兵隊出身の政商・藤田伝三郎らとが手を組む事となったのである。

 松本藤田の奔走で1882年3月には大阪木津川沿い三軒家の「官有地」の払い下げを獲得し、藤田組が工事を行い、翌1883年3月に設立がなった。資本金は28万円、頭取は藤田伝三郎、相談役は渋沢栄一、取締役は松本重太郎と第1国立銀行大阪支店・熊谷辰太郎が就いた。

 業務全般を統轄したのは山辺であり、英国から招いた技師ニードルにより輸入紡績機1万500錘が据え付けられ、1883年7月には操業開始に至った。

(2021年2月22日投稿)

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