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「飛鳥・藤原の宮都 世界遺産推薦へ」朝日新聞はもっと早くから報道すべき

2024-09-30 16:52:08 | 世界遺産

 2024年9月30日朝日新聞朝刊は、(自公内閣が)古代の宮都「飛鳥・藤原」をユネスコ世界遺産国内候補推薦したと伝えた。しかし、購読者への伝達時期について感じた事は、推薦の前提となるユネスコ世界遺産センター暫定リスト掲載された時期に行うべきであると思ったし、記事内容単純な伝達でだけではなく、この推薦行為が、自公政権が現在推し進めている政治姿勢(憲法改悪)を考えれば、日本国の政治形態を近い将来大きく変質させようとする目的(国家体制(国体)を神聖天皇主権大日本帝国への回帰)に関連した政策の一環であると考えられる点にも思考を及ぼし、伝えるべきだと思った。

 この推薦決定のきっかけは、自公政府文化庁が2006年に候補地を公募した事に始まり、11月には奈良県および関係自治体が名乗り出た。07年1月23日には追加申請対象に決定し、1月30日にはユネスコ世界遺産センター暫定リストに載った。当時は「戦後レジーム(象徴天皇制、民主主義体制)からの脱却」「神聖天皇主権大日本帝国への回帰」を叫ぶ第1次安倍晋三自公内閣(2006年9月~07年9月)であった。その後、2023年7月3日岸田文雄自公内閣が「飛鳥・藤原」を優先候補とする事を決定し、同月4日には永岡桂子文部科学大臣が「飛鳥・藤原」を2025年推薦し、2026年には審査登録を目指すとしたのである。しかし、自公政権の衰退崩壊気味の政治情勢のため焦っているのであろう、予定を早めているという事なのである。敗戦後、国民は国民主権(民主主義)基本的人権の尊重戦争放棄を選択したのではなかったのか?朝日新聞は、自公政権が、国民を奴隷のように犠牲にし、自分たち為政者権力者の富を得、殖やす過去へ逆戻ろうとする動きを見て見ぬふりをし共謀し共犯となるのか? 主権者国民に何を守るべきか?主権者国民にどう対応すべきか?を伝えるべきではなかったか?

※神聖天皇主権大日本帝国の「国体」とは「尋常小学修身書」の巻3巻5に明らかである。以下に紹介しよう。

巻3第27「よい日本人

「よい日本人となるには、つねに天皇陛下・皇后陛下御徳をあふぎ、又つねに皇大神宮をうやまって、ちゅうくんあいこく(忠君愛国)の心をおこさなければなりません。父母に孝行し、師をうやまい、友だちにはしんせつにし、近所の人にはよくつきあはなければなりません。しやうじき(正直)で、くわんだい(寛大)でじぜん(慈善)の心も深く、人からうけたおん(恩)をわすれず、人と共同してたすけあひ、きそく(規則)にはしたがひ、じぶんの物と人の物とのわかちをつけ、又せけん(世間)のためにこうえき(公益)をはからなければなりません。その外ぎょうぎ(行儀)をよくし、物をせいとん(整頓)し、しごと(仕事)にほねをり、がくもん(学問)にはげみ、からだのけんかう(健康)にきをつけ、ゆうき(勇気)をやしなひ、かんにん(堪忍)のこころつよく、物にあわてないやうにし、又けんやく(倹約)の心がけがなければなりません。かやうにじぶんのおこなひをつつしんで、よく人にまじはり、よのため人のためにつくすやうに心がけるのは、よい日本人になるに大切なことです。さうしてこれらの心がまえはまごころからおこなはなければなりません。

巻5第1課 我が国

「昔天照大神は御孫瓊瓊杵尊をお降しになって、此の国を治めさせられました。尊の御曾孫が神武天皇であらせられます。天皇以来御子孫がひきつづいて皇位におつきになりました。神武天皇の御即位の年から今日まで二千五百八十余年になります。此の間、我が国は皇室中心として、全国が一つの大きな家族のやうになって栄て来ました。御代々の天皇は我等臣民を子のやうにおいつくしみになり、我等臣民は祖先以来、天皇のやうにしたひ奉って、忠君愛国の道に盡しました。世界に国は多うございますが、我が大日本帝国のやうに、万世一系の天皇をいただき、皇室と国民が一体になっている国はございません。我らはかやうなありがたい国に生まれ、かやうな尊い皇室をいただいていて、又かやうな美風をのこした臣民の子孫でございますから、あっぱれよい日本人となって我が帝国のために盡さなければなりません。」

(2024年9月30日投稿)

 

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百舌鳥・古市古墳群:「イコモス」の世界遺産登録勧告の判定は信用できない。安倍自公政権は科学的研究を無視し歴史を捏造する歴史修正主義者集団

2024-09-10 23:34:16 | 世界遺産

 百舌鳥・古市古墳群は49基の古墳で構成され、その内29基は、神聖天皇主権大日本帝国政府が天皇家の陵墓として指定したものを、戦後の自民党日本国政府が非合法的であるにもかかわらずその「指定」をそのまま引き継ぎ、天皇家の陵墓として占有し、宮内庁の管理下に置き、研究者の自由な立ち入りを禁止し全面的な発掘調査も実施させないため、被葬者や築造時期などは科学的学術的に明らかになっていない。また、文化財保護法での「特別史跡」や「史跡」という文化財にも指定されていない。そのような状態にある、宮内庁管理下のいわゆる「陵墓」を、文化庁大阪府などは世界遺産登録の手続きの際仁徳天皇陵古墳」「履中天皇陵古墳」「応神天皇陵古墳」として行っているのである。これは歴史の捏造と言って良い行為であり、学術研究を冒涜する行為(日本考古学協会など歴史・考古学系の13団体は学術的に被葬者が確定していない中で特定の被葬者の名をつける事は誤った理解を導く可能性があると批判している)であり、主権者国民の真実を知る権利を否定する行為であると言うべきで、決して許してはならない。このような状態にあり、登録に対して虚偽の説明をしているいわゆる「陵墓」に対し、疑問を呈する事もなくイコモスが登録を勧告したという事については、その評価が適正に行われたのかどうか極めて不信に思う。組織は公明正大に機能しているのかどうか極めて疑わしいと言わざるを得ない。

 2019年5月13日、ユネスコの世界文化遺産の諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)が百舌鳥・古市古墳群を世界遺産に登録するよう勧告した。その知らせを受けて歓喜する地元の人々の反応をみると、遺産登録する正しい意味をまったく理解していない。彼らにとっては、「正しい」意味などはどうでもよい事であるのだ。遺産登録をきっかけに商売を繁盛させる事ができるのではないか、今以上に金儲けができるのではないかという事(つまり、深く物事を考えず、儲かりさえすれば良いとして、そのためには周りの雰囲気にあわせて何でもやるという習性。深い意味を分かろうとせず、何となく楽しく思い、まわりに同調してお祭り騒ぎをする習性)こそが狙いなのである。極めて姑息で無責任な商売人根性金儲け主義に基づいているのである。この行動の仕方は残念であるが日本人独特のもので、神聖天皇主権大日本帝国下においては、今日以上に強いものであって、侵略戦争を肯定する事にもなった意識である。例えば、Co・FUNカフェ経営者は「ご飯を前方後円墳形に盛ったランチを提供している」。古墳の缶バッジのプロデューサーは「お祭り騒ぎで一般の人も巻き込んでいきたい」。土産物店では16年にメーカーと共同で「古墳こんにゃく」を開発し、観光客向けに販売してきた。はにわ作り体験ができる「河内こんだハニワの里 大蔵屋」がオープンした。

 2017年1月31日NHK「ニュースホット関西」では、「古フンでコーフン 魅了される人々」と題して、百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録をめざす堺市民の様子を伝え、NHKが視聴者に賛同を呼びかけていた。

 このニュースを知って私は違和感をもった。それは、「仁徳天皇陵」とか「応神天皇陵」という表現を使用していたからである。なぜなら、高等学校の教科書では、「大山古墳(伝仁徳陵)」とか「誉田御廟山古墳(伝応神陵)」と書かれているところを上記のように表現していたからである。

 教科書で上記のように表現されている大きな理由には、いわゆる「仁徳」や「応神」と称される人物の古墳であるかどうか、発掘調査研究が実施されていないため、学問上確定する事はできないという点と、「仁徳」や「応神」の時代には「天皇」という称号を使用しておらず、「大王」を使用していたという点が歴史学界の認識となっているためである。また、「大王」が「大和政権」の「リーダー」であるとの理解も誤りで、支配被支配の階級関係に基づく「支配者」と理解すべきである。

 この点だけで、NHKの編集内容は「放送法第4条」の中の「報道は事実を曲げない」という規定に明確に違反した「偏向報道であるといえるもので、視聴者に対して訂正と謝罪をすべきであるとえる。さらには、「BPO放送倫理検証委員会」において問題とすべきであると考える。

 「天皇陵」と指定し、「仁徳天皇陵」や「応神天皇陵」という呼称を使用しているのは「宮内庁」の独善的判断といえるものなのである。それというのも、宮内庁はこれまで、「天皇陵は陵墓であり学術調査の対象にはなり得ない」として、研究者による発掘調査研究をまったく認めてこなかったため、研究者には学問的にまったく信憑性が疑わしい判断であると見なされているからである。歴史学者の森浩一氏は「今の指定のままでいいと言えるのは、天武天皇の野口王墓と天智天皇の御廟野古墳だけだ」(『毎日』1986年6月8日朝刊)とし、大塚初重氏は「古墳時代の天皇陵31基のうち、現在の治定(指定)と被葬者が合致しているのは、天智天皇陵と天武・持統天皇の合葬陵の2基だけ」としているのである。

 ちなみに、宮内庁は1973年に「歴代天皇陵の決定について」という文書を公表した。それには、幕末までの陵墓探索結果を明治政府が継承した事、探索考証の根拠は「古事記、日本書紀、延喜式その他の古文献並びに伝承等」によった、と正当化している事を付け加えておこう。そして、現在、宮内庁が管理している「皇室典範」第27条に規定する「」は、「歴代天皇陵」は111、「歴代外天皇陵」が13、皇后陵が62で合計187である。また同様に、「墓」は893である。

 ところで、神聖天皇主権大日本帝国政府はなぜ歴代天皇陵指定しなければならなかったのか。それは他でもなく、神聖天皇制国家神道体制、政教一致の政治)を精神的支柱とした大日本帝国政府の重要な政治アイテムとして利用し、国民を効果的に支配統治する事とそれを諸外国にアピールするためであった。大日本帝国政府太政官は1874年5月、各府県に対して通達「御陵墓調査上古墳の届出方」を出した。内容は、「上世以来御陵墓の所在未定の分」について取り調べ中で、開墾の時、「口碑流伝の場所は勿論其他古墳と相見え候地」は、発掘などせず、「絵図面」などを付けて教部省へ問い合わせるようにせよと命じた。1880年11月にも宮内省は、沖縄県を除き「再届出方の通達」を出し、古墳と思われるような土地は、個人所有であってもみだりに発掘してはならないと命じた。そして、74年7月10日には、大日本帝国政府としては初めて「神代三陵」を指定した。

 そして、大日本帝国憲法と、皇室典範が公布された1889年、歴代天皇陵をすべて指定したのである。『明治紀第七』には、「条約改正の議起るに際し、伯爵伊藤博文以為らく、万世一系の皇統を奉戴する帝国にして、歴代山陵の所在の未だ明らかならざるものあるが如きは、外交上信を列国に失う事になる速やかにこれを検証、治定し国体の精華を中外に発揚しようとした」とある。

 伊藤博文は、天皇が「万世一系」であるとする「作り話」を、真実であると思わせるために「歴代天皇陵」を偽装偽造し、日本国民はもとより外国に対してアピールする事が狙いだったのである。

 伊藤が主導した「大日本帝国憲法」の前文にも、(上諭)「朕祖宗の遺烈を承け万世一系の帝位を践み」とあり、第1条には「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と定めた。「皇室典範」の「前文」にも、「天祐を有したる我が日本帝国の宝祚は万世一系歴代継承し以て朕が躬に至る」と定め、第1条に「大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子之を継承す」と定めた事からも、「万世一系」を真実と思わせる「日本の歴史」を改めて偽造する(現代でいえば歴史修正主義に基づく歴史)事が喫緊の最重要課題であったのだ。

 現在、安倍自民党首相は、現行の日本国憲法を廃止し、「自民党憲法改正草案」を日本の新しい憲法に置き換えようとしているが、その際、現行の「前文」をも廃止し、新「前文」の初めの部分に、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」という文言を定めている。この「長い歴史と固有の文化」という文言に「大日本帝国憲法」の「万世一系」の意味を含ませているのである。また、現行「皇室典範」においては、第1条で「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定めているため、「生前譲位」問題の検討においても、「女性宮家の創設」を含む「皇室典範」改正の必要性を認めないのである。

(2019年11月13日投稿)

 

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世界遺産登録になぜ歓喜の声?国民は遺産から日本資本主義を学ぶべきだ。

2024-07-28 09:31:35 | 世界遺産

※下記は、2015年7月20日に投稿したものに加筆修正し、改めて投稿したものです。

 1889(明治22)年、2月11日、紀元節の日に大日本帝国憲法が発布された。東京大学医学部のドイツ人教師ベルツがその2日前(9日)の東京の様子を日記に書いている。

 「東京全市は、憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。至る所、奉祝門、照明、行列の計画。だがこっけいな事には、誰も憲法の内容をご存じないのだ

上記のような状況が、世界遺産に登録された事でも、国民の間で生じている。

 2014年6月には群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、2015年の7月5日には新たに明治の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船、石炭産業がユネスコの世界文化遺産に登録された。

 富岡製糸場建設については、大蔵省の渋沢栄一の意見により、フランス製機械の導入、ブリュナなどフランス人技術者の雇用(お雇い外国人)、工女士族の子女の採用とされた。神聖天皇主権大日本帝国政府は生糸(製糸業)を輸出品の目玉として重要視し、富岡製糸場の工場長であった尾高惇忠は明治初期すでに「繰婦(製糸女工)は兵隊に勝る」と考えていた。又政府にとっての生糸政策の重要性は、黒田清隆内閣松方正義蔵相による1889年6月演説に、「天皇陛下が外国より軍艦を購入すべしとのたまいたる時、余は日本の軍艦はすべて生糸を以て購求するものなれば、軍艦を購求せんと欲せば、多く生糸を産出せんことを謀らざるべからずと上言したり」との言葉が表していた。日清戦争前、帝国政府は重工業が未発達で兵器用鉄鋼や軍艦を国内で生産できず、官営八幡製鉄所の稼働まで外国に鉄鋼や軍艦の注文をするしかなかった。そのための代金を得るために生糸が欠かせなかったのである。その生糸生産を担った女工労働については『あゝ野麦峠』に詳しい。

  その産業革命遺産に含まれる「長崎県の高島炭坑や端島炭坑福岡県の三池炭坑・三池港、福岡県の官営八幡製鉄所」について、韓国政府が「戦時中、朝鮮半島出身者に対する強制労働があった」とするのに対して、安倍自公政権が「強制労働ではなく徴用工」だと固執したため、審議での発言内容に激論があり、登録が難航したが、結果として、安倍自公政権は「徴用工」に関する説明を日韓両政府ともに「against  their  will」という英語を使う事で韓国政府と合意し、安倍自公政権声明で「1940年代、その意思に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいた。また、第2次世界大戦中(韓国が日本の植民地時代)に日本政府としても徴用政策を実施していた事について理解できるような措置を講じる所存である。インフォメーションセンターの設置など、犠牲者を記憶にとどめるために適切な措置を説明戦略に盛り込む」と「負の歴史」も踏まえた情報発信をする事を約し、登録が決定した。

 しかし、登録決定翌日から、菅官房長官は、英語の解釈が韓国政府とは異なると知り、「強制労働ではない」と否定している。しかし、外村大東京大教授によれば、「暴力的な動員や過酷な労働を強いた事実は多くの研究で証明されている、意思に反した事が強制した事。言葉のごまかしは国際社会では通じない」という。

 「大日本帝国政府は、1939年から毎年、日本人も含めた労務動員計画を立て、閣議決定した。朝鮮からの動員数も決め、日本の行政機構が役割を担った。手法は年代により『募集』『斡旋』『徴用』と変わったが、すべての時期で概ね暴力を伴う動員が見られ、約70万人の「朝鮮人」が主に日本内地に送られた」「内務省が調査のため44年に朝鮮に派遣した職員は、動員の実情について“拉致同様な状態と文書で報告」「徴用は国民徴用令に基づき、国が責任をもって配置するもので国の栄誉を担う労働者だった。弔慰金や別居手当など援護もついた。日本人は戦争初期から徴用された。しかし、朝鮮人にこの制度が適用されたのは戦争末期の44年。徴用令を適用しないまま、多くの動員をした」

 「世界遺産」として登録を認められるという事は、その遺産がどのようなものであるかという趣旨を可能な限り明らかにする必要があると思う。それは、世界の人々にとって、未来の人類に対して伝えるべき価値のある遺物であると評価する物だからである。だから、各国の政府や国民の誇りを満足させたり誇示するためのものではない。そして、登録を認められた遺産を持つ国は、それを人類共通の大切な宝として継承するために、世界の人々を代表して保存・保護を責任を持って行わなければならないという事である。また、世界遺産に登録してもらうという事は、世界各国(少なくとも21の遺産委員会)に対し、当該国政府(安倍自公政権)の当該遺産に対する歴史認識が世界的普遍的なものとして共有できるものかどうかを判定してもらう、問う、という意味を持つものである。そして、安倍自公政権は今回、結果として歴史認識に問題がある、という事が明らかになったという事である。

 韓国政府朴政権がもし、世界遺産登録に「反対表明」をしなければ、安倍自公政権はもちろん地元の人々や多くの国民は、韓国との歴史について何も触れずに歓喜の声をあげていただろう。メディアもその事を伝えるだけであっただろう。安倍自公政権にとっては朴政権を腹立たしく思っただろうが、国民にとっては隣国との友好を深める上で学ぶ事があったのではないか

 しかし、日本国民は安倍政権もメディアも話題にしない隠していると言ってもよい事を知るべきだ。それは何か。その当時、日本人労働者はどのような環境条件下で働かされていたかという事だ。韓国朴政権は日本国民に、その事を知るキッカケを与えてくれたと理解したい。

 ここでは特に高島炭坑」と「三池炭坑で日本人がどのような労働環境労働条件下で働かされていたかについて紹介しよう。まず、「高島炭坑については、1888(明治21)年、政教社の松岡好一が雑誌『日本人』(主幹・三宅雪嶺)に発表した「高島炭坑の惨状」と題するレポート(高島炭坑坑夫虐待事件)を紹介しよう。「高島炭坑」は、1874年から工部省の管轄下にあったが、同年民営化により、後藤象二郎の所有となり、1881年に三菱会社が買収し経営した。レポートによると、坑夫の直接管理は納屋頭をもうけてそれに当たらせていた。

納屋頭は各地方の博徒その他に依頼し、ほとんど誘拐同様の手段にて雇入れたれば、目下本坑に従事する坑夫は皆その姦計に陥りたるを悔い、悲憤激昂せざるものなし。……坑夫中過度の労力に堪えずして休憩を請い、或は納屋頭、人繰(人夫頭)の意に逆らう者ある時は、見せしめと称して後手に縛し梁上に釣り上げ、足と地と咫尺するに於いて打撃を加え、他の衆坑夫をしてこれを観視せしむ。余(松岡好一)これを聞く、1884(明治17)年の夏この島にコレラ病の侵入するや、3千の坑夫中その大半、即ち1500余名はこの病のために死せりと。炭坑社はその死せる者と未だ死せざる者とを問わず、発病より1日を経れば之を焼き場に送り、大鉄板上に於いて5人もしくは10人づつ焚焼せり。むべなるかな、高島に3回の暴動起こりし事。その1回の如きは竹槍蓆旗を以て炭坑舎を焼き尽くし、機関を破壊し、まさに由々しき大事に至らんとせしが、早くもその警報長崎に達し、警部巡査及び分営軍人の出張ありてわずかに鎮撫せしといえども、舎員の死傷は少なからざらしと。この暴動にや恐れけん、以来炭坑舎は撃剣に熟達せる者を雇入れ、坑内坑外の取締をはなはだ厳にせり。……」(明治文化全集)

 また、吉本襄によると、「……納屋頭より坑夫に与えられる賃金は採掘高によって定められていたが、食事代、納屋賃、道具代その他の名目で納屋頭に中間搾取され、坑夫にとっては働けば働くほど借金ができる仕組みになっていた。その待遇は毎日12時間という長時間労働で、坑内には35度以上という灼熱の場所もあった。食事は少量のご飯とおかずで、納屋には冬でさえ1枚のふとんも用意されていなかった逃亡を企てると、甚だしきに至りてはこれを縛って逆さまに懲役台に釣り下げるといった残酷な刑罰が加えられた」という。

 納屋制は「高島炭坑」に特別あったものではなく、筑豊・北海道などの諸炭坑に当時は広く見受けられた。同じようなものに「飯場制」「人夫部屋」「監獄部屋などがあった。

 1873(明治6)年、官営化した「三池炭坑」では、「囚人労働」が行われた。1888(明治21)年民営化により、三井所有、1908年には三池港完成。官営時代に坑口の近くに「三池集治監を設けて、九州各地の長期刑囚を集め、坑内労働をさせていた。三井払い下げ後もこの囚人労働の使用は継続した。団琢磨は、「坑内作業の囚徒の脱走を防ぐために坑口に鉄砲を持った監視人が立っていた……囚徒の暴動を鎮圧するために囚徒を竹槍にて刺し殺した」と語っている。暴動は73年から5年間連続して起こった。昭和の初期まで継続された。囚人労働が納屋制労働と比較して有利な点は、その労働力の確保をより安価により大量に行えた事である。

 金子堅太郎は、「彼ら囚人はもとより暴戻の悪徒なれば、その苦役に堪えず斃死するも、尋常の工夫が妻子を遺して骨を山野に埋めるの惨状と異なり、また今日のごとく重罪犯人多くしていたずらに国庫支出の監獄費を増加するの際なれば、囚徒をしてこれを必要の工事に服せしめ、もしこれに堪えず斃れ死してその人員を減少するは、監獄費支出の困難を告げる今日に於いて、万止むを得ざる政略なり。また尋常の工夫を使役すると囚徒を使役するとその賃金の比較を挙げれば、北海道に於いて尋常の工夫は概して1日の賃金40銭より下らず、囚徒はわずかに1日18銭を得るものなり。しからば即ち囚徒を役する時は、この開鑿費用中工夫の賃金に於いて過半数以上の減額を見るならん。これ実に一挙両全の策というべきなり。……よろしくこれら囚徒を駆って、尋常の工夫の堪えるあたわざる困難衝に当たらしむべきものとす」と語っている。金子は伊藤博文にかわいがられ神聖天皇主権大日本帝国憲法作成に協力し、農商務大臣、司法大臣となり、伯爵となった。

 当時の日本の資本主義を象徴する姿は、最新の文明技術(外国人技師を雇い機械導入)と奴隷的労働(労働者は土地を失って流浪する農民や被差別部落民らで、残酷な苦役を強制)の結合というものであった。今日の国民は、我々の祖先がどのような歴史を生きていたのかという事を知り、そこから学び、受け継ぐ事を忘れている。その祖先の生き様や思いこそ「歴史遺産」として受け継がなければいけないと思う。安倍自公政権はそのような国民の遺産を受け継ぐ事にはまったく関心をもたない。価値観が異なるからである。国民は安倍自公政権の価値観に取り込まれないようにしなければならない。魂を売ってはならない常に彼らは飴(金)で国民の魂(心)を取り込もうとしている

 安倍自公政権は、こういう機会を逃さず利用して、翼賛体制化したメディアを使って、国民意識の統合(挙国一致の意識)を醸成していこうとしている。五輪の場合も同じ意図をもって国民意識を馴らしていく取り込んでいくのである。「国旗国歌」を強制するのもそういう効果を与える支配の道具なのです。それを嫌う国民には非国民」というレッテルを張り、精神的に弾圧していき、生きてゆきにくくするのである。 

 登録が決まる世界遺産委員会の取材陣は例年、日本が突出して多い。地元にはテレビカメラが入り、喜びに沸く人々の姿をテレビに映し出していた。メディアが無理矢理に煽っている事が見え見えで、これを見て違和感を覚えた。世界遺産に登録してもらうためになぜ必死になり、登録決定すればするでなぜ歓喜の涙まで流す必要があるのか疑問に思う。最近日本では、観光振興の目玉とするために世界遺産登録をめざす自治体が多くなっているらしい。よく使われる言葉で「経済効果」「町おこし」のキッカケにしたいようだ。つまり、金儲けのために遺産登録に参加するということだ。そのためその遺産から何を受け継ぐのかは明確ではないし、考えてもいないか、金儲けに都合のよい事だけを利用するだけで、本来の意味での「遺産」の意識に乏しいようだ。安倍自公政府でさえも登録申請する時点では、「19世紀から20世紀初頭、製鉄や造船、石炭産業の重工業分野に西洋の技術を導入し、日本が短期間で近代産業国家になった道筋を示している」と位置付ける程度で、日本の近代化を誇りたいためと、景気上昇に利用するとか、商売上得か否か、儲かるか否かの視点だけから判断しており、商売感覚でしか考えていないのである。政府はもちろん国民の多数が精神的貧困、文化的貧困という状態で、文化や思想信条、宗教より金儲けが大事のようなのである。だからこれまで安倍自公政府にそこを見透かされて、経済政策とその政府に翼賛するメディアに足元をすくわれてきたのです。60年安保闘争の後(池田勇人、高度経済成長政策)も、バブル政策も、現在のアベノミクス政策も同じである。国民はずっとエコノミック・アニマルとしての生き方を続けてきたのです。生き続けさせる政策に取り込まれてきたのである。これに気がつかなければ本当の幸せを手に入れる事はできないと思う。つまり、生き方を変える必要があるという事です。その第1歩は安倍政権の政策には必ず裏があるから、疑ってかかり、たやすく同調せず、何を狙っているのかを考えてみる事だ。

  メディアは今回の韓国の動向について「過ぎた政治介入」の見出しで「華やかな世界遺産で影の歴史的な事実を強調するのは難しい」「お互いに支持を得ようと繰り広げた外交攻勢」「日韓両国は得たものはなく」「過ぎたる政治介入として世界は教訓にすべき」と締めくくっているがこれはあまり杜撰なまとめ方であろう。「世界遺産登録」の意味付けが浅すぎる、喧嘩両成敗的発想でかたずける(メディアの傲慢)べき問題ではない。メディアは又「なりふり構わぬ言動が目立った。具体的な被害数を途中から使わなくなるなど根拠の不確かな主張もあった」ともいうが、これには呆れてものが言えない。なぜなら、意思に反して連れてきた神聖天皇主権大日本帝国が「人数を明らかにしていない事こそが問題で誠実ではないからだ。敗戦時に戦争関連資料の焼却処分をしている事自体、後ろめたい事をしたという証拠だ。日本側が連れてきたのだから日本側がその数字を明らかにするのが筋だろう。第3者感覚で批判だけして、自分の意見を中途半端に明確にしないのは無責任である。両者を煽る効果しか生まない。メディアは安泰でも、物事の解決の力にはならない。メディアは「客観的ではない」という事が垣間見える。それを悟られないようにしようとしても。揉ましておく事解決させない事がメディアにとっては金儲けのもととなるからであろう。 

 安倍自公政権は自民党政権であるが、その自民党から「(外相会談で協力を合意したのに)約束が違う」とか「韓国側は(世界遺産委員会で)『強制労働』を主張するとの合意反故を(事前に)言ってきた。完全なる外交上のルール違反だ」と批判しているが、これは自分たちの思惑通りにいかないために、韓国を批判非難しているというだけではないのか

※日本政府は世界遺産登録の際、なぜ構成遺産を戦前の1910年までに限定したのかは不明。

※小出裕章・佐高信『原発と日本人─自分を売らない思想』より

 「自分で物事の是非を判断せず、不都合が起きたら“だまされた”で済ませてしまう国民にも大いなる責任があるのではないか」

 「私たちには騙された責任、そして2度と騙されない責任がある」

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潜伏キリシタン遺産の世界遺産登録は経済効果のためか、国民は学び継承すべき教訓に目覚めよ

2024-07-28 09:20:23 | 世界遺産

 潜伏キリシタン遺跡世界遺産に登録された事を多くのメディア(テレビ各局など)が取り上げている。その取り上げ方は不思議な事に一律で共通しており、登録された事に大喜びをしている事と、その喜びの理由を「経済効果がある」という言葉ひと言で言い表している点に大きな特徴がある。そこには世界遺産に登録されるという事に対するメディアの価値観が端的に現れていると言って良い。これまでの、特に文化遺産に関して言えば、文化遺産を物として外見的な捉え方をするだけであり、それを通してそれを生み出した人々がどのように生きたのか(それはその人たちに対し権力者がいかに対応したのかという事も含むが)やその人々の価値観や思想を理解し、現在の私たちや未来を生きる子孫にとって貴重な教訓にしようとする姿勢態度はかけらも感じさせないものである。それは世界遺産についてお世辞にも真の意味を理解しているとはいえないものである。これは日本国民の最大の欠陥である。

 以下に、神聖天皇主権大日本帝国政府が、長崎浦上村の「潜伏キリシタン」に対してどのような姿勢態度で臨んだのかという事について、農民・高木仙右衛門について紹介するのでそこから教訓を得てほしい。

 「潜伏キリシタン」が国際的問題に発展したきっかけは、1864年12月29日にフランスの力で落成した大浦天主堂(フランス寺)で、65年3月17日に浦上村信徒が名乗り出た事に始まる。当時まだ政権を握っていた幕府は67年7月15日浦上村の信徒約70名を逮捕したが、幕府は政治面でも軍事面でもフランス公使ロッシュに頼っていたため徹底的な弾圧はできなかった。それを示す史料として、その時逮捕された浦上村農民である高木仙右衛門『覚書』がある。それによると幕府長崎奉行・河津伊豆守が仙右衛門に対し改宗を説諭したのに対し、「信教の自由」を訴え「改宗」を拒否したため改宗させられないまま結局「村預け」として釈放している。しかし、帝国政府はそうではなかった。

 帝国政府の「潜伏キリシタン」に対する政策は幕府とは異なり過酷を極めた。1868年3月7日、外国事務係、長崎裁判所(長崎奉行所の後身)参謀に着任した井上馨は「物情騒然たる維新の際、浦上一村をあげてキリシタンである事を騒乱分子として危険視」した。そのため、3月15日、「五榜の掲示」により「キリシタン」を禁じた。そのためそれ以後、外国公使団から「キリシタン禁制高札」の廃止を申し入れられ、「切支丹」と「邪宗門」を書き分ける小手先の改訂をするが、浦上村「潜伏キリシタン」に対しては徹底した弾圧を推進した。

 1868年5月17日には大阪行在所(西本願寺)での御前会議で、浦上村「潜伏キリシタン」の処分を、「一村総流罪」(キリシタンを残さず分散して諸藩に預け改宗させる)と決定した。68年6月7日には太政官布達で浦上村「潜伏キリシタン」の流罪処分が発せられ、7月11日から中心人物114名を津和野藩(28名で高木仙右衛門を含む)、長州藩萩(66名)、福山藩(20名)へ移送し投獄した。70年1月始めには残った村民全員(流罪総人数約3380名)を富山以南の西国21藩に移送し投獄した。

 このような帝国政府の姿勢に対し、各国公使団は直ちに帝国政府に対し警告を発した。71年1月には英国代理公使ウイリアム・アダムズが、右大臣三条実美に対し浦上村「潜伏キリシタン」の待遇改善を申し入れた。それに対し帝国政府は3月にはその要求を受け入れた。さらに、71年12月23日から「岩倉遣欧使節団」が出発したが、訪ねる先の国々で抗議を受けた。72年3月4日には米国大統領グラントから信仰や良心の自由、キリシタン禁制を解く事の必要を勧告された。同年11月27日には英国外相グランウィルからヴィクトリア女王の言葉としてキリシタンの弾圧政策を指摘された。また、仏国外相レミュサやベルギー国蔵相モローや米国国務相フィシュからも抗議を受けた。

 このような事から帝国政府(三条実美)は73年2月24日、キリシタン禁制の高札を撤去するに至る。同年3月14日には太政官布達で「長崎県下異宗徒帰還」を命令し、浦上「潜伏キリシタン」も釈放した。高木仙右衛門はこの間弾圧を耐え忍び、7月9日に帰村できた。しかし、帝国政府はキリスト教を許可したのではなく黙認する事にしただけであった(この事は後の内村鑑三不敬事件でも明確である)。

 津和野藩で高木仙右衛門はどのように扱われどのように抗したのかについては、長崎市本原町お告げのマリア修道会墓地に存する「高木仙右衛門碑文」(1941(昭和16)年建立)に詳しい。そこには「……津和野の冬は寒気稟烈骨を刺す程なるに、翁(仙右衛門)等は単衣の儘にてその冬を過ごし、一枚の布団すら給せられず、一日僅か一合四勺の麥(麦)粥にその飢えを凌ぎ三日或は五日に一度は必ず白州に引き出されて説得を加えられても飽くまで屈せざりければ、三尺牢に閉じ込められて、具に辛酸をなむ、明治二年霜月二十六日の朝の如きは病臥中なりしにも拘らず素裸にされ、氷の張り詰めたる池の中に突っ込まれ、長柄の杓にて容赦もなく、冷水を浴びせられ次第に顔色は蒼黒く舌の根は硬ばり、言葉も自由ならずさすがの翁も今は是までなりと覚悟を定め、天を仰ぎ両手を合わせて一心に祈る、役人等もそれと気遣い命じて池より引き上げしむ、翁は牢内にありても毎日熱心に祈り金曜日毎に断食を行い身をも心をも天主にささげて拷問に堪えるべき力を懇請し、かくして六年の久しきに亘りてよく難萬苦に堪え以て終わりを全うする事を得たり、明治六(1873)年四月放免の恩典に浴し、無事浦上に帰還す、……」とある。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、天皇を神格化し神社信仰・神道を国教として、日本国民の思想的・宗教的統一を確立するために、仏教とキリスト教を弾圧したのである。

 そのような権力者に対して、浦上村の農民・高木仙右衛門は自己の信仰(思想の自由・信教の自由)を守るために命を賭けて抵抗したのである。

 大仏次郎は高木仙右衛門の事を『天皇の世紀』に、「政治権力に対する浦上切支丹の根強い抵抗は、目的のない『ええじゃないか踊り』や、花火のように散発的だった各所の百姓一揆と違って、生命を賭して政府の圧力に屈しない性格が、当時としては出色のものであった。政治に発言を一切許されなかった庶民の抵抗として過去になかった新しい時代を作る仕事に、地下のエネルギーとして参加したものである。新政府も公卿も志士たちも新しい時代を作るためにした事は破壊以外何もして居なかった。浦上の四番崩れは、明治新政府の外交問題となった点で有名となったが、それ以上に、権力の前に庶民が強力に自己を主張した点で、封建世界の卑屈な心理から抜け出て、新しい時代の扉を開く先駆となった事件である。社会的にもまた市民の『我』の歴史の上にも、どこでも不徹底に終わった百姓一揆などよりも、力強い航跡を残した。文字のない浦上村本原郷の仙右衛門は自信を以て反抗した農民たちの象徴的な存在であった。維新史の上では無名の彼は、実は日本人として新鮮な性格で、精神の一時代を創設する礎石の一個となった。それとは自分も知らず、その上間もなく歴史の砂礫の下に埋もれて、宗教史以外の歴史家も無視して顧みない存在と成って、いつか元の土中に隠れた。明治の元勲と尊敬された人々よりも、真実新しい時代の門に手を掛けた者だったともいえるのである」と評している。

 日本国民は、浦上村「潜伏キリシタン」から何を教訓として学ぶべきなのか。

(2018年7月投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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世界文化遺産「軍艦島」徴用の説明センターを安倍政権は東京設置。韓国政府の遺憾表明は当たり前だ!!

2024-07-28 09:11:31 | 世界遺産

 安倍自公政府は2020年6月15日、ユネスコの世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」を説明する施設「産業遺産情報センター」の一般公開を始めた。しかし、元島民の「徴用工差別はなかった」とする証言などを展示しているため同日、韓国外交省が「施設」が朝鮮半島出身者に対する「強制労役の事実」を歪曲して伝えていると冨田大使に抗議をするとともに、報道官名で、展示内容は「歴史的事実を完全に歪曲する内容を含んでおり遺憾である」との抗議声明を出した。

※以下は2017年12月10日に投稿したものに加筆修正し改めて投稿したものです。当時の状況を知る事ができると思います。

 2015年7月5日に世界文化遺産に登録された長崎市の軍艦島(端島炭坑)など「明治日本の産業革命遺産」に関し、安倍自公政権は2017年12月1日、登録の際に日韓両政府間でなされた約束の履行方法として、東京に新設する総合情報センター(インフォメーションセンターの事か?)で「徴用の歴史を紹介する」、つまり、「戦時中に朝鮮半島出身の労働者が軍艦島などで働いた事を含め、多様な情報を発信する」とする方針ユネスコに報告した。

 それに対し韓国・文政府外交省報道官は同月5日、「遺憾」の意を表明し、「日本は国際社会に約束した通り、強制労働の犠牲者を記憶にとどめるための措置を、誠実に速やかに履行する事を求める」と述べた。また、朝日新聞によると、韓国外交省関係者、「(歴史を紹介する)施設が東京に設置される事を含めて、様々な問題がある」と述べている。さらに韓国ハンギョレ新聞など韓国メディアでは「日本が軍艦島の朝鮮人強制労働についての説明資料を現地から1200㌔も離れた場所に置く」と批判している。

 なぜ、韓国政府や、韓国メディアや韓国国民からこのような受け止め方をされるのであろうか。安倍自公政権はどのような約束をしたのであろうか。そして今回の安倍政権の方針は、韓国側から見てその約束をどのように違える内容であるという事なのであろうか。当時を振り返ると、

 産業革命遺産に含まれる「長崎県の高島炭坑や端島炭坑、福岡県の三池炭坑・三池港、福岡県の官営八幡製鉄所」について、韓国政府が「戦時中、朝鮮半島出身者に対する強制労働があった」としたのに対し、安倍自公政権が「強制労働ではなく徴用工だ」と固執したため、審議での発言内容に激論があり、登録が難航したが、結果として、安倍政権は「徴用工」に関する説明を日韓両政府ともに「against  their  will」という英語を使う事で韓国政府と合意し、安倍自公政権は声明で「1940年代、その意思に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいた。また、第2次世界大戦中(韓国が日本の植民地時代)に日本政府としても徴用政策を実施していた事について理解できるような措置を講じる所存である。インフォメーションセンターの設置など、犠牲者を記憶にとどめるために適切な措置を説明戦略に盛り込む」と「負の歴史」も踏まえた情報発信をする事を約束し、登録が決定している。

 この経過から見れば、韓国側とすれば「安倍政権にごまかされた」という受け止め方をしても仕方がないと思える。「約束」を誠意を持って履行しようとしているとは言い難いが、みなさんどうでしょう。

 しかし、このような事になるであろう事はすでに予想可能であった。なぜならそれは、登録決定の翌日の時点で、菅官房長官が、英語の解釈が韓国政府とは異なると知り、「強制労働ではない」と否定発言をしていたからである。なお、それに対しては、外村大東京大教授が暴力的な動員や過酷な労働を強いた事実は多くの研究で証明されている。意思に反した事が強制した事。言葉のゴマカシは国際社会では通じない」とメディアを通して述べていた。

 今回上記のような方針を公表する事によって安倍自公政権は、登録時の「約束」は「口先だけ」であった事を暴露するとともに、どのような事実を突きつけられようと、「戦時中、朝鮮半島出身者に対して強制労働をさせた事実」を絶対に認めたくない認めないという意識世界(価値観、歴史認識=歴史修正主義)に生きているという事を改めて暴露する事になったという事である。

 ちなみに、神聖天皇主権大日本帝国政府は、1939年から毎年、日本人も含めた労務動員計画を立て、閣議決定した。朝鮮からの動員数も決め、日本の行政機構が役割を担った。手法は年代により『募集』『斡旋』『徴用』と変わったが、すべての時期で概ね暴力を伴う動員が見られ、約70万人の「朝鮮人」が主に日本内地に送られた。内務省が調査のため44年に朝鮮に派遣した職員は動員の実情について『拉致同様な状態』と文書で報告していた。徴用は国民徴用令に基づき、国が責任をもって配置するもので、国の栄誉を担う労働者だった。弔慰金や別居手当など援護もついた。日本人は戦争初期から徴用された。しかし、朝鮮人にこの制度が適用されたのは戦争末期の44年であった。徴用令を適用しないまま多くの動員をしたといわれる。

 安倍自公政権はわがままのし放題を憲法改悪によって正当化しようとしている。主権者国民は可能な限り早く退場させなければ、主権者国民にとって日本国は安心して生きていけない国、住みたくない国になってしまうだろう。

※別稿「世界遺産登録になぜ歓喜の声?遺産から何を学ぶべきなのか?」(2015年7月20日投稿)などもあわせて読んでください。

(2020年6月16日投稿)

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