「政治的中立」に関する2015年7月の自民党の動向については、別稿「ごまかしの『政治的中立逸脱』ではなく『憲法尊重擁護義務逸脱』への罰則を提言すべきだ」を参照してください。
自民党文部科学部会は6月25日から党の公式HPで、学校教育での「政治的中立を逸脱するような不適切な事例」の情報提供を呼びかけてきた(「学校教育における政治的中立性についての実態調査」。作成指示者は木原稔・党文部科学部会長。調査は7月18日付で終了)。(部会は教育公務員特例法を改め、中立性を逸脱した教員に罰則を科す事を検討中)
調査理由は、18歳以上の選挙権が拡大された事で、「主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われる事で、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがある」としていた。HPの調査の呼びかけでは「教育現場の中には『教育の政治的中立はありえない』と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいる事も事実」と断定。また、「高校などで行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行う事で、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出される」などと主張していた。
また、アンケートには投稿者の使命や連絡先、職業とともに、「不適切事例」について「いつ、どこで、だれが、何を、どのように」を明らかにして記入する事を求めていた。
馳浩文科相は7月12日、記者会見で「党として、たぶん実態がどういうものか分からず、(把握するには)どうしたものか、と考えた中の一案だ」と理解を示したとの事だった。
7月20日、木原稔氏は、「政治的中立性」を確保するための提言を出す方針である事を公表した。
さて、自民党のこの「政治的中立性」、またその「逸脱」という表現に、不安や恐れを感じる必要はない。逆に彼らを論破非難し責任追及すべきである。なぜなら、「政治的中立性」など存在しないからである。それを自民党は「中立」という立場があるかのようにまたそれが正しいと思わせ、また、自分たちこそ「中立」であると思わせ、自分たちの「中立ではない」姿勢を正当化し、安倍自民党政権を批判非難する学校の教育内容やそれを担う教員に「中立性逸脱」という表現で抑圧し弾圧排除し、自分たちの考え方を押し付け浸透させ画一化させようとしているのである。これほど謀略的な態度はなく、大日本帝国下で言えば「非国民」のレッテルを張り「自己規制」「転向」をさせ、それに従わなければ処罰したのと同じである。
そして、このネットアンケートの手法は、敗戦までの大日本帝国下で国家権力警察権力(特高など)が国民に対して反政府活動者や政府批判者の「密告」を奨励強制していた手法を、今回公然と「ネット」を使って行ったという事なのであり、憲法が保障している国民の人権を侵害する看過できない問題として重要視しなければならない。
2006年に第1次安倍政権で改正された「改正教育基本法」では、前文に、「日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献する事を願うものである。我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、……。ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、……。」とあり、第1条「教育の目的」では、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とある。
つまり、学校の教育内容は、現行の「日本国憲法の精神にのっとり」実施されなければならないのである。現行の「日本国憲法の精神」とは「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義(戦争放棄)」の3原則なのである。これこそが学校教育のめざさなければならない目標でなければならないのである。自民党は現行の憲法を否定しているので「日本国憲法」に則りという表現を使わず、「政治的中立性」という表現を使用しているのである。
現行憲法が廃止され、「自民党憲法改正草案」が成立すれば、「改正教育基本法」の中の「日本国憲法」という言葉の中身は現行とは異なる内容となり、「改正教育基本法」はその内容に沿ったものへと再び改正するつもりなのであろう。そして、「政治的中立性」という表現は使用しなくなるだろう。
主権者教育は名ばかりで形骸化し、中身は変質し「臣民」化教育となるだろう。そして、さらに進化して「皇国臣民」化教育となるだろう。
(2016年7月24日投稿)