つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

伊沢史朗氏(福島県双葉町長)の「朝日新聞インタビュー」に思う、原発誘致に厳しい自省を

2023-05-27 19:01:23 | 原発

 福島県双葉町は、2011年3月11日に起きた東日本大震災(津波)の際に発生した東京電力福島第一原発(1973年1月1号機から運転開始し、1979年までに6号機まで順次運転開始)事故で、全町民が避難を強いられたが、2022年8月末、町の一部で避難指示が解除され11年5カ月ぶりに人の居住が可能となった。しかし、震災前の町人口は7140人であったけれど、現在約70人で事故前の1%である。昨年11月の町民意識調査では、町に「戻りたい」14%、「戻らない」56%であった。伊沢町長は、「双葉町や町民が、何か問題を起こしたのか。瑕疵がないのに何で町がなくならなくちゃいけないのか。」と苦悶を述べている。しかし、その苦悶の原因は、本人には明確な自覚がないようであるが、町長自身の言葉の「国の原子力エネルギー政策に協力した(にもかかわらずなぜ)」とか、「過疎地域で産業もなく出稼ぎに行っていたが、地元で働ける産業になると先人が考えた。それが批判されるべき事なのか」とか、「財政破綻直前で原発増設決議の凍結解除を発議し国から交付金を受け取った(2007年)。それしか破綻を食い止める方法はなかった」とかに存在するのではないだろうか。

 現在の苦悶の最大の原因は、それしか方法がなかったと安易に考え、「原発誘致」を選択した事にある。政府や東電の説く「安全神話」を信じて「原発」(政府、税金)依存の財政、主体性を放擲した「奴隷」の道を選択したという事である。その選択は利己的であったため、周りの自治体やその住民の将来、国民全体の将来などについて考える事はなかったのだろう。そうでありながら事故が発生して困った事態になってから、「(処理水のタンクについて)他人事なんだなと感じます」とか、「福島第一原発のエネルギーは全部、首都圏に行っていたのに、(首都圏の人達は)関係ないという事でいいんですか」とか、「国の原子力エネルギー政策に協力したのに」という言葉で不平不満を述べる状態に陥っているという事である。

 戦前、神聖天皇主権大日本帝国政府による侵略戦争支持する事によって、生活を良くしようとした国民(すべてではない)と同じ発想である。その戦争には日本軍は絶対負けないという「不敗神話」が信じられていた。そういう国民には、のちに原子爆弾が発明され、日本に投下されるという事を予想しただろうか?いなかったのではないか。しかし、落とされた。これは原発の「安全神話」を信じて原発推進の側に立っていた人間が経験する事になった姿と同じように思える。

 伊沢史朗双葉町長は、岸田自公政権の「原発回帰」政策については、「人が造るものに絶対安全はない」「安全神話を刷り込まれていた」などと過去の原発推進の姿勢を後悔しているように思わせる言葉を述べてはいるが、「原発に依存してきた事を後悔していない」とも述べ、原発推進の立場であった過去を明確に否定せず、「ここは、私らは答える術がありませんが……。どうなんでしょう。それで本当にいいんでしょうか、という事は思います」と曖昧に述べている。明確な主張をすべきであろう。伊沢町長は、先ずこれまでの経緯を自己批判すべきであろう。岸田自公政府の詐欺的で無責任な原発政策を批判し、原発全廃へのタイムスケジュールの策定を要求すべきであろう。また、町民に対してはどのような対応をしているのだろうか。事故を顧みて「謝罪」などをしたのだろうか。

(2023年5月27日投稿)

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旭日旗は国会で法律として制定されたものではない。小野寺前防衛相は国民を欺いている

2023-05-26 18:52:22 | 国旗・国歌

 韓国海軍の報道官が2018年9月27日、済州島で開く「国際観艦式」に関して、日本などの14の参加国に対し、「自国の国旗と太極旗だけを掲揚するのが原則である」とする通知を8月31日付で伝えたと発表した。日本の海上自衛隊に対し、発足以来自衛艦旗として使用してきた「旭日旗」を使用しないよう要請する事を目的とするものであった。また、10月3日には「艦首と艦尾に旗を掲げない」との条件も追加した。

 これに対し小野寺前防衛相は9月28日、「国内法令で義務づけられており、当然掲げる事になる」「国内法に則って対応する」という安倍自公政権の意志を表明した。

 ところが、安倍自公新政権の岩屋毅防衛相は10月5日、観艦式に際し「護衛艦の派遣を中止する」と発表した。

 海上自衛隊の自衛艦は、形式上では「軍艦」としての要件をすべて果たしているが、国内法では「軍艦」としての地位は与えられていない。しかし、海洋で活動するという特性上、外交上では治外法権など国際法軍艦としての地位(特権)の一部が認められている。このような事から「自衛艦旗」は、正確には「軍艦旗」とは言えないが、外交上では「軍艦旗」と同じ扱いを受けている。

 ところで現在の「自衛艦旗」いわゆる「旭日旗」についてであるが、小野寺前防衛相は「国内法令で義務づけられている」「国内法に則って対応する」と主張し、「自衛艦旗」が「旭日旗」であるかのように受け取れる主張をしていたが、それはそういう意味で受け取るべきでなく、「旭日旗」であるか否かはさておいて、単に一般的な意味で、「自衛隊旗」を「掲げるか否か」という事についてであって、自衛隊法では「揚げる事が義務づけられている」という事を主張していると考えるのが正しい受けとめ方であろう。なぜなら、国会で、「自衛艦旗」は「旭日旗」とする、とした法律が制定された事実は存在しないからである。つまり、「旭日旗」は法律で定められたものではないからである

 神聖天皇主権大日本帝国海軍の軍艦旗をそのまま自衛艦旗とする事を決定したのは、時の首相吉田茂の判断によるものだったからである。小野田前防衛相は故意に上記のような主張をし、国民を欺こうとしていると言って良い。

 また、韓国政府の要請は、「旭日旗」がなぜどのようにして「自衛艦旗」とされたのかという経緯について、主権者国民が気づく機会を与えてくれたとともに、2人の防衛相や安倍自公政権の主張や姿勢が正当性を有するものかどうかや「旭日旗」を今後も「自衛艦旗」として使用する事が良い事なのかどうかを改めて考えてみる機会を与えてくれたと言って良いのである。(2018年10月7日投稿)

※2021年7月18日の朝日新聞によると、オリパラ大会組織委員会は、「旭日旗のデザインは日本国内で広く使用されており、政治的主張にならない」として、旭日旗を競技場内への持ち込み禁止物品にはあたらないとしているという。また、日本の大会関係者は「IOCと韓国のやりとりは把握していないが、その後の取り扱いにも変更はない」と話しているという。組織委員会も大会関係者も、まともな判断力を持ち合わせていないようだ。民間で使用するものがいる事と、政府が公的な場所で使用を認める事とは意味が異なる事も理解できないようだ。実態は、理解したうえでの事であるのは見え見えであるが。そして、持ち込んだ者に責任を負わせ組織委らは責任を回避しようとする姿勢にも極悪な陰険さがうかがえるというべきである。

(2021年7月19日投稿)

 

 

 

 

 

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敵基地攻撃戦略は戦前思考様式の焼き直し、傲慢な独善的被害者意識の正当化

2023-05-19 22:34:54 | 防衛

 岸田文雄自公内閣敵基地攻撃戦略神聖天皇主権大日本帝国政府の思考様式の焼き直しである。そこには常に非科学的で偏狭な、相手に責任を押し付け自己の傲慢で独善的な被害者意識を正当化する思考様式が根ざしている。その証明として以下に1941年12月8日に発した「対英米宣戦布告(宣戦の大詔)」の内容を紹介しよう。

天佑(神々の加護)を保有し万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇は昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝有衆に示す 朕茲に米国及英国に対して戦いを宣す 朕が陸海将兵は全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し 朕が衆庶は各々其の本分を尽し 億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成する事に遺算なからむ事を期せよ そもそも東亜の安定を確保し以て世界の平和に寄与するは丕顕(大いに明らか)なる皇祖(明治天皇)考丕承なる皇考(天皇の父、大正天皇)の作術せる遠猷(先々までの謀)にして 朕が眷々措かざる所 而して列国との交誼を篤くし万邦共栄の楽を共にするはこれまた帝国が常に国交の要義と為す所なり 今や不幸にして米英両国と釁端(近端。不和の糸口)を開くに至る 誠に已むを得ざるものあり豈朕が志ならんや 中華民国政府先に帝国の真意を解せず濫りに事を構えて東亜の平和を撹乱し 遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ 茲に四年有余を経たり 幸いに国民政府更新(神聖天皇主権大日本帝国政府の傀儡政権、汪兆銘南京政府)するあり 帝国は之と善隣の誼を結び相提携するに至れるも重慶に残存する政権(蒋介石政権)は米英の庇護支援を頼みて兄弟尚未だ争う事を止めない 米英両国は残存政権を支援して東亜の禍乱を助長 平和の美名に隠れて東洋制覇の非望を逞しうせんとす あまつさえ国を誘い帝国の周辺において武備を増強して我に挑戦 更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え遂に経済断行を敢えてして帝国の生存に重大なる脅威を加え 朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし 隠忍久しきにわたりたるも 彼は毫も交譲の精神なく徒に時局の解決を遷延せしめてこの間却って益々経済上軍事上の脅威を増大し 以て我を屈従せしめんとす 斯くの如くにして推移せんが東亜の安定に関する帝国積年の努力は悉く水泡に帰し 帝国の存立又正に危殆に瀕せり 事既にここに至る 帝国は今や自存自衛のため決然起って一切の障礙を破砕するの外なきなり 皇祖皇宗の神霊上にあり 朕は汝有衆の忠誠勇武を信頼し 祖宗の遺業を広め速やかに禍根を取り除き東亜永遠の平和を確立し以て帝国の光栄を保全せしむことを期す   

 御名御璽

  昭和十六年十二月八日

                各国務大臣副署」

 岸田自公政権の主張する敵基地攻撃能力の保有は、「奇襲攻撃能力の保有」と同義語の結果を導くと考えてよい戦略である。つまり、「奇襲攻撃戦略」は、宣戦布告前の攻撃を指すが、この戦略は、日清・日露戦争からの神聖天皇主権大日本帝国政府軍の「常套戦略」であった。また、対英米戦いわゆる太平洋戦争開始(ハワイ真珠湾攻撃、マレー半島上陸攻撃)においても同様であった(英国に対してはまったく事前の通告をしなかった)事は、世界の周知の事実である。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、1911(明治44)年に国際条約「開戦に関する条約」を批准しているが、その第1条には「締約国は理由を附したる開戦宣言の形式又は条件付開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭且事前の通告なくして其の相互間に戦争を開始すべからざることを承諾す」とされていた。満州事変以後の中華民国への侵略も「事変」という用語の使用(宣戦布告によって米国が中立法〈交戦国への武器・戦略物資の輸出を禁止した法律〉を日中戦争に適用し、米国から軍需物資の供給を受けられなくなる事を怖れたから)によりその実態を欺瞞した、この条約に違反した攻撃であった。

(2023年1月8日投稿) 

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敵基地攻撃能力保有は戦前的価値観(日露戦争に対する外務大臣小村寿太郎意見書にも)

2023-05-16 09:09:05 | 防衛

 小村寿太郎は、日露戦争後の米国ポーツマスでの講和会議(1905年8月10日~9月5日)において首席全権をつとめた第一次桂太郎内閣外務大臣である。

 神聖天皇主権大日本帝国第一次桂太郎内閣(1901年6月2日~1905年12月21日)は、なぜ、ロシアとの戦争(日露戦争)に踏み切ったのか?当時、日本そのものがロシアに攻撃される危険性はなかったにもかかわらず。その理由は、以下に示す1903年の小村寿太郎外務大臣の「意見書」が象徴的に表している。

大韓帝国はちょうど鋭い刃物のように大陸から日本の中心部に向かって突き出している半島であり、その先端は対馬とほんの少ししか離れていない。もし他の強国がこの半島を占領するようになったら、日本の安全が脅かされる。日本はこのような事を決して認められない。これを予防する事は日本の昔からの政策だ」

 つまり、小村はロシアが「大韓帝国」を占領したら大日本帝国が危ない。だから、その前に「大韓帝国」を支配しなければならないと考えていたという事である。

 そして、神聖天皇主権大日本帝国第一次桂太郎内閣は、1904年2月の「日韓議定書」締結についで、日露戦争中の1904年5月、閣議において、「日本は大韓帝国に対して、政治上・軍事上、保護の実権をおさめ、経済上、ますます利権の発展をはかる。」事を決定した。同年8月には第1次日韓協約締結に成功しその侵略行為を強めていった。

(2023年2月7日投稿)

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ヒトラーの首相就任後初の3月5日総選挙戦での民主的政党に対する攻撃手口パート4

2023-05-09 18:48:37 | ワイマール共和国

 ヒトラーはナチ党が、1933年3月5日の総選挙において「国民投票」のような形で圧倒的大勝利を収めたため、それに法的な裏付けを施して不動のものにしようとした。

 3月23日、ベルリンのクロール・オペラ劇場(1933年2月27日に国会議事堂が炎上したため、臨時の議事堂にあてられた)で「国民と国家の苦難を除去するための法律」案を審議成立させるために国会を開いた。この法案は、ヒトラー政府が必要と見做せば、政府は国会に諮る事なく独断で法律を4カ年にわたって制定できる内容(全権委任法)であった。この「全権委任法」が成立すれば、これまでは国会本来の権能であった立法権は政府(行政権)に引き渡され、大統領の手中にあった法律の承認権は首相に委ねられる事になるのであった。

 それは、憲法の機能を停止する事、つまりワイマール共和国の終焉を意味し、かつヒンデンブルク大統領の権限を部分的に無効にし、ヒトラー首相は今後、大統領に「大統領緊急令」への署名を懇願しなくてもよくなる事を意味した。

 ところで、独裁的権限を獲得するために、わざわざ改めて「全権委任法」を成立させる必要はなかった。なぜなら、ヒトラー首相は、「国会放火炎上共産党陰謀論」を基にした「クーデター」により発令させた「国民と国家の防衛のための大統領緊急令」(国会炎上緊急令。)により、すでにそうした権限を先取りしていたからであった。

 にもかかわらずヒトラーが成立にこだわったのは、これまでワイマール共和国とその憲法に敵対し破壊・無効化する闘争をしてきたからであった。そして、法案成立のために手段を選ばず各政党に賛成するよう強要した。劇場周辺はSS隊員たちが交通を遮断し、国会(劇場)内部ではSA隊員たちが廊下に縦隊で立ち並び、ナチ党が何を意図しているかを誇示し、登院してきた国会議員を威圧した。国会規則などは無視した。SA隊員たちは、国会内で禁止されているシュプレヒコール(全権委任法を通過させろ。否決すれば一発お見舞いするぞ)を議員に浴びせた。議長席の後ろには、これも禁止されている「カギ十字旗(ハーケンクロイツ)」を掲げ、ナチ党員は褐色のナチ党制服を着ていた。ヒトラーも、国会では初めて褐色の制服を着て国会演説を行った。

 採決の結果は、賛成441票に対して反対94票で「全権委任法」は成立した。反対票は社会民主党議員たちであった。この他100人以上の共産党社会民主党の国会議員は、逮捕されたり、国外へ脱出したため、この審議に加わる事ができなかった。

(2022年11月1日投稿)

 

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