明治神宮は、1920年に造営され、明治天皇とその皇后(昭憲皇太后)を祭神とする。アジア太平洋戦争敗戦までの国家神道(天皇教)の代表的造営物であった。造営に当たり、1913年、帝国議会の貴族院衆議院で建議案が決議され、同年勅令で内務大臣を会長として神社奉祀調査会を設置。翌年、皇后が亡くなり、合祀を内定。
1915年5月、内務省は東京代々木を社地とする明治神宮の造営を告示。政府はこの造営事業を、明治天皇への国民の思慕を上から結集する、一大カンパニアとして盛り上げる方針をとった。全国各地の青年団による労働奉仕や、神仏各宗教団体の奉仕や全国的な10万本の献木運動を展開させた。工期6カ年、延べ110万余人の青年団員が奉仕し、国民の献金は総工費522万余円を上回る600万余円に上った。
内苑は皇室の南豊島御料地、外苑は明治天皇大葬(葬儀)の際に斎場が置かれた青山練兵場であった。1920年11月に鎮座式を挙行し官幣大社(神饌幣帛料を天皇から支出)に列格。首都東京で最大の宗教施設となった。維持運営は、東京府、東京市、東京商工会議所、明治神宮奉賛会の4団体で、東京の氏神的性格となった。1927年に制定された「明治節」(11月3日)と、正月を中心に、多数の参拝者があった。
外苑には、1924年10月30日に競技場が竣工した。これが、現在問題となっている「新国立競技場」を建設しようとしている場所につくられた初代「明治神宮外苑競技場」である。奉賛会が発案したもので、その趣旨は「国民共は天皇の崩御後も互いに相和し相愛して、国家は益々繁昌しておりますという事を、御神霊の前にお見せ申し上げるため」という。
そして、第1回「明治神宮競技大会」を開催した。これが敗戦後の1946年を第1回として2015年に70回目を迎えた現在の「国民体育大会」の前身となる。1943年の第14回まで実施されたが、1926年~37年までは「明治神宮体育大会」、1939年~41年までは「明治神宮国民体育大会」と改称した。39年には日中戦争のさなかであり、太平洋戦争開戦前でもあるという事情で、競技内容も変化し、「白兵戦」や「土嚢運搬」など軍事教練的な要素を含んだ。1942、43年には「明治神宮国民練成大会」(会長は東条英機陸軍大臣兼首相)と名前を変え、天皇への忠誠、強兵、国民精神総動員の徹底を目的とした「皇国民の練成」のためのものとなった。
敗戦後の第1回国体は、京阪神地方で発足し、「国旗掲揚」も「国歌斉唱」もなく、「天皇も参加しない」、手弁当で参加するという素朴な大会であった。
しかし、この戦後の「国体」も46年の第3回福岡大会から、天皇と自民党が共謀して政治的に利用するようになった。天皇家に対しての国民意識(天皇教・国家神道)の洗脳を再開するのである。「天皇」「皇后」が「開会式」に参列し、「天皇のお言葉」を述べ、「天皇杯」「皇后杯」を「下賜」するようにした。「天皇杯」は、東龍太郎会長(後の東京都知事)が「宮内庁」に求めたものであるが、宮内庁は「皇后杯」とセットで応じた。総合優勝県には「天皇杯」が、「女子総合優勝県」には「皇后杯」を与える事とした。これとは別に、「各正式競技男女成績第1位の都道府県」に授与する「国民体育大会会長トロフィー」がある。
これによって戦後の憲法、民主主義を有名無実化するさまざまな問題が発生してくるのである。まず、「天皇」「皇后」の両杯の管理である。管理規定があり、「信託会社又は確実な金庫に保管する」と各都道府県に義務づけているのである。これは神聖天皇主権大日本帝国時代に、学校教育の基本として強制された「教育勅語」(国家神道の教典)や天皇の「御真影」(国家神道では「神像」にあたる)を「奉安殿」とよぶ耐火建築で神社形式の小神殿利用する管理方法と同様の意識に基づいていると考えられるものである。今日、日本のスポーツはプロ・アマ問わずすべてが、「天皇杯」「天皇賞」など天皇の存在と不可分になってしまった。
また国体での「国旗掲揚」「国歌斉唱」についても、1997年の「沖縄国体」での「読谷村事件」後、全面完全義務化した。「日の丸」は天皇家の氏神太陽神「天照大神」をシンボライズしたもので、天照大神の子孫現人神天皇が支配する神聖天皇主権大日本帝国政府の「国家神」であった。「君が代」は天皇の支配する世を賛美する歌である。
戦後の日本社会は今日まで、一皮むけば、主権者国民が気づかないように、敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国(神道国教)時代の現人神天皇崇拝の「国体」教義や天皇を頂点とする神社の中央集権的組織(国家神道=天皇教)がそのままそっくり残されて活動をつづけてきており、敗戦後70年をかけて今、自民党安倍政権は、その復権復活の実現をめざして機会をうかがっているのである。国家神道の復権は神聖天皇主権大日本帝国の復権にほかならない。その国家像国家理念は自民党の『憲法改正草案』に示されているものである。
○自民党政権による大日本帝国(国家神道)復権政策の主な経過
1958年、皇太子の結婚式に当たり、政府は皇室神道儀式である「賢所大前の儀」を天皇の「国事」とした。
1960年、首相池田勇人が「伊勢神宮の神体ヤタノカガミの所有権は皇室にある」と主張。伊勢神宮内宮正殿に公的性格を認めた。
1966年、2月11日を「建国記念の日」と制定。
1978年10月、靖国神社が極東軍事裁判(東京裁判)A級戦犯14名を合祀。
1979年6月、元号法公布。
1989年1月7日、元号を「昭和」から「平成」と改元。
1989年2月24日、昭和天皇の葬儀「大葬の礼」。
1990年11月、今上天皇の即位式「大嘗祭」。
1999年8月、「国旗・国歌法」成立。
2006年12月22日、改正教育基本法公布(安倍政権)。第9条「宗教教育」第1項の「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」という文言を「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない」と変更している。これは、「皇室神道」「神社神道」(これを結合させたものが「国家神道」)の合法化を意図するものである。
2014年10月2日、安倍首相が8名の閣僚をしたがえて、伊勢神宮式年遷宮「遷御の儀」に参列。これは伊勢神宮の遷宮儀式の国家儀礼化を狙うものである。また「靖国神社」への参拝や真榊・玉串料の奉納もすべて、かつての「国家神道」の行事に因んだものであり、「国家神道」の復権のため「国民教化」=洗脳を目的として行われている。
日本国憲法の下での祝日制定も、当時の天皇や為政者は意図的に、神聖天皇主権大日本帝国・国家神道の祝祭日を名称変更してそのまま残したのである。神聖天皇主権大日本帝国・国家神道下では、皇室神道が国家神道の基本を示す儀式とされ、国民教化を目的として「臣民」はすべてこの儀式に参加すべきものとされ、国民の祝祭日はすべて皇室神道の儀式にあわせて1873年以降制定された。それが、四方拝(1月1日→元旦)、紀元節(2月11日→建国記念の日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(11月3日→文化の日)、春秋の皇霊祭(春分の日、秋分の日)、新嘗祭(11月23日→勤労感謝の日)などであった。制定の際、それまでの日本人の祝日であった「五節句」「お盆」などは廃止(1873年)したため、国民から批判の声が上がった。しかしその後も、陸海軍関係の記念日を追加し敗戦を迎えた。
(2019年12月11日投稿)