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知る事は幸福度を高める

神前結婚式は国家神道下で創られ、明治神宮(祭神:明治天皇、昭憲皇太后)は帝都東京を守る守護神として創建された

2024-10-09 09:21:44 | 明治神宮

 2018年10月29日、高円宮家の三女絢子さんと守屋慧さんが明治神宮で結婚式を挙げた。つまり、神前結婚式を挙げたという事である。守屋さんが一般的な衣装であるのに対して、絢子さんの「おすべらかし」の髪型や衣装には異様さを感じない人はいなかったであろう。

 ところで、庶民における神前結婚とはどのような関係があるのだろうか。ほとんど知られていないが、知っておいた方が物事を考え行動するうえでより良い判断ができるので紹介しておこう。

 日本では元来、結婚式は宗教とは関りを持たないものであった。しかし、キリスト教の影響により、明治中期には仏前結婚式が創り出された。そして、神前結婚式も神聖大日本帝国政府が国教神道体制を創り上げるなかで、皇太子(大正天皇)の結婚式に備えて1899年、「皇室婚嫁令」を制定し、この時初めて「神前結婚の儀礼」を創ったのである。そして、1900年5月、皇太子の結婚式を宮中三殿賢所(天照大神を祀る)大前で挙げたのである。その後、宮中の神前結婚の儀礼は1910年に「皇室親族令」の附式第一編「婚嫁の式」を制定し確定したのである。

 1900年には、神宮奉斎会の東京大神宮(1890年明治天皇の意志により、皇室の先祖とみなす天照大神を祭神とする伊勢神宮の遥拝殿として建設)により、で、宮中の神前結婚式をまね、『古事記』の神話に基づく神前結婚の形式を創り、初めて神前結婚式を挙げた。これがその後簡略化されて民間に普及したのである。古い歴史を持つと思われているが、そうではなく国家神道時代の政府主導の産物なのである。

 明治神宮(1920年、明治天皇と昭憲皇太后)について。元来、日本には天皇や皇族を神として神社に祀る伝統はなかった。しかし、神聖天皇主権大日本帝国政府は、支配を正当化する国家神道(天皇教)の根幹である天皇皇族崇拝を国民に植え付けるために天皇皇族を祭神とする今日有名な多くの神社を創った。吉野神宮(1881年、南朝関係)、橿原神宮(1890年、神武天皇)、宮崎神宮(1885年、神武天皇)、平安神宮(1895年、桓武天皇)などである。それらの神社の中の一つで最大の規模を持つのが明治神宮である。明治神宮を天皇皇后、首都東京の守護神としたのである。また、造営に際し国民に対して労働奉仕や献金・献木を促す事により、天皇崇拝と神聖天皇主権大日本帝国政府に対する忠誠心を教化する場としたのである。

明治神宮については、別稿(カテゴリー、スポーツ)「明治150年記念を冠する福井国体は戦前回帰の憲法違反。明治神宮と神宮外苑競技場の建設目的は天皇崇拝と天皇制国家への忠誠心(国家神道)の普及」(2017年11月11日投稿)も参照してください。

(2018年11月3日投稿)

 

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明治神宮外苑の事業とその資金力が支える「日本会議」

2024-09-29 12:37:53 | 明治神宮

 明治神宮外苑の再開発に対し、ユネスコの諮問機関イコモスが2023年9月、「ヘリテージアラート」(危機にある文化遺産を守るための声明)を出し、再開発事業者に対し、計画撤回を要求した。

 明治神宮は、内苑外苑を合せた総面積は数10万坪にも及ぶ。外苑にはプロ野球・東京ヤクルトスワローズの本拠地や大学野球の聖地とされる神宮球場、結婚式場・明治記念館などなどが存在し、すべて明治神宮の子会社が所有し運営している。

 『週刊ダイヤモンド』(2011年7月2日号)によると、明治記念館グループの子会社だけで年間売上高は約110億円。この他テニスクラブ、アイススケート場、ゴルフ練習場なども具え、巨大開発の噂もささやかれている。

さらに2016年4月16日号では、「国内屈指の参拝者数を誇り、ブライダル事業球場運営も手掛ける、日本で一番の金持ち神社とされる明治神宮は、さらに巨大な再開発にも乗り出そうとしている。招待客60人強で430万円。閑散期の1月挙式という事で2割引きにしてもらい、披露宴の動画・写真撮影は知人に頼んだにもかかわらず、『オプションを加えた総額は、一般的な挙式相場よりも高額になってしまった』。8年前、東京・元赤坂にある老舗結婚式場『明治記念館』で挙式した男性は少し不満げに当時を振り返る。それでも、明治憲法の草案を審議する御前会議の場になった由緒正しい披露宴会場があったり、接客レベルが高いという評判もあって、伝統的な和装の挙式を望むカップルなどから、今なお絶大な人気がある。この〝ドル箱式場〟を経営するのが、神社界随一の商売上手として知られる東京・代々木の明治神宮だ。明治神宮といえば、正月三が日の初詣客が300万人を超えるとされ、さい銭だけで巨額の収入が転がり込んでくる日本一の金持ち神社といわれる」

上記に見られるような「明治神宮」(神道宗教の中核的存在)は、「日本会議」の役員名簿に名前を連ね、もっとも有力な資金提供者として自民党を支え戦前の神聖天皇主権大日本帝国政府への回帰を目指している。

(2023年9月20日投稿)

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明治神宮と神宮外苑競技場(新国立競技場の前身)の建設目的は天皇崇拝と天皇制国家への忠誠心(国家神道)の普及

2024-08-29 10:53:52 | 明治神宮

 明治神宮は、1920年に造営され、明治天皇とその皇后(昭憲皇太后)を祭神とする。アジア太平洋戦争敗戦までの国家神道(天皇教)の代表的造営物であった。造営に当たり、1913年、帝国議会の貴族院衆議院で建議案が決議され、同年勅令で内務大臣を会長として神社奉祀調査会を設置。翌年、皇后が亡くなり、合祀を内定。

 1915年5月、内務省は東京代々木を社地とする明治神宮の造営を告示。政府はこの造営事業を、明治天皇への国民の思慕を上から結集する、一大カンパニアとして盛り上げる方針をとった。全国各地の青年団による労働奉仕や、神仏各宗教団体の奉仕や全国的な10万本の献木運動を展開させた。工期6カ年、延べ110万余人の青年団員が奉仕し、国民の献金は総工費522万余円を上回る600万余円に上った。

 内苑は皇室の南豊島御料地、外苑は明治天皇大葬(葬儀)の際に斎場が置かれた青山練兵場であった。1920年11月に鎮座式を挙行し官幣大社(神饌幣帛料を天皇から支出)に列格。首都東京で最大の宗教施設となった。維持運営は、東京府、東京市、東京商工会議所明治神宮奉賛会の4団体で、東京の氏神的性格となった。1927年に制定された「明治節」(11月3日)と、正月を中心に、多数の参拝者があった。

 外苑には、1924年10月30日に競技場が竣工した。これが、現在問題となっている「新国立競技場」を建設しようとしている場所につくられた初代「明治神宮外苑競技場」である。奉賛会が発案したもので、その趣旨は「国民共は天皇の崩御後も互いに相和し相愛して、国家は益々繁昌しておりますという事を、御神霊の前にお見せ申し上げるため」という。

 そして、第1回明治神宮競技大会を開催した。これが敗戦後の1946年を第1回として2015年に70回目を迎えた現在の「国民体育大会」の前身となる。1943年の第14回まで実施されたが、1926年~37年までは明治神宮体育大会」、1939年~41年までは明治神宮国民体育大会と改称した。39年には日中戦争のさなかであり、太平洋戦争開戦前でもあるという事情で、競技内容も変化し、「白兵戦」や「土嚢運搬」など軍事教練的な要素を含んだ。1942、43年には明治神宮国民練成大会」(会長は東条英機陸軍大臣兼首相)と名前を変え、天皇への忠誠、強兵、国民精神総動員の徹底を目的とした「皇国民の練成のためのものとなった。

 敗戦後の第1回国体は、京阪神地方で発足し、「国旗掲揚」も「国歌斉唱」もなく、「天皇も参加しない」、手弁当で参加するという素朴な大会であった。

 しかし、この戦後の「国体」も46年の第3回福岡大会から、天皇と自民党が共謀して政治的に利用するようになった。天皇家に対しての国民意識(天皇教・国家神道)の洗脳を再開するのである。「天皇」「皇后」が「開会式」に参列、「天皇のお言葉を述べ、「天皇杯」「皇后杯」を「下賜するようにした。「天皇杯」は、東龍太郎会長(後の東京都知事)が「宮内庁」に求めたものであるが、宮内庁は「皇后杯」とセットで応じた。総合優勝県には「天皇杯」が、「女子総合優勝県」には「皇后杯」を与える事とした。これとは別に、「各正式競技男女成績第1位の都道府県」に授与する「国民体育大会会長トロフィー」がある。

 これによって戦後の憲法、民主主義を有名無実化するさまざまな問題が発生してくるのである。まず、「天皇」「皇后」の両杯の管理である。管理規定があり、「信託会社又は確実な金庫に保管する」と各都道府県に義務づけているのである。これは神聖天皇主権大日本帝国時代に、学校教育の基本として強制された教育勅語」(国家神道の教典)や天皇の御真影」(国家神道では「神像」にあたる)を奉安殿とよぶ耐火建築で神社形式の小神殿利用する管理方法と同様の意識に基づいていると考えられるものである。今日、日本のスポーツはプロ・アマ問わずすべてが、「天皇杯」「天皇賞」など天皇の存在と不可分になってしまった。

 また国体での国旗掲揚」「国歌斉唱についても、1997年の沖縄国体」での「読谷村事件後、全面完全義務化した。「日の丸は天皇家の氏神太陽神「天照大神」をシンボライズしたもので、天照大神の子孫現人神天皇が支配する神聖天皇主権大日本帝国政府の「国家神」であった。君が代は天皇の支配する世を賛美する歌である。

 戦後の日本社会は今日まで、一皮むけば、主権者国民が気づかないように、敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国(神道国教)時代の現人神天皇崇拝の「国体」教義や天皇を頂点とする神社の中央集権的組織(国家神道=天皇教)がそのままそっくり残されて活動をつづけてきており、敗戦後70年をかけて今、自民党安倍政権は、その復権復活の実現をめざして機会をうかがっているのである。国家神道の復権は神聖天皇主権大日本帝国の復権にほかならない。その国家像国家理念は自民党の『憲法改正草案に示されているものである。

 ○自民党政権による大日本帝国(国家神道)復権政策の主な経過

 1958年、皇太子の結婚式に当たり、政府は皇室神道儀式である「賢所大前の儀」を天皇の「国事」とした。

 1960年、首相池田勇人が「伊勢神宮の神体ヤタノカガミの所有権は皇室にある」と主張。伊勢神宮内宮正殿に公的性格を認めた。

 1966年、2月11日を「建国記念の日」と制定。

 1978年10月、靖国神社が極東軍事裁判(東京裁判)A級戦犯14名を合祀。

 1979年6月、元号法公布。

 1989年1月7日、元号を「昭和」から「平成」と改元。

 1989年2月24日、昭和天皇の葬儀「大葬の礼」。

 1990年11月、今上天皇の即位式「大嘗祭」。

 1999年8月、「国旗・国歌法」成立。

 2006年12月22日、改正教育基本法公布(安倍政権)。第9条「宗教教育」第1項の「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」という文言を「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない」と変更している。これは、「皇室神道」「神社神道」(これを結合させたものが「国家神道」)の合法化を意図するものである。

 2014年10月2日、安倍首相が8名の閣僚をしたがえて、伊勢神宮式年遷宮「遷御の儀」に参列。これは伊勢神宮の遷宮儀式の国家儀礼化を狙うものである。また「靖国神社」への参拝や真榊・玉串料の奉納もすべて、かつての「国家神道」の行事に因んだものであり、「国家神道」の復権のため「国民教化」=洗脳を目的として行われている。

 日本国憲法の下での祝日制定も、当時の天皇や為政者は意図的に、神聖天皇主権大日本帝国・国家神道の祝祭日名称変更してそのまま残したのである。神聖天皇主権大日本帝国・国家神道下では、皇室神道が国家神道の基本を示す儀式とされ、国民教化を目的として「臣民」はすべてこの儀式に参加すべきものとされ、国民の祝祭日はすべて皇室神道の儀式にあわせて1873年以降制定された。それが、四方拝(1月1日→元旦)、紀元節(2月11日→建国記念の日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(11月3日→文化の日)、春秋の皇霊祭(春分の日、秋分の日)、新嘗祭(11月23日→勤労感謝の日)などであった。制定の際、それまでの日本人の祝日であった「五節句」「お盆」などは廃止(1873年)したため、国民から批判の声が上がった。しかしその後も、陸海軍関係の記念日を追加し敗戦を迎えた。

(2019年12月11日投稿)

 

 

 

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