「伊勢神宮」が今後脚光を浴びる出来事が起こった。安倍首相が6月5日午後、来年日本で開催されるサミットの開催地を「三重県伊勢志摩」に決定したのです。合計8都市が立候補していたが、最後に立候補した三重県伊勢志摩に決定したのです。伊勢志摩の立候補のきっかけは、安倍首相が今年の1月5日に伊勢神宮を参拝した時にあったようだ。広島市も立候補していたが、政権幹部から「被爆地訪問は米国が嫌がるだろう」という声が上がり実現しなかったという。親分であるアメリカのオバマ政権の気持ちを子分の安倍政権が気遣ったという事か。
なぜ、伊勢志摩に決めたのかという事について、安倍首相は、「日本の精神性に触れていただくには大変良い場所だ」「日本の美しい自然、豊かな文化、伝統を世界のリーダーたちに肌で感じてもらえる場所にしたいと考えた」。政府高官は「やはり『伊勢神宮の凛とした独特な空気を外国首脳にも感じてもらいたい』という首相の意向が一番大きい」という。この決定の理由を知って即座に、安倍首相が何を企んでいるのかを直感した。それは伊勢神宮を生活に身近な存在とさせ違和感を払拭させ親しみを感じさせ憲法第20条や第89条の「政教分離の原則」の判断基準を曖昧にし空洞化させようとしているという事です。メディアは自主規制なのか圧力がかかったのか分からないが、多分どちらもだろうが、この事について何の反応もしない事が残念であり、困った事です。しかし、それだけメディアは感度が鈍ってきたという事ですかね。
さて、決定の大きな理由が「伊勢神宮」が「日本の精神性」に触れる事ができる場であるという事なのですが、果たしてどういう事なのか。この言葉には大きな意味が隠されていると考えるべきです。
安倍はこれまで「侵略の定義は学問的に定まっていないと言っていいだろうと思うし、国と国の関係においてどちら側から見るかで違う」と発言してきた。そしてアジア太平洋戦争を「侵略戦争だと認めていない」。つまり、大日本帝国とその戦争「大東亜戦争」は正しい「聖戦」だったと確信しており、侵略戦争に対する反省を「自虐」と規定し脱却する事を主張している。そしてさらに日本国の在るべき姿としての「大日本帝国」への回帰をめざして「戦後レジーム」を払拭する事を表看板にしてさまざまな政策を実行しています。この考え方が偽善であり、間違いであるとする事が常識となっているにもかかわらず、彼は認めないし、改める気持ちももっていない。また、彼にとっては彼と同じ考えに立たないものこそ非常識なのであり、彼の考えに従う事を強制し、強制する事は正しいという理屈に固執している。この態度は傲慢そのもので、DV的で、大日本帝国の手法そのものともいえる。しかし、彼は本気でそう考えているのです。
なぜこうなるのかというと、彼が戦前の為政者の側に立って物事を判断しているからなのです。そして、先の安倍の「伊勢神宮」についての発言・評価も、戦前の大日本帝国の為政者の側に立ったものなのです。だから私たちは、安倍の側に立って評価するのではなく、天皇制によって支配された国民の側に立って、「伊勢神宮」を評価しなければなりません。そうでなければ、安倍政権の価値観に取り込まれ、彼らと同じ側に立ってしまうことになり彼の思うつぼにはまってしまい利用されてしまいます。
つまり、「伊勢神宮」に対する評価は、近代日本の、特に戦前の為政者の側に立つか、それに支配された国民の側に立つかでその評価が大きく異なるという事です。
それはどういう事か?率直に言えば、戦後日本では「伊勢神宮」は政教分離の原則により一宗教法人となったが、戦前の大日本帝国では国民の精神的支柱とされていた「国家神道」、別の表現をすれば「天皇教」の中心施設であり軍国主義を推進したのです。安倍はその国家神道が果たした役割、犯した犯罪に対して何の疑問も反省も抱いていないだけでなく、むしろそれとは逆に崇高な価値高いものとして評価しているのです。「伊勢神宮」こそが「日本の精神性」「日本の美しい自然、豊かな文化、伝統」であると言っているのです。そして、国家神道の下の日本国民の姿こそ、彼にとってはあるべき日本の日本人の姿であって、「取り戻したい日本の姿」という事なのです。その国家神道を復活させるのための戦術の一つとしてこの「伊勢志摩サミット」を利用しようとしているという事です。
これは憲法違反に当たります。また、この事が実行されていけば、「政教分離の原則」はなし崩しになり、また、国民主権や民主主義、基本的人権の尊重、平和主義、そして日本国憲法そのものも葬り去られ、政教一致で国民を奴隷扱いした天皇を元首とする大日本帝国が復活する事になります。伊勢神宮の「遷宮」儀式は戦前の国体の根幹を示す儀式で、遷御の日は祝日となり、全学校で奉賀式を実施した。安倍はすでに2013年の「遷宮」儀式で、戦前と同じように首相として参列(新宮へ向かう列にも加わった)しており、国家儀礼化をめざして既成事実を積み上げています。この時点でメディアも国民も安倍を憲法違反として追及すべきであったのですが、していません。今回も安倍ワールドがやりたい放題をやっても目をつぶってしまうのだろうか?安倍ワールドは退路を断って政治生命をかけて「大日本帝国への回帰」という目標を実現するために国民に対し戦いを挑んでいる。自民党の『憲法改正草案』では、第20条「信教の自由」の3に「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。」とあり、靖国神社を含めて「天皇・首相閣僚などの公式参拝」を可能とする道を開いている。
なぜ、伊勢志摩に決めたのかという事について、安倍首相は、「日本の精神性に触れていただくには大変良い場所だ」「日本の美しい自然、豊かな文化、伝統を世界のリーダーたちに肌で感じてもらえる場所にしたいと考えた」。政府高官は「やはり『伊勢神宮の凛とした独特な空気を外国首脳にも感じてもらいたい』という首相の意向が一番大きい」という。この決定の理由を知って即座に、安倍首相が何を企んでいるのかを直感した。それは伊勢神宮を生活に身近な存在とさせ違和感を払拭させ親しみを感じさせ憲法第20条や第89条の「政教分離の原則」の判断基準を曖昧にし空洞化させようとしているという事です。メディアは自主規制なのか圧力がかかったのか分からないが、多分どちらもだろうが、この事について何の反応もしない事が残念であり、困った事です。しかし、それだけメディアは感度が鈍ってきたという事ですかね。
さて、決定の大きな理由が「伊勢神宮」が「日本の精神性」に触れる事ができる場であるという事なのですが、果たしてどういう事なのか。この言葉には大きな意味が隠されていると考えるべきです。
安倍はこれまで「侵略の定義は学問的に定まっていないと言っていいだろうと思うし、国と国の関係においてどちら側から見るかで違う」と発言してきた。そしてアジア太平洋戦争を「侵略戦争だと認めていない」。つまり、大日本帝国とその戦争「大東亜戦争」は正しい「聖戦」だったと確信しており、侵略戦争に対する反省を「自虐」と規定し脱却する事を主張している。そしてさらに日本国の在るべき姿としての「大日本帝国」への回帰をめざして「戦後レジーム」を払拭する事を表看板にしてさまざまな政策を実行しています。この考え方が偽善であり、間違いであるとする事が常識となっているにもかかわらず、彼は認めないし、改める気持ちももっていない。また、彼にとっては彼と同じ考えに立たないものこそ非常識なのであり、彼の考えに従う事を強制し、強制する事は正しいという理屈に固執している。この態度は傲慢そのもので、DV的で、大日本帝国の手法そのものともいえる。しかし、彼は本気でそう考えているのです。
なぜこうなるのかというと、彼が戦前の為政者の側に立って物事を判断しているからなのです。そして、先の安倍の「伊勢神宮」についての発言・評価も、戦前の大日本帝国の為政者の側に立ったものなのです。だから私たちは、安倍の側に立って評価するのではなく、天皇制によって支配された国民の側に立って、「伊勢神宮」を評価しなければなりません。そうでなければ、安倍政権の価値観に取り込まれ、彼らと同じ側に立ってしまうことになり彼の思うつぼにはまってしまい利用されてしまいます。
つまり、「伊勢神宮」に対する評価は、近代日本の、特に戦前の為政者の側に立つか、それに支配された国民の側に立つかでその評価が大きく異なるという事です。
それはどういう事か?率直に言えば、戦後日本では「伊勢神宮」は政教分離の原則により一宗教法人となったが、戦前の大日本帝国では国民の精神的支柱とされていた「国家神道」、別の表現をすれば「天皇教」の中心施設であり軍国主義を推進したのです。安倍はその国家神道が果たした役割、犯した犯罪に対して何の疑問も反省も抱いていないだけでなく、むしろそれとは逆に崇高な価値高いものとして評価しているのです。「伊勢神宮」こそが「日本の精神性」「日本の美しい自然、豊かな文化、伝統」であると言っているのです。そして、国家神道の下の日本国民の姿こそ、彼にとってはあるべき日本の日本人の姿であって、「取り戻したい日本の姿」という事なのです。その国家神道を復活させるのための戦術の一つとしてこの「伊勢志摩サミット」を利用しようとしているという事です。
これは憲法違反に当たります。また、この事が実行されていけば、「政教分離の原則」はなし崩しになり、また、国民主権や民主主義、基本的人権の尊重、平和主義、そして日本国憲法そのものも葬り去られ、政教一致で国民を奴隷扱いした天皇を元首とする大日本帝国が復活する事になります。伊勢神宮の「遷宮」儀式は戦前の国体の根幹を示す儀式で、遷御の日は祝日となり、全学校で奉賀式を実施した。安倍はすでに2013年の「遷宮」儀式で、戦前と同じように首相として参列(新宮へ向かう列にも加わった)しており、国家儀礼化をめざして既成事実を積み上げています。この時点でメディアも国民も安倍を憲法違反として追及すべきであったのですが、していません。今回も安倍ワールドがやりたい放題をやっても目をつぶってしまうのだろうか?安倍ワールドは退路を断って政治生命をかけて「大日本帝国への回帰」という目標を実現するために国民に対し戦いを挑んでいる。自民党の『憲法改正草案』では、第20条「信教の自由」の3に「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。」とあり、靖国神社を含めて「天皇・首相閣僚などの公式参拝」を可能とする道を開いている。