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ゲルニカ:スペイン戦争で人民戦線政府の国際義勇兵として戦った日本人がいた

2022-05-30 11:13:29 | 日本人

 スペイン戦争(1936年7月~39年3月)は、アサーニャ人民戦線政府とそれに対し反乱を起こしたフランコ将軍との戦いで、それは換言すれば民主主義とファシズムの戦いであり、第2次世界大戦の前哨戦であった。ヒトラーのナチス・ドイツムッソリーニ・イタリアは反乱を起こしたフランコ側に武器・弾薬・軍隊を送った。ナチス・ドイツはこの内乱を兵器と戦術の実験場とし、多くの残虐行為を行った。また、アメリカ政府もガソリン・自動車などの物資を援助した。これに対し人民戦線政府側は外国に武器援助を求めたが、英仏両政府は不干渉政策をとった。そのためドイツとイタリアによるフランコ反乱軍への武器援助は、アメリカやヨーロッパ資本主義国政府の「容認と寛容」の下で公然と行われたのである。そのような状況の中で、ソ連とメキシコは人民戦線政府援助の声明を発表した。

 各国共産党は人民戦線政府を援助するために国際義勇軍(国際旅団)を集めた。フランスでは約1万名を筆頭に延べ約4万名。うち60%は志願以前からの共産主義者で、あとの20%は戦いの中で共産主義者になった。国際義勇軍以外には共和国軍、つまり各党派の市民軍に参加した外国人が約5000人、さらに、2万人を超える外国人が色々な時期に医療その他の補助部隊に参加してフランコ側と戦った。

 3人の日本人も参加した。名前が分かるのは日系アメリカ人のジャック・白井だけだ。ジャック・白井は1900年頃、函館に生まれ、すぐに両親に捨てられ孤児となった。12歳頃、孤児院を脱走し函館港で職を転々としたのち、ブラジルに渡り下級船員となったが、27歳頃、ニューヨークに移り日本人の経営するレストランでコックになった。このような経歴とその間の交友を通じて社会的不正を憎む青年となり、1936年12月、アメリカ人義勇兵の第1陣96人(アメリカ人は合計で約2800人が参加し、約900人が戦死)の一人となった。翌年1月、バルセロナ経由で義勇軍の基地アルバセーテに到着、リンカーン大隊の炊事兵に任命された。

 スペイン戦争を取材した日本人に坂井米夫がいた。彼は、戦争勃発時は『東京朝日新聞』のアメリカ特派員であった(のち米国籍を取得し、1978年にワシントン市の病院で死亡)。坂井は1937年6月、臨時特派員としてリスボンに渡り、フランコ軍を取材したのち約3ヶ月にわたって人民戦線軍に入り、兵士や民衆の生活と戦いの実態についての記事を日本へ送った。しかし、フランコ側についた日本人「義勇兵」もいた。また、日本陸軍から派遣された将校・守屋精爾が作戦指導部で活動した。

 1939年、フランコ軍によりマドリードは陥落した。英仏米は直ちにフランコ政権を承認した。ナチス・ドイツはヨーロッパの戦争の準備に集中した。スペイン戦争での人民戦線政府の敗北は、スペイン以外の国々において、自国政府の政策が帝国主義戦争(第2次世界大戦)へと突き進む事を食い止める事ができなかったのである

(2019年9月17日投稿)

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神聖天皇主権大日本帝国政府時代の移民は、なぜ「広島県」出身が多かったのか?

2022-05-27 22:09:59 | 移民

 神聖天皇主権大日本帝国政府外務省の「移民出身府県」記録(1899~1937年までの累計)によると、1位 広島県、2位 沖縄県、3位 熊本県、それに続いて和歌山県、山口県、福岡県となっており、西日本が多い。「故郷への送金額」記録では、1位 広島県、2位 和歌山県、3位 沖縄県となっている。

 広島県は大日本帝国一の移民県であり、原爆投下当時には、数千人の「米国生まれ」の日本人が広島県にいたといわれている。広島県はなぜ大日本帝国一の移民県になったのか?

 袖井林次郎著『私たちは敵だったのか』によると、明治時代初期に広島県令・千田貞暁による宇品港(現広島港)の築港が原因で、漁民たちが生活基盤を失った、という背景が存在したという。旧広島藩藩士の生活救済策(士族授産)として宇品港工事を行ったのであるが、漁民たちはこのため、牡蠣や海苔養殖漁場を奪われたのである。そこで漁民たちは、大日本帝国政府がハワイ王国と結んだ「官約移民」(1885~1894年)の取り決めを頼りにハワイ王国へ渡ったのがきっかけとなったのであった。その後、広島県では「兵隊に行かねば米国へ行け」という言葉さえ広まったという。そして、広島県はその後全国一の移民送出地となった。中でも安芸郡仁保村は有数の移民送出地となった。米国への移民は、1924年の「排日移民法」で激減し、移住先はブラジルへと比重を移した。

 ところで、広島市は1894(明治27)年、朝鮮国で甲午農民戦争が起こった際、広島に置かれた第5師団に最初の動員命令が下された事で「軍都」の様相を帯び始め、日清戦争の派兵基地の役割を担い、兵士と兵器、食料など宇品港(現広島港)から朝鮮国に向けて送った。同年9月15日には明治天皇も広島へ来て、広島は臨時首都となり、10月15日には第7回臨時帝国議会も開催した。当時は、第2次伊藤博文内閣(元勲内閣)時代で、帝国議会は紛糾を続けてきていたが、戦争関係の予算や法律案を全会一致で可決した。日清戦争は1895年4月17日に講和条約が下関で締結されたが、以後、1900(明治33)年の北清事変時でも、1904~5(明治38)年の日露戦争時でも広島は同じ役割を担い、「軍都」としての様相を深めていった。

(2022年5月27日投稿)

 

 

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「2022原発のない福島を!県民大集合」(3月12日)報告から学ぶべき事

2022-05-23 10:31:27 | 原発

 菅自公政府は、2021年4月、「ALPS処理水」の海洋放出方針を決定した。政府と東電は、「廃炉を進めるために必要な決断」と言い、政府は「丁寧に説明し、理解を得られるように努めます」と言っているが、それは、関係者や県民・市民の声を聴き、様々な懸念や反対意見に対して国民的議論を通して最善の方法を模索しようとしているものではない。政府の言う「丁寧な説明」とは、「薄めて放出すれば大丈夫」という意味で、その「政府の考えを理解させる」という意味でしかない。経産省と復興省は、直接学校現場に、「放射線副読本」の活用を補足するチラシを配布し、「正しい知識を身につけてもらう」として、「ALPS処理水は安全」であると強調している。政府(現岸田自公政府)は、学校で習う事は真理であると信じ疑う事をあまりしない子どもを通して家族に「安全性」を浸透させようとしているのであるが、このような手法は教育の中立性、公平性を踏みにじるものである。

 廃炉作業は、「ALPS処理水の処分」だけでなく、中間貯蔵施設の「除染廃棄物の処分」や、「燃料デブリの取り出し、処分」など、今後たくさんの問題、課題が出てくる。これらは常に人々の生活に大きく関わる問題であり、世代をまたいだ問題である。福島に特化した問題ではなく、国民的な論議が必要な問題である。

 「海洋放出」について「ALPS小委員会」はどのような議論をしたのかについて、元「ALPS小委員会委員」である小川良太氏(福島大学食農学類教授)によると、小委員会決定機関ではなく、その役割は政府に提言する事であり、生産者、福島県民のみならず国民全体、また海外など信頼関係を築くためには、議論を尽くした後に決定する事が大切であるという事を訴えてきた。しかし、政府はそれを理解せず議論も求めないまま「海洋放出」を決定した。政府と東電は、「安全かつ迅速な廃炉」「復興と廃炉の両立」をうたっているが、多くの意見をないがしろにしたまま「海洋放出」の準備を進め、「保障・賠償」をもって苦渋の妥協を引き出そうとしている。人々の犠牲の上に「廃炉」を進めるものであり、「復興と廃炉の両立」とは矛盾している。30~40年後の「廃炉」の完成の姿も描けていない。廃炉工程も技術も未確実である。

 「ALPS小委員会」は、「ALPS処理水の処分」について、海洋放出、陸上保管の継続、トリチウムの分離処分技術の研究開発、放射能低減、汚染水減少措置など5つの方法の社会的影響について検討する場であったが、当初から「海洋放出ありき」であった。タンクを増設する土地は北側にも存在した。しかし、陸上保管には後ろ向きであった。

 「海洋放出」は30~40年の期間を想定しているが、その間事故なくミスなく情報が開示されるかという安全基準の信憑性については疑問がある。安心するには、科学的に安全である事と、それを誰が説明しているのかという事が重要であり、そこには「信頼」が必要である。

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BPOが「痛み伴う事を笑いの対象とする番組」は「いじめの傍観、許容するモデルに」懸念

2022-05-14 15:08:17 | メディア

 相方に対し、「たたく」という物理的な行為によって、また、身体的状況などを揶揄する言葉を浴びせる行為によって「笑い」をとる、そのような番組について、BPO(放送倫理・番組向上機構)の「青少年委員会」が2022年4月に「見解」を発表した。

BPOとは……テレビ、ラジオの放送に対する視聴者の意見を受け止め、正確な放送と放送倫理向上を目的とする第三者機関として、NHKと民放連などが2003年に設立した。3つの委員会があり、「放送倫理検証委員会」は放送内容にウソがないかを調べたり、番組の質を向上させる方法を話し合う。「人権委員会」は放送に人権を侵害する内容がなかったかを調べる。「青少年委員会」は放送が若者に与える影響を調べる。大学の先生やジャーナリスト、弁護士などの委員が番組を審査し、「意見」「見解」「勧告」という形で放送局に注意を促す。

 今回の「見解」は「罰ゲームやドッキリでの暴力的な演出の危険性、発達心理学や脳科学の知見から、子どもが『他者が慰められたり苦痛から解放されたりするシーンを見る事』で他者を助けようとする『共感性』を発達させるのに、そうした場面を見ない事で発達が阻害される事、苦しむ様子を共演者が笑いながら見ている事が『いじめ場面の傍観を許容するモデルになる』」などの懸念を指摘した。

 文化人類学者なども様々なコメントを出しているが、放送局は文頭に書いたような番組が「笑い」を生む事を確信した上で、あえてそれを目的に製作していると見做せるため、BPOの「見解」は納得できるものである。しかしなぜ、「笑い」を生み、問題としなければならないのだろうか?それを考えてみる事こそ重要だと思う。

 文頭に書いた「行為」が「笑い」を生むのは、それが「他人の不幸を喜ぶ」心理や「他人が痛み苦しみ悩み悲しむのを喜ぶ」心理を刺激するからではないかと思う。そして、その心理は「奴隷根性」というものである。それは中華民国初期の文学者・魯迅(1881~1936年)が彼のの作品『暴君の臣民』(魯迅評論集随感録抄)で批判した心理と類似のものと言ってよい。それには、

「……暴君の臣民は、ただ暴政が他人の頭上暴れる事を望むのだ。そして自身は、眺めて面白がり「残酷」を娯楽とし、「他人の苦痛」を見世物とし、慰安とするのだ。自身の能力は「運良く逃れた」事だけだ。「運良く逃れた」なかから、また犠牲が選び出されて、暴君治下の臣民の血に渇いた欲望を満たすために捧げられるが、それが誰であるかはわからない。死ぬ者が「わっ」と叫ぶと、生きている者が面白がるのだ」と述べられている。

 このような「奴隷根性」なる心理を刺激するからこそ「笑い」を生むと考えるべきであろう。この「奴隷根性」は人権尊重の意識を否定する前近代の意識であり、近代民主主義的憲法を掲げる国家においては否定すべきものであり、その拡大再生産行為は許されるべきではない

 この事から、今日の日本人の多くは、心に潜むこの「奴隷根性」を自覚した上で放擲し、自らが主権者として憲法に掲げた「人権尊重」の意識をこそ、自身の心に、人々の心に浸透させ根付かせるため努力する事を緊急の課題と自覚すべきであろう。

(2022年5月14日投稿)

 

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ソテツ地獄・さとうきび(黒糖)・普天間米軍基地

2022-05-13 16:28:09 | 沖縄

 沖縄県では戦前、神聖天皇主権大日本帝国政府下における農村民の常食はイモであった。そして、さとうきび栽培による黒糖生産モノカルチャー経済であった。しかし、第一次世界大戦後の1920(大正9)年の戦後恐慌下において、その「黒糖」価格大暴落し、沖縄県の農村民は痛烈な打撃を被り、常食であったイモもろくに食べる事ができず、職もない状況に陥った。そして、飢饉の際の非常用作物として植えていたソテツを食べて凌がざるを得ない状況に陥った。そこにメディアが「ソテツ地獄」と名付けた状況が起きたのである。ソテツは「サイカシン」という有毒物質を含んでいる。よく水洗いし、発酵させれば危険はないが、極度の飢餓に我慢できずに食べてしまい、中毒死する人も多かったのである。

 このような沖縄県農村民に悲惨な状況が起きた原因は、国税面で本土の類似県よりも高い納付額を課されていた事が背景にあるとともに、この後、1927(昭和2)年の金融恐慌と1930(昭和5)年の昭和恐慌が追い打ちをかけ、さらに悲惨の度を増した。

 そのような悲惨な歴史を生きながらえながら、戦後はまた、沖縄本島中部のさとうきび生産地は、アメリカ合衆国政府軍の嘉手納基地普天間基地として強制接収され、変わる事なく現在に至るのである。

(2022年5月1日投稿)

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