スペイン戦争(1936年7月~39年3月)は、アサーニャ人民戦線政府とそれに対し反乱を起こしたフランコ将軍との戦いで、それは換言すれば民主主義とファシズムの戦いであり、第2次世界大戦の前哨戦であった。ヒトラーのナチス・ドイツとムッソリーニ・イタリアは反乱を起こしたフランコ側に武器・弾薬・軍隊を送った。ナチス・ドイツはこの内乱を兵器と戦術の実験場とし、多くの残虐行為を行った。また、アメリカ政府もガソリン・自動車などの物資を援助した。これに対し人民戦線政府側は外国に武器援助を求めたが、英仏両政府は不干渉政策をとった。そのためドイツとイタリアによるフランコ反乱軍への武器援助は、アメリカやヨーロッパ資本主義国政府の「容認と寛容」の下で公然と行われたのである。そのような状況の中で、ソ連とメキシコは人民戦線政府援助の声明を発表した。
各国共産党は人民戦線政府を援助するために国際義勇軍(国際旅団)を集めた。フランスでは約1万名を筆頭に延べ約4万名。うち60%は志願以前からの共産主義者で、あとの20%は戦いの中で共産主義者になった。国際義勇軍以外には共和国軍、つまり各党派の市民軍に参加した外国人が約5000人、さらに、2万人を超える外国人が色々な時期に医療その他の補助部隊に参加してフランコ側と戦った。
3人の日本人も参加した。名前が分かるのは日系アメリカ人のジャック・白井だけだ。ジャック・白井は1900年頃、函館に生まれ、すぐに両親に捨てられ孤児となった。12歳頃、孤児院を脱走し函館港で職を転々としたのち、ブラジルに渡り下級船員となったが、27歳頃、ニューヨークに移り日本人の経営するレストランでコックになった。このような経歴とその間の交友を通じて社会的不正を憎む青年となり、1936年12月、アメリカ人義勇兵の第1陣96人(アメリカ人は合計で約2800人が参加し、約900人が戦死)の一人となった。翌年1月、バルセロナ経由で義勇軍の基地アルバセーテに到着、リンカーン大隊の炊事兵に任命された。
スペイン戦争を取材した日本人に坂井米夫がいた。彼は、戦争勃発時は『東京朝日新聞』のアメリカ特派員であった(のち米国籍を取得し、1978年にワシントン市の病院で死亡)。坂井は1937年6月、臨時特派員としてリスボンに渡り、フランコ軍を取材したのち約3ヶ月にわたって人民戦線軍に入り、兵士や民衆の生活と戦いの実態についての記事を日本へ送った。しかし、フランコ側についた日本人「義勇兵」もいた。また、日本陸軍から派遣された将校・守屋精爾が作戦指導部で活動した。
1939年、フランコ軍によりマドリードは陥落した。英仏米は直ちにフランコ政権を承認した。ナチス・ドイツはヨーロッパの戦争の準備に集中した。スペイン戦争での人民戦線政府の敗北は、スペイン以外の国々において、自国政府の政策が帝国主義戦争(第2次世界大戦)へと突き進む事を食い止める事ができなかったのである。
(2019年9月17日投稿)