つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

「建国記念の日」は「2月11日」のままで良いのか?安倍自民党内閣にとっては「最大の聖なる記念日」

2024-02-12 16:12:25 | 建国記念の日

 ※2016年2月12日に投稿したものを改めて投稿しました。国民は身近な生活の成り立ちを点検し、科学的(論理的)に説明できるようにする事が必要だ。 

 もうすぐ「建国記念の日」である。自民党にとっては大切な日である。また、安倍政権にとっては、敗戦までの「天皇制大日本帝国」「大日本帝国憲法」への回帰をめざす上で、特別に重要な日となっている。「2月11日」は敗戦までの「天皇主権大日本帝国」の「紀元節」であり、最大の「聖なる記念日」であった。「大日本帝国憲法」はその日に合わせて「制定」したのであるし、敗戦後の「日本国憲法」も、吉田茂首相は「2月11日」に「施行」しようと考えていた。今年の1月8日には自民党の「新藤義孝氏」が「衆院予算委」で「2月11日」をアピールするために「平成28年が明けました。伝統的な数え方でいえば皇紀2676年」と発言した。この「発言」はまさしく憲法第99条「憲法尊重擁護の義務」に対決を挑む、許してはいけない重大な行為であるにもかかわらず、「既成野党」はそれを認識できず、厳しく弾劾し辞職を迫らなかった。また、「安倍政権」と「自民党」への追及をしなかった。ここには「既成野党」や「メディア」「洞察力」の「劣化」や「世論の誘導」を目論む「故意」の「思考停止」の対応が見られる。「既成政党」や「メディア」は存在価値の「劣化」が進行しているのである。

  だからこそ、「日本国憲法」を尊重する国民は、改めて「建国記念の日」の成立の経過とその意味を考え、心から祝える「建国記念日」を制定するための行動を起こさなければならない。日本を「国民」のものにするために。もし「金さえ儲かればよい」「休めさえすればよい」と考えているならば、自民党安倍政権の「思うつぼ」である。 

 日本が「建国された日」がなぜ「建国記念日」と言われず、「建国記念の日」と言われ、その日がなぜ「2月11日」となっているのか?

 世界の国々の「建国記念日」を調べてみると、ほとんどの国が「独立をした日」をそれに当てている。たとえば、「大韓民国」では、8月15日とし、1945年に「ポツダム宣言」にもとづき、日本による植民地支配から「朝鮮」が解放され再び独立した日を当て「光復節」と呼んである。それ以外の国では、「国家(政治)体制を変更した日」をそれに当てているようだ。

 日本ではどうであろうか。実は、世界でほかに見る事のできないような考え方に基づいて「月日」が定められ、その「呼び名」が付けられているのである。

 いわゆる「建国記念日」は敗戦までの「天皇制大日本帝国」下で初めて制定されたが、それは明治時代初めの1873(明治6)年10月14日に、その日を「2月11日」とし「紀元節」と呼ぶとし祝日としたのである。その根拠は非科学的で、『日本書紀』に初代天皇と書かれた「神武天皇」(実在を認められていない)が「辛酉年春正月朔日」に即位したとあるのを、太陽暦に改暦するとともに皇紀(天皇紀元)を採用して即位日を換算した月日がその日であるとしたのである。しかし、換算について暦学上の根拠は全くないといわれている文部省天文局も便宜的に決定したと明言している。細かい事をいえば、その前の71年には3月31日を「神武天皇祭」として国家の祭日とし、72年11月15日には翌73年の1月29日を「神武天皇御即位相当」の祝日とした。(73年3月7日には、政府は神武天皇即位の祝日を「紀元節」と呼ぶ事とした。)しかし、不都合な事が起こり、73年10月14日には太政官布告で、「2月11日」に改定し74年から施行したのである。「神武天皇祭」も4月3日に改定した。敗戦までの国民(臣民)はこのようにして決められた日を、学校教育で、軍隊教育で、また官憲の圧力により、信じる事を強制されたのである。

 このように、敗戦までの大日本帝国下の国民は、現在では丸ごと「大うそ」の「作り話」とされている事を「事実」として強制的に信じさせられたのであるが、当時の国民の受け止め方(小川為治『開化問答』より)を紹介します。

「……改暦(太陰太陽暦を太陽暦へ、明治5年12月3日⇒6年1月1日)以来は五節句・盆などという大切なる物日を廃し、天長節・紀元節などというわけもわからぬ日を祝う事でござる。4月8日はお釈迦さまの誕生日、盆の16日は地獄のふたの開く日というは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平のごとき牛鍋を食う老爺というとも知りません。かかる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府より赤丸を売る看板のごとき幟(日の丸)や提灯を出さするはなお聞こえぬ理屈でござる。元来祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日をしいて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます」

 五節句など国民の祝日はいわれない迷信として1873年に廃止され、天長節・紀元節など宮中祭祀が合理的なものとされすべての国民が参加すべき祝日とされたのである。政府はこの改革により、天皇を唯一最高の権力者・神的権威(天皇教・国家神道)としていただき、中央集権の官僚制と、国民徴兵による常備兵制とをもって、日本を統一的に支配する新しい国家のしくみである「近代天皇制」を確立したのである。

 しかし、敗戦後の1948年にGHQにより「侵略戦争の精神的支柱」になっていたとして廃止された。ところが1951年、吉田茂首相が「独立後は紀元節を復活したい」と発言した。52年には自由党が「国民の祝日」に、「建国記念日」(紀元節)を追加する動きを開始した。この動きが今日の「建国記念の日」の成立となったのである。

 戦後の「祝日法」(国民の祝日に関する法律)は1948年7月20日に成立した。

 この動きに対して「日本歴史学協会」は「反対」の決議文を「天野文相」に提出した。しかし、神社本庁・郷友連盟などをはじめとする諸団体が自由党と結託して「建国記念日制定推進本部」を設置し、54年から「2月11日」に式典を始めた。57年2月13日には、自由民主党の衆議院議員らが「議員立法」で「建国記念日」制定(紀元節の復活)に関する法案を提出した。その趣旨は「建国をしのび、国を愛する心を養う」であった。そのため、「日本社会党」が戦前への「反動的行為」であるとして反対し、「廃案」となった。自民党はその後60年代前半まで5回にわたって法案提出したが、野党と世論の激しい抵抗にあい廃案となった。当時の「世論調査」では、紀元節「復活賛成」意見は、1954年…74.2%、65年…54.3%、66年…47.4%と減少していた。

 そのため自民党は「内閣立法」とし、名称に「」を挿入した「建国記念の日」として「建国されたという事象そのものを記念する日」であるとも解釈できるようにするとともに、具体的な「日付の決定」については有識者で組織された「審議会」に諮問するなどの「修正」をし、1966年6月25日に「建国記念の日」を定める「祝日法改正案」(改正祝日法)を強行成立させた。自民党は言葉巧みに欺いたのである。これが「の」が入っている意味である。こんな形で成立した「建国記念日」は世界のどこにも見られない。世界に対して誇りをもって説明できないものである。そして、今年は成立から「50年」になろうとしている。

 改正法附則第3項は「内閣総理大臣は、改正後の第2条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」と定めた。

 審議会は66年「公聴会」も開き、「内閣総理大臣官房広報室」に依頼して66年「世論調査」(面接聴取)も実施した。その際には「各党案」も選択肢に加えた。

審議会委員の回答状況

「委員9名中7名が『2月11日』に賛成した」(大宅壮一は辞任)

各党案と世論調査の支持率

「①2月11日(敗戦までの紀元節の日)自民党:47.4%、②5月3日(憲法記念日)社会党:10.4%、③4月3日(聖徳太子の十七条憲法発布の日)民社党:6.1%、④4月28日(講和条約発効の日)公明党:5.8%などが上位で70%を占めた。ほかには、「奴隷根性」を払拭できていない「いつでもよい」が12.1%、「わからない」が7.5%あった。」

 自民党案の「紀元節の日」を望む声が圧倒的に多く、50パーセントに達している。また、民主主義を愛する国民には「社会党案」の「5月3日憲法記念日」こそ、敗戦後の日本にふさわしい「建国記念日」ではないだろうか。これこそ継承し広めなければならなかった認識なのではないだろうか。麻生副総理が以前「国民はすぐ忘れる」と言った事がある。安倍政権が国民に対してどのような意識を持っているのかを自ら暴露したといえるが。さて、1966年の時点からどれだけ変わったのだろうか。思考停止状態に陥ってるのだろうか。

 「審議会」は1966年12月9日に「2月11日」とする答申を「佐藤栄作政府」に提出し、政府は同日、「建国記念の日は、2月11日とする」との「建国記念の日となる日を定める政令」を定めて公布し施行した。「建国記念の日」は名称は違うが「紀元節」以外の何物でもないのである

 「建国記念の日」のままにしておいてよいのであろうか。何も考えない、何もしないという事は「何も生じない変わらない」という事ではない。このままにしておく事により得をし、ほくそ笑んでいるのは「自由民主党」なのである。彼らにとって、「日本は自分たちのもの」だという意識を再確認する「日」なのである。そして、「大日本帝国への回帰」の意識を高める日となっている事を国民は忘れてはならないのである。

 今こそ、自らの「奴隷根性」を検証し、それを打ち捨て、「自由人」となるための闘いを始める事がのぞまれる。

 ※東京湾のアメリカ戦艦ミズーリ号艦上で、9月2日、降伏文書に日本側全権として調印した東久邇宮稔彦(皇族)内閣の重光葵外相の言葉を紹介したい。

日本人は、政治を見る事、あたかも芝居を見るがごとく、観賞はしても、自分自身が役者の一人であり、自ら舞台の上にある事を悟っていない」(『重光葵著作集』第1巻)

(2022年2月12日投稿)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする