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安倍首相、北東アジアからの戦後構造除去は本気か?国策内鮮結婚の犠牲者日本人妻にも目を向けているのか

2023-10-31 20:27:05 | 朝鮮問題

 安倍自民党首相は国連総会の演説で「北東アジアから戦後構造を取り除くための労をいとわない」と述べた。しかし、この言葉は安倍自公政権のこれまでの対外対内政策や姿勢を考えれば政権本位自分本位の偏向した傲慢で独善的な内容である可能性が高く、それは国民が求め納得できる内容ではないと思われる。その意味で誠意ある「本気」とは考えられないのである。

 たとえばそれは、「日本軍慰安婦問題」解決への姿勢や朝鮮高校に対する「高校授業料無償化制度」からの除外政策などにうかがえる。

 さて、1972年には2月にグアム島横井庄一さんが発見され日本中が大騒ぎになったが、その6月には韓国の日本人妻(日本人妻4人とその中の1人の子ども3人の総勢4世帯7人)が帰国した。東京新聞によると、

「韓国と日本を結ぶフェリーの出入りする下関港。さる7日朝、釜山からのフェリーを降りた初老の婦人四人が出迎えた人たちを無視して座り込み始め、まわりの人々を驚かせた。いずれも半生を韓国で過ごして引き揚げてきた日本の婦人たち。『希望する東京に住まわせてくれるまで動かない』と抵抗する婦人たちに『それぞれの地方に帰ると約束しておきながら、今さら身勝手な』と世話をした外務省は怒る。が、九州以外ではほとんど報道されなかったこのささやかな抗議の中には〝大日本帝国〟の責任を一身に背負わされ、忘れ去られた在韓日本人たちの怨念が込められているようだ。レジャーに明け暮れる経済大国・日本の影の部分。戦後はもう本当に終わったのか」

という内容である。彼女たちは言った。「私たちはね、国際結婚と違うんです。内鮮結婚、そう、政府の植民地政策犠牲者なんですよ。同情されたいとは思いません。しかし、犠牲にはそれ相当の賠償をしていただかなくちゃあなりませんね」と。

 内鮮結婚とは何か?1910(明治43)年、神聖天皇主権大日本帝国政府大韓帝国(1897年~)を日本の領土に併合(朝鮮と改称)し、ソウル(京城と改称)に朝鮮総督府(天皇直属で初代総督寺内正毅)を置いて支配した。独立国大韓帝国を抹殺し朝鮮と改称し、内鮮一体植民地支配を開始した。

 反日抗日の動きを抑え込み、植民地支配を徹底するために朝鮮人に対し皇民化政策民族性抹殺政策。1937年「皇国臣民の誓い」、1938年「新朝鮮教育令」、1939年「創氏改名」、強制連行など)を実施した。そして、この皇民化政策と一体であったのが、日本人と朝鮮人とを結婚させる政策であり、それを内鮮結婚と言ったのであり、国を挙げて奨励したのである。

 政府内鮮一体の手本として奨励した。警察署長が結婚式にお祝いに来た。町会長が縁談を持ってきた。新聞が美談として書き立てた。1920(大正9)年4月28日には梨本宮守正の娘方子と朝鮮王家の皇太子(最後の皇帝純宗の弟李垠)とが結婚した、などに見られる。ちなみに、李方子は、アジア太平洋戦争敗戦後の混乱期に様々な事情から韓国に残留を余儀なくされたり、韓国に渡った日本人妻の集まりである在韓日本人婦人会「芙蓉会」の初代名誉会長を勤めた。

 さて、話を戻そう。日本政府(第3次佐藤栄作自民党内閣)は帰国した彼女たちを、横井庄一氏のようには迎え入れなかった。最も大きな事は彼女たちに日本国籍を認めなかったのである。そのために彼女たちは抗議行動を起こしたのである。そして、72年8月21日には彼女たちを支援する「在韓日本人棄民同胞救援会」の小山毅専修大学助教授らとともに首相官邸へ行き、二階堂進官房長官に陳情、田中角栄自民党首相への嘆願書を手渡した。その内容は、

「此度、新総理の栄誉を獲得されました事、御よろこび申し上げます。世を上げて複雑、多端な情勢の中に、内外の御政務、御多忙の事と存じます。さて茲に終戦27年、日本国民の忘れ得ぬ8月15日、その日が参りました。聞き及びますに、総理には朝鮮の地で、その日を迎えられたとか?一瞬にして覆された朝鮮統治の基盤!!混乱と動揺!!36年間にわたって植民地化した日本国に対する民族的怒り、そうした当時の状勢を、あなたはどのようにうけとめられたか?その後、昭和27年の講和条約にも、亦日韓条約に於ても、韓国政府が在日韓国人に関して考慮したにもかかわらず、日本政府は在韓日本人に対して、何等の考慮もなさず、完全に切り捨て、自国の繁栄のみを求めて居たのではないですか?忘れられ、かつ切り捨てられた在韓日本人妻。……本人の意志なく国籍を抹消し、その責任を取らず、「日本人にあらず」とは如何なる事かと、納得出来兼ねます。私達は国法に従い婚姻届は出しましたが、国籍離脱はしておりません。日本政府は私たちの国籍まで奪い、尚かつ居住地の自由選択さえ束縛し、あくまで本籍地主義で指定された故郷へ追いやる!!私たちは6月7日、下関港へ30幾年振り20数年振りでようやくにしてたどり着き、故国への第一歩を踏んだ者であります。厚生省との交渉も2ヶ月間、1日の如く続けて参りましたが、いまだに何等の進展も見えず、法律にも「情」をと、法は国民幸福の為に定められたものと思いますが、現在の私達には、まさしく逆に施行されて居るとしか思われません。悲憤やる方なく、総理の温情にすがらんものをと、茲に嘆願に及びました。又今後に続く引揚者2世子女の為に、引揚者センターを国の手で設置願い度く存じます。巨大な設備は必要といたしません。一時に何百世帯が引揚げ出来る事では有りません。個々に異なる実情は集団的動作は困難が有ります。15、6乃至20世帯が収容出来得ればこと足りると思われます。3ヶ月或は最高6ヶ月位の短期間で、日本語の基礎教育、職業訓練、27年間のマイナスの基礎指導等を終えた後、それぞれの条件にあう地へ居住するという事で交渉を続けて居りますが、いささかの進展も見ず、今日に至って居ります。一度の面接が許されます事を、ひたすら念じ上げ、よろしく御考慮あらん事を、偏に懇願申し上げます。」

というものであるが、ここには敗戦後主権者となった日本国民に対して、敗戦後の政権を担当してきたと言って良い自民党政府が行うべき、戦争責任究明と戦後処理においてその不誠実な姿勢への痛烈な批判と抗議の意志がこもっていた。

 安倍自公政権は、この不誠実な姿勢を強化する思想的体質を有していると言って良い。

(2019年12月15日投稿)

 

 

 

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ハロウィンに見える哲学なきゆえの軽薄さと幼稚さ

2023-10-30 08:40:04 | 日本人

 2018年のハロウィンの様子についてのテレビ報道を見て頭に浮かんだ一句を紹介したい。

 「子ら醒めて 大人騒ぎ立つ ハロウィン

           鹿鳴欧化の 仮装舞踏に似て」

 神聖天皇主権大日本帝国政府にとって、1858年に締結した日米修好通商条約における不平等内容(領事裁判権容認、関税自主権欠如、片務的最恵国待遇)を改正する事は外交上の最大課題であった。井上馨も1879年に外務卿(のち外務大臣)に就任し、法権・税権両面の改正をめざして交渉に臨んだ。彼は神聖大日本帝国を西欧化する事が欧米諸国が日本を対等の国家として見做す早道と考え、「我が帝国を化して欧州的帝国とせよ。わが国人を化して欧州的人民とせよ。欧州的新帝国を東洋の表に造出せよ」と欧化主義を主張した。それが1883年に完成させた鹿鳴館という迎賓館を中心とした接待外交であり、鹿鳴館時代(1883~87年)である。

 鹿鳴館では毎夜のように外国貴賓の接待としてダンス・パーティが催され、皇族・華族・政府高官らが着飾った洋装の夫人・令嬢を伴って出席した。その極め付きが1887年4月20日の首相官邸で催された仮装舞踏会であった。そこでは、北白川宮はイスパニアの士官に扮し、伊藤博文首相夫人はその妻となり、伊藤はヴェニスの貴族となり、三条実美内大臣の娘はヨーロッパの花売り娘となり、山県有朋内務大臣はかつての長州藩奇兵隊長の服装をし、渡辺浩甚東京帝国大学総長は僧西行の姿となった。ヨーロッパ各国の外交官たちは抱腹絶倒した。また、1882年に来日したフランス画家ビゴーは1887年5月の「トバエ」6号「社交界に出入りする紳士淑女」で「洋装をしているが鏡に映る顔は猿(猿まねの意)」と欧化風俗を風刺した。

 話を戻すが、井上のこのような条約改正をめざす姿勢は、国民の不評を買い大臣辞任に導き、鹿鳴館時代は終わるのである。

 そして、神聖天皇主権大日本帝国は、反鹿鳴館、反井上馨、反欧米の風潮の高まりのなかで、排外主義が進行し、ナショナリズムが吹き荒れる事となるのである。

※ハロウィンについては、幕末に伊勢神宮(天照大神)の神符(お守り札)が降ったとして起こった「ええじゃないか」の集団騒乱に似ているとする人もいる。それは幕末の、大政奉還から王政復古の大号令に至る間(1867年7月~12月)に行われた民衆による世直し(社会変革)を求める騒乱状態をさし、倒幕派のトップである岩倉具視らが目的達成するためにこの混乱を企てたといわれている。8月中旬『皇太神宮』のお札が空から降ってきたとのうわさが、名古屋方面に流れた事にはじまり、東海・近畿・四国などの各地に及んだ(京坂地方が最も盛ん)ようであるが、「岩倉公実記」によると、「あたかもこの時にあたり京師に一怪事ある。空中より神符へんへんと飛び降り所々の人家に落つ。その神符の降りたる人家は壇を設けてこれを祭り、酒肴を壇前につらぬ。知ると知らざるとを問わずその人家に至る者の酔飽(飲み放題、食べ放題)に任す。これを祝して吉祥となす。都下の士女は老少の別なく綺羅(美しい着物)を着て男は女装し、女は男装す群を成し隊をなす。ことごとく俚歌(民謡)を唱い太鼓を打ちて以て節奏をなす(調子を取る)。その歌辞(歌詞)は『よいじゃないか、えいじゃないか、くさいものに紙をはれ、破れたらまたはれ、えいじゃないか、えいじゃないか』と云う。……8月下旬に始まりて12月9日王政復古発令の日に至りて止む」とある。

(2018年11月1日投稿)

 

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桐生悠々(『他山の石』発行者)の死に際しての挨拶状

2023-10-26 10:37:56 | アジア・太平洋戦争

 桐生悠々(政次)は、『新愛知』『信濃毎日』などの論説主幹を歴任し、神聖天皇主権大日本帝国政府軍部右翼と闘った。又、個人雑誌『他山の石』を発行し、欧米の新著を紹介し文明批評を行うとともに、反戦平和の主張を死に至るまで続けた人物である。以下に彼の死に際して送った挨拶状を紹介しよう。

「拝啓、残暑凌ぎ難き候に御座候にも拘わらず、益々御健勝奉大賀候。扨、小生「他山の石」を発行以来茲に八個年超民族的超国家的全人類の康福を祈願して筆を執り、孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつつ今日に至候が、最近に及び政府当局は本誌を国家総動員法の邪魔物として取扱い、相成るべくは本誌の廃刊を希望致居候。小生は今回断然之を廃刊する事に決定致候。初刊以来終始変わらぬ御援助を賜り居候御厚情を無にする事は小生の忍び能わざる所に有之候えども、事情已むを得ず御寛恕を願上候。時偶小生の痼症咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能わざるように相成、やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致候故、小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せる事を歓迎致居候も、唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見る事なくして早くもこの世を去る事は如何にも残念至極に御座候。

                              昭和十六年9月 日

                                  他山の石発行者 桐生政次 」

(2023年10月26日投稿)

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正木ひろし『近きより』の神聖天皇主権大日本帝国政府の全体主義否定

2023-10-25 18:06:25 | アジア・太平洋戦争

 正木ひろし1937年4月に創刊した個人雑誌が『近きより』である。アジア太平洋戦争下にあって、神聖天皇主権大日本帝国政府が強調する「全体」に対して「個」「個人」の人権にこだわり、「私人」の立場から政府の「欺瞞」を問い続けた。創刊から90年近くを経た今日の主権者国民にとっても教訓となる内容である。以下に抜粋して紹介しよう。

「日本が神国だというのは、日本の一人一人が神の子であるという自覚を基として初めて理解し得る。人民を扱う事に対する如く、人民同士もまたに対する如き敬虔な気持ちがあって初めて神の国なのである。」

「国民が笑いもせず、怒りもせず、沈黙している状態は恐るべき状態である。国民が遠慮しているのだ。遠慮は自国を自国と感じない心理から生ずるのだ。自分達と違う人種に支配されているように錯覚しているのだ。」

小の虫を見殺しにする事に平気な国民である。自分達が小の虫である事も忘れて」

(2023年10月25日投稿)

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1943年10月21日「出陣学徒壮行会」に関して今日メディアが伝えていない事実

2023-10-24 14:43:22 | アジア・太平洋戦争

 神聖天皇主権大日本帝国東条英機内閣の文部省は、1943年10月21日、明治神宮外苑陸上競技場において「出陣学徒壮行会」を実施した。その「壮行会」の「様子」に関して、今日のメディアは報じていないが、主権者国民が知っておくべき事実が存在するので以下に少し紹介したい。

「出陣学徒は、明治神宮外苑陸上競技場へ参集し整列した。服装は制服制帽ゲートルを着け、30年式銃剣付き三・八式歩兵銃を担っていた。神宮外苑を埋め尽くした観衆の中で、校旗を先頭に競技場のトラックを行進、東条英機首相らが閲兵観覧席では「紅の血は燃ゆる」という歌詞のある「学徒出陣」の歌、勇壮な伴奏とともに大合唱。観覧席には制服を着けた多数の女子学生。行進が終わって整列した「出陣学徒」に、東条英機首相が「激励の訓辞」を行い、岡部長景文相が和歌を誦して「壮行」を讃えた。東条首相は、藤田東湖の詩『文天祥正気の歌に和す』の最期の句「天地正大の気、粋然として神州に鍾(あつま)る」を引用し、「出陣学徒」を賛美激励した。」

(2023年10月24日投稿)

 

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