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安倍首相、北東アジアからの戦後構造除去は本気か?国策内鮮結婚の犠牲者日本人妻にも目を向けているのか

2023-10-31 20:27:05 | 朝鮮問題

 安倍自民党首相は国連総会の演説で「北東アジアから戦後構造を取り除くための労をいとわない」と述べた。しかし、この言葉は安倍自公政権のこれまでの対外対内政策や姿勢を考えれば政権本位自分本位の偏向した傲慢で独善的な内容である可能性が高く、それは国民が求め納得できる内容ではないと思われる。その意味で誠意ある「本気」とは考えられないのである。

 たとえばそれは、「日本軍慰安婦問題」解決への姿勢や朝鮮高校に対する「高校授業料無償化制度」からの除外政策などにうかがえる。

 さて、1972年には2月にグアム島横井庄一さんが発見され日本中が大騒ぎになったが、その6月には韓国の日本人妻(日本人妻4人とその中の1人の子ども3人の総勢4世帯7人)が帰国した。東京新聞によると、

「韓国と日本を結ぶフェリーの出入りする下関港。さる7日朝、釜山からのフェリーを降りた初老の婦人四人が出迎えた人たちを無視して座り込み始め、まわりの人々を驚かせた。いずれも半生を韓国で過ごして引き揚げてきた日本の婦人たち。『希望する東京に住まわせてくれるまで動かない』と抵抗する婦人たちに『それぞれの地方に帰ると約束しておきながら、今さら身勝手な』と世話をした外務省は怒る。が、九州以外ではほとんど報道されなかったこのささやかな抗議の中には〝大日本帝国〟の責任を一身に背負わされ、忘れ去られた在韓日本人たちの怨念が込められているようだ。レジャーに明け暮れる経済大国・日本の影の部分。戦後はもう本当に終わったのか」

という内容である。彼女たちは言った。「私たちはね、国際結婚と違うんです。内鮮結婚、そう、政府の植民地政策犠牲者なんですよ。同情されたいとは思いません。しかし、犠牲にはそれ相当の賠償をしていただかなくちゃあなりませんね」と。

 内鮮結婚とは何か?1910(明治43)年、神聖天皇主権大日本帝国政府大韓帝国(1897年~)を日本の領土に併合(朝鮮と改称)し、ソウル(京城と改称)に朝鮮総督府(天皇直属で初代総督寺内正毅)を置いて支配した。独立国大韓帝国を抹殺し朝鮮と改称し、内鮮一体植民地支配を開始した。

 反日抗日の動きを抑え込み、植民地支配を徹底するために朝鮮人に対し皇民化政策民族性抹殺政策。1937年「皇国臣民の誓い」、1938年「新朝鮮教育令」、1939年「創氏改名」、強制連行など)を実施した。そして、この皇民化政策と一体であったのが、日本人と朝鮮人とを結婚させる政策であり、それを内鮮結婚と言ったのであり、国を挙げて奨励したのである。

 政府内鮮一体の手本として奨励した。警察署長が結婚式にお祝いに来た。町会長が縁談を持ってきた。新聞が美談として書き立てた。1920(大正9)年4月28日には梨本宮守正の娘方子と朝鮮王家の皇太子(最後の皇帝純宗の弟李垠)とが結婚した、などに見られる。ちなみに、李方子は、アジア太平洋戦争敗戦後の混乱期に様々な事情から韓国に残留を余儀なくされたり、韓国に渡った日本人妻の集まりである在韓日本人婦人会「芙蓉会」の初代名誉会長を勤めた。

 さて、話を戻そう。日本政府(第3次佐藤栄作自民党内閣)は帰国した彼女たちを、横井庄一氏のようには迎え入れなかった。最も大きな事は彼女たちに日本国籍を認めなかったのである。そのために彼女たちは抗議行動を起こしたのである。そして、72年8月21日には彼女たちを支援する「在韓日本人棄民同胞救援会」の小山毅専修大学助教授らとともに首相官邸へ行き、二階堂進官房長官に陳情、田中角栄自民党首相への嘆願書を手渡した。その内容は、

「此度、新総理の栄誉を獲得されました事、御よろこび申し上げます。世を上げて複雑、多端な情勢の中に、内外の御政務、御多忙の事と存じます。さて茲に終戦27年、日本国民の忘れ得ぬ8月15日、その日が参りました。聞き及びますに、総理には朝鮮の地で、その日を迎えられたとか?一瞬にして覆された朝鮮統治の基盤!!混乱と動揺!!36年間にわたって植民地化した日本国に対する民族的怒り、そうした当時の状勢を、あなたはどのようにうけとめられたか?その後、昭和27年の講和条約にも、亦日韓条約に於ても、韓国政府が在日韓国人に関して考慮したにもかかわらず、日本政府は在韓日本人に対して、何等の考慮もなさず、完全に切り捨て、自国の繁栄のみを求めて居たのではないですか?忘れられ、かつ切り捨てられた在韓日本人妻。……本人の意志なく国籍を抹消し、その責任を取らず、「日本人にあらず」とは如何なる事かと、納得出来兼ねます。私達は国法に従い婚姻届は出しましたが、国籍離脱はしておりません。日本政府は私たちの国籍まで奪い、尚かつ居住地の自由選択さえ束縛し、あくまで本籍地主義で指定された故郷へ追いやる!!私たちは6月7日、下関港へ30幾年振り20数年振りでようやくにしてたどり着き、故国への第一歩を踏んだ者であります。厚生省との交渉も2ヶ月間、1日の如く続けて参りましたが、いまだに何等の進展も見えず、法律にも「情」をと、法は国民幸福の為に定められたものと思いますが、現在の私達には、まさしく逆に施行されて居るとしか思われません。悲憤やる方なく、総理の温情にすがらんものをと、茲に嘆願に及びました。又今後に続く引揚者2世子女の為に、引揚者センターを国の手で設置願い度く存じます。巨大な設備は必要といたしません。一時に何百世帯が引揚げ出来る事では有りません。個々に異なる実情は集団的動作は困難が有ります。15、6乃至20世帯が収容出来得ればこと足りると思われます。3ヶ月或は最高6ヶ月位の短期間で、日本語の基礎教育、職業訓練、27年間のマイナスの基礎指導等を終えた後、それぞれの条件にあう地へ居住するという事で交渉を続けて居りますが、いささかの進展も見ず、今日に至って居ります。一度の面接が許されます事を、ひたすら念じ上げ、よろしく御考慮あらん事を、偏に懇願申し上げます。」

というものであるが、ここには敗戦後主権者となった日本国民に対して、敗戦後の政権を担当してきたと言って良い自民党政府が行うべき、戦争責任究明と戦後処理においてその不誠実な姿勢への痛烈な批判と抗議の意志がこもっていた。

 安倍自公政権は、この不誠実な姿勢を強化する思想的体質を有していると言って良い。

(2019年12月15日投稿)

 

 

 

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ハロウィンに見える哲学なきゆえの軽薄さと幼稚さ

2023-10-30 08:40:04 | 日本人

 2018年のハロウィンの様子についてのテレビ報道を見て頭に浮かんだ一句を紹介したい。

 「子ら醒めて 大人騒ぎ立つ ハロウィン

           鹿鳴欧化の 仮装舞踏に似て」

 神聖天皇主権大日本帝国政府にとって、1858年に締結した日米修好通商条約における不平等内容(領事裁判権容認、関税自主権欠如、片務的最恵国待遇)を改正する事は外交上の最大課題であった。井上馨も1879年に外務卿(のち外務大臣)に就任し、法権・税権両面の改正をめざして交渉に臨んだ。彼は神聖大日本帝国を西欧化する事が欧米諸国が日本を対等の国家として見做す早道と考え、「我が帝国を化して欧州的帝国とせよ。わが国人を化して欧州的人民とせよ。欧州的新帝国を東洋の表に造出せよ」と欧化主義を主張した。それが1883年に完成させた鹿鳴館という迎賓館を中心とした接待外交であり、鹿鳴館時代(1883~87年)である。

 鹿鳴館では毎夜のように外国貴賓の接待としてダンス・パーティが催され、皇族・華族・政府高官らが着飾った洋装の夫人・令嬢を伴って出席した。その極め付きが1887年4月20日の首相官邸で催された仮装舞踏会であった。そこでは、北白川宮はイスパニアの士官に扮し、伊藤博文首相夫人はその妻となり、伊藤はヴェニスの貴族となり、三条実美内大臣の娘はヨーロッパの花売り娘となり、山県有朋内務大臣はかつての長州藩奇兵隊長の服装をし、渡辺浩甚東京帝国大学総長は僧西行の姿となった。ヨーロッパ各国の外交官たちは抱腹絶倒した。また、1882年に来日したフランス画家ビゴーは1887年5月の「トバエ」6号「社交界に出入りする紳士淑女」で「洋装をしているが鏡に映る顔は猿(猿まねの意)」と欧化風俗を風刺した。

 話を戻すが、井上のこのような条約改正をめざす姿勢は、国民の不評を買い大臣辞任に導き、鹿鳴館時代は終わるのである。

 そして、神聖天皇主権大日本帝国は、反鹿鳴館、反井上馨、反欧米の風潮の高まりのなかで、排外主義が進行し、ナショナリズムが吹き荒れる事となるのである。

※ハロウィンについては、幕末に伊勢神宮(天照大神)の神符(お守り札)が降ったとして起こった「ええじゃないか」の集団騒乱に似ているとする人もいる。それは幕末の、大政奉還から王政復古の大号令に至る間(1867年7月~12月)に行われた民衆による世直し(社会変革)を求める騒乱状態をさし、倒幕派のトップである岩倉具視らが目的達成するためにこの混乱を企てたといわれている。8月中旬『皇太神宮』のお札が空から降ってきたとのうわさが、名古屋方面に流れた事にはじまり、東海・近畿・四国などの各地に及んだ(京坂地方が最も盛ん)ようであるが、「岩倉公実記」によると、「あたかもこの時にあたり京師に一怪事ある。空中より神符へんへんと飛び降り所々の人家に落つ。その神符の降りたる人家は壇を設けてこれを祭り、酒肴を壇前につらぬ。知ると知らざるとを問わずその人家に至る者の酔飽(飲み放題、食べ放題)に任す。これを祝して吉祥となす。都下の士女は老少の別なく綺羅(美しい着物)を着て男は女装し、女は男装す群を成し隊をなす。ことごとく俚歌(民謡)を唱い太鼓を打ちて以て節奏をなす(調子を取る)。その歌辞(歌詞)は『よいじゃないか、えいじゃないか、くさいものに紙をはれ、破れたらまたはれ、えいじゃないか、えいじゃないか』と云う。……8月下旬に始まりて12月9日王政復古発令の日に至りて止む」とある。

(2018年11月1日投稿)

 

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桐生悠々(『他山の石』発行者)の死に際しての挨拶状

2023-10-26 10:37:56 | アジア・太平洋戦争

 桐生悠々(政次)は、『新愛知』『信濃毎日』などの論説主幹を歴任し、神聖天皇主権大日本帝国政府軍部右翼と闘った。又、個人雑誌『他山の石』を発行し、欧米の新著を紹介し文明批評を行うとともに、反戦平和の主張を死に至るまで続けた人物である。以下に彼の死に際して送った挨拶状を紹介しよう。

「拝啓、残暑凌ぎ難き候に御座候にも拘わらず、益々御健勝奉大賀候。扨、小生「他山の石」を発行以来茲に八個年超民族的超国家的全人類の康福を祈願して筆を執り、孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつつ今日に至候が、最近に及び政府当局は本誌を国家総動員法の邪魔物として取扱い、相成るべくは本誌の廃刊を希望致居候。小生は今回断然之を廃刊する事に決定致候。初刊以来終始変わらぬ御援助を賜り居候御厚情を無にする事は小生の忍び能わざる所に有之候えども、事情已むを得ず御寛恕を願上候。時偶小生の痼症咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能わざるように相成、やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致候故、小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せる事を歓迎致居候も、唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見る事なくして早くもこの世を去る事は如何にも残念至極に御座候。

                              昭和十六年9月 日

                                  他山の石発行者 桐生政次 」

(2023年10月26日投稿)

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正木ひろし『近きより』の神聖天皇主権大日本帝国政府の全体主義否定

2023-10-25 18:06:25 | アジア・太平洋戦争

 正木ひろし1937年4月に創刊した個人雑誌が『近きより』である。アジア太平洋戦争下にあって、神聖天皇主権大日本帝国政府が強調する「全体」に対して「個」「個人」の人権にこだわり、「私人」の立場から政府の「欺瞞」を問い続けた。創刊から90年近くを経た今日の主権者国民にとっても教訓となる内容である。以下に抜粋して紹介しよう。

「日本が神国だというのは、日本の一人一人が神の子であるという自覚を基として初めて理解し得る。人民を扱う事に対する如く、人民同士もまたに対する如き敬虔な気持ちがあって初めて神の国なのである。」

「国民が笑いもせず、怒りもせず、沈黙している状態は恐るべき状態である。国民が遠慮しているのだ。遠慮は自国を自国と感じない心理から生ずるのだ。自分達と違う人種に支配されているように錯覚しているのだ。」

小の虫を見殺しにする事に平気な国民である。自分達が小の虫である事も忘れて」

(2023年10月25日投稿)

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天皇のフィリピン訪問「おことば」;真の日比友好は「傲慢と欺瞞」の自省から始まる。

2023-10-25 08:24:02 | 皇室

 天皇は、2016年1月27日のフィリピンでの晩餐会にあたり、「お言葉」を述べた。これに触れて、思い浮かぶ事を書いてみたい。

 天皇は、「この度の私どもの訪問が、両国民の相互理解と友好の絆を一層強める事に資する事を深く願い……」と最後を結んでいる。ここには、国民各自がそれぞれの意思でフィリピン人と友好関係を築いている事に対して、天皇は自分の行動や言葉が影響を与えるものだと考えている事をうかがわせるが、この発想は「上から目線」で、敗戦前の神聖天皇主権大日本帝国政府時代のように、国民を低く見ている事を表しているものである。実際に友好関係を築く場合、天皇の行動や言葉はまったく関係がないと言ってよい。友好関係はそのような事を主たる要素として築けているわけではなく、個人と個人の人格が主たる要素となっている事は明らかである。時代錯誤も甚だしいし物事をよく理解していないし恩着せがましい発想であると言ってよいものである。また、天皇の行動や言葉を主たる要素とすれば友好関係が築けない場合が出てきたり壊れる場合もあるのである。つまり、天皇の「お言葉」は手前勝手で無味乾燥で薄っぺらで内容がなく「大きなお世話」であるという事なのである。

 国民のための訪問という体裁をとらず、現在天皇としてある自身が今回改めて友好関係を築きたいという体裁をとって、日比両国間の歴史に対する認識や立場を表明する事を通してその意志を伝えればよいのである。その内容がどのような評価を受けるかは別にして。その評価から天皇は学ぶべきは学んで行く事が大切なのである。

 フィリピンでは「独立運動の父」とされている「ホセ・リサール」の記念碑を訪れ、「武力でなく、文筆により独立への機運を盛り上げた人であった。若き日に彼は日本に一カ月半滞在し、日本への理解を培い、来る将来、両国が様々な交流や関係を持つであろうと書き残している。リサールは国民的英雄であるとともに、日比両国の友好関係の先駆けとなった人物でもあった」と述べている。独立運動は大雑把に言えば、「ホセ・リサール」がスペインによって1896年12月30日に「処刑」された後もアジア・太平洋戦争で日本が敗戦するまで続き、1946年7月4日に「フィリピン第3共和国」として米国から独立したのであるが、この人物だけしか触れず、他の人物や独立までの経過には一切触れていない。これは意図的になされた情報操作であり、国民に対する世論操作を狙ったものである。ここには天皇(安倍晋三日本政府)の考え方が表れていると言ってよい。また、米国政府の要請もあったと考えられる。なぜなら、その後、フィリピン独立運動を裏切った「米国」と侵略してきた「日本」が前後して植民地支配をし、フィリピンの独立運動に介入したからである。日本国民の前に改めてその事実がさらされる事により、戦前の米国や日本そして天皇についての真実の姿を知らせない知られたくない思惑があったのである。知らない事をあえて国民に知らせる事は彼らにとって都合が悪いという考えである。国民に対してひじょうに欺瞞的な態度であり姑息な考え方であり、国民を馬鹿にしているのである。

  1898年4月に米西戦争が勃発した。米国は戦争を有利にするために独立に全面協力する事を条件に、アギナルド」に米西戦争に協力する事を求めた。1898年6月12日に初代大統領として「独立宣言」を発した。1899年1月23日、憲法を公布し、「フィリピン第1共和国」を樹立した。ところが、1898年12月10日に米西戦争の「パリ講和条約」が締結され、米国がフィリピンの領有権を2000万ドルで獲得すると、マッキンリー大統領は「独立を拒否」し約束を反故にした。そのため「米比戦争」(1899年2月~1902年7月)となったが米国は鎮圧し米国の植民地とした。その間に殺害されたルソン島民は61万人以上で6分の1に当たる。

 1901年7月、米軍政から民政移管。07年、「フィリピン組織法」により、陸軍長官「タフト」により植民地化を進めた。その間、「桂太郎」日本政府は、米英両国と関わりを持ち、

 1905年7月、「桂・タフト協定」締結。内容は、①日本は、米国の植民地となっていたフィリピンに対して野心の無い事を表明。②極東の平和は、日本、米国、英国3国による事実上の同盟により守られる。③米国は、日本の朝鮮における指導的地位を認める

 1916年、「ジョーンズ法(フィリピン自治法)」を可決し、将来の独立が宣言された。

 1934年、フランクリン・ルーズベルト大統領の下で、「タイディングス・マクダフィー法(フィリピン独立法)」可決により、10年後(1944年)の独立を承認した。

 1935年9月、ケソン大統領の米自治領政府(独立準備政府)フィリピン・コモンウェルスが成立した。

 1938年2月、ケソン大統領は日本に対して「フィリピンの中立化」を布告した。

 フィリピンは米国から「独立」の確約を手に入れたのである。

 ところが、ここでハプニングが起こった。1941年12月8日に日本が米英に「宣戦布告」をし太平洋戦争を引き起こしたのである。1942年1月2日には日本軍はフィリピン・マニラを占領した。米軍は撤退し、ケソン大統領のコモンウェルスも米国へ亡命した。

日本軍政の実態について

一、1942年1月13日、日本軍は「死刑及び重刑」にあたる17の行為を発表した。①日本軍に対して反抗する者、②日本軍の重要秘密を流すもの、③スパイ行為をする者、④日本軍が使用している家・自動車等を破壊する者、⑤橋・道路・電信電話の装置を壊す者、⑥日本軍の命令に従わない者、⑦飲み水を毒又はその他の方法で汚す者、などである。

二、日本軍の残忍性。強姦された女性が逆立ちにさせられ、性器を銃剣で突き刺されて殺されたり、家族のいる前で犯される事もあった。日本軍にお辞儀をしなかったという理由で殺された。

三、1942年8月、「隣組」を設立。スパイ防止、抗日ゲリラ防止が本来の目的であったが、表向きは「平和と秩序を保ち、人々の生活を安定させる」事が目的とされた。

四、「ロロ」(スパイ・反日ゲリラに対する見せしめ)行為。それは「日本軍が村人を広場に集め(理由は知らせない)、顔や姿がわからないように(眼の部分だけを開けた)大きな袋をかぶせられた一人の男を連れてくる。その男は何人かの村人を指さす。指さされた村人は何日か後にいなくなった。殺されたのである。証拠もなく。

五、1942年2月17日、陸軍司令官が「教育に関する6項目」を発布。①大東亜共栄圏の一員としてのフィリピンの立場、「新秩序」建設の真の意味を理解させ日比友好関係を発展させる事、②米国、英国へ依存するという古い考えを一掃し、「新フィリピン文化」を育成する事、③民衆の道義を高め、物質主義を止める事、④日本語の普及につとめ英語使用をやめる事、⑤初等教育を重視し、職業教育を発展させる事、⑥労働を愛する精神を起こさせる事。そして、「君が代」を教えた

六、1942年2月26日、「教科書検定委員会」が作られ、「教育に関する6項目」に当てはまると思われる部分は「削除」した。例えば、「フィリピン、アメリカの旗」「フィリピンのコモンウェルス政府」「ワシントンの誕生日」「アメリカの通貨、度量衡」など。公立小学校では正しい英語ⅢⅣ」「必須英語5年、6年」「フィリピンの歴史」などの教科書の使用禁止

七、1942年9月1日、15週間の「先生訓練コース」を作ったが、その内容は「6項目に関する教育について」「体育」「フィリピンと日本の歌」「日本語」「日本歴史」などであった。

八、1942年11月、「日本語専門学校」を開設。このような日本軍の開校した「学校カリキュラム」には必ず「ラジオ体操」を入れた。その意図は、参加する事により「責任と協同の精神を養う」事であった。

このような日本軍政下で、「食糧不足」に見舞われ、「失業者が増大」した。このような状況が、「反日抗日ゲリラ」を生んだ。

  

 1943年10月14日には、日本は、「大東亜共栄圏」への参加と対米戦争への参戦を条件に、「ラウレル」を大統領として日本の傀儡である「フィリピン第2共和国」を成立させた。しかし、日本の思うような支配ができないだけでなく、「抗日ゲリラ」活動が益々盛んとになった。

 1944年10月20日には米軍が「コモンウェルス」とともにレイテ島に上陸し、45年2月から1か月間の「マニラ市街戦」をへて米軍は日本軍を制圧した。

マニラ市街戦(1945年2月3日~3月3日)などについて、天皇は「貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、この事により貴国の多くの人が命を失い、傷ついた。この事は、私ども日本人が決して忘れてはならない事であり、私どもはこの事を深く心に置き……」と述べているが、市街戦となった原因は「日本大本営」がフィリピン日本軍に「市街戦を命令」した事にあり、日本の最高戦争指導者の意識にこそ重大な問題があったのであり責任を問われるべきものであった事を国民は知っておかなければならない。国民の16人に1人、111万人が死亡したフィリピンでは毎年2月14日に追悼式が行われている。

 そして、「私ども日本人が決して忘れてはならない事」と「国民全員」を意味する表現で述べているが、これこそ国民は「不快感」を明確に表明すべきであると思う。なぜなら、加害者であり許しを請わなければならない戦争加害最高責任者(その子孫であればそれを継承する事は当然である)である「天皇」が、相手国に対して「加害者」(それは加害行為を強要される被害者といえる)となる事を「強制」した、又「加害行為」を「強制」(それに反対した国民を「非国民」として扱い「治安維持法」によって「刑罰を科し、今日なお名誉回復をも認めていない)した「国民」に対して、口にできるはずがない「傲慢さ」を表す「言葉」であるからである。このような「言葉」からは、「天皇」は「国民」に対して「罪の意識」「謝罪の意識」はまったく感じられないし、「加害」の責任を「国民」に負わせようとする意識さえ感じられる。これは敗戦直後の東久邇宮内閣が発した「一億総ざんげ」論の考え方につながるものであり同根のものと考えてよい。なんと、日本政府は間違いなく敗戦前の「神聖天皇主権大日本帝国政府」へ回帰している。なんと恐ろしい時代日本になってきた事であろう。なんと恐ろしい「天皇・安倍政権」であろう。彼らの常識は世界の非常識である。彼らは民主主義を大切に思う国民と同じ「土俵」には立っていない。彼らはその事にうろめたさも感じていない。国民が「欺瞞」と判断しても彼らは自分たちが正しいと信じているのであり、一つの宗教信仰の域に入っている。それは天皇教(国家神道)である。安倍晋三が天皇家と親戚関係にある事からも納得できる。説得して彼らが翻意するというようなものではない世界に住んでいるのである。国民はそのような政権の持続を許しておくならば「人権尊重を基にした幸せ」を守る事はできない。

 メディア、故意に以上の内容に触れない事も主権者国民は忘れてはならない。メディアは企業であり、経営上利益を損なう事はあえてしないという事も忘れてはならない。国民は思考停止に陥らず、常に科学的な思考を保ち、絶え間ない努力によって真実を知る事が大切である。

 メディアは、昨年11月、「加納莞蕾美術館」の名誉館長をしている加納莞蕾の娘佳世子氏が、昨年11月にフィリピン元大統領キリノ氏の孫娘ルビー氏と面会したと報じていた。今回、天皇はフィリピン訪問に際して、ルビー氏と面会したようである。何かを知る何かに関わるという事はその事に対して自己の責任が生じると考えるのが常識である。加納莞蕾は自分の言葉に基づいてどのように責任を果たしたのだろうか。佳世子氏は父親の言葉に対してどのように責任を果たしてきたであろうか。今日の安倍政権下の日本に対してどのように責任を果たしているのであろうか。その責任が果たせていなければ、莞蕾氏の言葉は「欺瞞」でしかなかったという事になり、佳世子氏もメディアに出てきた事は「欺瞞」の上塗りであり、メディアは加納氏やその娘佳世子氏を美談に仕立て上げたという「欺瞞」を行った事になる。天皇も今後どのようにその責任を果たすのかという事が問われる事になったのであり、それから逃れる事は出来なくなったのである。そうでなければ、キリノ氏ルビー氏フィリピンの人々は日本の政府やメディアなど国家挙げての「詐欺」にひっかかった事になり、改めて恨みを持つ事になるだろう。

加納莞蕾の言葉「許されざる者を許す事が日本人が過去を反省し、懺悔し、軍国主義を拒否する事になる」と訴え、BC級戦犯の助命減刑嘆願書をキリノ氏に送った。

※フィリピン国民の反対を押し切って助命減刑を決断したキリノ氏の日比両国民への声明「私は日本人戦犯に対し、特赦(議会の承認を必要とする「大赦」でなく、大統領権限で行える「特赦」にした)を与えた。妻と3人の子ども(2歳の娘は銃剣でとどめを刺された)、さらに5人の親族を殺された者として、自分の子孫や国民たちに、われわれの友となり、我が国に長く恩恵をもたらすであろう日本人に対し、憎悪の念を残さないために。結局のところ、日本とフィリピンは隣国となる運命なのだ」(1953年7月6日)。 

 これまでの日本政府又現在の安倍政府は、被害者の心を察する気持ちが極めて薄い。それは自分たちは正しいという「傲慢さ」にある。それを押し通すために「欺瞞的な手法」がとられる。それは対外国に対しても、日本の国民に対しても一貫している。そのために政府間の友好関係が築けないし、国民の権利を尊重しないという姿勢をとる。その根底にはアジア・太平洋戦争に関わる一切の事柄について、「自衛のための戦争」「アジアの解放のための戦争」「仕掛けられた戦争」であったとする認識を疑わず固執しているからである。彼らは天皇家と一体化しており、天皇家とともにあるから、自らの地位と名誉と財産を守るためにも、天皇家に戦争責任が及ばないようにしなければならず、「天皇制」を守り続けなければならない宿命にあるのである。

最後に、今回の天皇のフィリピン訪問は、安倍政権がすすめる「集団安全保障体制の整備」政策の一環として実施されたのである。

 1945年、日本の敗戦により、翌年の「米比マニラ条約」で、「フィリピン・コモンウェルス」の組織を引き継ぎ、1934年の独立の約束により「フィリピン第3共和国」(1946年7月4日)が成立し独立を達成した。

(2016年1月29日投稿)

追記助命減刑嘆願署名運動日本人戦犯家族が全国的に繰り広げ、新聞やメディアも取り上げ、日比親善人形使節が7万体の人形をキリノ大統領に贈届した。それに対し、キリノ大統領は「死刑執行は慎重に検討するが、一括減刑は考えていない。一括減刑は侵略行為を大目に見る事に等しい」と方針を発表した。しかしその後、大統領は、フィリピン国民の中に敵を作る事になったが、「日本は大きな可能性を秘めている。わが国はまだ成長の途中にある。2つの国は地理的に近く、切り離せるものではない。協力し合う事で我が国の力になるだろう。いつの日かまた親友に戻れる日がくるだろう」と考え、1953年6月27日大統領は「議会の承認を必要とする大赦でなく、大統領権限で行える特赦を与える事にした。終身・有期刑戦犯全員釈放死刑囚は終身刑に減刑のうえ日本に送還し、日本の刑務所で服役させる」と決断した。そして、同年7月6日に日比両国民に上記のような声明を発表した。

同年7月22日、108人の戦犯は全員帰国(横浜港)した。うち死刑囚56人は「巣鴨プリズン」へ移送された。

これに対しキリノ大統領は国民から「軽率な釈放で戦犯を無意味に帰国させた」と非難された。そして、同年11月10日の大統領選挙では対決候補であるマグサイサイに大敗した。しかし、キリノ大統領は任期切れ2日前の同年12月28日に日本で服役中の元死刑囚全員にさらに「恩赦令」を出した。同年12月30日、戦犯元死刑囚は全員釈放された。1956年2月29日、キリノ元大統領は65歳で死去した。

(2023年8月13日投稿)

 

 

 

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