「西郷隆盛による西南戦争を山県有朋はどう見ていたか:目的不明、作戦計画不明」 goo.gl/gEZr5F
— takechan (@take1take26) 2018年2月26日 - 13:21
西郷がなぜ西南戦争を引き起こしたのかを山県有朋はどのように受けとめていたのか。山県は当時、陸軍中将(賊徒にされるまで西郷が大将)で、征討軍の参謀。山県が西郷に送った手紙には、「誰も西郷を排除していない。政府が悪いというのであれば、何故天皇に話そうとしないのか。何故無意味な同胞の殺し合いをするのか」という意味の言葉が見られ、理解できない様子がうかがえる。以下は徳富猪一郎編述『公爵山県有朋伝』中巻の一部。
「……説者曰く、天下不良の徒は密に西郷が山林に韜晦(姿をくらます)せしを奇貨(チャンス)とし、功名を万一に僥倖(思いがけない幸せ)するの念を抱き、その時勢に阻隔する(疎くなっている)の機に乗じ、百方其辞(言葉)を巧みにして朝廷の政務を讒誣(事実でない事を言い立てそしる)し、人心離散して黎民(庶民)その生をたのしませざる(安心させない)が如き妄説を虚構し、西郷出でずんば蒼生(人民)を奈何せん、西郷にして義兵を鹿児島に挙げ、人民の塗炭に座する(地獄のような苦境に置かれている)を救わんと欲せば、天下皆靡然之に応ずべし(みんななびいて西郷の挙兵に呼応すべき)と慫慂せし(そそのかす)もの蓋し一にして(極端に)足らざる(値打ちのない事)也。西郷の卓識を以てその虚構たり讒誣たるを洞察するに難しからずと云えども、奈何せんや浸潤(虚構や筋違いの中傷が、人の心や頭にいつの間にか染み込んでいく)の致す所は衆口(世論)を以て金をとろかし、遂に西郷をして今日あるに至らしめたりと。聴者皆之を然とす。而して有朋独り之を然りとせず。蓋し君にしてこの志あらば単騎にして輦下(天子のおひざ元)に来り、従容(落ち着いて)利害(道理)の在る所を上言するに何の妨げあらんや(道理のある事を天子に話せば良い)。君も亦固より之を知らざるに非ざるべし……」
(2018年2月26日投稿)
「西南戦争田原坂の戦い以降に見る西郷軍、「玉砕」の生みの親、太平洋戦争での日本軍の戦闘とまったく同じ」為政者指導者が愚かであるか否かを見抜けない国民は自らの安心と安全は奪われ守る事はできない。 goo.gl/Yzr6NY
— takechan (@take1take26) 2018年2月25日 - 19:07
「NHK大河ドラマ西郷隆盛の狙いは何:明治天皇政府は西郷隆盛の名誉を回復し懐柔して国民意識の統合に利用した」 goo.gl/d9Xpwb
— takechan (@take1take26) 2018年2月23日 - 21:47
2018年初めから、NHK大河ドラマでは「西郷隆盛」を扱っている。安倍政権下の今、なぜ「西郷」を取り上げる事にしたのか、その狙いを考えて見る事はわれわれ国民にとって政治的な思考力判断力を高めるうえで大きな役に立つだろう。それは、明治天皇政府は、西南戦争以降、西郷隆盛をその戦争を引き起こした張本人としての罪を問い、逆賊として扱っていたが、ある時点で彼の名誉回復を図った。その対応と同様の効果を狙っているのではないかと思われるのである。つまり、国民を懐柔し、政府に対する意識を統合する事を目的としているのではないだろうか。
明治天皇政府(大日本帝国)では、成立(建国)当初より政府に対する不満を背景として様々な事件が引き起こされ、政情は極めて不安定な状態が続き、いつ崩壊するかもしれないため、政府はその維持のために様々な弾圧と懐柔を行ってその危機を乗り越えていった。そして、1877(明治10)年2~9月の政府を2分するような西南戦争を引き起こした西郷隆盛に対しても弾圧は周知の事実であるが懐柔も行われたのである。それは西郷隆盛の名誉回復であった。それは勝海舟の力により実現された。山岡鉄太郎に宛てた勝海舟の書簡によると、以下のような事がわかる。
1884年は、城山で自害したと言われる西郷隆盛の7回忌であった。その11月に吉井友実、元田永孚、伊地知正治、税所篤らが逆賊とされていた西郷隆盛の名誉回復が何とかならないかと勝海舟のもとへ相談に行った。そして、「西郷従道は実弟であって言い出す立場ではないし、大山巌は西郷の子分であったから、これも言い出しにくかろう、困っている」と話すと、海舟も実は自分もその事を考えていたと言う。吉井らが「今度は見送って、立太子の時にでも恩赦を願おうか」とも言うと、海舟は「それではいかぬ。この機会を外してはならぬ。とにかく任せなさい」と話した。その後、海舟は侍従だった山岡鉄舟に話し、山岡から有栖川宮威親王に頼んで明治天皇に奏上してもらったら、明治天皇も西郷の事は気になっていたようで、西郷の子どもにお手許金で洋行させよと命じた。それで、長男の西郷寅太郎を召して、ドイツ留学させ陸軍軍人の修行をさせる事にした。この事が公表され、西郷隆盛の名誉回復のみならずその一族も、さらに西南戦争により賊軍扱いを受けた人々やその遺族も、みな晴天を仰ぐ思いをし、西南戦争での明治天皇政府に対する怨恨は消え、和らげられる事になった。
ついでながら、1898(明治31)年3月2日には、西郷隆盛の時と同じく、勝海舟の尽力による有栖川宮威親王の斡旋により、当時一私人の徳川慶喜が幕末以来初めて皇居を訪れ、明治天皇・皇后に会った。皇后は自らお酌をしたという。贈り物には銀製花瓶一対、三組銀杯一組、紅白縮緬各一疋を与えたという。この事により、維新の際、逆賊と言われた慶喜は名誉回復を認められ、皇室と徳川将軍家との和解が成立し、同時に旧徳川家臣団の抱いていた明治天皇政府に対する怨恨の解消にもなり、明治天皇政府の求める国民意識の統合に大きな効果を生んだ。明治天皇政府は慶喜に対し、1902(明治35)年には公爵を授け、前将軍並みの待遇を与えた。
(2018年2月23日投稿)