つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

重陽記事「朝日新聞 ことばの広場」:煩瑣な知識より、天皇制がいかに処したか伝える事こそ必要

2024-12-10 07:58:38 | 皇室

 日本のパスポートの表紙には、国花である「桜花」でなく、「菊の紋」(天皇家の紋章に過ぎない)が描かれているが、この事がなぜ問題にならないのか以前から頭を傾げてきたが、その「菊花」に関連した事として、2016年9月7日の朝日新聞に「重陽」についての記事が載った。

 その記事内容が、訓詁学的でひじょうに煩瑣な知識の羅列に終始しているだけで、単なる「物知り」の知識欲求は満足させるであろうが、それ以外の意味はない内容であった事、また、五節句が日本の庶民国民が継承してきた伝統的な文化となっていたものであるにもかかわらず、その源流や神聖天皇主権大日本帝国政府という天皇制絶対主義政府が無価値なものと規定し否定したという非常に重要な歴史的事実に触れていない事や、見出しに大きく「菊の節句 めでたさ極まる」と書いている言葉の裏に、国民に対し天皇家天皇制への関心や認識を高めさせる洗脳の意図を感じさせる事と、このような体裁の記事が購読料をとる記事内容としてこれ以後まかり通る事は不愉快なので一言申しておきたい。

 まず、記事は五節句の源流について触れるべきであるにもかかわらず、一言も触れていないのは、極めて悪質な意図を感じさせる。源流はもちろん中国にある。五節句は日本の年中行事の中に含まれるものであるが、日本の年中行事の源流は中国文化にある事はいうまでもなく、平安時代にその形式を整えたと考えられている。その事に触れないという行為は歴史を書き換える効果を生む行為と考えられる。

 他に悪質と思われるのは、最近、天皇が「生前譲位」の希望を発表したが、その関係でメディアが天皇家天皇制についての関心を高めようとする意図が感じられる事である。

 さらに、もっと悪質と思われるのは、重陽に限らず、それを含む「五節句」は本来、特に江戸時代においては庶民の伝統的文化となっていたものであり祝祭日であった。しかし、神聖天皇主権大日本帝国政府は、天皇制国家を確立するため、それまでの庶民の伝統的文化祝祭日を否定し、庶民を、天皇制を支える天皇崇拝思想洗脳するために、祝祭日を天皇制を中心としたものに変えてしまったのである。この重要な歴史的事実に触れなくてこの記事に何の意味が価値があるといえるだろうか。しかし、これも、意図的に歴史事実を国民に伝えず消し去り書き換える効果を生む行為と考えてよいであろう。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、1870(明治3)年4月に太政官布告第57号で、祝日を9日と定めた。それは、正月朔日、正月15日(小正月)、3月3日、5月5日、7月7日、7月15日(お盆)、8月朔日、9月9日、9月22日、である。それまでと比べ目新しいものは9月22日(のちに11月3日)の天長節である。

 1873(明治6)年1月4日には、太政官布告第1号で、祝祭日の大改革を実施し、従来の五節句を廃止して、天長節神武天皇即位日の2日を祝日と定めた。

 1873(明治6)年10月14日には、太政官布告第344号で、新たに元始祭新年宴会先帝(孝明天皇)祭などを加え、年間8日の祝祭日を定めた。それは、

元始祭1月3日、新年宴会1月5日、孝明天皇祭1月30日、紀元節2月11日、神武天皇祭4月3日、神嘗祭10月17日、天長節11月3日、新嘗祭11月23日

 1878(明治11)年に、春季皇霊祭秋季皇霊祭を加えた。

 1926(昭和2)年3月3日には、勅令第25号で、明治節11月3日を制定し祝祭日を次の11日とした。

元始祭新年宴会紀元節春季皇霊祭神武天皇祭天長節4月29日、秋季皇霊祭神嘗祭明治節新嘗祭大正天皇祭12月25日、

 神聖天皇主権大日本帝国政府はその確立のために、それまでの庶民の伝統的文化である五節句などの祝祭日を否定排除し、それに代えて天皇家天皇制思想洗脳する祝祭日を定めていったのである。その際も、五節句はいわれもない迷信であるとされ、天長節・紀元節合理的な祝日とされたのである。

 それに対して庶民は反発した。小川為治『開花問答』から一部紹介しよう。

「……改暦(1872(明治5)年12月3日⇒73(明治6)年1月1日)以来は五節句・盆などという大切なる物日を廃し、天長節・紀元節などというわけもわからぬ日を祝う事でござる。4月8日はお釈迦さまの誕生日、盆の16日は地獄の釜のふたの明く日というは、犬打つ童も知っております。紀元節天長節の由来は、この旧平のごとき牛鍋を食う老爺というとも知りません。かかる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府よりしいて赤丸を売る看板のごとき幟(日の丸)や提灯を出さするのは、なお聞こえぬ理屈でござる。元来祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日をしいて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます」

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、祝祭日を含む他の様々な大改革により、天皇を唯一最高の権力者・神的権威(天皇教、国家神道)としていただき、中央集権の官僚制と、国民による常備兵制とをもって、全日本を統一的に支配する新しい国家のしくみである近代天皇制を確立したのである。

(2016年9月11日投稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国連女子差別撤廃委の皇室典範見直し要求、安倍自公政権抗議で削除の問題

2024-12-09 09:00:41 | 皇室

 「天皇家」を特別扱いする安倍政権ワールドは国民の命と生活の安全、幸福追求を阻む。

 2016年3月9日の新聞に「皇室典範見直し要求 国連委の当初案政府抗議で削除」の見出しが載った。国連女子差別撤廃委員会が3月7日に発表した日本に対する勧告を含む「最終見解の案」に、皇位を継げるのは男系男子のみとして女性天皇を認めない皇室典範を問題視し、見直し(改正)を求める内容の記述があったという。これを知って私は、これまでの勧告などでは「皇室典範」に関する内容はまったく含まれていなかったために、このような勧告もするのだと驚いた。それとともに国連委は委員会の原則に基づいて真摯に仕事をしていると感じた。

 この「最終見解の案」に対して、安倍政権が、「審査で議論されていない内容を最終見解に盛り込むのは、手続き上問題がある」という理由で抗議をした。その結果、委員会は最終的に「皇室典範」に関する記述削除に応じたという。

 国会ではこれも仲間内どうし結託して準備された「演技」と言えるが、皇室制度について国民がもつべき認識について国民に対するマインドコントロールを意図して、政党「日本のこころ」の和田正宗議員がこの真偽を問うたのに対する岸田外相の答弁は「女子に対する差別への言及だったが、我が国の皇室制度や諸外国の王室制度もそれぞれの国の歴史や伝統が背景にあるという事、女子に対する差別目的とは全く別の事柄であると説明した」との事。和田氏は「一国の皇位継承権にまで言及するのは許せない。さらなる対応は」と続けたのに対し、岸田氏は「今後しっかりと説明し、理解を得るべく努力は続けていく」と答弁した。

 菅官房長官も岸田氏と同様に9日の記者会見で「我が国の皇室制度も歴史や伝統が背景にあり、国民の支持を得て今日に至っている。皇位継承のあり方は女子に対する差別を目的としておらず、委員会側が皇室典範について取り上げる事は全く適当ではない」と述べている。

 和田氏と菅氏の説明をどう考えるか。彼らは委員会の勧告の意味を正面から真摯に受け止めようとしていないのである。委員会の考え方とは異なる考え方に固執妄執し委員会の考え方を認める気がないのである。この姿勢は日本政府(最高裁も)が「委員会」を軽視、冒涜しているものでもある。この事はほかの内容(夫婦同姓など)の勧告を見れば一貫している事が分かるはずである。そして、説明になっていない説明?をして委員会の理解を得て削除させたように答弁し述べているが、普遍的な考え方や理念(男女平等、人間平等)を認めようとせず「安倍政権の主張」を押し通しただけであり、委員会側は呆れて日本政府とは「会話が不能」と思った事であろう。

 皇室制度や皇室典範はたかだか120年前に作られたもので、天皇家は政治的に利用され歴史の表面に登場させてもらったのである。それもそれ以前のあり方とは一変(変身)した姿内容で。明治天皇が「ひげ」や「眉毛」を伸ばしておらず「書き眉毛」「化粧」をしていた事は歴史の事実である。また、国民から知られない存在から日本に君臨し徳川に替わって新たに国民を支配する存在である事を知らしめるために「全国巡行」をしたのではなかったのか。そして、初の「皇室典範」とドイツ憲法をアレンジした「大日本帝国憲法」を制定し自らの地位を確固たるものにしたのではなかったのか。その間にはその動きに反対する国民の「自由民権運動」を警察や軍隊という「国家暴力」で殲滅したのではなかったのか。そして、その国家体制(天皇制)を国民から守るために「治安維持法」などの治安立法を制定したのではなかったのか。そして、大日本帝国の存立と膨張を目的として国民を動員して行った数々の「侵略戦争」の最高責任者として存在したのではなかったのか。そして、敗戦時に天皇家を将来再び支配者として復帰できるように、米国との間で存続のための「取引」をしたのではなかったのか。その「取引」により「沖縄の島と島民」を「米国米軍の基地」として売ったのではなかったのか。それが皇室制度の真実の「歴史」と「伝統」ではないのか。

 皇室を国民とは異なる世界に住む国民より上位に立つ存在と見なしてはいけない。憲法第1条「天皇の地位・国民主権」で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあるように、天皇家を存続させるか否かは「国民」の意志により決定する事なのである。和田氏や菅氏の発言はそれを故意に無視し国民とって「神聖不可侵」な存在であり「そうあるべき」と、結託して演技でアピールしたのである。日本国憲法の第99条「憲法尊重擁護の義務」を認めない立場(確信犯)を取っているのである。

◎新皇室典範に見る天皇家の差別的体質

 天皇家は人権侵害(差別)の総元締め以外の何物でもない。皇室典範第1条「皇位継承の資格」では「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と明記されており、日本国憲法の「男女平等の原則」を適用していない憲法違反であるし、今日のグローバルな価値観に反している。この事に安倍政権は真摯に「国民」に対して答えよ。そして、天皇家についてのあらゆる課題は主権者である「国民」に対してオープンで行うべきである。国連の勧告についても「国民」が考えるべき事であり、「国民」に提示すべき事であると受け止めるべきであり、国民の考え意思を尊重する手立てをして当然ではないか。なぜしないのか。したくないのですね。

第3条「継承順序の変更」では、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、……皇室会議の議により、前条に定める順序に従って、皇位継承の順序を変えることができる」とあり、身体障害を持つ場合には、皇位継承から除く事ができるとしている。身体障害者に対する人権侵害差別であり、憲法違反である。国民の象徴が差別を容認しているのである。

第22条「成年」では「天皇、皇太子及び皇太孫の成年は、18年とする」とあるが、国民の成人年齢は未だに20歳であるのはどういうことなのか。天皇家は日本国民ではないのか、別格の別世界の人間として扱っている事を意味しているのではないのか。世界のほとんどの国では18歳としているにもかかわらずである。

第26条「陵墓」では「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を陵、その他の皇族を葬る所を墓とする」とあるが、墓所の呼び名を変えて差別化しているが、今日その必要はまったくないと考える。憲法違反である。外国ではありえない。特別扱いをするべきではない。

以上のような日本国憲法の原則に違反(憲法違反)した、人権を認めない内容が定められている事は問題である。このような規則法律で天皇家を存在させておく事は主権者である国民として責任を感じるべき問題である。天皇家には皇室典範には国連委が勧告として指摘した以外にたくさんの問題を有しており、国民的課題として取り組むべきであり、少なくとも改善すべきであり、天皇制自体の「廃止」も考えなければならない。

(2016年3月26日投稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天皇のフィリピン訪問「おことば」;真の日比友好は「傲慢と欺瞞」の自省から始まる。

2024-11-29 21:49:01 | 皇室

 天皇は、2016年1月27日のフィリピンでの晩餐会にあたり、「お言葉」を述べた。これに触れて、思い浮かぶ事を書いてみたい。

 天皇は、「この度の私どもの訪問が、両国民の相互理解と友好の絆を一層強める事に資する事を深く願い……」と最後を結んでいる。ここには、国民各自がそれぞれの意思でフィリピン人と友好関係を築いている事に対して、天皇は自分の行動や言葉が影響を与えるものだと考えている事をうかがわせるが、この発想は「上から目線」で、敗戦前の神聖天皇主権大日本帝国政府時代のように、国民を低く見ている事を表しているものである。実際に友好関係を築く場合、天皇の行動や言葉はまったく関係がないと言ってよい。友好関係はそのような事を主たる要素として築けているわけではなく、個人と個人の人格が主たる要素となっている事は明らかである。時代錯誤も甚だしいし物事をよく理解していないし恩着せがましい発想であると言ってよいものである。また、天皇の行動や言葉を主たる要素とすれば友好関係が築けない場合が出てきたり壊れる場合もあるのである。つまり、天皇の「お言葉」は手前勝手で無味乾燥で薄っぺらで内容がなく「大きなお世話」であるという事なのである。

 国民のための訪問という体裁をとらず、現在天皇としてある自身が今回改めて友好関係を築きたいという体裁をとって、日比両国間の歴史に対する認識や立場を表明する事を通してその意志を伝えればよいのである。その内容がどのような評価を受けるかは別にして。その評価から天皇は学ぶべきは学んで行く事が大切なのである。

 フィリピンでは「独立運動の父」とされている「ホセ・リサール」の記念碑を訪れ、「武力でなく、文筆により独立への機運を盛り上げた人であった。若き日に彼は日本に一カ月半滞在し、日本への理解を培い、来る将来、両国が様々な交流や関係を持つであろうと書き残している。リサールは国民的英雄であるとともに、日比両国の友好関係の先駆けとなった人物でもあった」と述べている。独立運動は大雑把に言えば、「ホセ・リサール」がスペインによって1896年12月30日に「処刑」された後もアジア・太平洋戦争で日本が敗戦するまで続き、1946年7月4日に「フィリピン第3共和国」として米国から独立したのであるが、この人物だけしか触れず、他の人物や独立までの経過には一切触れていない。これは意図的になされた情報操作であり、国民に対する世論操作を狙ったものである。ここには天皇(安倍晋三日本政府)の考え方が表れていると言ってよい。また、米国政府の要請もあったと考えられる。なぜなら、その後、フィリピン独立運動を裏切った「米国」と侵略してきた「日本」が前後して植民地支配をし、フィリピンの独立運動に介入したからである。日本国民の前に改めてその事実がさらされる事により、戦前の米国や日本そして天皇についての真実の姿を知らせない知られたくない思惑があったのである。知らない事をあえて国民に知らせる事は彼らにとって都合が悪いという考えである。国民に対してひじょうに欺瞞的な態度であり姑息な考え方であり、国民を馬鹿にしているのである。

  1898年4月に米西戦争が勃発した。米国は戦争を有利にするために独立に全面協力する事を条件に、「アギナルド」に米西戦争に協力する事を求めた。1898年6月12日に初代大統領として「独立宣言」を発した。1899年1月23日、憲法を公布し、「フィリピン第1共和国」を樹立した。ところが、1898年12月10日に米西戦争の「パリ講和条約」が締結され、米国がフィリピンの領有権を2000万ドルで獲得すると、マッキンリー大統領は「独立を拒否」し約束を反故にした。そのため「米比戦争」(1899年2月~1902年7月)となったが米国は鎮圧し米国の植民地とした。その間に殺害されたルソン島民は61万人以上で6分の1に当たる。

 1901年7月、米軍政から民政移管。07年、「フィリピン組織法」により、陸軍長官「タフト」により植民地化を進めた。その間、「桂太郎」日本政府は、米英両国と関わりを持ち、

 1905年7月、「桂・タフト協定」締結。内容は、①日本は、米国の植民地となっていたフィリピンに対して野心の無い事を表明。②極東の平和は、日本、米国、英国3国による事実上の同盟により守られる。③米国は、日本の朝鮮における指導的地位を認める

 1916年、「ジョーンズ法(フィリピン自治法)」を可決し、将来の独立が宣言された。

 1934年、フランクリン・ルーズベルト大統領の下で、「タイディングス・マクダフィー法(フィリピン独立法)」可決により、10年後(1944年)の独立を承認した。

 1935年9月、ケソン大統領の米自治領政府(独立準備政府)フィリピン・コモンウェルスが成立した。

 1938年2月、ケソン大統領は日本に対して「フィリピンの中立化」を布告した。

 フィリピンは米国から「独立」の確約を手に入れたのである。

 ところが、ここでハプニングが起こった。1941年12月8日に日本が米英に「宣戦布告」をし太平洋戦争を引き起こしたのである。1942年1月2日には日本軍はフィリピン・マニラを占領した。米軍は撤退し、ケソン大統領のコモンウェルスも米国へ亡命した。

日本軍政の実態について

一、1942年1月13日、日本軍は「死刑及び重刑」にあたる17の行為を発表した。①日本軍に対して反抗する者、②日本軍の重要秘密を流すもの、③スパイ行為をする者、④日本軍が使用している家・自動車等を破壊する者、⑤橋・道路・電信電話の装置を壊す者、⑥日本軍の命令に従わない者、⑦飲み水を毒又はその他の方法で汚す者、などである。

二、日本軍の残忍性。強姦された女性が逆立ちにさせられ、性器を銃剣で突き刺されて殺されたり、家族のいる前で犯される事もあった。日本軍にお辞儀をしなかったという理由で殺された。

三、1942年8月、「隣組」を設立。スパイ防止、抗日ゲリラ防止が本来の目的であったが、表向きは「平和と秩序を保ち、人々の生活を安定させる」事が目的とされた。

四、「ロロ」(スパイ・反日ゲリラに対する見せしめ)行為。それは「日本軍が村人を広場に集め(理由は知らせない)、顔や姿がわからないように(眼の部分だけを開けた)大きな袋をかぶせられた一人の男を連れてくる。その男は何人かの村人を指さす。指さされた村人は何日か後にいなくなった。殺されたのである。証拠もなく。

五、1942年2月17日、陸軍司令官が「教育に関する6項目」を発布。①大東亜共栄圏の一員としてのフィリピンの立場、「新秩序」建設の真の意味を理解させ日比友好関係を発展させる事、②米国、英国へ依存するという古い考えを一掃し、「新フィリピン文化」を育成する事、③民衆の道義を高め、物質主義を止める事、④日本語の普及につとめ英語使用をやめる事、⑤初等教育を重視し、職業教育を発展させる事、⑥労働を愛する精神を起こさせる事。そして、「君が代」を教えた

六、1942年2月26日、「教科書検定委員会」が作られ、「教育に関する6項目」に当てはまると思われる部分は「削除」した。例えば、「フィリピン、アメリカの旗」「フィリピンのコモンウェルス政府」「ワシントンの誕生日」「アメリカの通貨、度量衡」など。公立小学校では正しい英語ⅢⅣ」「必須英語5年、6年」「フィリピンの歴史」などの教科書の使用禁止

七、1942年9月1日、15週間の「先生訓練コース」を作ったが、その内容は「6項目に関する教育について」「体育」「フィリピンと日本の歌」「日本語」「日本歴史」などであった。

八、1942年11月、「日本語専門学校」を開設。このような日本軍の開校した「学校カリキュラム」には必ず「ラジオ体操」を入れた。その意図は、参加する事により「責任と協同の精神を養う」事であった。

このような日本軍政下で、「食糧不足」に見舞われ、「失業者が増大」した。このような状況が、「反日抗日ゲリラ」を生んだ。

  

 1943年10月14日には、日本は、「大東亜共栄圏」への参加と対米戦争への参戦を条件に、「ラウレル」を大統領として日本の傀儡である「フィリピン第2共和国」を成立させた。しかし、日本の思うような支配ができないだけでなく、「抗日ゲリラ」活動が益々盛んとになった。

 1944年10月20日には米軍が「コモンウェルス」とともにレイテ島に上陸し、45年2月から1か月間の「マニラ市街戦」をへて米軍は日本軍を制圧した。

マニラ市街戦(1945年2月3日~3月3日)などについて、天皇は「貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、この事により貴国の多くの人が命を失い、傷ついた。この事は、私ども日本人が決して忘れてはならない事であり、私どもはこの事を深く心に置き……」と述べているが、市街戦となった原因は「日本大本営」がフィリピン日本軍に「市街戦を命令」した事にあり、日本の最高戦争指導者の意識にこそ重大な問題があったのであり責任を問われるべきものであった事を国民は知っておかなければならない。国民の16人に1人、111万人が死亡したフィリピンでは毎年2月14日に追悼式が行われている。

 そして、「私ども日本人が決して忘れてはならない事」と「国民全員」を意味する表現で述べているが、これこそ国民は「不快感」を明確に表明すべきであると思う。なぜなら、加害者であり許しを請わなければならない戦争加害最高責任者(その子孫であればそれを継承する事は当然である)である「天皇」が、相手国に対して「加害者」(それは加害行為を強要される被害者といえる)となる事を「強制」した、又「加害行為」を「強制」(それに反対した国民を「非国民」として扱い「治安維持法」によって「刑罰を科し、今日なお名誉回復をも認めていない)した「国民」に対して、口にできるはずがない「傲慢さ」を表す「言葉」であるからである。このような「言葉」からは、「天皇」は「国民」に対して「罪の意識」「謝罪の意識」はまったく感じられないし、「加害」の責任を「国民」に負わせようとする意識さえ感じられる。これは敗戦直後の東久邇宮内閣が発した「一億総ざんげ」論の考え方につながるものであり同根のものと考えてよい。なんと、日本政府は間違いなく敗戦前の「神聖天皇主権大日本帝国政府」へ回帰している。なんと恐ろしい時代日本になってきた事であろう。なんと恐ろしい「天皇・安倍政権」であろう。彼らの常識は世界の非常識である。彼らは民主主義を大切に思う国民と同じ「土俵」には立っていない。彼らはその事にうろめたさも感じていない。国民が「欺瞞」と判断しても彼らは自分たちが正しいと信じているのであり、一つの宗教信仰の域に入っている。それは天皇教(国家神道)である。安倍晋三が天皇家と親戚関係にある事からも納得できる。説得して彼らが翻意するというようなものではない世界に住んでいるのである。国民はそのような政権の持続を許しておくならば「人権尊重を基にした幸せ」を守る事はできない。

 メディア、故意に以上の内容に触れない事も主権者国民は忘れてはならない。メディアは企業であり、経営上利益を損なう事はあえてしないという事も忘れてはならない。国民は思考停止に陥らず、常に科学的な思考を保ち、絶え間ない努力によって真実を知る事が大切である。

 メディアは、昨年11月、「加納莞蕾美術館」の名誉館長をしている加納莞蕾の娘佳世子氏が、昨年11月にフィリピン元大統領キリノ氏の孫娘ルビー氏と面会したと報じていた。今回、天皇はフィリピン訪問に際して、ルビー氏と面会したようである。何かを知る何かに関わるという事はその事に対して自己の責任が生じると考えるのが常識である。加納莞蕾は自分の言葉に基づいてどのように責任を果たしたのだろうか。佳世子氏は父親の言葉に対してどのように責任を果たしてきたであろうか。今日の安倍政権下の日本に対してどのように責任を果たしているのであろうか。その責任が果たせていなければ、莞蕾氏の言葉は「欺瞞」でしかなかったという事になり、佳世子氏もメディアに出てきた事は「欺瞞」の上塗りであり、メディアは加納氏やその娘佳世子氏を美談に仕立て上げたという「欺瞞」を行った事になる。天皇も今後どのようにその責任を果たすのかという事が問われる事になったのであり、それから逃れる事は出来なくなったのである。そうでなければ、キリノ氏ルビー氏フィリピンの人々は日本の政府やメディアなど国家挙げての「詐欺」にひっかかった事になり、改めて恨みを持つ事になるだろう。

加納莞蕾の言葉「許されざる者を許す事が日本人が過去を反省し、懺悔し、軍国主義を拒否する事になる」と訴え、BC級戦犯の助命減刑嘆願書をキリノ氏に送った。

※フィリピン国民の反対を押し切って助命減刑を決断したキリノ氏の日比両国民への声明「私は日本人戦犯に対し、特赦(議会の承認を必要とする「大赦」でなく、大統領権限で行える「特赦」にした)を与えた。妻と3人の子ども(2歳の娘は銃剣でとどめを刺された)、さらに5人の親族を殺された者として、自分の子孫や国民たちに、われわれの友となり、我が国に長く恩恵をもたらすであろう日本人に対し、憎悪の念を残さないために。結局のところ、日本とフィリピンは隣国となる運命なのだ」(1953年7月6日)。 

 これまでの日本政府又現在の安倍政府は、被害者の心を察する気持ちが極めて薄い。それは自分たちは正しいという「傲慢さ」にある。それを押し通すために「欺瞞的な手法」がとられる。それは対外国に対しても、日本の国民に対しても一貫している。そのために政府間の友好関係が築けないし、国民の権利を尊重しないという姿勢をとる。その根底にはアジア・太平洋戦争に関わる一切の事柄について、「自衛のための戦争」「アジアの解放のための戦争」「仕掛けられた戦争」であったとする認識を疑わず固執しているからである。彼らは天皇家と一体化しており、天皇家とともにあるから、自らの地位と名誉と財産を守るためにも、天皇家に戦争責任が及ばないようにしなければならず、「天皇制」を守り続けなければならない宿命にあるのである。

最後に、今回の天皇のフィリピン訪問は、安倍政権がすすめる「集団安全保障体制の整備」政策の一環として実施されたのである。

 1945年、日本の敗戦により、翌年の「米比マニラ条約」で、「フィリピン・コモンウェルス」の組織を引き継ぎ、1934年の独立の約束により「フィリピン第3共和国」(1946年7月4日)が成立し独立を達成した。

(2016年1月29日投稿)

追記助命減刑嘆願署名運動日本人戦犯家族が全国的に繰り広げ、新聞やメディアも取り上げ、日比親善人形使節が7万体の人形をキリノ大統領に贈届した。それに対し、キリノ大統領は「死刑執行は慎重に検討するが、一括減刑は考えていない。一括減刑は侵略行為を大目に見る事に等しい」と方針を発表した。しかしその後、大統領は、フィリピン国民の中に敵を作る事になったが、「日本は大きな可能性を秘めている。わが国はまだ成長の途中にある。2つの国は地理的に近く、切り離せるものではない。協力し合う事で我が国の力になるだろう。いつの日かまた親友に戻れる日がくるだろう」と考え、1953年6月27日大統領は「議会の承認を必要とする大赦でなく、大統領権限で行える特赦を与える事にした。終身・有期刑戦犯全員釈放死刑囚は終身刑に減刑のうえ日本に送還し、日本の刑務所で服役させる」と決断した。そして、同年7月6日に日比両国民に上記のような声明を発表した。

同年7月22日、108人の戦犯は全員帰国(横浜港)した。うち死刑囚56人は「巣鴨プリズン」へ移送された。

これに対しキリノ大統領は国民から「軽率な釈放で戦犯を無意味に帰国させた」と非難された。そして、同年11月10日の大統領選挙では対決候補であるマグサイサイに大敗した。しかし、キリノ大統領は任期切れ2日前の同年12月28日に日本で服役中の元死刑囚全員にさらに「恩赦令」を出した。同年12月30日、戦犯元死刑囚は全員釈放された。1956年2月29日、キリノ元大統領は65歳で死去した。

(2023年8月13日投稿)

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行幸啓の言葉を廃止せよ:天皇家は自身の生活用語に存する差別(人権侵害)的体質を、国民の象徴として憲法に則り進んで解消する責務をもつ事を自覚すべきだ

2024-11-10 18:33:53 | 皇室

 「三大行幸啓」と言う言葉がテレビ、新聞などメディアで意図的と感じられるほど執拗に使われている。 

 「行幸啓」とは天皇皇后が「共に出かける」際に使用される宮内庁用語である。この「出かける」という意味の言葉に関して、天皇皇族などにそれぞれに使用すべき言葉を、宮内庁は定めている。その一例は、

 行幸…天皇が外出される事。

 行啓…皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出される事。

 行幸啓…天皇・皇后がご一緒に外出される事。

 お成り…天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃以外の皇族方が外出される事、などであ  る。

 これは封建的な上下の身分関係を当然とみなした価値観を基にした言葉である。そして、天皇皇族間に差別(人権侵害)的待遇がある事を示しており、例えば日本国憲法第14条の定める「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とする内容に違反する状況に当たるとみなす事ができるのではないかと思える。

 このように考えると、宮内庁は、日本国憲法の下で生活する天皇皇族に、このような言葉の使い分けをするべきではないのではないか。主権者国民に向けてこのような言葉を使用するという事は、憲法で「天皇は国民の象徴」、つまり、「天皇は憲法に基づく価値観を有する国民を象徴(代表)する存在」とされているにもかかわらず、憲法に示された国民の有する価値観にまったく反している事を示していると言って良いのではないか。また、天皇皇族が先に一例でしめしたような言葉の使い分けに何の異議も発しないとすれば天皇皇族自身もまた憲法に則った価値観を持っておらず、「天皇は国民の象徴」とされながら国民を象徴する価値観を持ち得ていないという事を示しているのではないだろうか。2016年8月8日に「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を発表し、「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました」と述べているが、このような生活用語に存する差別(人権侵害)体質を解消する事も「望ましい象徴のあり方」に近づく重要な責務の一つであるという事を自覚すべきである。また、メディアにはニュース報道にどのような考えでこの言葉を使用しているのか問いただしたい。おそらく、宮内庁発表をそのまま報道しているだけなのであろうが、それでは「大本営発表」時代と同様に、メディアの主体性のなさを示しているだけであるし、主権者国民の立場に立たず宮内庁の有する価値観に立つものであるというべきであり、メディアは国民を洗脳しようとしていると考えてよいだろう。安倍自公政権を翼賛して。国民は主権者として、天皇皇族に対し「あるべき象徴像」を提示し続ける事によって主権者国民のための「象徴天皇制」を作り上げなければならない。そうでなければ、安倍自公政権は憲法改正(改悪)によって神聖天皇主権大日本帝国政府時代の天皇制に回帰させてしまうだろう。

 ついでながら、上記以外にも見られる天皇皇族の差別的体質を「皇室典範」から紹介しておこう。皇室典範第1条皇位継承の資格」は「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」とし、日本国憲法第14条に定める「男女平等の原則」に基づかず、神聖天皇主権大日本帝国政府下の男尊女卑(女性差別)の価値観に基づいており憲法違反である。2016年3月に国連女子差別撤廃委員会勧告で女性天皇を認めない皇室典範を問題視し、見直し(改正)を求めたが、安倍自公政権は勧告に抗議し削除させた。国会でも岸田外相は「我が国の皇室制度は歴史や伝統が背景にある。女子に対する差別目的とは全く別の事柄である」と説明。菅官房長官も「国民の支持を得て今日に至っている。女子に対する差別を目的としていない」と述べている。このような屁理屈で自己正当化している。要するに、安倍自公政権は世界で普遍的な考え方や価値観を認めず自己の価値観に固守するために、国民に責任をなすりつける屁理屈を述べているのである。この姿勢は選択的夫婦別姓問題や死刑廃止問題についても同じである。

 皇室典範第3条継承順序の変更」は「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、……皇室会議の議により、前条に定める順序に従って、皇位継承の順序を変える事ができる」とし、身体障害を有する場合には、皇位継承から除く事ができるとしているのである。身体障害者に対する差別(人権侵害)的対応であり、憲法違反である。

 同第22条「成年」は「天皇、皇太子及び皇太孫の成年は、18年とする」としているが、それ以外の皇族は20歳としている。皇族間で差別をしているのである。また、国民については20歳と定めている事は、もちろん自民党(自公)政府が国民を差別しているのである。大日本帝国政府は国民を、1876年の太政官布告で成年20歳とした。これら各年齢の規定は敗戦後の現行皇室典範も民法もそのまま踏襲している。この事が間違いの始まりであったのだ。国会議員や公務員はもちろん国民のほとんどが新しく施行された日本国憲法を正しく理解できていなかった事が原因である。そして現在もそのまま過ごしているという事である。

 世界の成年年齢は18歳が一般的となっているにもかかわらずである。このように年齢差をもうけているという事は、天皇皇族(一部)を国民とは別格の存在としてみなしていたという事である。しかし、2022年4月からは天皇皇族も国民も成人年齢はすべて18歳とするようだ。 同第26条「陵墓」は「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を、その他の皇族を葬る所をとする」としているが、墓所の呼び名を変えて差別している。憲法違反であり、他国ではあり得ない規定である。

 以上のように、皇室典範には現行憲法では否定されている前近代的封建的な差別(人権侵害)的規定が多々定められている。それはまさしく「差別(人権侵害)の総元締め」であるかのように。この状態は世界の人々から見れば極めて異常である。日本国民は常識と思っているが実は世界の人々から見れば非常識な事なのである。しかし、自民党(自公)政権は、国民に正常及び常識と思い込ませている(洗脳)のである。

 ハンセン病隔離問題優生保護法強制不妊手術問題なども、現行憲法成立後も問題にならずに今日まで来た例であり、それが今日憲法の正しい理解に目覚めた国民の増加によって憲法違反であるとして問題提起されたという事である。この事は現行憲法が真に自分たち国民を守るのものであると理解されるようになってきた事を示している。

※行幸啓……神聖天皇主権大日本帝国政府は、1871(明治4)年の太政官布告以来、法律上の用例として、使用した。皇室令も同様である。しかし、戦後、新憲法の下で、これらの呼び名や皇室令は廃止された。

(2019年11月30年投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇室典範内容は憲法原則違反、差別の元締め的特徴、玉音放送、東京大空襲、メディア

2024-10-30 09:37:35 | 皇室

 天皇家が最近よくメディアに登場している。天皇家の存在を国民の意識に定着させる事が目的である。また、近い将来において、日本の「元首」の地位に就く上でのムード作りである。『自民党憲法改正草案』第1章第1条には、「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とある。草案解説では、「明治憲法には、天皇が元首であるとの規定が存在していた。また、外交儀礼上でも、天皇は元首として扱われています。我が国において、天皇が元首である事は紛れもない事実ですが、……元首として規定する事の賛成論が大多数でした」とある事が背景にあり、それをメディアが翼賛化して報道しているのである。そういう視点が必要である。

◎現皇室典範に見る天皇家の差別的体質

天皇家は人権侵害(差別)の総元締めである。

皇室典範第1条「皇位継承の資格」では「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」とあり、日本国憲法の男女平等の原則に基づかない男尊女卑思想(女性差別に基づく憲法違反である。2016年3月に国連女子差別撤廃委員会勧告で女性天皇を認めない皇室典範を問題視し、見直し(改正)を求めたが、安倍自公政権は抗議をし削除させた。国会でも岸田外相は「我が国の皇室制度は歴史や伝統が背景にある。女子に対する差別目的とは全く別の事柄である」と説明。菅官房長官も「国民の支持を得て今日に至っている。女子に対する差別を目的としていない」と述べている。安倍自公政権は世界で普遍的な考え方や価値観を認めようとしないのである。この姿勢は選択的夫婦別姓制度においても同根である。

第3条「継承順序の変更」では、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、……皇室会議の議により、前条に定める順序に従って、皇位継承の順序を変えることができる」とあり、身体障害を持つ場合には、皇位継承から除く事ができるとしている身体障害者に対する差別人権侵害であり、憲法違反である。

第22条「成年」では「天皇、皇太子及び皇太孫の成年は、18年とする」とあるが、国民の成人年齢は未だに20歳であるのはどういうことか。世界のほとんどの国が18歳となっているにもかかわらずである。天皇家は日本国民ではないのか、国民とは別格の別世界の人間である事を表している

第26条「陵墓」では「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を、その他の皇族を葬る所をとする」とあるが、墓所の呼び名を変えて差別化しているが、今日その必要はまったくないと思う。憲法違反である。外国ではありえない

以上のような日本国憲法の原則に反した(憲法違反)、人権を認めない内容が定められている事は問題であると思う。このような規則で天皇家を存在させておく事は問題である。

日本国憲法第1条「天皇の地位・国民主権」では「……、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とある事に基づいて、少なくとも改善すべきである。また、天皇制自体を「廃止」すべきである

 『憲法改正草案』第6条「天皇の国事行為等」5項では、「第1項及び第2項に掲げるもののほか、天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う」とあるが、これは「靖国神社」の国営化、天皇の靖国参拝を狙っている事をうかがわせるものであるので注意すべきである。

◎「玉音放送」

 今年8月1日付で、「玉音放送」を宮内庁が録音原盤から再生し公表した。「玉音放送」とは、1945年8月15日正午に臣民に向けてラジオ放送された、昭和天皇が自ら「大東亜戦争終結に関する詔書」を読み上げた録音の放送の事である。

 以下、天皇が臣民に訴えた言葉の抜粋(朝日新聞の記事を基にしたが、原本により近い形に修正した)と、矢印(→)以下は私の注釈である。

 「帝国臣民の平穏無事を確保し、すべての国々が共に繁栄する喜びを分かち合う事は、皇祖皇宗(歴代天皇)が大切にしてきた教えであり、朕が常々心中強く抱き続けているものである。」→臣民とは天皇皇族の家来を指し、国民の事。家来は主人の主君のために命をかけて奉公するのが原則。

 「英米2国に宣戦したのも、まさに帝国の自存と東亜(東アジア諸国)の安定とを心から願っての事であり、他国の主権を排除して領土を侵すような事は、もとより朕の本意ではない。」→満州事変以来の中国などとの戦争を日本による侵略戦争であると認識していない。戦争最高責任者である事の無自覚と責任回避。

 「敵国は新たに残虐な爆弾を使い、……」→新たな残虐な爆弾とは、原子爆弾の事でその使用を非難している。天皇制大日本帝国でも、東大と京大で原爆製造の研究が行われていた事には口を閉ざしている。

 「朕はいかなる手段で赤子を守り、歴代天皇の御霊にわびる事ができようか。」→赤子とは臣民の事で家来の意味。家来は主人のために命を捧げるのが原則。

 「東亜(アジア諸国)の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。」→1943年11月に「大東亜共栄圏」の結束を図るため開催された「大東亜会議」に参加したアジア諸国の協力にもかかわらず、アジア諸国の解放ができなかった事が残念であるとの事。「大東亜共同宣言」では「共存共栄・独立尊重・互恵提携・文化高揚などが採択された。ビルマ、満州国、中華民国、日本、タイ、フィリピン、自由インドの7カ国。

 「朕は、ここに国体を護持する事ができ、忠義で善良な臣民の真心を信頼し、常に臣民とともに過ごす事ができる。」→国体とは敗戦までの神聖天皇主権国家を指し、天皇に対する臣民の対応の在り方を護持できた事を喜び、改めて一方的に押し付けている。

 「感情の高ぶりから節度なく争い事を繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである」→戦争終結の御前会議では「戦争を続ける事はかえって国内治安の乱れる事が考えられる」(保科善四郎手記)との発言があり、神聖天皇主権体制そのものを脅かすような国内危機の出現を予想した。敗戦よりも敗戦によって起こる混乱と国体変革を恐れた天皇を中心とする支配階級は、国民と軍隊が起こすかも知れない動揺を抑えるために、最後の切り札として天皇の権威を利用(聖断)したのである。戦争終結が「聖断」によってもたらされたという物語をつくり最大限に活用し、翼賛体制化しているメディアは、「玉音を拝して感泣嗚咽」「朝夕詔書を奉戴して再建へ」と「天皇の慈悲深さ」を宣伝した。

 「国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、……総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、……揺るぎない志をしっかりと持ち、誓って国体の精華を発揚し……」→日本は神国であり、不滅である事を信じ、その国体の精華を発揚すべき事を誓いなさいとしている。

つまり、この詔書は、天皇を中心とする支配階級が、「天皇制護持」だけが重要事であって、それを将来の日本国においても不変のものとして臣民に対し念押しをしたものであり、それ以外は何も考えていなかったという事を示している。国民の犠牲も、アジア諸国に与えた苦難や被害や損失なども。この事は、この戦争の本質を如実に現わしている。

 朝日新聞は、記事の最後に「総力戦の行き着いた果てに防空壕で起きた事を、世代を超えて記憶し、風化に抗し語り継いでほしいとの願いを感じる」としているが、余程の「お人よし」である。手前勝手な解釈をしてはいけない。歴史は事実をきちんと押さえなければただの恣意的な作り話となり、誤った評価判断を生む。語り継ぐ価値のあるものとするために、メディアがやるべき使命は、国民が歴史の真実に、より以上近づくための正しい情報を提供する事である。

◎御文庫付属室(防空壕)と東京大空襲について

 戦争終結を決めた御前会議の場となった「御文庫付属室」も「玉音原盤」と同時に公表した。「御文庫付属室」は1943年1月から天皇皇后が生活していた場所である。1945年3月10日の「東京大空襲」時、天皇皇后はどのような行動をしていたのか。渡辺清氏『私の天皇観』によれば、

「1945年3月10日の東京大空襲で奇怪な事実がある。B29が大挙、爆撃を開始したのが午前0時8分、それから7分も経過した0時15分に空襲警報が発令された。その理由は、床の中ですでに安らかに眠っている天皇を起こすのは誠に恐れ多い、という東部軍司令部参謀の配慮から、一秒一刻を争う状況の中で、あたら7分間も空襲警報を遅らせたのである。その7分はたった一人の天皇、45万坪の広大な屋敷の中に広さ500坪余、500㌔爆弾もはね返すという厚さ3㍍のコンクリート、配電、除湿、防音装置に調理室までついていたという堅牢な大防空壕を有していた天皇一人の安眠を妨げないようにという事だったとは、心の煮える思いがする」とある。

朝日新聞1945年3月19日付では、

畏し、天皇陛下戦災地を御巡幸 焦土に立たせ給い御仁慈の大御心 九重の奥深くまで醜翼の羽搏き伝わり、高射砲の轟音響き渡る皇国の危局、朝に夕に一億国民ひとしく忠誠の心いまだ足らざるを嘆き悲しむ、今はただ伏して不忠を詫び奉り、立っては醜の御楯となり、皇国三千年の歴史を太しく護り抜かんことを、誓うのみである。ああ、しかもこの不忠の民を不忠とも思し召されず、民草哀れと思し召し、垂れさせ給う大御心の畏さよ。18日、天皇陛下は帝都の空襲戦災地の御巡幸を仰せ出だされたのである。」→天皇の本心はいかなるものであったか、翼賛体制化した新聞による、「天皇の行為を賛美する」記事はどういう効果を生んだであろうか。言をまたない。

 1964(昭和39)年には、来日した「東京大空襲」の総指揮官カーチス・ルメイ天皇や自民党日本政府は最高の栄誉「勲一等旭日大綬章」を贈った。主戦派のルメイは、太平洋戦争末期のトルーマン政権下で、都市全面爆撃に反対したハンセルに代わって司令官となり、一夜にして10数万の死者をだした「東京大空襲」を含む日本無差別爆撃の張本人である。ルメイは後にヴェトナム戦争下の米空軍参謀総長にもなった。昭和天皇や自民党日本政府が、自らが起こした侵略戦争を、米政府を、どのように位置づけていたのかが分かる。

(2017年3月14日投稿)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする